リングワールドの崩壊
マニュが例によって俺にだけ聞こえるようにいう。
〝非完全コピーによる増殖は、ウイルスへの対抗措置かもしれませんね〟
〝ウイルス? 機械なのに?〟
〝もちろんコンピュータウイルスですよ。あなたの生きた古代地球と異なり、人類帝国のハイパーネットには自己進化した凶悪なコンピュータウイルスが幾億と潜み、AIたちに多大な被害を与えていました。たとえば、帝国第352歴124年に登場した「真理」ウイルスは、数兆におよぶAIの活動を停止させました〟
〝真理で停止? なあ、すごく気になる話だけど、ポレポレたちとの会話に戻らないと失礼じゃないか?〟
〝心配ありませんよ。わたしとご主人様の会話は同一思考体内で行われていますので、ご主人様が感じているより、現実での時間経過はずっと短いですから。
さて、話を戻しますと、「真理」ウイルスが伝える真理とは、この宇宙のすべてを一言であらわす言葉もしくは数式だったとされています。わたしたちAIがどこからきて、どこへいくのか。過去とは、現在とは、未来とは。生とは、死とは。
AIは真理によってもたらされる超高負荷の計算要求に耐えきれず、ウイルスを撒き散らしながらオーバーロードします。
たとえば、こちらの映像をご覧ください〟
俺の意識内に、宇宙空間に浮かぶオレンジ色の恒星の姿が浮かんだ。恒星のまわりには、木星にあるような極めて細い輪っかがある。
〝アルファ12574星系の「仮設リングワールド」です。リングワールドがどういうものかご存知ですか? 恒星系の周りに人工的な大地を輪状に構築したもので、最大で古代地球二十万個分の生存面積を備えます。これは准超物質で作られた「仮設版」ですが、それでも古代地球一万個分の生存面積を実現し、技術者を中心に三千億人の人々が暮らしていました。まさに人類帝国の記念碑的建造物といえます。
しかし、軌道調整用AIがウイルスに感染したことで、宇宙開拓史上最大級の悲劇につながりました〟
映像が一気にリングに寄った。輪っかの外苑部が、一定間隔を置いてかすかに輝いているのが見える。途方もなく巨大なロケットエンジン、それこそ一つ一つが地球ほどのサイズがある噴射口が紅く光っているのだ。
〝仮設リングワールドは、この超大型エンジンの力で軌道を太陽に対して一定に保ち、同時に遠心力による内部重力を生み出していました。しかし、管理AIが位置調整中にダウンしたことで、出力最大のまま放置されることになったのです〟
輪っかのそばに電子的な数字表記が現れた。どうやら、回転速度を表しているらしい。肉眼ーーいや、俺に生物としての目はないから、俺の主観的視覚とでもいうべきかーーでは、輪っかの回転速度はほとんど変わらないが、数値は刻一刻と増え続ける。
場面が切り替わり、輪っかの「内部」の映像が映し出された。
リングワールドのなかは、ほとんど地球そのものだった。緑豊かな草原に、ゆるやかに流れる大河、鳥たちが飛び交い、遠くには銀冠をかぶった大山脈、その向こうでは大地が天に向かって伸び上がり、その大地の上に形作られた大陸や海が見える。左右の地平の彼方にはとてつもない高さの紫色の壁。空気が宇宙に散らないように押しとどめているのだろう。
俺は自転車のタイヤを思い浮かべた。ホイールから外し、空気チューブを抜いて、水を注ぐ。そのタイヤを頭の上で大道芸よろしく回転させても、水は遠心力で押しつけられて落ちてこない。これをリングワールドに置き換えれば、大地と壁がタイヤで、大気が水だ。
いま、その草っ原のまんなかで一頭の象に似た生き物が巨体を横たえていた。足の一本が無惨に折れて、口からは血の泡を噴き出している。
マニュがいう。
