第7話
廊下に出ると少し先で音瀬がしゃがみこんでいた。
「おい! 大丈夫かよ!」
俺はそう声をかけながら慌てて音瀬に近づいた。
音瀬はハァハァと荒い息をしながら、目線だけで俺の方を見た。
「なんで……」
「なんかふらふらしてたし、普通にほっとけないだろ?」
「はは……こんなかっこ悪い所……見られたく……なかった……ハァハァハァ、フーーー」
胸を押さえながら苦しそうに息をする音瀬を見て、俺は何かの病気なのではないかと思った。
「かっこ悪いとか言ってる場合じゃないだろ! 本当に大丈夫か?」
俺の問いかけに音瀬は何も答えず、ただ下手くそな深呼吸を繰り返していた。
「ハァハァハァ、フーーーー」
目はどこか一点を見つめ、必死に呼吸を整えようとしているようだった。
その様子を見て俺は一つの症状を思い出し「もしかして過呼吸か?」と音瀬に聞いた。
音瀬はこくこくと頷いた。
「やっぱりそうか。過呼吸って確か紙袋で対処するんだよな?」
俺の知識を総動員してそう聞いたが、音瀬は首を横にふった。
「えっ、違う? じゃーどうすれば……」
俺は初めて過呼吸になっている人を見たので、どうしてあげれば正解なのかが分からない。
薬とか飲めば落ち着くのか?
いや、でもこんな状態じゃ薬なんて飲めるわけない。
俺がパニックになっている間も音瀬は苦しそうだ。
音瀬は喋れなさそうだし、何か俺に出来る事は……。
頭で考えていても分からないので、スマホで検索する事にした。
えーと『過呼吸対処』っと……まずは落ち着いてゆっくり呼吸をすること。
あぁ、だから音瀬は深呼吸しようとしてるのか。
対処が慣れてるって事は、何回もあったって事だよな……いや、今はそんな事より俺に何かできる事は……っと何々? 周囲の人は本人が落ち着けるように優しく声をかけ、背中をさすったりするのも効果的。
ほうほう、そうすればいいのか。
他にも何かないかと読み進めると『紙袋呼吸法は推奨されない』と書いてあった。
そうなのか! だから音瀬は首を振ったんだ。
『酸素が不足する可能性があるため』って怖っ!
音瀬がちゃんと対処法知ってて良かった。
安易に紙袋かビニール袋を渡す所だったかも。
ざっと見た感じ大事なのはこれくらいだった。
俺は音瀬の横にしゃがみ込むと、音瀬の背中をさすった。
「なぁー誰か先生とか呼んできた方がいいか?」
音瀬はまた首を横に振る。
「大丈夫……落ち着けば……治るから……」
「そっか」
そう言って俺は無言で音瀬の背中をさすり続けた。
好きな子が苦しそうにしてるのに、何も出来ないって結構辛いな……。
俺が出来る事は音瀬が落ち着けるように背中をさする事だけ。
もしかしたら気持ち悪いと思われてるかもしれないが、音瀬が嫌そうな素振りを見せなかったので、勝手にさすり続けている。
どれくらいそうしていたかは分からないが、音瀬の呼吸が落ち着いてきた。
さっきまでは下手くそな深呼吸だったのに、今は普通の深呼吸が出来ている。
「落ち着いた?」
俺は努めて優しい声で聞いた。
音瀬は首を横にふり「もうちょっと……」と言った。
「そうか」とだけ言って、音瀬が落ち着けるように俺はまた無言に徹する。
音瀬は大きく「フーーーー」と息を吐くと、しゃがみこんでいた足を伸ばし、背中を壁につけて座った。
俺はその行動を見て、やっぱり背中をさすられるのが嫌だったのかと不安になった。
そんな俺の気持ちとは裏腹に音瀬は「足が痺れちゃった」と汗まみれの顔で笑った。
笑ってるなら大丈夫っぽいな。
それにしても凄い汗だ。
きっと相当苦しかったんだな……。
俺はポケットからハンカチを取り出し、音瀬の顔の汗をポンポンと化粧を崩さないように拭いた。
それに気付いた音瀬は驚いた表情を浮かべていた。そして、クスクスと笑い出した。
「何だよ」
「だって……フフ……丁寧に汗拭いてくれるなーって。お陰様で化粧が取れずにすんだよ。フフフ、意外と女慣れしてるんだね。」
「慣れてないよ! これは湊のねーちゃんがよく言ってるからで……」
「早瀬君お姉さんいるんだ」
「うん。俺らがタオルでゴシゴシ汗拭いてたら『あんたらはいいよね、ゴシゴシ顔拭けて。私もそうやって拭きたいけど化粧が落ちる』ってぼやきながらトントンしてる」
「フフフ、確かに。私もゴシゴシ顔拭きたいかも、今は無理だけど」
「女子って大変だな」
「そっ、女の子って大変なの」
そう言いながら音瀬は鞄をゴソゴソと漁り、何かを探しているようだった。
「何探してるの?」
「んー? 薬。今は落ち着いたけど、また起きそうだから飲んでおこうかなーって、あっ、あった!」
音瀬は鞄から小さなポーチを取り出し、その中から薬のシートを取り出した。
あれって医者から処方される薬だよな?
