初めてのレッスン
翌朝、まだ日が昇り始めて間もない時間。蘭は日課のランニングに出ていた。
朝の静かで涼しい空気に包まれて、いつもと違う風景が流れゆく。左には綺麗な海が広がっており、潮の香りが鼻腔を擽る。
ただ真っ直ぐを見つめながら、昨日の散策で考えたルートを駆ける。朝だからなのか、元々そういう場所なのか、人気は無くなんだか自分だけの空間に来たような感覚になる。
数キロ走ると計算通り一周したようで、コテージが見えた。玄関先に着くとふぅ…と息を整える。すると庭の方に人影が見え、蘭は覗いた。
「…あ、蘭ちゃん?」
「星屑さん、おはようございます。」
そこには奏空がおり、ベンチに座って朝空を眺めていた。奏空はニコリと笑うとベンチの隣をトントンと叩き、蘭に座るように促した。
「失礼します。」
「蘭ちゃんは何してたの?汗かいてるみたいだけど。」
「ランニングです。朝の日課なんです。」
「へぇ〜!健康的でいいね。」
他愛も無い会話を幾度と繰り返すと奏空はまた朝空を見上げた。そんな彼女の行動に蘭は首を傾げる。
「…星屑さんはここで何を?」
「え?あぁ…私、ここの空が好きなんだよね。」
奏空は照れ臭そうにそう言った。懐かしいのか、目を細めてまた空を見つめる。
「昔、Pentagram☆*。が結成する前、ここで合宿したことがあって。その時にみんなで見た星空がすごく綺麗で…それがずっと忘れられないんだ。」
奏空は朝空を見ながら語り始める。蘭はそれを静かに聞いた。
「あの星空みたいに私たちも一人一人輝いて、五人揃えば五芒星のように大きな星になる…そういう想いを込めてPentagram☆*。が出来たんだ。」
朝空は星が見えないけれど、それは確かにそこに存在する。奏空はその日に見た光景をこの空に重ねて見ているのだ。
「星空は私に一歩踏み出す勇気をくれるものなんだ。芸能界に入る時も、Pentagram☆*。になった時も…前を向くのが怖い時も、何をしたらいいのか分からない時も私に勇気をくれるんだ…!」
次第に奏空の瞳がキラキラと輝き出す。まるで彼女の言う星空のように。
「…蘭ちゃんは何かある?そういう…勇気をくれるもの。」
「………そうですね…。」
奏空に聞かれると、蘭は少し間を空けて考え出した。
「…勇気、ではありませんが…私に幸せをくれた人ならいます。家族にも友人にもこうして恵まれたのは彼のおかげです。」
蘭もまた奏空のように朝空を仰ぐ。蘭の言う彼もこの空を見ていることを願って。
「そうなんだ…。素敵だね。」
「ありがとうございます。またいつか、彼に会いたいです…。」
蘭は目を細めて、記憶の中にある幼い彼の成長した姿を浮かべる。まだ会えなくても、いつか会えるようにと。
・・・
朝食が終わり、一同はリビングに集められていた。秀一郎の横には結弦と見知らぬ女性が二人。
「さて、改めてこの合宿のスケジュールを確認するよ。」
秀一郎は分かりやすく表にまとめたスケジュールを壁に貼る。大体の起床、就寝、食事の時間、午前と午後のそれぞれのレッスン時間もしっかりと細かく記入されている。
「基本的にはこの通りに過ごしてもらう。例外もあるが、それはその日の朝にお知らせしよう。
そして今日から君たちのレッスンを担当する彼女たちを紹介する。」
そう言うと秀一郎は横にいた女性二人を前に立たせる。
「初めまして、皆さんのボイストレーニングを担当する火影 華乃子です。皆さん、よろしくお願いしますね。」
「あたしも初めまして!ダンストレーニングをする大海原 水明ですっ。よっろしくね〜。」
火影 華乃子はおっとりとした優しげな雰囲気で、大海原 水明は明るく陽気な雰囲気。真逆だが、どちらも良い人なのは見て取れた。
「大海原 水明………って!えぇ!?」
すると楓が大きな声で驚いた。その声に周囲は驚く。
「めぷる?どしたの?」
「わ、大海原 水明ってあのプロサーファーのっすか!?」
