第132話:アグリ・ヴィータ防衛戦(後編) - 聖域の浄化
「何をする気か知りませんが……終わりです」
ケイロンの声には、慈悲も興味もなかった。
ただ事務的に、標的を処理するためだけに。
彼は短剣を構え、神速の踏み込みでアリシアとオリヴィアに肉薄した。
速い。
瞬きする間もない刹那。
死の一撃が、二人を捉えようとした。
その時だ。
「――させぬわぁぁぁッ!!」
横合いから、重厚な影が弾丸のように割り込んだ。
ドスッ!!
鈍い音が響く。
「ぐぅっ……!」
ケイロンの短剣を受け止めたのは、老騎士バルトロメオの左肩だった。
彼は捨て身で二人の前に立ちはだかり、自らの肉体を盾としたのだ。
深々と刃が突き刺さる。
毒が、傷口から侵食を始める。
だが、バルトロメオは一歩も退かなかった。
「なっ……!?」
ケイロンが初めて驚愕に目を見開く。
バルトロメオは、刺さった短剣を抜かせるどころか、逆に筋肉を収縮させて刃を食い止め、残った右手でケイロンの腕を万力のように掴み上げたのだ。
「捕らえたぞ……! 毒蛇め!!」
「離せ、老いぼれがッ!」
「今です、アリシア様! こやつのことなど構わず!!」
血を吐きながら叫ぶ老騎士の背中。
アリシアの目から、大粒の涙が溢れる。
「バルトロメオさん!! 」
彼が稼いだ、決定的な数秒。
アリシアは迷いを断ち切り、制御パネルの赤いスイッチを、力一杯叩き込んだ。
「――お願い! 届いて!!」
ガコンッ!!
都市の地下から、重い駆動音が響き渡る。
「……何をした?」
ケイロンがいぶかしげに眉をひそめる。
「外で水を撒いたところで、この部屋にいる私には届か――」
彼の言葉は、頭上からの音にかき消された。
シュバッ!!
指揮所の天井に張り巡らされた配管ダクトが一斉に開放されたのだ。
それは、火災や瘴気漏れに備えて設置された、屋内用緊急散布装置。
「なっ!?」
次の瞬間。
プシュシュシュシュシュッ!!!!!
屋内、屋外、問わず。
都市のありとあらゆる場所から、一斉に白銀のミストが噴き出した。
それは、ただの水ではない。
アリシアの聖属性魔力と、錬金術師エラーラが調合した特殊な聖油を、極限まで希釈・拡散させたもの。
特製の『高濃度聖水』だ。
「ぐあぁぁぁっ!?」
頭上から聖水のシャワーをもろに浴びたケイロンが、絶叫してのけぞった。
「馬鹿な……! なぜ水ごときで……!」
だが、その疑問は激痛にかき消される。
ジュウウウッ、と肉が焼ける嫌な音。
彼の全身から立ち昇るのは、水蒸気ではなく、どす黒い瘴気の煙だった。
「ぐ……うぉぉッ!? まさか……私の血肉に刻んだ『強化術式』が……拒絶反応を起こしているとでもいうのか!?」
人であることを捨て、猛毒への耐性と身体能力を得るために施した、帝国の禁術。
その代償として魂に染み付いた「穢れ」そのものが、高純度の聖水によって暴かれ、灼かれているのだ。
「おのれぇぇ……! この痛み、ただの水ではないな……!!」
「当たり前です!」
ずぶ濡れになったアリシアが、髪から聖水を滴らせながら叫ぶ。
彼女やバルトロメオは、聖水を浴びても痛みを感じない。むしろ、傷が癒えるような温かさを感じている。
清らかな心を持つ者にとって、それはただの慈雨なのだ。
「この都市は、どこもかしこも清潔第一なんです!」
◇◇◇
一方、外の状況はさらに凄惨だった。
「ア゛ァァァァァッ!!」
都市を埋め尽くしていた数千の死人兵たちが、一斉に断末魔の叫びを上げた。
彼らを動かしていた呪術と瘴気にとって、高純度の聖水は存在そのものを否定する光となる。
死人兵たちの体から白煙が上がり、腐肉が浄化され、崩れ落ちていく。
強制的な活動停止。
◇◇◇
