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第81話 叶えた光景



「…………、……あ、……さ? ……朝、だ」


 気が付いた時、俺――円城瓦太一はベッドの中に横たわっていた。


 ガバリと跳ね起き、周囲の様子を確認する。


 カーテンの隙間から寝室へと差し込んでくる朝日。朝特有の澄んだ空気を布団の被っていない肌の部分で感じ取る。


 普段の早朝と変わらない、いつもの朝だ。


 そして、はたと気付いてスマホを手に取り、今日の日付を確認する。


 日付、上代高校の球技大会のあった日の翌日だった。


 ――――昨日、麗佳詩羽と神話級の激闘を繰り広げ、敗北を喫したところまでは覚えている。しかし、それ以降の記憶が無い。


「まさか……全て、全て……夢…………?」


 ここ二週間程、俺は神様主催のバトルロイヤルに参加して、優勝一歩手前まで勝ち上がった筈だった。


 無論、俺は全てを覚えている。この奇妙で、人生の中で一番長く感じた二週間を俺が忘れる訳がない。


 そんな風に頭の整理がつかない中、スマホに表示されている時刻へと視線を落とすと、既に時刻が学校へと遅刻する寸前になっている事に気付いた。


「うわ! やっべ!」

 条件反射的に身支度をしようと急いで寝室を飛び出した俺は――――


「……にぃ、おはよう」

 いつものように眼を半開きにしたダウナーな表情を浮かべた乃雪の姿を目撃する。


 しかし、いつもと違っていたのは、


「乃雪、お前……」


「にぃ、どうしたの?」


 怪訝な表情でこちらを見つめる乃雪は上代高校の制服を身に着けていた。


 それは俺が何度も夢見て、何度も願って、何度ももう見る事はないのかも知れないと絶望を覚えた――――それこそ夢にまで見た光景。


「乃雪……お前、制服を着られるように、なったのか?」


 乃雪は医者でも匙を投げ、「とにかく時間が必要」だと診断した程に絶望的なまでの対人恐怖症で、外に出る事の出来ない少女だった。


 外に一歩でも出ようとしただけで意識を失い、ゲロを吐き、かつて受けた虐めによる恐怖を思い出して身が竦んで玄関先からそれ以上一歩も動けなくなる。


 外へと出る事の出来なくなった当初は部屋着以外の服を着る事さえ出来なかった程だ。それでも少しずつ、少しずつ服は着れるようなったが――――それでも制服だけは着る事が出来なかった。


 一応、上代高校への入学が決まってからも制服だけは用意していた。だが、一度も袖を通した事はなかった。その事を乃雪は何度も俺に謝っていた。


 それを見て、俺は何度となく過去を悔いていた。


 そんな乃雪の制服姿が目の前にある――――それだけで涙腺が緩んだ。


 一方で乃雪は俺の返答に小首を傾げると、


「制服? いつも着ていると思うの」

 などと言葉を返した。


「乃雪、お前は登校拒否をしていた。違うか?」


「何を言っているの、にぃ。にぃがそんな事を許す訳ないの。にぃはいつも、いつでもノノを学校へと連れて行くの。横暴なの、詐欺なの」

 などと口にして深い、深い溜息を吐いた。


 そんな確認の質問を通して、俺は全てを察した。


 ――――そうか、乃雪は……俺の妹はやっと救われたんだ。


「にぃ……にぃ!? ど、どうして泣いているの!? やっぱりノノと同じく学校へと行きたくなくなったんだね? 良いんだよ、ノノはにぃの全てを受け入れる。一緒にお外なんて捨てて、家の中に籠もるの。そして、動画配信者にでもなって悠々自適に暮らすの。大丈夫、にぃ程の男ならすぐに人気者なの……今は学校でも不人気の陰キャ街道一直線だけど、きっと大丈夫なの」


