婚約破棄の三か月前
婚約を破棄される三か月ほど前
街の図書館で司書をさせてもらっている。
司書だったお母様のように……。
資格を取得した後に、館長みずから面接をしてくださった。
たぶん、お情けだったんだろう。
それでも、お母様と同じように働ける。それがうれしくってならない。
後見人とは名ばかりで、叔父家族はカーライル家の屋敷を実質のっとってしまった。
叔父にしろ叔母にしろベアータにしろ、メイドたちをこき使うわりには賃金の支払いが悪い。
かといって、わたしに支払えるわけもない。ほとんどが辞めてしまった。
いま屋敷にいるメイドは、斡旋者から派遣してもらっている人たちである。
屋敷にいづらいという以上に、当然得ることのできるはずの生活費をもらえない。叔父が博打で使ったり、叔母やベアータが自分たちの物を買ったりしているからである。
そのため、わたしは自分の生活費を自分で稼ぐほかない。
もっとも、大好きなことをして生活費を稼げているのだから問題ないのだけれども。
セシリオは、あいかわらず毎日図書館にやってくる。
仕事が終ってから、二人でカフェに行くこともある。
彼は、昔同様心やさしい青年である。しかも、はっとするほど美しくなった。あいかわらず瘦せっぽちではあるけれど、剣の練習を続けているからか、そこそこに筋肉がついて男らしくなった。
わたしの自慢の親友。それが、彼である。
「メグ、すごく楽しそうだね」
カフェで紅茶を飲みながら、彼はいつも同じことを言う。
すっかり男前になった顔には、きまってやさしい笑みが浮かんでいる。
その顔に見惚れてしまうことがある。
「メグ、どうしたの?」
そんなときには、彼がわたしの眼前で手を振って気をひいてくれる。
「そうよね。大好きなことをやっていられるんですもの。楽しいし、とってもしあわせよ」
「よかった。きみが元気になって、本当によかった。元気なきみが一番だよ」
「ちょっと、何よそれ。はいはい、わかっています。どうせわたしは、そばかすだらけのお転婆娘ですよ。元気だけが取り柄のね」
これも、いつも彼に言う台詞の一つ。
「そんなことはないさ。きみは子どものころからきれいだよ。外見だけじゃなく心もね」
これは、いつも彼が言う台詞の一つ。
やさしい彼は、ブロンドの縮れっ毛でそばかすだらけで鼻ぺちゃのわたしに気をつかって嘘をつく。
でも、これはきっとついていい嘘よね。
「メグ……」
その日、彼の様子がいつもと違っていた。
何か言いそうでいて、でも何も言わない。
「どうしたの?何かわたしに言いたいことがあるんじゃない?」
何度かうながしてみたけど、彼はただ悲し気に頭を振るだけ。
「メグ……。ぼくは……」
これでもう八回目。さすがに我慢の限界がきてしまった。
「もしかして、金貨でも貸してほしいの?だったら、二枚までならなんとかなるわよ。司書の仕事でいただいたお給料だから、それ以上はムリだけど」
控えめに提案してみた。
彼は、これまで金貨どころか銅貨ですら無心してきたことはない。
だけど、こんなに言いにくそうにしているということは、お金のことかもしれない。
「ええ?い、いや。ちがう。ちがうよ。お金のことじゃない。たとえお金が必要になったとしても、きみから借りたりするようなことはしない」
彼は、テーブル越しにわたしの手に触れようとして止めた。
彼の指先が、わたしのそれからわずかに離れたところにある。
「その……」
彼は、わたしの目から自分の指先に視線を落とした。
「きみと出会えてよかった。王宮の大きな木の下で、きみがぼくに声をかけてくれた。あの日から、ぼくのすべてがかわった。きみはぼくに、大切なものを与えてくれたんだ」
「いったいどうしたのよ?今日のあなた、おかしいわよ」
今にも泣きだしそうな、それでいて不安そうな、彼のそんな表情。
それを見て、胸が痛んだ。でもそれは、昔彼がいろんな意味で弱かったときの痛みとはまたちがう。
毎日のように会い、おしゃべりをしたり本を読んだりする関係。
わたしは、それで満足である。
彼とわたしは親友。なんでも話せる大切な友人……。
これまで、そう思っていた。
いいえ。そう思おうとしていた。
いったい、いつからそれがかわってしまったのだろう。
このときはじめて、わたしは彼のことが好きだということに気がついた。
彼の態度がわたしの心を不安にさせる。
「たとえどこにいようとも、ぼくはきみを忘れない。いつかきっと、ぼくはきみに会いにくる。だから、ぼくのことを心の片隅にでも置いておいてくれるとうれしいな」
「何を言っているの?いったい、どうしたのよ」
その瞬間、彼の指先がわたしの指先に触れた。
「ごめん。こんなこと、きみには迷惑にしかならないだろう。だけど、どうしても告げておきたいんだ。そうしなければ、ぼくはこの先前に進むことができない」
彼はテーブルに身をのりだし、必死に訴えてくる。
その彼の着古してテカテカになっているジャケットの胸ポケットから、子ども向けのお話の本がのぞいている。
それは、わたしが司書の仕事をするようになってはじめてもらったお給料で贈った本である。
その本は、わたしたちがはじめて会ったあの日に彼に見せた本である。
いまでは廃版になっていて、探すのが大変だった。館長の伝手で、値ははったけどなんとか入手できた。
二人の思い出に、彼に贈った。
「ぼくは、ぼくはきみのことが好きだ。あの日からずっと、きみのことを愛している」
驚きすぎて声がでない。
何か言わなければ、と焦れば焦るほどうまい言葉が浮かんでこない。
たった一言、「わたしもよ。あなたを愛している」と言えばいいだけなのに。
「メグ、ごめん」
彼は、わたしの沈黙を否定ととってしまった。
「もういかなければ……」
彼の指がわたしのそれからすべるようにして離れ、彼は席を立った。
何をしているの、わたし?
彼に言うのよ。
心と頭ではわかっている。
だけど、なぜか言葉となってでてこない。
カフェのテーブルで一人ポツンと取り残され、しばらく呆然としていた。
まさか、彼がわたしのことをそんな風に想っていてくれただなんて……。
すぐ隣にある窓ガラスを見た。
外は真っ暗で、雪がちらついている。これから冬である。
癖っ毛の間抜け面がこちらを見ている。
窓ガラスに映る自分が大粒の涙を流していることに、このときはじめて気がついた。
この日を最後に、セシリオはいなくなった。
わたしは、最愛の人を失ってしまったのである。