02
「本当にもう大丈夫なの?」
問いかけるエステヴェートの茶色の瞳が素早く動き、ルシの頭のてっぺんから爪先までを検分する。
「はい。ご心配をおかけしました。大丈夫です」
どこか上の空ではあるが、しっかりした声音で答えたルシの瞳を覗き込んでエステヴェートは頷いた。
「どうやら無理をしてそう言っている訳ではなさそうね」
そして心の中でこう付け加る。
(少なくとも身体の方は)
「少し、いいかしら?」
ルシの家を後にして明るい陽射しの中へと踏み出した。
エステヴェートはのんびりと散歩するような足取りで梅、桃、桜、杏、林檎などの果樹が植えられた人気のない一画へとルシを誘う。
咲花月の緑は芽吹月の遠慮がちな浅い黄緑から眩いような若葉色へと移りつつあり、まだほとんど葉をつけていない種類の樹木には白や薄桃の小さな花が枝を覆い尽くすように咲き誇っていた。
とある日溜まりで立ち止まったエステヴェートは腕にさげていた籠から毛氈を取り出して草の上に広げ、端に座るとふたつの杯と二本の瓶、焼き菓子の入った木製の器を並べる。
「お天気もいいし、お花があんまり綺麗だからゆっくり眺めたくなって。あなたも座ってちょうだい。……苺水と加密列茶どっちがいいかしら?」
「エステヴェート様?」
「私は……そうね、まずは苺水をいただくわ」
キュッいう音がした後、木栓がポンと開いた。赤っぽい液体を杯のひとつに注いだ彼女は瓶を手にしたまま、まだ立っていたルシを見上げる。
「あ、じゃあ僕も同じで」
慌ててエステヴェートの向かいに腰をおろし、手渡された杯に苺の香りがする飲料が満たされていくのを見ていた。
風が梢を揺らし、若草の絨毯の上に無数の花びらが舞い散る。
「訊きたい事がたくさんあるんでしょう?」
ほのかに甘酸っぱい飲み物を一口飲んでエステヴェートが切り出した。
ルシは中味が半分ほどに減った杯からエステヴェート、小さな旋風に舞い踊る花びらへと視線を移し、どこか遠くを見つめるように眼を細める。
「はい」
ルシは右手に杯を持ったまま、両腕で膝を抱え込んだ。
「……それとも、いいえ、と答えるべきなんでしょうか?
僕にはわかりません。あんまりいろんな事があって……自分が誰なのかさえ自信がなくなって……。眼が覚めた時にはたくさん、たくさん訊きたい事があって……。
でもなんていうのか……よく考えてみると、初めから答えがわかっているように思える事も多いんです。多分、エルリアーナかラリックが知っていたのか、《腕輪の宝石》が僕に語りかけてきたのか……。でもそれはどれも僕が知っている事じゃあなくて……。
僕の頭の中で僕のものでない考えがグルグル、グルグル……。
すみません、訳のわからない事を言っちゃって」
淡々とした抑揚にかける声。無表情に風景を眼に映しているルシの横顔。
「わかる、と言ってしまったら、あなたは怒るかしら?
だけど少なくとも、あなたが突然投げ込まれた状況にどう対処していいかわからずに途方に暮れているのはわかっているつもり。そして、ひとつ助言をしてあげられるんじゃないかと思うの。
あなたが押しつけられた考えなんじゃないかと恐れている事はみんなあなた自身が推測し、判断した事のはずよ。
あなたは昔から勘も頭もいい子だった。心を読まれているんじゃないかと不安になる人達がいるくらいね。私にはあなたがそれを普通なら気付かないようなちょっとした暗示――相手の表情や微妙な声の変化、無意識に動かした指先とか――から拾いあげて状況と組み合わせ、自然に読み解いてしまっているからだってわかっているけど。
たとえば、あなたは感じていなかった? レイドとマリエンがあなたが小さい頃からあなたが二人の本当の子供ではないと話して聞かせていたのは二人が長年この土地に住んでいて誰もがあなたが二人の子ではないと知っていたからという他に、本当の肉親が迎えに来てもあなたを驚かせずにすむようにと考えたからじゃないかって。
その考えは当たっているわ。そしてそれを知っていたのはルシ、あなたなのよ。ラリックでもエルリアーナでも、ましてや《腕輪の宝石》などでなく」
一瞬、目をみはるルシ。杯を持つ手に僅かに力が入る。
「――そう、ですね。
言われてみればそうかもしれません。よくはわかりませんけど、そういう事になるのかも」
「そう、たとえその推測を導き出すのに使った知識の源が自分のものではないとしても、判断をくだしたのはあなた自身なのよ。あなたの心は充分に成長している。その一隅に他者が間借りし始めたからって自分を見失うほど弱くはないわ」
杯を置き、身体を回したルシはエステヴェートの瞳を正面から見つめた。
「どうしてそんな事が言えるんです?!」
エステヴェートも真っすぐにその視線を受け止める。
「私はあなたを知っているもの」
顔をそむけたルシは目を伏せ、右手でぎゅっと膝をつかんだ。
「――でも、あなたは僕じゃない」
「そうよ、だからわかるの。あなたには見えないあなたの顔が私に見えるように」
葉擦れの音。雲の影が大地をよぎり、瞬間空気が冷たくなったような気がした。
ルシは立ち上がって数歩あゆみだし、背を向けたまま口を開く。
「僕の勘……なのかなんなのかわかりませんけど……。
ヴァルデリュード様……ですね? あの方があなたを寄越したんだ。僕に何かをしろと説得する為に。あの方が何か予見なさったんでしょう?」
立ち上がったエステヴェートの答えに淀みはなかった。
「ヴァルデリュード様があなたの将来についての予見を話してくださったのは確かだけど、私は自分の意志であなたに会いに来たのよ。あなたが迷路を抜け出すのを手伝えるかもしれないと思って」
「なんて?」
「え?」
「なんておっしゃったんです、ヴァルデリュード様は?」
吹き抜ける突風。エステヴェートは大きくひるがえったスカートを押さえ、乱れた髪を掻きあげる。
「あなたが……砕け散った悪夢を拾い集める為に旅立つ、と」
振り返ったルシの瞳に驚きと困惑。
「砕け散った悪夢を……拾い集める?」
「あなたが消滅させた《黒い輪》。あれと同じものがウェリアのあちこちに現れるだろうっておっしゃったの。それをひとつひとつ浄化していかなければならないと」
「やっぱり……そうなんですか? そんな事、ある訳ないと思いたかったのに」
「そう、やはりあなたにもわかっていたのね。それがウェリアの守護者の力。そしてあなたは運命から逃げずに立ち向かっていく」
「そんな……僕はまだ……!」
「まだ?」
ルシは言葉を続ける事ができずに開きかけた口を閉じた。
「まだ何も決めていない?
