第127話:嵐の前の静寂
深夜の首都エルムヘイム。
街は、深い静寂に包まれていた。 窓から漏れる灯りはまばらで、多くの住民たちは安らかな眠りについている頃だろう。
一見すれば、いつもと変わらない平和な夜だ。 だが、その空気には微かな緊張が混じり合っている。
城壁の上では、増員された防衛隊が松明を掲げ、油断なく闇を見据えている。 街路を行き交う巡回兵の足音も、普段より厳格で重い。
帝国との開戦は近い。 それが明日なのか、一週間後なのか、それとも一ヶ月先なのかは誰にも分からない。 だからこそ、この街は張り詰めた糸のような均衡の上に成り立っていた。
俺は、公王執務室のバルコニーに出て、一人で夜風に当たっていた。
手すりに寄りかかり、眼下に広がる街並みを見下ろす。 暗闇に沈んだレンガ造りの家々。 整備された石畳の道。 そして、遠くに見える温室のガラスドームが、月光を浴びて鈍く光っている。
(……静かだな)
この景色を守るために、俺はここまで来た。 森を開き、人を集め、技術を磨き、国を作った。
全ては、この場所で暮らす人々の、「当たり前の日常」を守るためだ。
(準備は全てやった。あとは敵がいつ、どこから来るかだ)
俺は、夜空を見上げた。 厚い雲が流れ、月が見え隠れしている。
長期戦の構えだ。焦れてはこちらが疲弊する。 分かってはいるが、この不気味な沈黙が、逆に俺の神経を逆撫でする。 平和に見えるこの景色が、いつ火の海に変わってもおかしくはないのだから。
そんな想像を振り払うように、俺は深く息を吐き出した。
その時。
「……レンさんも、眠れませんか」
背後から、遠慮がちな声が聞こえた。 振り返ると、そこにはオリヴィアが立っていた。
月明かりに照らされた彼女の顔は、どこか儚げで、そして蒼白だった。 眠れずに、このバルコニーへと涼みに来たのだろう。
「ああ。気が張り詰めていてな」
俺は努めて明るく答え、彼女を招き入れた。
「オリヴィアこそ、顔色が悪いぞ。少し休んだ方がいい」
「……ええ。ベッドには入ったのですが、目を閉じると、色々なことが浮かんでしまって」
彼女は俺の隣に並び、同じように手すりに手を置いた。 その指先が、微かに震えているのが見えた。
「……正直に申しますと、怖いのです」
オリヴィアが、独り言のように漏らした。
「この平穏が、明日には崩れ去ってしまうかもしれないと思うと……。 足がすくみそうになります」
王女として、気丈に振る舞ってきた彼女。 だが、その仮面の下には、故郷を失ったトラウマと、再び全てを失うことへの恐怖が渦巻いているのだろう。
俺は、何も言わずに、彼女の震える手にそっと自分の手を重ねた。
「っ……」
オリヴィアが、ハッとして俺を見る。
「崩させないさ。そのために俺たちがいる」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
「俺たちは、もうドラグニアを追われたあの日とは違う。 守るべき場所も、守るための力も、そして仲間もいる」
俺の手から伝わる体温が、彼女の震えを止めていく。
「……そう、でしたね」
オリヴィアの瞳に、少しずつ光が戻ってくる。
「レンさんがいて、みんながいる。 ……わたくしは、もう一人ではありませんでした」
彼女は、俺の手に自分のもう片方の手を重ね、ぎゅっと握り返してきた。
「ありがとうございます。……不思議ですね。レンさんの言葉を聞くと、勇気が湧いてきます」
彼女はふわりと微笑んだ。 それは、王女としての作った笑顔ではなく、一人の女性としての、心からの安らぎに満ちた表情だった。
その時だった。
「あらあら。お二人だけで、随分と良い雰囲気ですこと」
「水臭いよ、二人とも!」
クスクスという笑い声と共に、執務室の扉が開いた。 ティアーナとアリシアだ。
二人の手には、湯気を立てるマグカップと、バスケットに入った夜食が握られている。
「……二人とも、起きていたのか?」
俺が驚いて尋ねると、アリシアが舌を出して笑った。
「みんな考えることは一緒だね。私も、目が冴えちゃって」
「敵の動向予測を再計算していましたが、煮詰まってしまいましたの」
ティアーナが、苦笑しながらバルコニーに入ってくる。
「シエナさんと交代して、少し休憩を頂こうかと思いまして。 そうしたら、ここから話し声が聞こえたものですから」
「休憩も兼ねて、ご一緒させてくださいな」
