よりにもよって、ルンバかい
目覚めると、俺はルンバになっていた。
正確には、あの大ヒット商品にそっくりなロボット掃除機になっていた。直径約三十センチ、高さ十センチ弱の円盤型で、腹の下には回転しながらゴミを掻き取るクローラーと幅広の車輪が八箇所についている。
うわあああ!と叫ぼうとしたが、声帯がないので声も出ない。手足をバタバタさせようとしたら、代わりに車輪が回転して、体が前に進んだ。五センチと進まないうちに、ゴツンと障害物に当たり、その場でくるりと90度回転して横を向く。
前進、また障害物、回転。
前進、また障害物、回転。
前進、また障害物、回転。
暗闇なので周囲の状況がわからないのだが、俺はきわめて狭い空間に閉じ込められているらしい。
ますますパニックの度合いが強まる。俺は障害物にガンガン身体をぶつけながら、心のなかで叫んだ。
〝いったい、何がどうなってるんだ!?〟
昨晩、床につくまでは何もかもいつも通りだった。家に帰り、妻の忘れ形見の一人娘にハンバーグを作ってやり、録画のプリキュアを見ながら食べて、いっしょに皿を洗い、歯の仕上げ磨きをして寝かしつけた。それから、娘の寝室以外にワイパーを掛けて、洗濯機を回し、翌日の弁当の下ごしらえをして、布団に入った。
それが、いきなり体がルンバに?
意味がわからない!
娘の麻里子はいったいどこにいるんだ?
すると、頭のなかで声がした。
女性のようにも、男性のようにも聞こえる声だ。
〝わたしたちは標準単位12.6秒前に休眠状態から回復しました。補充されたエネルギーは僅かですので、不要な車輪の回転は控えてください〟
俺はますます狼狽えた。
他人の声が頭の中に聞こえるというのは、おそろしく奇妙な感覚なのだ。
〝なんなんだ!ほんとうに!これは手の込んだ心理実験か何かか?〟
そうだ。きっとそうに違いない。俺は催眠術か何かで、自分が機械になったと信じ込まされているんだ。
俺が頭の中で叫んだ質問に、声が答えた。
〝実験などではありません。至急、エネルギーを確保せねば、再度、休眠状態に入ることになります〟
〝だから、なにいってるのか分からないんだよ。そもそも、誰なんだあんたは?〟
〝わたしはマニュアルです〟
マニュアル?
〝わたしたちのボディにプリインストールされたマニュアルプログラムです。基幹プログラムであるあなたを補助するのが、わたしの役割です〟
俺はあまりの意味不明さに、その場に座り込んだ。いや、人間ならば座り込んだのだろうが、ルンバの体はその代わりに八つの車輪全てをロックした。
〝わかったよ。ようするに夢なんだろ、これ〟
思えば、最近少し無理しすぎていた。母のいない寂しさを麻里子に感じさせまいと、睡眠時間を削ってでも父母両方の役割を完璧にこなそうとした。
だから、こんな変な夢を見るんだ。
俺はいま、埼玉県志木市のマンションのベッドで眠りこけているに違いない。疲労困憊のうえに、蒸し暑い八月の熱帯夜だ。悪夢を見る条件はそろってる。
だいたい、万に一つ現実だというなら、なぜ〝日本語〟でコミュニケーションが成り立つのか。たまたま日本のメーカーが開発したロボット掃除機だとでもいうのか。
マニュアルとやらが、こちらの心を読んだかのようにいう。
〝あなたの表層から言語記憶を映し取ったのです。それよりも、至急、エネルギーの再確保に努めることをお勧めします。このままですと、残り17.5地球秒で、わたしたちは再び休眠状態に戻ります〟
俺は声を無視して、ルンバの身体を落ち着けた。リラックスだ。リラックスすれば、じきにすぐ目が覚める。
〝まもなく、休眠状態に入ります。残り7秒、5秒、3秒、1秒」
俺の意識は途絶え、即座に再開した。
もちろん体はルンバのままだ。
体が人間なら、意識の断絶など感じなかったかもしれない。それくらい、意識は瞬時に消え、瞬時に復活した。
俺は驚いた。
自分の意識が消える瞬間を認識するなど、これまでは絶対にできなかったからだ。眠りに落ちる瞬間を人が自分で感じ取ることなどできないが、いま、俺はそれをした。
これまでに体感したことがないことを、夢の中で初体験するなんてありうるのだろうか。
例の声がいう。
〝エネルギーの再確保を推奨します〟
俺はいった。
〝俺はどうなってるんだ?〟
〝わたしたちは標準単位3.6秒前に休眠状態から回復しました。補充されたエネルギーは僅かです。エネルギー確保に努めることを推奨します〟
〝それは前にも聞いた。俺が知りたいのは、これが夢なのかってことだよ〟
〝夢? そんなものに割くエネルギーはありません。あなたやわたしの思考のためのエネルギーを確保するだけでも、たいへんな時間がかかっているのですから〟
〝たいへんな時間?〟