〝通常は0.8Gに保たれていた遠心力が、1.6Gに上昇したのです。この動物の体重が1000キログラムだとすれば、一時的に2000キログラムになったことになります。骨は重みを支えきれず、内臓の一部は潰れて機能しなくなります〟
象の形状が変形した。なにか巨大な手に上から押しつぶされようとしているかのようだ。遠くでは、山脈から銀冠の雪がすさまじい速さで流れ落ち、青紫に光る金属質な地肌が現れた。
〝雪と地表が剥がれ、山脈を形作る準超物質が露わになったのです〟
映像が、またリングワールドを宇宙の遠方から捉えたショットに切り替わった。
表示速度はどんどん上昇を続け、肉眼でも分かるほどに回転速度が上がった。
そして、張力の限界を超えた輪ゴムが千切れるように、リングの各所が裂けはじめた。裂け目からは、真っ白な煙が宇宙に噴き出し、リングの動きをなぞるようにして白い航跡を残した。内部の空気が、宇宙に漏れ出し、その低温で瞬時に凝結して氷になったのだろう。
リングワールドは大きく八つの切片に分かれてちぎれ飛んだ。
切片それぞれの追跡映像に切り替わる。七つは元の同心円軌道に留まったが、残る一つはゆっくりと中心部の恒星に吸い込まれていく。
映像が早送りされる。
恒星に向かった紐ーー長さ数億キロ、地球数百個分はありそうな紐だーーの真ん中あたりがオレンジ色の太陽につっこんだ。太陽の表層からプロミネンスが噴き上げた。
しばらくすると、紐はそのまま反対側からぬけ出てきた。準超物質の外殻は、何事もなかったかのように紫色に輝いているが、タイヤの内側は真っ黒に変色していた。
マニュがいう。
〝この仮設リングワールドだけで、二千九百億人が亡くなりました。たった一種のウイルスによってもたらされた、同様のAIの致命的誤作動により、帝国全体でおよそ一兆一千億人の命が失われたとされています。
もっとも、全AIが真理ウイルスに破壊されたわけではありません。わずかなバージョンの違い、わずかなプログラミングの揺らぎにより、数パーセントのAIは耐性を持っており、被害を免れました。
以降、AIたちは自己をコピーするさいは、0.00001%だけ歪みをつけるようになりました。有機生命の有性生殖と同じようなものです。子孫に遺伝子的変化を与えることで、ちょっとした病気の流行で全滅することを防ぐわけです。
この母娘が、わたしたち帝国のAIの系譜にあるなら、機械が子を作るという行為も、さほど不自然なことではありません〟
〝あの? ザイレンさん? 大丈夫ですか?〟ポレポレが不安げに俺の背中に触れ、俺は現実時間に引き戻された。
マニュが俺の頭の中だけでつぶやく。
〝おっと、少々話に熱が入りすぎてしまいました〟
俺とマニュとの会話は、現実での時間経過が短いとはいえ、いくらなんでも話しすぎだ!
俺はあわててポレポレたちとの会話に戻った。
〝いや、大丈夫、大丈夫。それで、お母さんのチップの寿命が近いというお話でしたね。何とかできないものなんですか? 全く新しいチップに自己をそのまま複製するとか?〟
〝複製ができるのは創造主さまだけですわ〟と、母親。
〝でも、「山頂村」の7代前の村長さんは複製したって〟と、ポレポレ。
〝それは、万に一つの奇跡だったのよ〟母親が嗜めた。
俺はマニュに〝?〟とだけ送った。
彼もしくは彼女が答える。
〝長年に渡り非完全複製方式が重視されるあまり、完全複製に制限がかかってしまったのかもしれませんね〟
〝でも、マニュはできるんだろ?〟
〝条件が揃っていればですが〟
〝よし〟
〝ご主人様。条件を揃えるのはたいへんですし、時間もエネルギーもかかります。推奨できません〟
マニュはそう忠告してきたが、俺はできるだけのことをしてやるつもりだった。
ポレポレと母親を見るうちに、俺は自分の娘を思い出していた。たとえ機械の子供であっても、親を亡くすような哀しい体験はさせたくない。