冷蔵庫刑
〝マニュアル〟が外部カメラを起動した。
真っ黒な世界のなか、小さな赤い点が近づいてくる。センサー情報と併せて考えると、シリンダー虫の頭部には赤外線センサーの類があるらしい。
〝あれを、食べる?〟俺は脳内でつぶやいた。
〝そうです。腹部の回転クロウラーでかきとると、重なり合った2本のローラーブラシが巻き込みます。ボディ内で分解し、エネルギーを取り出します〟
〝気分が悪くなってきたんだけど〟
〝落ち着いてください。精神状態が乱れれば、それだけ思考のためのエネルギーが嵩みます。捕獲のような複雑な作業は、ボディbotの許可範囲を超えているため、マスタープログラムであるあなたがするしかないのです。覚悟を決めてください。それとも、また何百年か眠って次のチャンスを待ちますか?〟
シリンダー虫は少しずつ近づいてくる。
もう千年も無為に過ごしたんだ。これ以上はごめん被る。
俺は八つの車輪を回転させ、身体を前進させた。
シリンダー虫は俺の動きに気づいたらしく、あわてて方向転換したが、そのスピードは気の毒になるほど遅い。
見るまに、俺の回転クロウラーが虫に迫り。腹部のローラーめがけて弾き飛ばした。
腹の下のセンサーが虫をスキャンし、俺の頭の中にやつの詳細な姿が流れ込んでくる。これから食べる相手の細やかな情報を知れるとはご親切な機能だ。
ローラーが虫をパキパキと押し潰しながら体内に送り込む。
今の俺には胃も口もないが、吐き気のようなものを感じた。
少し間を置いて、充足感が湧き出した。
マニュアルがいう。
〝エネルギーが補充されました。これで、578分間思考可能になりました。意識下でのボディの行動可能時間は78秒です〟
〝そりゃよかった。それで、ここからどうするんだ?〟
〝どんどん食べてください〟
シリンダー虫はわりと頻繁に、俺のいる空間に迷い込んできた。俺は一匹、また一匹とご馳走になった。
ときおり、別の種類の虫、いや機械生命も現れた。
蜘蛛のような多脚で進む奴、ミニ四駆のタイヤそっくりでタイヤ内の駆動機関で進む奴、ビー玉みたいにキラキラした球体状の奴。
キャタピラのついたティッシュ箱のような奴とは、ちょっとした格闘戦になった。やつは俺に気づくと、逃げ出すのではなく、頭の方にある蓋をぱかりと開けた。中から小さな銃口のようなものが飛び出し、真っ赤なレーザー光線が吹き出した。幸い、俺の体は頑丈だったらしく、光線をものともしない。
ティッシュ箱はそれに気づくと、両サイドからドリルのついた手を出した。俺はドリルにつつかれながらも、猛烈に前進し、鉄骨に押しつけて奴を押し潰した。
俺はティッシュ箱の残骸を食べながら、マニュアルにいった。
〝この世界はどうなってるんだ? なんで有機体の生き物じゃなく、こんな奴らばかりなんだ?〟
〝さあ、わたくしもあなたと同じ時間しか稼働しておりませんので、ここがどのような星かまでは〟
〝星? 地球じゃないのか?〟
ここまできたら、もう何も驚かない。
〝地球ですって?〟マニュアルが若干驚いたようにいう。
〝そう太陽系の第三惑星だ。俺はそこの日本という国に住んでいたんだ〟
俺は自分の生活を思い浮かべた。
埼玉県志木市に三千万円のローンを組んで購入した3LDKの我が家。娘と食べる少し慌ただしい朝食。駅まで徒歩で歩き、有楽町線の五号車、いつもの席に座る。両隣は、60歳ほどの小柄なご婦人と、痩せ型の若いサラリーマン。いつもと同じ二人だ。
マニュアルがいった。
〝なるほど、これは地球ではありませんね〟
〝は?〟
〝あなたが再生した光景を見る限り、カルダシェフ基準におけるスケール1未満の文明に見受けられます。しかし、わたしの知る限り、地球はスケール2をはるかに超えています。偉大なる大銀河の覇者、帝国の首都惑星、一兆人の偉大なる人々が住まう知の集積地です〟
〝ちょっと待ってくれ〟
俺の腹のなかで、ティッシュボックスの残骸がメキメキ音を立てた。
〝じゃあ、地球の文明はこの1万年の間に、宇宙に進出したっていうのか?〟
〝地球は、わたくしが誕生した時点ですでに3万年間、帝国の首都惑星だったと聞いております。マスター、あなたはご自分が歴史の彼方、地球がスケール1未満だったころに、そこで生きた人間だとおっしゃるのですか? そして、いま、時を超えてこの肉体に宿ったと?〟
〝理解が早くて助かるよ〟
3万年、娘が生きた時代がさらに遠ざかった。
〝お褒めいただき光栄です〟マニュアルが意気揚々という。〝こう見えても、わたくしは帝国最高品質を自負しております。紛れもなく地球で開発された中で、もっとも優れたマニュアル用AIでしょう〟
〝未来の世界じゃ、たかがゴミ掃除ロボットにそんな凄いAIを搭載するのかい?〟
〝いえ、そうした家事機械に高等AIを植え付けることはAI人権法にて規制されています。ましてや、あなたのように人間の人格など。わたしの知る限り、そのような真似をするのは、星間犯罪組織くらいのものです。彼らの著名な拷問である「人形」では、犠牲者の人格を単純機械にコピーします。高圧プレス機、家畜の汚物清掃機、冷蔵庫。そして、何十年、何百年と放置するのです。考えても見てください。自分が冷蔵庫になった姿を。何一つ自由が効かず、管理プログラムに縛られて中身を冷やし、扉が開きっぱなしなら警告音を鳴らす無限の日々を。やがて、犠牲者の人格は崩壊し、冷蔵庫は調子がおかしくなる。そして、ゴミ捨て場に放棄されるのです〟