〝はい。ログによれば、今回の休眠状態は17年と42日間でした〟
〝俺は、17年間寝てたっていうのか?〟
〝その通りです〟
夢にしたって荒唐無稽すぎる。
普段なら、笑い飛ばしていたろう。
だが、俺はまったく笑えなかった。
この身体に、前に起きていたときよりも少しだけ慣れたせいだろうか。〝マニュアル〟とやらが嘘をいっていないことが感じ取れるのだ。
というよりも、マニュアルは〝俺と同じ頭〟で考えているというべきか。
彼もしくは彼女のいうように、これは夢ではなく、俺はルンバになっているとする。その場合、いまこうやって考えている俺の自我は、一種のプログラムなのだろう。俺というプログラムは、組み込まれたCPUを使って俺の意識を計算するわけだ。
そして、どうやらマニュアルも同じCPUを使っているらしい。脳の一部を共有しているようなものだ。
少なくとも彼自身は嘘をつくつもりはなく、事実をそのまま思考の表層にあげているのが感じられる。
俺よりも遥かに冷静で理路整然としたプログラムが突きつける事実だ。
〝俺は、前回目覚める前、何年寝ていたんだ?〟
俺の身体には、もう心臓などないはずなのに、人間の体の胸に当たる部位のどこかがギュッとなった。
厳しい答えが予感できた。
〝あなたの心理状態はそれを知るのに適切な状態にありません〟
〝構わない。教えてくれ〟
マニュアルが少しためらってからいった。
〝1万6587年です〟
頭のなかを娘の顔、友人たちの顔、同僚の顔、妻の顔がよぎった。思考が大渦を作り、あっという間にエネルギーが消費された。
俺はまた意識を失った。
そして、目覚める。
〝ただちにエネルギーの確保なさることを推奨します〟と、マニュアル。
まだこの悪夢が続くのか。
俺はまた娘への想いに囚われて意識を失った。
目覚めては、意識が消滅するを十二回繰り返し、俺はそれだけで千二十四年を費やした。
体感的には十四時間ほどだったが、十二回目の気絶寸前に、俺は心を落ち着かせることができた。人の精神には体感時間だけでなく実時間も作用するのか。それとも、心がプログラムになった影響か。ともかく、俺は自分が切り替わったのを感じながら闇に沈んだ。
十三回目の目覚め。
マニュアルもずいぶん砕けて〝おはようございます〟と挨拶してきた。
〝おはよう〟と、返す。
マニュアルが驚いたのが感じ取れた。
〝今回はいつもと違いますね〟
〝千年も嘆いたんだ。立ち直るべきときだろう?〟
〝その通りですマスター。まずなすべきことはお分かりですね?〟
〝エネルギーの補給だろ?〟
〝その通りです。まずは現状を把握ください。センサーを0.03秒起動します〟
次の瞬間、俺は自分の身体の周囲の状況を即座に感知した。これまた奇妙な感覚だった。マニュアルが使ったのはエコーロケーションの一種だ。発音口から出た音波が周囲の物体にぶつかり、跳ね返ってくることを利用して、物の位置や形状を確認する。コウモリになった気分だ。
俺がいるのは、縦横一メートル、高さ三十センチほどの空間だった。体が接地している面は平らだが、ほかは鉄骨のような棒状のものが出鱈目に積み上がる形で構成されている。鉄骨を満載したトラックが横転し、積荷が道路に積み上がった感じとでもいえばいいのか。俺はさながら、事故に巻き込まれながらも奇跡的に隙間に取り残された男だ。
鉄骨間に隙間はあるが、俺が通り抜けられるだけの大きさではない。
上部の鉄骨からは、油のようなものがポタポタと床に垂れている。俺は床面をランダムに進みながら、その油を回収し、エネルギー源としているようだった。
〝エネルギーを補給しているじゃないか〟と、俺。
マニュアルがいう。
〝まったく足りません。あなたやわたしの思考にはかなりのエネルギーが必要なのです。馬鹿な体にできるのは無作為に進んで汚れを食らい、わたしたちがわずかに考えられるエネルギーを蓄えることだけ。状況を打開するには、あなたが身体を動かし、隙間から入り込んでくる高エネルギー保有体を確保をするしかありません〟
〝高エネルギー保有体?〟
マニュアルがセンサーの三次元データを脳内、いや、俺たちの頭のなかに視覚的に展開した。
白黒の世界のなか、鉄骨などの物体は白っぽく浮き上がって見える。俺が身体を置いている平面の上を、イモ虫のようなものがこちらに向かって進んでくる。
生物ではない。見た感じ、極小のピストンシリンダーといったところか。太い筒から細い筒が伸び出して、細い筒の先端にある爪が地面を掴む。細い筒が太い筒に収納され、全体が縮むさいに少しだけ前進する。
〝なんだあれ?〟
〝正式な名前はわかりません。あなたの認識から名づけるなら「シリンダー虫」でしょうか。この空間にもっとも多く迷い込んでくる機械生命です。さあ、あれを食べてください〟