ケイロンは、煙を上げる体を押さえながら、強引にバルトロメオを蹴り飛ばして後退した。
「おのれぇぇッ!」
バルトロメオがその場に崩れ落ちる。
「バルトロメオ!」
オリヴィアが駆け寄ってその体を支え、すぐに追いついたアリシアが即座に回復魔法をかける。
傷は深いが、命に別状はない。
ケイロンは、窓の外の光景――崩れ落ちる自軍と、聖水ミストに包まれた白い世界を見て、愕然とした。
「馬鹿な……! 都市全体を……!?」
紫色の毒霧は聖水によって中和され、消え失せていた。
死人兵は全滅。
残されたのは、水浸しになった都市と、ずぶ濡れになって立ち尽くすわずかな生身の帝国兵たちだけ。
形勢は、逆転した。
「……よくも」
静かな、しかし雷鳴のような怒気を孕んだ声が響く。
オリヴィアが立ち上がった。
降り注ぐ聖水の中、彼女の銀髪が濡れて輝いている。
「よくも……わたくしの騎士を!」
彼女は一歩、前に踏み出した。
その右手に、金色の龍の紋章がバチバチと火花を散らして輝き始める。
「ご存じですか、ケイロン。 水は、電気をよく通します」
「っ!?」
ケイロンが息を呑む。
床も、壁も、空気中でさえも水浸し。
ここは今、巨大な導電空間と化している。
「そして、わたくしの雷は……『邪悪な気配』を逃しません!」
オリヴィアが右手を天に掲げた。
「裁きを受けなさい!! 【サンダー・ジャッジメント・ストーム】!!」
ドォォォォォォォンッ!!!!
天空から黄金の雷柱が指揮所へ、そして都市全体へと突き刺さった。
雷光は、水と霧を伝導体として、都市全域を蜘蛛の巣のように駆け巡る。
それは意思を持った蛇のように、聖水で清められた味方を避け、生き残った帝国兵や、隠れていた毒使いたち――その身に「穢れ」を持つ者だけを正確に捕捉し、黒焦げにしていく。
「ぐぎゃあぁぁぁっ!!」
そして、その奔流は、最大の邪悪であるケイロンへと収束した。
至近距離での雷撃。
「ぐ、おぉぉぉぉぉッ!?」
ケイロンは防御魔法を展開しようとしたが、聖水で魔力を阻害され、間に合わない。
直撃を受け、その体は黒焦げになりながら、指揮所の壁を突き破って外へと吹き飛ばされた。
激しい光が収まった時。
立っていた帝国兵は、一人もいなかった。
外の地面に叩きつけられたケイロンは、黒煙を上げながら這いつくばっていた。
もはや戦える状態ではない。
「ば、馬鹿な……! 私の……最強の軍団が……!」
彼は、震える手で懐から転移水晶を取り出した。
プライドも、任務も、全てが崩れ去った。
あるのは、生物としての生存本能のみ。
「て、撤退だ! 総員退却ッ!!」
水晶が砕け、ケイロンの姿が光の中に消える。
それは、完全なる敗走だった。
一瞬の静寂の後。
「おぉぉぉッ!!」
「勝った……! 勝ったぞぉぉッ!!」
生き残ったドラグニア兵たちが、武器を掲げて勝鬨を上げた。
「エルム公国万歳! オリヴィア姫万歳!」
歓声が、雨上がりの空に響き渡る。
雲が切れ、朝の光が差し込んでくる。
聖水と毒が洗い流された都市に、美しい虹がかかった。
「……守れました」
オリヴィアは、空を見上げて呟いた。
そして、崩れ落ちそうになる体を、隣にいたアリシアが支えた。
「オリヴィアさん、すごかったよ」
「アリシアさんこそ……。あなたの策がなければ、全滅していました」
二人は顔を見合わせ、泥と煤、そして聖水にまみれた顔で、心からの笑顔を向け合った。
「……レンさん」
オリヴィアは、心の中で最愛の人に語りかける。
(あなたの国を、わたくしたちの手で……守り抜きましたよ)
生産都市アグリ・ヴィータ防衛戦。
公国側の、完全勝利であった。
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