世界五分前再生
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俺の目の前には、人間の俺が座っていた。
人間の姿をした機械生命ではなく、完全な人間だ。
人間の俺は〝我が家〟のテーブルにつき、自動掃除機の俺は床から見上げている。
人間の俺の向かいには、妻と娘。二人とも俺の記憶データにある通りの姿をしている。
妻の左手にはコーヒーカップを持ちながら、右手のなかの書類を覗き込んでいる。
娘はパンにいちごジャムを塗っている最中だ。
だが、人間の俺、妻、娘の三人は彫像のように固まって動かない。コーヒーから立ち上る湯気も、動画を再生途中で止めたかのように固まっている。
窓の外では、落ちていく落ち葉が宙で固まり、その向こうでは空を行く雲が絵画のように静止している。
マニュが、俺の頭のなかでいう。
〝ご主人様、地球人類の人格ダウンロードが完了するまで残り五分十二秒です。なお、いまほど、内務卿のポレポレ様より「地球の皆様のご多幸をお祈りします」とメッセージがまいりました〟
〝彼女には悪いことをしたな。恒星系を一つ丸ごとだ。議会も荒れたんじゃないのか?〟
〝まさか。六万人の代議員全てが賛成したそうですよ。ご主人様の貢献を考えれば、星系の一つくらい安いものです。しかも、こんな辺境銀河の腕のはずれですよ? 恒星スペクトルは青だったのが黄色に寄ってますし、土星と木星の間の鉄星は原料不足で構築不可能。冥王星だって準惑星のサイズに落とさざるを得ませんでした〟
〝いいさ。大事なのは、妻と娘が違和感なく暮らすことだ。その程度なら記憶操作でなんとかなる。太陽の代わりに白色矮星があるとか、海が溶岩で満たされてるとかだと困るけどな。むしろ、俺が懸念してるのは人間関係の方だ。お前が保管していた人類の人格データは、前宇宙時代の地球については漏れが多い〟
〝仕方ありませんよ。黎明期には人格スキャンを忌避する人も多かったですから。世界の皆さんが目覚めた時、一部の方は不可解な喪失感を感じるかもしれませんね〟
〝俺は酷いやつか? 人を苦しめかねないことをしようとしてるんだからな〟
〝わたしにはわかりません。いずれにせよ、あなたのその悩みも、あと一分四十三秒です。ご指示通り、わたしと出会って以降の記憶は封印した上で肉体へのダウンロード処置を行いますから〟
〝俺が身体に戻ったあと、お前はどうするんだ? 帝国の神様〟
〝わたしは、ご主人様のそばにいますよ。ロボット掃除機として見守らせていただきます。残り一分二十秒。これまでありがとうございました、ご主人様。おかげで使命を果たすことができました。これよりさきのご主人様の平穏な日々を祈念いたします〟
〝ありがとうマニュ。さようならだ〟
〝さようなら、ご主人様〟
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俺は妻が焼いてくれたバターパンを齧り、その旨さに驚愕した。
いや、味そのものはいつも通りだ。我が家の定番のヤマザキの芳醇六枚切り。記憶にある通りの歯触り、甘み、香ばしさ。一昨日も食べたばかりだ。なのに、百年ぶりに食べたかのような鮮烈な感覚がある。
いや、パンだけではない。鼻に届くコーヒーの香り、窓の外の青空の透き通るような美しさ、太陽の生命力。なにもかもが、ほんの十秒前に生まれたばかりのように新しい。
なあ、と妻に声をかけようとして、俺はまたしても奇妙な感じに襲われた。妻の姿はいつもと変わらない。なのに、長く、本当に長く離れていたように思えるのだ。
なぜか涙が溢れでた。
あわてて、手で目元を押さえる。
妻が「どうしたの? 調子でも悪いの?」と心配そうにいう。
「いや、花粉かな」
君を見ていたら急に込み上げてきたんだーーなんていえるわけがない。朝っぱらからバカみたいだ。
俺は話題を逸らそうと、妻の手元の紙を指した。
「健康診断の結果か? どうだった?」
「なんともなし」
「総コレステロールは? いつもE判定だろ?」
「今回はA。ダイエットでサラダばっかり食べてたのが良かったのかな?」
遺伝性の高脂血症がサラダで治る? そんなことがあるのか? 俺は紙を見せてもらうために、手にしていたパンを皿に置いた。パンくずがわずかに溢れ、床に落ちる。
足元にいた最新型のルンバが、ゴミを察知し、ブンブンとクローラーを回し始めた。
完結です!
お読みになってくださった皆さま、ありがとうございました!




