追憶の少女
「…ここが壬生屋先輩のお家。」
放課後、奈帆は伊織の家にやって来た。一般的な一軒家に比べると大きな家。しかし、高級ブランド『Lunatic Caelum』を手掛けるデザイナーの孫の家ならもっと豪邸のようなものを想像していた奈帆はそれほど驚かなかった。
「こ、ここで合ってるよね…?駿河さんが間違えるわけないし…。」
そう呟き、奈帆は先程のことを思い出す。
月雫と話して今なら伊織と話せると思った奈帆は、昼休みに伊織のクラスへと向かった。しかしそこに彼女はおらず、放課後になってすぐ生徒会室に向かったが伊織は見つからなかった。
どうしようかと思っていたところに蘭と居合わせ伊織の場所を聞くと、今日は学園を休んで自宅にいるとのことで、住所を聞いて来たのだ。
間違っていたら少し怖いが、震える手でなんとかインターフォンを押す。しばらくして綺麗な女性の声が返ってくる。
『はい。どちら様でしょうか。』
「あ…わ、私っ星空学園中等部二年の涼風と申します。壬生屋せん…あっ、えっと…い、伊織さんにお話がありまして…。」
『伊織様にご用事、ですか…。』
女性はそう呟くと少しの間、沈黙が続く。家を間違えていないことに安堵する奈帆だが、それも束の間。居づらそうにしていると横の柵が自動で開いた。
『どうぞ、お入りください。』
「えっ?あっ、はいぃ…。」
導かれるがままに玄関の扉まで歩くと、綺麗な女性が扉を開ける。日本人ではない美しい彼女に見蕩れてしまう、
「いらっしゃいませ、涼風様。私、伊織様に仕えるソフィアと申します。」
「あ、は…初めまして。お邪魔します…。」
「伊織様を呼んで参りますので、どうぞこちらでお待ち下さい。」
ソフィアに玄関を上がってすぐの部屋に通される。フカフカそうなソファにオシャレなテーブル。見るからに高そうな壺や美しく手入れされたアップライトピアノ。
どれも高級そうなもので溢れていた。
「…っ。」
こんな場所に来たことがない奈帆はたじろいで、どこに立ったら良いのか分からない。
「…何をしているの?」
「ひゃあっ!」
うろちょろしていると、背後から伊織が訝しげな表情で奈帆を見る。驚いた奈帆はバクバクと鳴る心臓を抑えながら伊織を見た。
「…座って。一体何の用なの?」
「は、はい…。」
伊織の向かい側のソファに腰が攣りそうなほど丁寧に座る。ふか…と優しく沈むソファに全身の力を持っていかれて、リラックスすることが出来た。
「あの…と、突然来てしまってすみませんっ!どうしても壬生屋先輩とお話がしたくて…。」
「そういうの良いから、早く本題を言って頂戴。」
伊織の冷たい圧に押し潰されそうになりながら、奈帆は負けじと気合いを入れる。
「み、壬生屋先輩と仲良くなりたいんです!」
「…は……?」
「私、引っ込み思案でいつも歌唄の後ろにいることしか出来なくて。歌唄以外の人と関わるのが怖かったんです。でも、その…今のままじゃいけないなって思って!」
奈帆は自分でも何を言っているのか分からなくなりつつも、自分の気持ちを言葉で必死に表す。
そんな真っ直ぐな彼女が眩しくて、伊織は目を細める。
「それで、えっと…こ、怖がってたら何も始まらないなって!」
いつも怯えたような表情しか見られなかった奈帆が目の前でこんなに晴れやかな顔で笑っている。こんな風に笑うんだ…とどこか他人事のように見る伊織。
「壬生屋先輩のことをたくさん知って…歌唄にも、守ってもらうだけじゃなくて対等の友達として一緒にいたい。そう思ったんです。」
奈帆の真っ直ぐな言葉に伊織の鋭い目が少し和らぐ。しかし、伊織の冷たい心は今もまだ冷たいまま。
「…友達、ね。」
伊織はそう呟くと立ち上がって窓の外を見た。美しく手入れの施された庭。それがまるで自分のようで、醜く見えて仕方がない。
「あなたの言いたいことは分かったわ。でも…あなたは歌も踊りもまだまだよね?私の家まで来た度胸は認めるけれど、活動をするにあたっての実力が伴っていないわ。」
「………っ。」