って事は音瀬は何かの病気なのか?
薬を飲んで一息ついた音瀬は、自分のタオルで汗を拭き始めた。
「びっくりさせてごめんね……」
「えっ?」
「びっくりしたでしょ? 人があんな風になってたら」
「まぁ、確かに驚いたかな」
「でしょ。でもそこで関わっちゃう朝陽君って優しいよね」
「普通だろ?」
「んーん、私なら面倒だから絶対関わらない」
「でも関わった所で俺は何も出来なかったけどな……」
「んーん、してくれたよ。朝陽君が背中をずっとさすってくれたから、いつもより早く落ち着いた気がするもん」
「そっか、良かった。内心気持ち悪いと思われてたらどうしようかと思ってた」
「ハハハ、朝陽君って馬鹿だなぁー」
そう言った後、音瀬は両手で俺の顔を挟むと自分の顔を近づけてきて「チュッ」と音を立ててキスしてきた。
唇が離れると妖艶な笑みを浮かべた音瀬の顔がすぐ近くにあった。
「えっ?」
俺は突然の出来事に頭が真っ白になった。
俺が固まっている間に音瀬は俺の眼鏡を勝手に外し、またキスをしてきた。
今度は一回じゃない、何度も何度も。
やっと脳の処理が追いついた俺は、嬉しさよりも恥ずかしさの方が勝った。
「ちょ……んっ……」
俺の困惑が分かっているはずなのに、音瀬はそれを無視してキスをし続ける。
俺は音瀬の肩をトントンと叩いた。
そしてようやく音瀬の唇が離れていく。
俺の顔を挟んでいた手は、いつのまにか俺の首後ろで組まれていた。
「何?」と音瀬は不服そうに言うが、ちょっと待ってほしい。
ずっとどうやって息をすればいいのかが分からなくて、やっと息が出来た所なんだ。
俺が呼吸を整えていると「エッロ……」と音瀬が俺をマジマジと見ながら言った。
「は?」
「朝陽君の顔がエロすぎるって話」
「な、何言ってんだよ!」
そんな事を言われたのは初めてで、恥ずかしくて顔を手で隠した。
「初心だな……今までと違って初心すぎて困るかも……」
音瀬は何かぼそりと呟くと、俺から離れていった。
「お礼のつもりだったのにさ、なんか私がセクハラしてる気分」
「えっ? お礼のつもりだったの?」
俺は顔から手を離し、音瀬の方を見た。
俺はこんなにドキドキしているのに、音瀬はさっきの事が何でもないかのように胡座をかき、肩ひじをついて何かを考えているようだった。
もう、俺の事は見えていないかのように感じた。
女子とはもう関わりたくないと思っていた俺をここ数日悩ませて、初めてのキスを奪い、恋までさせて……ドキドキしているのは俺だけ? 何だよそれ……。
自分だけドキドキしているのがなんだか悔しくて、その思いが俺の心に火をつけた。
俺は音瀬の顔がよく見えるように邪魔な前髪をかきあげ、音瀬の顔の横の壁に手をついた。
それに驚いた音瀬は近距離の俺の顔を見上げた。
「俺もやられてばっかじゃねーから」
そう言って空いている方の手で音瀬の顎をクイッと持ち上げてから俺は音瀬にキスをした。




