01
この作品はウェリガナイザシリーズの他作品より続編要素が強いです。「暗黒の輪」を未読の方は先にそちらを読まれる事をお勧めします。
鳥達のさえずり――
心地良い布団の感触。膀胱に圧迫感。
まだ目を開けず、横になったまま伸びをしたルシはあちこちの筋肉の凝りと気だるさに呻き声をあげた。身体が重い。馴染みのない体調に、なぜだろうと疑問が浮かんで、思い出した。
「エリア!」
掛け布団を跳ねのけて跳び起きる。床に足が着くと同時に目眩がした。
閉めきっていた暗い部屋に光が射し込む。
「ルシ!」
扉を開けたとたん、寝台の脇に膝を着いているルシの姿を目にしたマリエンはあわてて養い子の元に駆け寄った。
「お母さん……」
ひざまづき、ルシの肩を抱いたマリエンの心配そうな表情が覗き込んでくる。
ここはルシの部屋。ルシは素足で、自分の寝間着を着、開いたままの扉の向こうは大きな窓から午近い陽光が射す見慣れた居間。
(あれは……夢? ……違う!)
ルシは右手首に光る腕輪に目を留めて顔をゆがめた。
銀でも白金でも、もちろん白鑞や鉄などではない、暗い銀色の金属に血の色をした宝石が嵌め込まれた腕輪。ルシの手首にピタリとはまっているそれには留め具がなく、腕輪を壊さずに外す事は不可能だろう。普通の方法で壊す事ができるとも思えなかったが。
あの記憶――
姿も見えず、触れる事もできず、声も聞こえず――けれど感じた。彼を抱きしめるエリアの腕と、頬をくすぐっていった髪、衣擦れの音よりも、もっと小さな細い囁き。
その衝撃を裏付けるようにルシの元へ現れた竜騎士の沈痛な面持ち。
「エリアは……?」
立ち上がろうともせず、ただぼんやりと座り込んでいたルシが重い唇からしぼり出した問いかけに、黙ったまま首を横に振ったラヴァス――
「ルシ……?」
震える声で発音された、たった二つの音に込められた不安と気遣い。
(お母さん、顔が青い。随分心配させちゃったんだ)
「大丈夫、ちょっと目眩がしただけだよ」
ルシは寝ぼけ眼を擦るような振りをしてにじみかけた涙を拭うと、ニコッと笑って今度は慎重にゆっくりと立ち上がった。
「本当に大丈夫なの? ラヴァスアーク様があなたを連れて帰ってくださってからまる一昼夜眠ってたのよ」
「ラヴァスが?」
ラヴァスに支えられながら、グァドの森の外れまではなんとか自力で歩いたのは覚えているのだが……。
「ええ。あなたを肩に担いで戸口に立っていらっしゃるのを見た時には本当にびっくりしたけれど、ただ疲れて眠っているだけだから心配ないっておっしゃって、そのままあなたを寝台まで運んでくださったの。
でも何があったのか尋ねても、自分にはどこまで話していいか判断がつきかねるからってそれ以上何も言わずに帰っていかれたのよ。
すぐに賢者様がお越しくださって、色々と説明してくださったけれど……」
「エステヴェート様が!