伊織の言い分には筋が通っている。返す言葉も無く、奈帆が俯くと伊織は溜息を吐く。
「私は完璧じゃなきゃいけない。同じチームになるなら、私と同じ…完璧を目指して。」
思っていたよりも完璧を求める伊織の闇は根深く、複雑だ。
奈帆は彼女にかける言葉を懸命に巡らせていると、その様子を見た伊織は再び奈帆の前に座り、その冷たい眼差しを向けた。
「…私のこと、知りたいと言ったわよね。」
「え、は…はいっ…!壬生屋先輩のこと、知りたいです。」
「…ここに来た度胸に免じて、特別に私の昔話でも聞かせてあげる。」
そう言って伊織はその月のように美しい瞳を閉じた。
・・・
それは伊織が家族でフランスに住んでいた時のこと。
近々日本で行われる祖母のブランド『Lunatic Caelum』のファッションショーを見に行くことになっていた。
『お祖母様、日本ってどんなところなの?』
『日本はね、とても素敵なところよ。』
『何が素敵なの?』
『そうねぇ…景色や空気も素敵だけれど、一番は………。』
そう伊織に話す祖母、マリーはとても幸せそうに微笑む。まるで絵本に出てくる聖母マリアのように。
『お祖父さんがいたことね。』
『わぁ…素敵………!』
伊織は目を輝かせてマリーの話を聞いた。
祖父母はとても仲が良く、離れていても互いを信頼しているような瞳が印象的だった。伊織もいつか祖父母のように、心から信頼出来るような人に出会えたらいいなと心の底から思っていた。
・
待ちに待ったファッションショーの日。伊織は関係者席から会場を見渡す。そこには色んな年代の煌びやかな女性たちが今か今かとファッションショーを楽しみにしている。
会場が暗くなり、照明がステージに向くとブランドの服を着こなした女性たちがランウェイを歩く。
月のように美しく、上品な服の数々に伊織はドキドキした。祖母の手から生み出されるそれにとても感動した。
ふと、ステージの隅に置かれたグランドピアノに目が行く。ピアノが大きくて見えなかったが、よく見るとその影で弾いている少女がいる。BGMのピアノは彼女が弾いているようだ。
とても美しく荘厳な音色。幼い伊織でも聴いたことがある程の有名なクラシック。
とてもその小さな身体で弾いているとは思えない音色に、伊織は彼女に魅了された。
ファッションショーが終了し、父母と共にマリーの元へと向かう。名残惜しいのか、ファッションショーに出ていたモデルたちはまだ服を着たまま嬉しそうにしている。
彼女たちを横目に歩くと、マリーは着飾った女性と仲良く話していた。
『あら、伊織。どうだった?ファッションショーは。』
『素敵だった!お祖母様のお洋服、どれもキラキラで…!』
『そう。とても嬉しい言葉をありがとう。』
伊織はマリーに抱き着き、満面の笑顔で感想を告げた。祖母が誇らしく、尊敬に値する存在だということを改めて認識する。
「ルフェーブル様、こちらの子は…お孫さんでいらっしゃいますか?」
「ええ、そうよ。伊織と言うの。」『伊織、この前教えた日本語でご挨拶なさい。』
「ハ、ハジメマシテ…。」
すると、先程マリーと話していた女性がにこやかな表情で伊織を見る。日本語がまだ少ししか喋ることが出来ない伊織は、以前マリーに教えてもらった初対面の人への挨拶を言う。
「初めまして、伊織ちゃん。」
伊織の背に合わせて屈む女性。彼女の首元でLunatic Caelumのネックレスが揺れる。
『響子さんの娘さんが今日のファッションショーでピアノを弾いてくれたのよ。気付いたかしら?』
マリーの言葉に伊織はピアノを弾いていた少女を思い浮かべる。伊織が頷くと女性、響子はとても嬉しそうに笑う。
「まぁ、気付いてくれたの?嬉しいわ!そうだ、伊織ちゃんと歳もそんなに変わらないし、娘とお友達になってくれる?」
「んっ。」
響子の提案に二つ返事で頷く。祖父母の話を聞いてからというもの、伊織は日本での友人にとても興味があったのだ。
「…それなら、この後の打ち上げパーティーで顔合わせしたらどうかしら?響子さんも来るでしょう?」