そう言って、二人は手際よくバルコニーのテーブルに夜食を広げ始めた。 温かい野菜スープの香りと、焼きたてのパンの匂いが、冷たい夜風に乗って漂う。
「……ふふっ。では、お言葉に甘えて」
オリヴィアも笑い、俺たちは四人でテーブルを囲んだ。
他愛のない、ささやかな夜食会。 本来なら、戦況の分析や作戦の確認をするべきなのかもしれない。 だが、誰もその話題には触れようとしなかった。
今はただ、心を休める時だ。 いつ来るとも知れない戦いに備え、英気を養うための時間。
「……ねえ、みんな」
スープを一口飲んだアリシアが、ふと口を開いた。
「この戦争が終わったらさ、やりたいこと、ある?」
「やりたいこと、ですか?」
「うん! 私はね、もっと広い花畑を作りたいな。 薬草園だけじゃなくて、色とりどりの花が咲く、すっごく綺麗な場所! そこで、みんなでお茶会をするの!」
アリシアが目を輝かせて語る。 その屈託のない笑顔に、場の空気が和らぐ。
「素敵ですね。それなら、温室の拡張計画に組み込みましょうか」
ティアーナが乗っかる。
「私は……そうですね。新しい魔道具の研究室を拡張したいですね。この戦争で得たデータを元に、もっと生活を豊かにするような、平和のための魔道具を作りたいんです」
「平和のための魔道具……。ティアーナらしいな」
俺が言うと、彼女は誇らしげに胸を張った。
「オリヴィアさんは、どうですか?」
水を向けられ、オリヴィアは少し考え込んだ後、遠くの街並みを見つめて言った。
「わたくしは……この国の子供たちのための、学校を作りたいです」
「学校、か」
「はい。種族も、身分も関係なく、誰もが学べる場所を。 ドラグニアでは叶わなかった夢ですが……このエルム公国でなら、きっと実現できると信じています」
彼女の瞳には、希望の光が宿っていた。 過去を嘆くのではなく、未来を見据える強い光が。
三人の夢。 どれも、平和な未来があってこそのものだ。
「レンは? レンは何がしたい?」
アリシアに聞かれ、俺は三人の顔を見回した。
「俺か……。そうだな」
俺は、少し照れくさそうに鼻をかいた。
「俺は……その全部を叶えたい。 アリシアの花畑で茶をして、ティアーナの発明品に驚いて、オリヴィアの学校で学ぶ子供たちを見守る。 ……そんな当たり前の毎日を、お前たちと一緒に過ごしたい」
キザな台詞だったかもしれない。 だが、それが俺の偽らざる本心だった。
三人の頬が、ぽっと朱に染まる。
「……もう。レンったら」
「……欲張りさんですね」
「……ふふっ。でも、素敵です」
三人が、それぞれ愛おしそうに微笑む。
「いいな。全部叶えよう」
俺は、マグカップを掲げた。
「……必ず、勝って」
それは死亡フラグなんかじゃない。 生きて帰るための、俺たちの「誓い」だ。
カチン。
四つのマグカップが軽くぶつかり合い、小さな音を立てた。
その音は、どんな号令よりも強く、俺たちの結束を固めた気がした。
◇◇◇
楽しい時間は、あっという間に過ぎ去った。
東の空が、わずかに白み始めている。 夜明けが近い。
「……そろそろ、行きますわね」
ティアーナが立ち上がり、空になったマグカップを片付ける。
「私も、医務室の準備があるから」
「わたくしも、一回り見回ってから戻ります」
アリシアとオリヴィアも立ち上がる。 その顔には、もう迷いも恐怖もなかった。 あるのは、自分の成すべきことを成すという、強い意志だけだ。
「……ああ。頼んだぞ」
俺は三人に頷いた。
「レンも、無理しないでね」
三人はそれぞれ俺に視線を残し、それぞれの持ち場へと戻っていった。
再び静寂が戻った執務室。 だが、先ほどまでの重苦しい静けさとは違う。 背中を押してくれるような、温かい余韻が残っていた。
「……行こう。明日も長い一日になる」
俺は一人呟き、部屋へと戻った。
部屋の隅に設置された、巨大な魔導地図。 その上に表示された「国境監視網」のモニター魔石を一瞥する。
光は、正常を示す「青」のまま、静かに輝いている。
敵の反応はない。 不気味なほどの静寂。
だが、俺の直感が告げていた。 この静寂こそが、何かが起こる直前の合図なのだと。
(来るなら来い)
俺は椅子に深く腰掛け、目を閉じて意識を研ぎ澄ませた。
(俺たちは、ずっと待っている)
嵐の前の静寂。 その終わりの時は、刻一刻と迫っていた。
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