それじゃ、お母さん……」
「ええ。あなたがなぜその腕輪をしているのかという事なら聞いているわ」
言いながら板戸を開けて光を入れ、ずり落ちかけた掛け布団を寝台の上に広げ直して身振りでルシに床に戻るように促す。
「……だから、あなたは何も心配しないでゆっくり休んでなさい」
その、どことなくソワソワした様子にマリエンはこれ以上この話題を続けたくないのだろうと感じた。
きっと彼と同じように混乱し、不安で胸がいっぱいなのだ。そして子供の前でそんな態度を見せたくないと思っているのだろう、と。
ルシは喉元まで出かかっていたいくつもの質問を飲み込み、ここでは得られぬだろう答えを求めてすぐにでも賢者の塔へ駆け出していきたい気持ちを抑えた。
「お腹が空いたようなら、お食事はここへ持ってくるわ」
立ったままのルシを残して部屋を出ようとする。
ルシはサッと部屋を横切ると、閉まりかけた扉に手をかけた。
「ホントにもう大丈夫だから。ちゃんと椅子に座って食べるよ。それに……」
ルシはマリエンの脇をすり抜け、厠へ続く屋根付き通路へむかいながら語をつぐ。
「おしっこが漏れそうなんだ」
開けっ放しの扉からルシが見えなくなると同時にマリエンは肩を落とした。
マリエンとレイドがルシを引き取った時、その生まれについて世間とルシが信じていた通りに説明されていた訳ではない。
エーリアル公爵は彼女達にルシがある高貴な家の子供であり、複雑な事情があって当面はその出自を隠しておかねばならないのだと語っていた。その理由は明かされなかったが、彼が色々な面で他の子供達と違っているかもしれない、とも。
夜中に部屋から消えてしまったルシの身に何が起こったのか、詳細を知らされた訳ではなかった。
ただ、あの腕輪――妙に冷たく不可思議な感触を持つ――の意味は教えられた。ルシが立ち向かっていかねばならない運命の重さと一緒に。
息子が変わってしまった事を認めない訳にはいかなかった。いつもと同じように振る舞おうとはしているけれど。
どこが? と問われれば答えに窮するだろう。だがそれでも彼女にはわかったのだ。
それとも、あんな話を聞かされたせいで神経過敏になっているのだろうか? ルシの笑顔に翳りのようなものを感じたのは気のせいだろうか?
(あの子はただ疲れているだけ)
本気でそう信じられればどれだけいいだろう。明夜になれば、またいつもの明るいルシに戻り、変わらぬ暮らしが続いていくのだと。
だが彼女はまもなく息子と別れなければならないだろう。今夜賢者と公爵に真実を告げられた時には、彼女と夫は毅然とそれを受け入れたはずではないか。ルシを引き取った時から覚悟はしていたはずなのだから。
どのみち子供は皆いつかは独り立ちしていく。それがたとえウォルシュ――幼くして亡くなった彼女の実の子供――であったとしても。とはいえ……
ルシの食事を用意する為に動き始めたマリエンは、自分が深い溜め息をついた事に気付いてさえいなかった。
ルシを呼ぶレイドの大きな声が響いてくる。
ルシの部屋の窓が開いたのを見て、慌てて畑から戻ってきたらしい。厠から出たルシを見た瞬間に名を呼ばずにはいられなかったのだろう。
「俺が傍についていたからといって、ルシが目を覚ます訳じゃあるまい」と虚勢を張って、いつもと同じように仕事を続けていたのに。
ルシは厠の汲み置きで手を洗っているはずだが、レイドに付き合って井戸端へ移動したようだ。ちょっと休憩したくなって、とかなんとか言っているレイドに一々ちゃんとした返事を返している。
その他愛のない会話がどれほど彼女達の生活を満ち足りたものにしてくれていたか、今更のように痛感する。
「しっかりしなさい」
マリエンは自分にそう言い聞かせると、いつルシが目を覚ましてもいいように温めてあった鍋の蓋をあけた。
様々な出来事がクルクルと回りながら宙に漂う無数の鏡の破片のようにルシの心を取り巻き、光を、その影を投げかける。中でも特に彼を悩ますのは魔剣の魔力によって砕け、飛び散っていった黒い碑石の破片 。
それらは決して無力化された訳でなく、碑石であった時と同じ力を秘めて世界の各所へ散らばっていったのだという奇妙な確信。拒否しても拒否しても……エリアの消滅を哀しむ気持ちよりも、なお強く彼を駆り立てようとする意志。
