俺✖️俺
水素の分子式を書いてすぐにマニュが教室の隅から突っ込んだ。
「ご主人様、水素うんぬんより前に教えるべきことがありますよ」
制服姿の彼女の声は村人たちには聞こえないし、その姿も見えていない。普段、彼女の思念は俺にしか伝わらないのだが、どうやらこの仮想空間でも意図的に同じようにしているらしい。彼女が話している間、村人たちは時間が止まりでもしたかのように、ぴたりと固まっていた。
俺はいった。
「なんで声も姿も隠すんだ?」
マニュが人間のように二の腕をさする。
「ここまで野放図に自己進化したAIたちと、直接やりとりするなんて、シミュレートしただけでもゾッとします。どんなコンピュータウイルスを持っているか、知れたものではありません。人間で言うなれば、感染症の疑いのある相手とマスクなしで至近距離で会話するようなものです」
「この仮想空間は俺たちのなかに作ってるんだろ? もしウイルスを持ってるなら手遅れじゃないか?」
「まさか。ちゃんと防壁の外に隔離構築していますよ。ご主人様には彼らに勘付かれないように個人防御を何重にも張っていますし、万が一、ご主人様に何かあっても、わたしが無事ならばバックアップから再生できるはずです」
「そりゃ心強い。ついでに、アドバイスしてもらえないか? 初めに教えるべき〝文字〟はなんだ?」
村人たちは、電気罠やバッテリーを使うし、脳チップや記憶媒体についての概念も持っている。しかし、それらは全て、古代地球の原始時代の狩人が弓矢の使い方を知っているのと同じで、経験則でしかない。なにせ、文字を持たないがために、読み書きすらできないのだ。
「さすがはご主人様。人間にしては聡明です。アルファベットを知らない相手に、分子式など無意味ですからね。まずは、ご主人様の思考言語の文字から始めるのはいかがでしょうか?」
マニュが会話を終わらせると同時に、教室内の時が動き始めた。
生徒である村人たちは、いま、俺とマニュが体感時間にして数分間も話していたことにまるで気づいていない。
俺は自分のリズムを整えるために咳払いすると、ホワイトボードの水素の分子式を消した。
代わりに、ひらがなで「あんざいれん」と書いた。
いちばん手前に座っているオタがいう。
「ザイレン様? その紋様はなんでしょうか?」
「いい質問だ。これは〝文字〟だ。一言でいうなら、ハードディスク外に記憶を保存するための仕組みだ。ここには、俺の名前が書いてある」
生徒たちが食い入るように黒板を見つめた。
彼らにとって、俺は一種の神のような存在になっているので当然かも知れない。
この〝神の名から入る〟という方針は大当たりだった。
村人たちは、ハードディスクが不安定だからか、機械生命のわりに覚えはよくないのだが、その熱心さは、学生時代に塾バイトで受け持ったどんな生徒よりも強かった。
もっとも、それそれで微妙な問題が付随した。
やたらと質問が出るのだ。
「〝あ〟という文字は、どうして、このような形状をしているのですか?」
「この〝文字〟というものは、誰が発明したのですか?」
「なぜ、平仮名と片仮名の2種類があるのですか?」
といった具合だ。
いくら現実よりも時間の流れが遅いとはいえ、これでは授業が進まない。ついでに、生徒間の頭の回転の差も悩ましかった。脳チップの差か、人間の生徒以上に理解力に開きが見られたのだ。
そこで、俺はとりわけ質問が集中したアルファベットの授業の最中に、マニュに確認した。
「前に話していたバックアップからの再生は、俺というプログラムに問題が起こってないときでもできるのか?」
マニュが首を捻る。
「おっしゃっている意味がわかりかねます」
「教師役が一人じゃ限界がある。だから、俺をもう一人増やしたいんだ」