「まぁ、お邪魔して宜しいのですか?」
「えぇ。素敵なピアノを弾いてくれたお礼に。それに…伊織にも日本の友達が出来たら私も嬉しいもの。」
「ね?」とにこやかな表情を向けるマリーに伊織は微笑み返す。日本語の意味はよく分からなかったが、とても良いことが起きる予感がした。
・
その日の夕方。壬生屋家が所有する別荘にて、ファッションショーの打ち上げパーティーが行われた。
そこにはもちろん伊織がおり、先程の約束の通り少女が落ち着いたテンポのピアノを弾いていた。
『わぁ………。』
大人たちが盛り上がっているのを背に、伊織は少女の小さな手が鍵盤の上を駆け巡る姿を見て目を輝かせていた。
『ねぇ、その曲はなんて言うの?楽譜を見なくても完璧に弾けるなんて凄いわ!』
少女がピアノを弾く手をピタリと止め、後ろを振り向く。伊織と目が合うけれど、フランス語で話しかけた伊織の言葉が分かっていない様子。
「その曲はなんと言うのか、と聞いております。完璧に弾けて凄い…とも。」
すると、それを見兼ねたソフィアがグラスの配膳を止め、日本語で通訳をした。人形のように固まった少女は、その固く閉じられた口を小さく開く。
「…月光。」
『月光、だそうですよ。お嬢様。』
『げっこう…?素敵!』
伊織はまた輝いた目で少女を見ると、少女はそれが眩しかったのか、眉をひそめて目を細める。
そして再びピアノに向き、月光を弾き始めた。
「……………ない。」
少女がボソリと呟いた。ピアノの音に紛れてしまい、上手く聞き取れなかった伊織は少女の隣に立って、彼女の顔を覗く。
「…っ!」
ピアノを弾く少女の瞳は真っ黒で、一寸の光も無い、まるで月光を失った夜空のよう。
その瞳がギロリと伊織の瞳に向く。
「………__________。」
「……………。」
光に溢れた伊織の瞳が少女の瞳に映り、まるでその闇が侵食してくるかのような感覚に陥る。
心が冷え、息をすることさえ難しい。そんな感覚が、伊織を蝕む。
・・・
「………彼女の言葉で私は変わった。どうしてなのかは分からないけれど、彼女のように完璧にならなければ意味は無いと思った。」
今、鏡を見ればきっとあの少女のような瞳をしているのだろう。
伊織はそんな自覚をしながらそっと目を閉じた。
「あの、その女の子の言葉って………?」
「…覚えていないわ。当時は日本語が分からなかったから。ただ、とても冷たく苦しい言葉だったことは…覚えている。」
胸の前でキュッと拳を握る伊織の姿に、奈帆は彼女が苦しんでいるのだと悟る。話の中ではとても純粋無垢な少女だと見受けられたからこそ、今の姿が本当の彼女だとは思えなかった。
「彼女の声は小さくて、ピアノに掻き消されてしまっただろうから…ソーニャにも聞き取れていなかったと思うわ。だから、誰も知ってる人はいな………。」
「完璧なんて意味が無い。」
「知ってる人はいない」と伊織が応えようとした瞬間。あの日の少女によく似た声が部屋に木霊する。
伊織は目を見開いて固まり、奈帆は声がした方を振り返る。そこには髪を下ろし、ギターを背負った歌唄がいた。
「え…歌唄………?」
「あ、なた…どうして………。」
「…それは、どうしてここに?っていう意味ですか?それとも、どうしてその言葉を?っていう意味?」
歌唄は驚く二人を他所に、部屋の隅に置かれたアップライトピアノの前に立つ。すぐ傍にギターを置き、慣れた手つきで蓋を開けた。
鍵盤に置く手が震えていることに気付き、歌唄は瞼を閉じて深呼吸をする。次に目を開いた時には手の震えは止まっていた。
「その理由は、これ。」
歌唄は流れるような手つきでピアノを弾いた。それは伊織の記憶の中にある、少女が弾いた月光、そのまんまだった。
「…う、そ…………。」
その妖しく魅了する、本物の月光のような演奏に伊織は言葉を失う。またこれを聴けるとは…という感動と、それを歌唄が弾いているという衝撃が胸の中で入り交じっている。
「あの時、ピアノを弾いていたのはあたし。あたしもさっき思い出して、ここに来たんだけど…まさかあの時の女の子がアンタだったなんて。」
