プロローグ 『手引き』
駅のホームのベンチに座り小説を読んでいると、後ろから足音が聞こえてきた。朝の通勤時間とあって、それなりに人は多い。そんな空間でその足音だけを聞き取ることができたのは、それが他と比べてとても延々とした歩みだったからに違いない。
足音は徐々に近づいて、やがて僕の隣で止まった。
文庫本から一旦目を離してそちらに向けると、そこには死人のような顔をした男が一人立っていた。
冬の冷気に当てられて青白く染まった肌、だらんと力なくぶら下がっている細い腕、不純物を多く含んだ氷のように濁った瞳は、まっすぐと線路側に固定されている。
「ねぇ、あれ……」「……幽霊みたい」
そのなりふりは、周囲の人から見ても異様に写っているらしい。男のことを怪訝そうに見る視線の数は、時間が経過するごとに増えていった。
やがて、大勢の人で雑駁としたホームに、遠方からガタゴトと金属が擦れ合うような音が届き始める。やっと電車が来たらしい。学校指定のショルダーバックに文庫本を仕舞い、僕はベンチから立ち上がった。
小説を読む時には邪魔になるとはいえ、手袋を持って来なかったことが悔やまれる。悴んだ手に息を吐けば宙が白く染まり、緩やかな風に流されて消えて行く。その過程を目で追っていると、再び例の男が僕の視界に入った。しかし、その様子は先ほどとは大きく異なっていた。
脱力していた手足は震え、静かだった呼吸は荒いものに変わり、一切の意思が感じられなかった目は大きく見開かれ、忙しなく動き回っている。
その様子は明らかに異常だった。
「ちょっと、何?」
男の近くにいた若い女性が顔を顰めて男から距離を空けると、まるで示し合わせていたかのように周りの人間が後退し、男だけがその場に取り残される。
いったい、何をそんなに恐れているのか。
蔑みの視線にも、鼻で笑う声にも一切の反応を示さずに、ただ体を震わせ怯え続ける男。その畏怖する対象が何なのかを、考える。
そして、一つの可能性が浮かび上がった。
僕は怯える男の横顔――その先に見え始めた、時速数百キロで此方に迫って来る金属の塊に目を向ける。
「まさか……」
……そんな筈はない。
突拍子もない発想だ。
現実味の欠片もない。
あまりにも、馬鹿げている。
けれど、もしそれが当たっていたのなら……
『まもなく、電車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください』
ホームに接近放送が響き渡る。
その瞬間、男の震えがピタリと止まった。
そして、まるで傷つき錆び付いたブリキ人形のように、ゆっくりと首を線路の先――電車が来る方向へと曲げる。
僕の位置からでは死角で、男が今どのような表情を浮かべているのかを窺うことはできない。しかし、電車を視界に捉えたであろう男の体から力が抜けるのを確認して、咄嗟に僕は〝止めなければ〟と思った。
「ごめんなさい、すいませんっ」
気づけば足が動いていた。
男を取り囲む野次馬を掻き分けて、前へと進む。
どうしたらいいのか、なんてことは分からなかった。けれど何かしないと……何か、声をかけて気を逸らさなければならない。そんな強迫観念にも似た使命感が僕の体を支配していた。
人混みを抜けて、男に「あのっ!」と声を掛ける。
それをきっかけに集まる数多の奇異の視線に萎縮しそうになるけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。そう切り替えて、再び男に声をかけようとして……気付いた。男の背後に立つ、黒い影に。
いつからそこにいたのか。
突如として現れたそいつは、あまりにも目立つ格好をしていた。真冬だというのに露出の多いダメージデニムを履いていることにも驚きだが、それよりも目を引くのはアウターとして着ていたパーカーだった。薄手の黒い生地で作られているそのパーカーには、頭蓋や肋骨、上腕骨に至るまで、骸骨が白いインクでリアルにプリントされている。……服に頓着がない僕が言えたことではないかもしれないけれど、いい趣味とは言えない気がする。
それに加えてフードを目深に被っているため、顔を確認することができず、それがさらにそいつの怪しげな雰囲気を増幅している。
「はぁ、かったりーなー」
襟元から覗く、一房にまとめられた長い濡羽色の髪が揺れる。
フードの奥から聞こえてきた声は口調こそ荒いが、僕の声よりも高い、少女のものだった。
少女は溜息を吐いて男にぴったりと張り付くように近づくと、ポケットに突っ込んでいた右手を勢いよく振り上げる。――そこには、逆手に握られた黒いナイフがあった。
………は?
