03
昇ったばかりの十三夜の月が賢者の塔の庭を見下ろしている。
まだ朝晩は冷え込む季節だというのに魔術師見習いのアスジナルは額に吹きだしてくる汗をぬぐわなければならなかった。
それは彼が手押し車を押してこの場所と薪小屋の間を往復し、あるいは大きな楕円を描いて並べられた三脚付の篝に沿って歩き続けているせいばかりではない。籠に囚われた炎が貪欲な舌をひらめかせ、夜闇に光と影を踊らせながら熱気を撒き散らしているからだ。
篝火の中央には蝙蝠のような薄い膜状の翼をたたみ、尻尾に頭をのせて眠る銀竜ヴァルガスがいた。
アスジナルは炎の精気を糧にしているというその巨大な生物の為に火を焚き続ける仕事をおおせつかったのだった。賢者達の配慮で野次馬共を遠ざけようと彼のような徒弟は庭のその部分への立ち入りが禁止されていたから、竜を間近に見る為に志願した仕事ではあるのだが。
その夜、もう何度もしてきたように手押し車から太い薪を一本取り上げ、篝のひとつに投げ入れる。新たな贄を得た歓喜を表すように天高く舞いあがっていく金色の火の粉を見上げながら溜め息をついた。
(もしオレが黒魔術師なら自然の理を曲げて同じ薪を一晩中燃やし続けるとか、魔物を呼び出して働かせるなりして楽ができるんじゃないかな?)
と、ぐっすり眠っていると思っていた竜の目蓋が持ち上がり、炎に照り映える瞳が彼の姿を捉える。
「うわっ!」
予期せぬ出来事に飛び上がったアスジナルは着地に失敗して尻餅をついた。
『これはすまぬ事をした。驚かせるつもりはなかったのだ』
ズシリとした思惟がアスジナルの心に響く。
「うひゃっ!」
またしても驚いて地面に尻をついたまま後退るようにして素っ頓狂な声を出してしまった。
ククッという笑い声が背後から響き、急に自分のみっともなさに思い至って顔が赤らんでいくのがわかる。
「すまない。君の事を笑った訳じゃないんだ」
「竜騎士様!」
「ラヴァスでいい。さっきは悪かった。二度も君を驚かせてヴァルガスがすまなそうにしている様子が面白かったんで、つい」
すまなそう?
アスジナルにはさして竜の様子が変わったようには見えなかったのだが、竜騎士の目にはこの恐ろしげな貌をした生き物が思わず笑いを誘うほど愛嬌のある存在に映るのだろうか?
「オレ、あ、いえ、私はアスジナルと申します。謝っていただくような事ではありません。私が勝手に驚いただけですから」
汚れた手を服でぬぐってから、差し出された右手を取って立ち上がったアスジナルは、竜騎士が左手に細くなった口に紐を巻き付けた素焼きの壺を持っているのに気付いた。
「差し入れだ。交替前に居眠りされたんじゃ困るんで葡萄酒じゃなく、ただの薄荷水だが」
「オレなんかの為に……」
「もう一人の当番が急に具合が悪くなって真夜中まで君一人だと聞いた。井戸まで行っている暇がないんじゃないかと思って。とにかく喉の渇く仕事だ」
「お心遣いありがとうございます」
「どういたしまして。遠慮せず飲んでくれ」
「では、いただきます」
じわじわと水がしみ出していく素焼きの容器に入った薄荷水は気化熱のせいで井戸から汲んだばかりのように冷たく、口中にさわやかな香気を残す。
ただアスジナルがゴクゴクと喉を鳴らしている間にラヴァスが手早く十数本の薪を篝の中に投げ込んでしまったのには慌ててしまった。それにしても、どうやればあんな風に楽々と遠くの籠に薪を投げ入れる事ができるのだろう?