鍵盤から手を離した歌唄は少し目線を落として言う。
現状を理解するのに時間が掛かっているのか、伊織は固まったまま。
「それに、あの時のあたしの無責任な言葉に囚われていたなんて。道理で…そっくりな訳だ………。」
「…え………?」
伊織が漸く歌唄の方を見る。苦しそうな伊織の表情が、歌唄の胸を苦しめる。しかしそれは、昔の歌唄には感じられなかった感情。
「…昔のあたしは、天性のピアノの才能を持つ女の子だった。人に聴かせれば誰もが拍手をくれる…そんな世界。
母親も、そんなあたしを誇りに思ってくれていた。」
溜めた息を吐くように、歌唄は語る。ずっと閉じ込めていた記憶が、先程ピアノを弾いたことにより溢れ出てしまう。
「でも、母親が誇りに思っていたのは…あたしじゃなくて、あたしの才能。あたしの持つピアノの才能を自分の物のように思い、あたしから自由を奪った。」
鍵盤に滑らせた指先はまた震え始める。何も無いあの時にまた戻ってしまうような感覚がして触るのをやめた。
「だから…あの時のあたしには完璧な演奏が全てで、当たり前のように完璧を求められていたんだ。」
「っ!」
歌唄の躑躅色の瞳が、伊織の月のような瞳を見つめる。昔の真っ黒な瞳が嘘のように晴れて、彼女の情熱が宿っているようだった。伊織はそんな瞳に見つめられてたじろぐ。
「純粋なアンタは、そんな無意味で無責任な言葉を鵜呑みにして、自分を苦しめた。きっと、ただそれだけなんだ…。
だから、もう苦しまなくていい。元からあんたは自由なんだから。」
今にも壊れてしまいそうな伊織に歌唄は優しく抱き着いた。歌唄が暖かくて、伊織の瞳からは凍てついた心が解けるように涙が零れた。
「…壬生屋先輩………。」
奈帆もまた、伊織の後ろから彼女に抱き着く。
あまりにも複雑に絡み合った心の糸を千切れぬように、優しく解く。
「先輩は、とても強くて優しい人です。最初は怖いなって思ってましたし、さっきまで怖さはありました。けど、今はもうありません。
事務所で煌さんと話した時、一番最初に協力と名を挙げて…レッスンの時も、私の方をよく気にかけていましたよね。」
「…!」
「強くて優しい、でも少し不器用。それが壬生屋先輩で、歌唄にそっくりで…安心します。」
伊織の涙が歌唄の肩と奈帆の頬に滴る。二人の暖かい体温に安心して、伊織は微笑んだ。
「…ありがとう。奈帆、歌唄………。」
初めて呼ぶその名前に。初めて呼ばれるその声に。少しのくすぐったさを覚えて、三人は穏やかに溶け合う。
・・・
夜。伊織は真っ暗な夜空に煌々と光る満月を見上げる。涼やかな空気を肌で感じる。
「未熟さ故の、可能性…か。」
ミコトに導かれたあの日の夢を思い出して呟く。今思えば、完璧さは最初から求められていなかった。
ただ自分が完璧という言葉に固執していただけだった。
「お嬢様、寒くはないですか?」
「大丈夫よ。ありがとう、ソーニャ。」
伊織が感謝の言葉を述べたことにソフィアは目を見開く。伊織の穏やかな表情がとても眩しくて、嬉しさが込み上げてくる。
「ねぇ、ソーニャ。今日は月がとても綺麗に見えるの。どうしてかしらね。」
いつも見る月は妖しく、伊織の心を不安にさせる。しかし、今日は優しく心を絆す。
「お嬢様、それはきっと…お嬢様の心が月に現れているのでは無いですか?」
ソフィアの言葉に伊織は首を傾げる。自分を見つめる瞳は昔のような純粋さを帯びており、ソフィアは胸が暖かくなるのを感じた。
「月は太陽の光が反射して光ります。それと同じように自分の心を無意識に投影するのだと思います。だから、その時の心によって見え方が変わるのかと。
今、月が綺麗に見えるのはお嬢様の心がそうだから…と私は思います。」
伊織はまた月を見上げ、その暖かな美しさが今の自分の心なのだと認識し、胸の前で拳を握る。
何でもない日が特別に感じる。それは当たり前のようで、とても大切な感情なのだと伊織は月に向かって微笑んだ。