(あれは人の世界にあってはならないもの)
その考えが自分のものではない、と思うのは恐ろしかった。ルシはそれがこの世で最も忌まわしいものであるかのように、右手にはめられた美しい枷を見つめた。
レイドと共に家に入ったルシはきちんと服を着替え、居心地のいい居間兼食堂兼台所で遅い朝食――もしくは早い昼食――をとった。
あまりおいしくはないが身体に良いといわれる薬草茶をチビチビとすすりながら、丁度ひと遊び終えてうたた寝に戻った灰色猫のマーシャを膝に抱きあげる。
ルシにつき合って軽い食事をとった両親も湯飲みを両手で包み込むようにして、ぬるくなった茶の表面を見つめていた。
老犬クルトは相変わらず古毛布を敷いた部屋の隅にうずくまって誰かの視線を感じると顔をあげてパタパタと尻尾を振ったり、その場でゴソゴソと姿勢を直し、大儀そうに身づくろいをしたりしている。
ぽつりぽつり交わされる当たり障りのない会話。何かが引っかかっている。皆の喉元で。
《ウェリアの守護者》としてだけでなく、妖精と魔族と、人の王家の者としての勘と理解力判断力を備え、闇の王子と光の王女の知識の一部さえ持つエルシアードには養父と養母が口にできずにいるのは、賢者から聞かされた事実を確認する問い――本当にルシがウェリガナイザとして目覚め、恐ろしい運命に立ち向かっていかねばならないのか? ――だという事が容易に推測できた。
質問が肯定されれば二人は息子を危地に送り出さねばならない。すでに実子を亡くした経験のある彼らには耐え難い事だろう。
そんな使命は放りだしてウェリアの運命など他の誰かに任せておけばいい、と言ってしまいたいとさえ思っているかもしれない。だが彼らは人には何かを犠牲にしても成さねばならない事もあるのを知っている。息子の口からその決意を聞かされれば、笑って送り出してやらねばならないと覚悟もしているのだろう。
それでも何かの間違いであればと願い、ルシの口から直接語られる事で、それが動かし難い事実となってしまうのを恐れずにいられないのだ。ルシを愛するが故のぎこちなさなのだと。
でも月が替わるまでは、まだ十四歳の少年でしかないルシにとっては違う。よそよそしいとさえ言えそうな両親の態度が、理不尽で情けのない仕打ちに思える。
世界中が自分を不当に扱っているという不満で胸が押し潰されそうだ。
お母さんの膝に顔を埋めて、小さな子供の様になりふり構わず泣き叫びたい。幼い時には限りなく安全に思えたお父さんの広い背中の陰に隠してもらいたい。でなければ、せめてこのやり場のない怒りを誰彼構わずぶつけたい。
それができないでいるのは彼が大人になりかけているからなのか、ウェリアの守護者の理性が歯止めをかけるからなのか、あるいは自分の出自を知ってしまった今、彼の中に育ての両親に対する遠慮というものが生まれてしまったのだろうか?
(本当のお父さんとお母さんじゃないって事は、ずっと知っていたのに……)
だがそこにはひとつ知らなかった事実が加わっている。二人はもう、彼が闇の一族の血をひくヒトならざるものだと知っているのだろうか? それでも、以前とまったく同じように彼を愛してくれるだろうか? それとも……
あんまりいろんな思いが混ざり過ぎて真っ白になってしまい、何度もレイドとマリエンに声をかけられていたのに黙り込んだままただじっと座っていた自分に気付いて顔をあげる。
と、開け放された窓から農家の主婦のような服装をして歩いてくるエステヴェートの姿が見えた。
※厠(トイレ)
この作品の舞台となる世界では昼ではなく夜を数え、日没をもって一夜[日]の始まりとします。
我々の世界で言う前夜はその夜[日]にあたり、その日の夜はもう翌夜と、夜付[日付]の区切り方が違います。王国の人々が昼間<昨夜>という時は我々の一昨夜。
今夜といった妙な表記はその為です。
作中の暦や度量衡に興味を持ってくださった方は「ウェリアと呼ばれる世界」というタイトルの短編扱いで投稿していますので、そちらをご覧ください。
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