「多分君は心話を学び始めて思考を強化して放射する練習を積んでいるところなんだろうが……」
急に何を言い出すのだろうと不審に思ったアスジナルの耳元に口を寄せるようにしてラヴァスが続けた。
「さっきの黒魔術云々って思考、外に漏れていた」
「ええっ!」
(うへっ! あんな事考えてたなんてタンタル師に知れたら……)
黒魔術は使う者の魂をゆがめる。いかにその力に惹かれようとも決して手を染めてはならないと常日頃説いている厳格な師匠にどんなお小言、いや大目玉をくらうか知れたものではない。
「ごく弱いものだったからすぐ傍にいたヴァルガスくらいしか拾えなかったはずだが。気をつけた方がいい」
「あっ、あの……」
アスジナルがこの事は黙っていて欲しいと頼むより先にラヴァスが大丈夫というようにポンと彼の背中を叩いた。そしてホッとして礼を言おうとしたアスジナルを制するように手を挙げる。
「エステヴェート様が来る」
「えええェッ!」
今夜は驚いてばかりだった。ふた冬前まで教師の一人として塔で教えていたエステヴェートだが、《塔の賢者》の称号を継いでからは自分の、あるいは他の二人の賢者の部屋に籠って仕事をしている事が多く、一徒弟などが顔を合わせる事は滅多にない。
ほどなく姿を現したエステヴェートは賢者の証である青灰色の寛衣ではなく、古びたスカートに端切れで作ったエプロンを身につけていた。
「今晩は、いいお月様ね」
「ええ、今夜は銀の貴婦人のご機嫌がいいようですね」
ラヴァスは歩きながら声をかけてきたエステヴェートに会釈する。なんと挨拶していいものかわからずにもじもじしていたアスジナルにエステヴェートが微笑みかけた。
「ご苦労様アスジナル。ラヴァスには大切なお仕事があるから彼の代わりに充分にヴァルガスのお世話をしてあげてね」
「は、はい!」
名指しで呼びかけられたアスジナルは興奮してどもってしまう。エステヴェートが賢者の塔に多数いる教師、魔術師、薬師、徒弟や使用人にいたるまですべての者の顔と名前を覚えているという噂はやはり本当なのだろうか?
「ヴァルガス……」
エステヴェートは静かに彼らを見下ろしている竜の面前で立ち止まって、そのまじろがない眸を見上げた。
『ラヴァスならどこへでも連れていかれるがよい、賢者よ。私は充分に満足し、寛いでいる』
「ありがとうヴァルガス」
「どちらへ?」
エステヴェートは問いかけるラヴァスに視線を投げながら先に立って歩き始めた。
「あなたみたいに素敵な若者といっしょに月夜の散歩を楽しみたいのは山々だけど、今夜は冷えるわ。歩き回るには少し疲れてもいるから私の部屋へ来てちょうだい」
「心話で呼んでくださればよかったのに」
「あるいは誰かを使いにやれば?」
エステヴェートは彼女の隣に並んで頷いたラヴァスの腕に親しげに肘をからませる。
「六十過ぎのおばあちゃんに腕を組まれるのはお嫌?」
たじろいだラヴァスがもごもご言うのに朗らかな笑いを返した。
「歳をとると意識して身体を動かした方がいいのよ。おかげであなたに対する印象が間違ってなかったと確かめる事もできたし」
「……?」
「人づきあい、という点でのあなたの評判はあまり芳しいものじゃない。でも私には決して無礼ではないけれど、どこか無愛想でぶっきら棒なあなたの態度とは裏腹に、あなたがとても思いやり深い人だと思えたの」
「――まさか……壺の事をおっしゃっているんですか?」
「さっき厨房へ私の部屋にお茶の用意をしておくように頼みに行ったら、あなたが薄荷水を頼んだって言うでしょ。そうしたらアスジナルがその壺を抱えているんだもの」
ラヴァスはそこに浮かんだ当惑を隠すように顔をそむけた。
「ただの気まぐれかもしれませんよ」
「それはどうかしら?」
※篝(火を焚く鉄製のかご)
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