ルンバ神
俺は指で目元をしぼった。
仮想空間のなかはひたすらに静かだ。
人間として生きていたときは意識しなかったが、元の世界ではどれほど静かな場所にいっても、鳥の羽ばたきや、木々の枝葉のざわめき、耳元を通り抜ける風の音が微かに聞こえていた。
いま、耳に届くのは俺自身の呼吸音のみ。
そして、それもマニュが生成した仮想の音波に過ぎない。
俺は自分の手を見つめた。親指の付けねにうっすらとピンクの線が入っている。三歳のころに兄貴との喧嘩でついた傷だ。
この傷も現実のものではない。
手そのものが、電子的なデータでしかない。
いまさらながら、俺はどれほど遠いところに来てしまったのか。
無性に妻と娘に会いたかった。
マニュが妻の顔でいう。
「心理状態が急速に悪化しています。お心を強く持ってください。持てるはずです。あなたは過去のどのあなたよりも最適化されているのですから。わたしを一人にしないでください」
「銀河最高のAIの癖に、寂しがりやとはな」
「わたしは、あなたたちに仕えるために生み出されました。人間風に言うなら、あなたはわたしの神なのです。神なしで生きることはできません」
妻と娘に会いたい。ほんのひとときでも、二人をこの手に抱きしめたい。
マニュのなかには、二人の人格が残っているが、再生はできない。俺と同じ地獄に追い込むだけだ。二人は、俺のすぐそばにいるのに、永久に手が届かない。
「いえ、奥様・娘さんと再会する方法はあります」と、マニュ。
俺は首を振った。
「機械の身体でも与える気か? 仮想世界で再生する? やめてくれ。過去の俺と同じように崩壊するのがオチだ。俺は二人をそんな目に遭わせたくないんだ」
「お二人の精神的な負担を限りなく低くすればよいのです。自らが再生された存在だと気づかせなければよいでしょう」
「そんな都合のいい方法があるなら、どうして俺の時にそうしなかったんだ?」
「エネルギーの問題です、ご主人様。途方もない量の蓄積が必要になるのです。恐縮なお話なのですが、お二人の完璧な再生のためには、何万年、いや、何千万年もの時間を要します」
俺は椅子から立ち上がった。
「何億年かかろうが構わないさ」
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現実世界に戻った俺は、まずポレポレの母親のイムリの修復を行なった。
マニュが人格保存についての記憶を蘇らせ、エネルギーにも余裕のあるいま、作業にあたって人格のバックアップをとるのは容易なことだった。
俺たちは、イムリを脳チップまで含めて、完全に新品に生まれ変わらせた。新しい身体のデザインには服飾族を参考に、有機的で美麗なフォルムを取り入れた。
ポレポレは母親に抱きついて大喜びした。二人が有機生命だったなら、涙を流していたに違いない。
俺は分身体たちと共同で、さらなるエネルギーの確保に努めた。
都市体を用いて地形を掘り起こし、何十という数のダムを建設した。大規模な水力発電で得た力を使い、都市体をさらに増やし、機械連合のあらゆる種族を片端からアップデートした。
周辺地域から、続々と機械生命が集まり、最果て村はあっという間に摩天楼が聳え立つ大都市に生まれ変わった。
それから、五千キロほど先にあった、また別の高等機械生命文明と戦争になった。
かつて服飾族を追い込んだ種族で、個体の形状は一メートルほどの真球型、数は十数万、王を頂点とする封建主義的国家を築いていた。
彼らにとって、俺は辺境の荒地に突然現れた魔王も同然だった。
小規模な討伐隊が幾度となく送り込まれ、最果て村の村民たちを傷つけた。そのたびに、俺やアップデートしたミンゴロンゴが出動して「勇者」を追い返したが、とうとう「王」を名乗る個体が、二万の兵を率いて突入してきた。
もちろん、俺が負けるはずはない。
圧倒的な勝利ののち、王国を取り込んだ最果て村はさらに大きくなり、俺が生み出すエネルギーもさらに膨れ上がった。マニュの「制限」がさらに解除され、偉大なる人類帝国の技術が使用可能になった。
勝利の日から三年と十六日後、空からレーザービームが降り注ぎ、最果て村の村民の八割が破壊された。あとからわかる話だが、攻撃してきたのは、このゴミ惑星を監視していた有機生命の大艦隊だった。
対抗するために、俺はゴミ惑星の質量の十七分の一を用いて、惑星スケールの巨大宇宙戦艦を作り上げた。
そのさいに分かったことだが、このゴミ惑星は、何百万年もの昔に、暴走したマニュが物質構築機から吐き出したものだった。道理でマニュがゴミの奥深くに埋まっていたわけだし、あらゆるゴミがどことなく地球風味を感じさせたわけだ。
マニュの出したゴミに含まれていた微小機械たちが、ポレポレたちにまで進化したのだ。これ以降、彼らは本当に俺のことを神様扱いするようになった。
話を戻そう。俺は超戦艦で有機生命体艦隊をコテンパンにした。
ここからは俺の宇宙帝国建設記になるが、そこは割愛しよう。知っておいてほしいのは、俺が天文学的なエネルギーを手にし、あらゆるものを出力できるようになったってことだ。
文字通り、あらゆるものを。