そう、決めるのはあなた。レイドとマリエンの大切な一人息子のルシ、ラリックとエルリアーナが心の底からその誕生を望んだエルシアード、どちらもあなた。エルシアードと呼ばれようとルシと呼ばれようと中味は変わらない。私の事をエステと呼ぶ人がいるのと同じ事だわ」
「じゃあルシがする選択とエルシアードならするだろう選択は同じものだって言うんですか?」
「エルシアードならするだろう選択って何?」
「僕が四散させてしまった闇の力を秘めた碑石の破片を破壊する事。
どうやってそれをすればいいのかはわからないけれど、とにかくそれを探して旅立つ事」
「なんの為にそうするの?」
一語一語を噛みしめるようにゆっくりと、苦しそうに返ってくる答え。
「それは……あれを放っておくと……世界が……僕達の世界がその痛みに耐えかねて壊れてしまうかもしれないから」
「でも何故あなたがそれをやらなくてはいけないの? 王様や竜騎士達や私達《塔の賢者》ではなく?」
「それは……それは僕がウェリアの守護者としてウェリアに選ばれたから。他の……誰も持っていない、世界を癒す力を与えられたから」
「あなたにしかできない、そう感じるのね。でもなぜ? なぜ世界が崩壊するのを黙って見ていてはいけないの?」
「そんな事をしたら、お父さんも、お母さんも……公爵様も、ロイもカルルもレイミアもメルもガーセンも……エステヴェート様、あなたも……みんな……みんなが死んでしまう! そんなの……そんな事……」
「それで私のかわいい教え子のルシは一体どうするの?」
「――ずるいですよ、そんなの」
「あなたはわかってくれる、と信じていたわ」
笑顔を向けたエステヴェートの視線を避けるように背を向けたルシはフラフラと歩を運んで手近な木の幹に右手をつく。その手が、からくり仕掛けの人形の様にぎこちなく、ゆっくりと握りしめられていった。
「でも、物わかりが良すぎるっていうのも悔しいですね。あなたや公爵様、ヴァルデリュード様、アルドリュース様、エイジェルステイン王、ラリックやエルリアーナや……今度の件に関わっているって思えるみんなにつかみかかって、泣きわめきたい。どうして僕が……僕がこんな……」
声が途切れ、すぼめられた肩が震えている。
エステヴェートはその小さな背中になんと重いものが負わされているのだろうと、やり切れない思いを抑えられなかった。それでも彼女はこの少年を苛酷な試練に向かって送り出さねばならない。
「でも、できないのね? 私達が正しいと考える事を、結局はあなたの為にも一番いいと判断した事をしたと思えるから」
ルシは無言のまま頷き、エステヴェートはルシの肩に腕を回してやさしく抱き寄せた。
「世の中の事がわかり過ぎるのは辛いわよね。それに、あなたは良い子過ぎるのよ」
小さな子供にする様に何度も何度もルシのやわらかな髪を撫で、そっと囁きかける。
「でもね、あなたには肝心な事がわかっていない。
あなたが当然感じるはずの不安や怒りをぶつけられたからって私が傷つく事はないわ。それはマリエンやレイドやアルフィス――公爵様だって同じよ。
私達はね、あなたを愛しているの。あなたの重荷の一部を受け止める事であなたが癒されるなら、どんな痛みにも耐えられる。たとえそのせいで涙が流れたとしても、それは辛いから、哀しいからじゃないの。あなたの痛みを少しでも分かち合う事ができた喜びが流させる涙なの。
それなのにあなたが誰にもあなたの痛みを分けてくれようとしないで、独りで苦しんでいるのをただ見ていなければならないとしたら、それ以上に哀しい事はないのよ」
女性としても小柄な彼女はルシよりもまだ少し背が低かったけれど、ルシは膝を曲げて彼女の胸に顔を埋め、静かに嗚咽を漏らし始めた。
※毛氈(フェルト状の敷物)
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