楓がキラキラした目で水明に詰め寄る。その勢いに水明は瞬きを繰り返したが、すぐに笑った。
「あははっ!あたしのこと知ってるの?ありがとう!」
「ももも勿論っす!サーフィンやってる人で知らない人はいないっす!!!」
「へー、サーフィンやってんだ!じゃああたしと気が合うね!」
水明が笑顔で手を出すと楓は震える手でそっとハイタッチをした。
秀一郎が咳払いをして空気を戻す。またスケジュール表を見ながらレッスン時間の確認をし始める。
「午前は十時から十三時まで。間に昼食含めての一時間の休憩をし、十四時から十七時までは午後のレッスン。計六時間のレッスンを五日間行う。」
分かりやすく簡潔に言うと皆、理解したように頷く。
「そこで、大事なのはここからだ。君たちにはチームA、チームBに分かれてもらう。」
神妙な面持ちで秀一郎は言う。蘭たちも驚いてお互いの顔を見合わせた。
「と言っても、ライバル関係のようになる必要は無い。ただレッスンの効率を上げるものだと考えて良い。午前はチームAが歌、チームBがダンス、午後はその逆と言ったようになる。」
スケジュール表をよく見ると、秀一郎の言う通り基本的にチームで分かれてのレッスンとなっている。
「今後…君たちが芸能活動をする上で素人がソロでやっていくのは難しい。合宿が終わってからもそのチームで活動していくことを想定しての判断だ。
今回の合宿はチームの試運転とでも言っておこうか。勿論、経験値のある奏空にも引っ張ってもらうために入ってもらう。」
「えっ………。」
奏空は目を見開いた。新しいチームが出来るということは、今までのような活動を続けるのは困難だというのがすぐに分かったからだ。
「Pentagram☆*。での活動も休止せざるを得ないかもしれないことは先に言っておく。声優の仕事はこちらの事情でどうこう出来る訳では無いからな。」
秀一郎の言いたいことが嫌でも分かってしまう。それがこの件に関しては最善。しかし、奏空はPentagram☆*。が大好きだからこそ、すぐに頷くことは難しかった。
「合宿期間中、気持ちの整理も付けてくれ。」
「……………はい。」
絞り出したように出た声があまりにも辛そうで周囲の誰もが奏空に声を掛けられずにいた。
・・・
午前十時、レッスンの時間になると蘭は防音室にやって来ていた。蘭の後ろには柚希と莉愛。この三人がチームAとなった。
「いやーそれにしてもこの三人になるなんてびっくり!」
「よく知っているお二人で安心しました………。」
この三人は同じサッカー部だ。元々仲が良いが、同じチームで試合を共にするため互いの呼吸も分かりきっている。
「煌さんは見抜く力があるんだろうね。」
秀一郎の目はいつも真剣でその人の瞳の奥を見ているように蘭は感じた。
「は〜い、仲良しも良いですが、早速レッスン始めますよ。」
華乃子がキーボードの前の椅子に座り、ニコリと言う。ふわっと始まったからか、あまり緊張はしていなかった。
「まずは、皆さんに色々質問しますね。音楽経験がある方はいらっしゃいますか?」
「小学生の頃、色々と楽器を触ったことがあります。海外で様々な文化に触れる機会があったので。」
まず先に蘭が答える。ピアノやギター、ヴァイオリンなどジャンル問わず様々な楽器に触れてはどれも完璧に熟す。
蘭のことをよく知っている二人は流石と言わんばかりに頷いていた。
「なるほど〜。蘭さんは多彩なんですね。」
華乃子はメモに蘭のことを書き記す。柚希と莉愛にも聞くが、音楽経験など無い二人は微妙な返答をした。
「は〜い、それじゃあ質問は終わりです。じゃあ次は声出しです。まずは普通に声を出してみて下さい。」
その後いくつか質問され、次に声出しをすることになった。どうしていいか分からない柚希と莉愛を他所に蘭はスッと息を吸い綺麗な声を出す。
「〜♪」
「!…はい、蘭さん良いですね。お二人も蘭さんのような美しい姿勢でリラックスして声を出してみて下さい。」