「乃雪……お前、最近読んだ本は何だ?」


「にぃが電子書籍で購入した年齢制限ギリギリの漫画。普通にエロかったの。おかわり欲しいの」


「どうやらそこまで中身に変化は無いようだな」


「妹たるもの兄の性癖には精通していないといけないの。精通だけにね」


「…………ぶっちゃけもうちょっとまともに成長していて欲しかった」

 いつも通りと言うか、ぶっちぎって頭の悪そうな妹がそこにはいた。


 ……まあ、これはこれで安心する様子なのだけれど。


 その後も簡単な質問をしたが、どうやらバトルロイヤルについての記憶は失われていると見て間違いないようだった。


 これは憶測でしかないが……、参加者以外にはバトルロイヤルに関する記憶の消去が行われたのだろう。


 まああれだけの生徒に見られたのだ。神様もそれなりに記憶の操作を行わないと、大変な騒ぎになる事が目に見えていたのだろう。


「分かった。俺もすぐに準備するから、お前は先に学校に行け」


「えー……むー、分かったの」

 どうやら学校に行くのを嫌がっているのは以前と変わらないが、それは本来の気質によるもので、外に出られないという程の事ではないらしい。


 乃雪に確認を取ったところ、相変わらず学校では孤立する事も多いようだが、以前のような激しい虐めにあったという記憶は無いそうだ。


 それは神様による記憶操作――――というよりはその事実そのものが消え去っているようだった。どうやら俺が記者と揉めた一件自体が『無かったこと』になっていた。


 成程、あの大きな事実が無くなれば、乃雪もそれ程の虐めに遭う事は無かったのだろう。


 これも神様と……それと、あいつのお陰だろう。


 そして、乃雪は玄関口で口を履き、外へと出ようとする。その一歩手前で、乃雪はこちらを振り返り、そして言った。



「……そのね、えっと――――にぃ、ありがとね」


「…………え?」

 そんな乃雪の突然のお礼に、俺は戸惑いを浮かべる。


「ノノね、すっごいリアルな夢を見たの。それもとっても怖くて、とってもやるせなくて、それでも前に進めない、みたいなそんな夢」


 でも、と乃雪が言葉を続ける。


「そんな夢の中でもにぃはいっつもノノの味方で、格好良くて、助けてくれていた。ノノをそんな怖い悪夢から救ってくれた。何だかね、ノノ。それが何でか全然夢に思えないの」


「……乃雪」


 彼女はかつて俺の所為で酷い虐めを受けて、その恐怖から対人恐怖症になって外へと出られなくなった。そんな忌まわしい記憶の全てを、今では忘れている。


 間違いなく、乃雪にかつての記憶はない。


 それでも乃雪は、記憶の改善が行われた後も、どこかでかつての事を覚えているのだ。


「それにね、にぃ。ノノは悪夢の中でも楽しい事はあったよ。だってにぃがずっと傍にいて、寄り添ってくれた。楽しい事も、悲しい事も一緒に受け止めてくれた。だから、怖かったけれど、それでも笑う事ができてたの」


「乃雪……」


 乃雪は事実が神様によって改変される前の事を夢だと思っている。


 それでも乃雪は夢の中の出来事であったにも関わらず、こう俺に囁いた。


「だからね、ノノ。お礼を言うね――――ありがとう、お兄ちゃん。大好きだよ」

 

 乃雪が見せたのは、わだかまりの無い普通の笑顔だった。


 しかし、それがどれだけ貴重なものだったか、俺にはすぐに分かった。


 乃雪は暫く俺の事を見つめた後、口にした事を思い返して恥ずかしくなったのか「じゃ、じゃあノノ、行くね」とだけ残して一人玄関から飛び出した。


 ここ数年、乃雪はいつも家にいた。それは勿論、彼女が家を出る事ができなくなっているから。


 そして、本当に久しぶりに家で一人になった俺は、絞り出すような声で言う。


「……乃雪を、妹を救えて、本当に……本当に、良かった…………ッ」


 堪えていた涙が頬を伝った。


 乃雪は俺と一緒に何度も笑っていて、一緒にいる時は楽しそうにしていた。


 けれど、その奥底には俺に対する申し訳なさと言うか……後ろめたさが見え隠れしていた。


 そんな乃雪の、何の屈託もない笑顔を久しぶりに見た。


 それが俺にとって、どれだけ嬉しいか。今、俺は身に沁みて分かった。


「けどな、乃雪。違うんだ、違うんだよ。俺はお前を救うために動いた。けれど、お前を直接救ったのは俺じゃないんだ」


 乃雪は――――あいつの事を。麗佳詩羽の事をすっかり忘れていた。


 無論、歌姫としての『麗佳詩羽』の事は覚えていた。しかし、それはファンとして、だ。一人の友人であった頃の麗佳の事を、乃雪はもう覚えていない。


 けれど、俺はあいつが忘れたとしても、また教えてやろうと思う。


 俺と一緒に乃雪を救ってくれた少女、麗佳詩羽の事を。


「……行かなきゃいけないな」


 会いたい――――麗佳詩羽に会いたい。


 素直にそう思った。会って一言、いや色々と言ってやりたい事がある。


 そう思った俺は身支度を整え、そして玄関のドアを開く。


「けれど、……その前にやらなきゃいけない事があるよな」


 あいつに会う為には俺は一つだけやり残した事があった。


 それは礼儀と言うか今更どの面下げてと言うか、まあ褒められた話では無いのだが。


 けれど、麗佳にもう一度会う為には、その前に済まさなければいけない事だ。


 その為に俺はスマホを取り出して、そいつに連絡を取った。

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