見間違いかと思った。
けれど、それは確かに存在している。
そう認識した瞬間。まるで裁判官が判決を下すかのように、そのナイフは男の頭へと振り下ろされた。
――ナイフが、男の後頭部に突き刺さる。
いったい、何が起きている?
目の前で繰り広げられる望みもしない非日常に、理解が追いついてこない。それでも、僕の視界は絶えず真実を捉え続けていた。
刺された男は力なく正面に向かって倒れ、線路へと落下する。
その光景から目を逸らしたかった。しかし、体を動かすことも、瞼を閉じることすら今の僕にはできない。それは目の前の事実に対する純粋な恐怖の所為か、はたまた心の中で燻る強烈な既視感の所為か、自分でも分からない。理解したくない。
最初に感じたのは風を切る音。それがいつのまにか目前まで迫っていた電車の音だと気付いた時には、もう手遅れだった。
次の瞬間、男は線路に落ちきる前に電車と接触する。
バンッ! という衝突音の中に、骨が砕ける鈍い音が聞こえた気がした。
飛び散る鮮血と肉片が点字ブロックを貫くようにホームの一部を赤く染め上げる。辺りには錆鉄の臭いが漂い始めていた。
「キャアアアアアアアアアアアアアアっ!」
何処からか上がった、甲高い女性の悲鳴が木霊する。それはゆっくりと伝染し、やがて周囲からは恐怖を孕んだ戸惑いの声が上がりだした。
「い、今、人が……」「……死んだ、よな?」
けれど、それがすべてではなかった。
「うっわ、マジかよ!」「すげぇ!」
楽しげに笑う声に、一瞬体が固まる。意を決して目を向けると、そこには嬉々として血や肉片にカメラを向ける何人かの野次馬がいた。
フラッシュとシャッター音が止めどなく続き、その中に僕と同じ制服に身を包んだ人物を見つけて、呼吸が止まった。その人物について僕が知っていることは、同じ学校に通っていることと、ネクタイの色が赤であることから、僕と同じ二年生であるということだけだ。友人でもクラスメイトでもなく、話したことさえもない、ただの他人。しかし、同い年の男子が人の死に直面して、面白そうに唇の端を歪めているその現実は、僕にとって到底受け入れ難いものだった。
………気持ち悪い。
「っ!」
途轍もない吐き気に襲われて、思わずその場に膝を突く。胃の中身が逆流しそうになるのを、手で口を覆ってなんとか堪えていると、誰かが僕の横を通り過ぎて行った。スタスタと、余りにも冷静に改札へと続く階段に向かっていくその足音に振り返ると、そこには男をナイフで刺した少女がいた。
少女は両手をデニムのポケットに突っ込んで、何事もなかったように悠然と歩き去って行く。
「……ちょっと、待てよ」
僕の口から漏れ出たその言葉は、少女に向けて放ったものではなかった。
「なんで……」
そう、なんで――誰もそいつを止めないんだ?
男が死ぬまでの一部始終を見ていたのが、僕だけであった筈がない。あんなに注目されていた中、逃げも隠れもしないで堂々と男の頭にナイフを突き刺したのだから、尚更だ。だというのに、誰も少女を止めようとしない。まるで、見えていないとでもいうように、場の空気がその存在を否定する。
完全に電車が止まって、人が死んだという事実に騒然としたホームに、人身事故が発生したことを知らせるアナウンスが流れる。
その間も僕は少女の姿を目で追っていた。目を離すことができなかった。
ふつふつと、胸の内に宿る感情は一文の得にもならない。寧ろ、僕にとってマイナスでしかないものだ。使命感、義務感、倫理感、恐怖、怒り、そして少しばかりの好奇心。それだけのものが混ざり合い形を成したそれは、僕にこう囁きかけてくる。
――後を追え、と。
正気か? と、自分でも思う。
けれど少女が階段を上りきり、その姿が確認できなくなった瞬間――僕は駆け出していた。