05
「あなたがエーリアル公爵家の跡取りとして育てられなかったのは、大貴族の家に突然現れた跡継ぎともなると詮索する者も多いだろうし、そのせいであなたの生まれが取り沙汰されて、あなたの準備ができないうちに封印が解かれてしまうかもしれないと恐れたから。
それに、貴族として乳母や養育係に育てられるよりも、レイドとマリエンに託した方があなたの為になると判断したの」
賢者の塔へ赴き、三賢者と面談した後、ルシの後を追ってきたエステヴェートが歩きながら話し始めた。これからエーリアル公爵邸へ向かうというルシを気遣っての事だ。
「そして当時まだご存命だったアルミナ様への配慮」
「そうね。彼女と結婚した時、公爵様はエルリアーナが生まれた事を知らされていなかったの。《光の館》の判断で。ただ自分のせいでエルリィンを死に追いやってしまったと激しく嘆いていらしたわ。でも、エーリアル公爵家の後継者として結婚しない訳にいかなかったのよ。
だけど政略結婚だったとはいえ、アルミナ様は落ち着いた愛情で公爵様を支えていらっしゃった。夫に跡取りを抱かせてあげられないのをひどくすまながり、気に病んでおられたわ……だから……」
天井の高いその部屋は重厚な調度を調えた応接室だった。ルシは勧められるままに革張りの長椅子に腰をおろし、どう切り出したものかと悩んでいる館の主人を前にして、ただじっと待っていた。
静かだ。
縦長の窓にはめられた高価な硝子越しに射す陽光の中で埃が踊っている。
「エルリィンは妖精の数え方でいうと本当に若く、まだほんの少女といっていい年齢だった……」
暗色の肘掛け椅子に浅くかけて背をまるめ膝の上に肘をのせたアルフィスは面を伏せ、組んだ手を見つめながらようやく口を開いた。いや、その《王家の紫》と呼ばれる濃いすみれ色の瞳には確かに彼自身の両手が映っていたけれど、アルフィスが見ていたのは別の何かだった。
「私自身も二十歳にもならぬ若造で、エルリィンと出逢って初めて恋というものを知ったのだ。運命、と詩人ならば呼ぶのだろう。突然にわき上がった激しく、狂おしい感情。
その情動のおもむくままに私とエルリィンは禁忌を犯し、甘い禁断の実を味わった。
その行動自体に後悔はない。たとえその為に命を落としていたとしても。だが、ひと時の幸福の代価を支払うのが私ではないと知っていたら……」
左手は右手を、右手は左手をきつく握りしめ、震える手。
ルシの眼前にいるこの老人は何年も、何十年も苦しんできたのだろう。自分の心に正直に、愛した女性と身体を重ねたという若き日の罪の為に。
結果的に愛する女性を死に追いやり、その娘にも母と同じあまりにも短い生しか送らせてやれなかった――自分の孫に祖父だと名乗る事もせず、孤児として育てさせた――孫が負ってしまった宿命の重さを減じてやる事ができない――自分が許せずに。
一瞬あげられたなかば以上灰色になった髪と顎髭に縁取られたアルフィスの苦悩にゆがんだ顔を見たルシは胸が締め付けられるようだった。
(充分だ――。あなたはもう充分苦しんできた)
「公爵さ……」
身を乗り出したルシは一旦浮かせた腰をおろし、アルフィスに向かって伸ばしかけていた右手を引っ込めた。何度か無言のまま口を開け閉めし、小さな声で遠慮がちに呼びかける。
「……おじいさん」
アルフィスの身体がビクリと跳ね、驚きに見開かれた眼がルシを見つめた。
「今、なんと……?」
今度はルシの方が視線を落とし、顔をうつむける。ガクガクしそうな足を押さえつける為に両手で膝を握りしめた。
「すみません」
「なぜ、あやまる?」
立ち上がったアルフィスは低い食卓を回り込む時に膝を打ちつけた事にすら気付かず、ひざまづいてルシの両肩をつかむ。
「え……?」
ルシはただ呆然と顔をあげた。その視界に飛び込んできたのは期待と不安に慄く、懇願するような眼。
「私は今、おまえが素晴らしい言葉を口にするのを聞いたと思ったのだ。頼む、もう一度言ってくれ」
「お……じい……さん」
震える唇から漏れるかすかな声音。
アルフィスの手から力が抜けていき、だらりと両脇にたれる。再度伏せられた顔。肩が大きく上下し、両眼から涙がこぼれ落ちた。
「おじいさん!」
ルシもまた椅子から滑り降り、床に両膝を着く。そっと、アルフィスの肩に手を置いた。
「すまない」
「なぜ、あやまるんです?」
顔をあげたアルフィスの眼に映ったのはふわりとした微笑。
「僕は今、とても素晴らしい言葉を口にできたと思ったんですけど」
微笑みが満面の笑みになり、アルフィスの腕を滑り降りていったルシの手が祖父の手を取った。
「覚えています。まだ小さかった僕を抱き上げ、高い高いをしてくださった事」
アルフィスの脳裏に幼いルシが笑い声をあげ、はしゃいでいた様子が思い出された。
「……覚えています。僕が落馬した時、真っ先に駆けつけて馬をおさえ、真っ青な顔で怪我を調べてくださった事。
将棋の指し方も、領都の様子も、星の淡海がどんなに美しいかも、みんなおじいさんが教えてくれましたよね。
だから今度は僕が教えてさしあげる番です。僕がどんなに幸せに育ってきたか。今のお父さんと、お母さんがどんなに好きか。
それから……それから……」
口ごもったルシは少し顔をうつむけて、それでもはっきりした声で言った。
「こんなに立派なおじいさんがいるってわかって、どんなにうれしいか」
なんと素直に思いやり深く育ってくれた事だろう。ルシの立場にあれば禁断の恋に身を焼いた父母を、祖父母を恨み、まだ生まれてもいなかった彼を殺そうと考えた妖精や人間達を憎み、運命を、この世のすべてを呪ったところで足りぬ程に感じる者もいるだろうに。
喉をつまらせたアルフィスはルシの背中に腕をまわしてひしと抱きしめ、言葉もなく涙を流し続けた。
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