柚希と莉愛も見よう見まねで蘭のような姿勢になり、あーと声を出す。柚希は大きな声だが、莉愛は恥ずかしいのか震える小さな声だ。
「…莉愛さん、最初は恥ずかしいかもしれませんがゆっくり慣れていきましょうね。」
華乃子は優しい笑顔でそう言った。その笑顔はまるで今はそれで良いと言ってくれているようで莉愛は安心して少し声が出るようになった。
「柚希さんはとても大きな声が出ていて素晴らしいですが、今のままだとすぐに疲れてしまいます。普段のように喉から声を出すのでは無く、お腹の底から出せるともっと声も響きますし、長時間声が出せるようになってもっと良くなりますよ。」
「お腹の底?」
「はい。腹式呼吸はご存知ですか?」
「名前だけなら…。」
柚希は首を傾げると、華乃子は手を叩いて声出しを終わらせる。見やすいようにキーボードの前に立った。
「最初の内はこうしてお腹の底…おへその下辺りに手を添えて下さい。そしてそこを意識するように呼吸します。お腹が動くとちゃんと腹式呼吸が出来ていますよ。そのままゆっくり息を吸ったり…吐いたり〜…ということを繰り返してみて下さい。」
華乃子の説明通り、へその下に手を当てて呼吸するとお腹で呼吸出来ている。しかし、普段やらない分すぐに疲れてしまう。
「だはー…つ、疲れてきた…。」
「私もです…。」
「ふふ、最初はみんなそうです。普段は胸式呼吸と言って胸が上下するように呼吸していますから、普通と違うとどうしても疲れてしまいますよね。そういう時は…。」
華乃子は棚からマットを持ってきてそこに敷く。とても大きなマットで蘭たちも広げるのを手伝った。
「ありがとうございます。それじゃあここに仰向けで寝て下さい。」
華乃子の言う通りに川の字で寝る。先程のようにへその下に手を当てて呼吸してみる。
「…あ、結構楽………。」
「腹式呼吸はリラックスした状態でするのが一番です。膝を立てて肩幅程度に開くと良いですよ。
寝る前なんかに意識してみると自然と身についていくので合宿中は試してみて下さい。」
身体全体がじんわりと温まり、リラックスしてきたところで、華乃子は数枚のプリントを取り出した。
「はい、じゃあ残りの時間はこれをやりたいんですけど…。」
それを蘭たちに一枚ずつ配る。そこには歌詞のようなものが書かれていた。
「これはみんなのデビュー曲です。本当はゆっくり基礎を教えてからなんですが、今回は時間が無いのでそれを仕上げながら基礎を教えていきたいなと思います。」
蘭たちは歌詞を眺める。自分たちの歌、となると柚希はキラキラした目でそれを見ていた。
「どーしよ〜…本当の芸能人みたーい!」
「げ、芸能人になるんですよ…っ。」
興奮して意味の分からないことを言う柚希にツッコミを入れる莉愛。彼女も状況が掴めなくて頭がぐるぐるしている。
そんな彼女たちとは裏腹に蘭はとても落ち着いていた。
「…これって曲はあるんですか?」
「勿論ありますよ。今から聴いてみましょう。」
華乃子はCDをセットして曲を流す。その曲は明るくも落ち着いていて、キラキラしていた。
「…良い曲だね………!」
「はいっ…こ、これを私たちが歌うんですか?」
「勿論、あなたたちの曲ですから。ハードルが高いと思うのならば、そのハードルに届くような人になる。この合宿中にそういう心も持てるようになりましょう。」
華乃子は真っ直ぐな瞳でそう言った。ゴクリと生唾を飲み、柚希と莉愛は気合いが入るが、それでも蘭はずっと冷静だった。
「………。」
そんな彼女を華乃子は見つめていた。柚希や莉愛とは違う反応の蘭が何を感じていたのか、彼女の秘めたる才能が開花するその瞬間を見てみたいと思った。
・火影 華乃子
煌プロダクション直属のボイストレーナー。幼い頃からピアノをやっていた。物静かで優しい性格。誰に対しても丁寧な口調で話す。
・大海原 水明
煌プロダクション直属のダンストレーナー。元プロサーファーで世界一になったこともある。とても陽気な性格だが、意外と真面目。




