09-1 お前はいったい……
「さすがにさみしいなあ……」
翌日の放課後、現代日本生存研究会の部室には、隙間風が響くばかりだった。
「溜息つかないの、思音」
いつもの紅茶を味わうように瞳を閉じ、ルナは澄ましている。
「敵地で隠密行動したの忘れたの。私とあなたで斥侯して。丸二日間、ブッシュに隠れて気配を殺し、様子を窺ったじゃないの」
「……そういえば、そんなこともあったな」
「そうよ。腹ばいになったまま。わ、私がトイレのとき、あなた……」
「あーそのことはもう言うな。恥ずかしい」
「それに夜だって、ふたりの間に、ちょっとあったじゃないの」
「そうだったっけか……」
「そうよ。そこまで忘れてるの?」
どこか遠くで鳥がさえずっている。窓がガタガタ音を立てた。
「静かだよなあ……。ガサツで大騒ぎする絵里がいないしさあ」
「ガラスを割りまくる陽菜もいないしね」
「があがあ繁殖期のカラスみたいにうるさいあかねだって」
「繁殖期のカラスって……」
口を押さえて、ルナがくっくっと笑う。
「まさにそのままね」
「俺達ふたりじゃなあ……」
俺は背もたれに腕を組んで頭を乗せると、ぐっと椅子ごとそり返って天井を見た。天井裏にはなぜかヤマネが巣を作ってて、夏に驚いたっけ。陽が落ちるとドタドタ走り回る音がするから、てっきりネズミだと思ったんだけど。
「もう生徒も先生も帰ったわね。今日は特別授業だったから」
「そうだな。たまにはいいんじゃないの、短縮授業も。校舎消毒清掃のため、だっけ」
「そうね。勉強ばかりだと息が詰まるし」
唇を結んだ。
「へえ……。眉目秀麗、学業優秀の一文字家ご令嬢でも、そんなこと思うんだ」
「……よしてよ思音まで。そういう言われ方、傷つく」
「すまん……。そうだった」
「私たち全員、『魂のかたわれ』でしょ。十年間も生死を共にした絶望パーティーの」
「ごめん……。誰もいなくて、ちょっと調子が狂った」
「あっ」
ルナが小さく叫んだ。
「どうした?」
「これ……忘れてた」
取り出したのは、小さな石だ。ルナのきれいな手の上で、赤く輝いている。
「これは……」
「そう、空と同じ。これは思音の分」
「こんなの見つけたのか。一文字ファミリーってのは、凄いもんだな」
つまんで太陽にかざしてみた。
「飲んでみて」
「効果は?」
「もちろん、空とのシンクロ回復促進よ」
「わかった」
コーヒーで、ぐいっと石を飲んだ。特に問題はないな。錠剤飲んだのと同じさ。
「どう、なんか感じる?」
ぐっと顔を近づけてくる。いい匂いがする。さすがお嬢様。
「いや特に」
「おかしいわねえ……。空のときはすぐ効いたのに。やっぱり対象が離れてるからかしら」
「空は今ごろ、栃木で石拾いだもんな。今晩は宇都宮に泊まるって言ってたし」
「そうね……」
「あっ」
「どうしたの」
少しだけ心配そうに、ルナが顔を曇らせた。
「うん、なんか今、ちょっとだけぐらっときた。この感覚か。たしかに昨日の空と近いかも、反応が」
「そうでしょ……」
ルナは、最高に楽しそうな表情になった。仲間が力を回復するのが、うれしいんだろう。彼女は俺達の戦闘能力復活を願っていたわけだし。
「ルナ、いい笑顔だぞ。なんか素敵だ」
「……ねえ、思音」
「なんだよ」
ルナは、俺の目をじっと見据えた。潤んだ瞳が輝き、この上なくルナを魅力的に見せている。
「あなた、陽菜にもキスしたんですって」
ドキッとした。ルナの奴、誰から聞いたんだろ。あかねか? あの場にいた。
「陽菜か……。いや、あれはしたとかそういうんじゃなくて。……骨折したときだったし、急に……」
「絵里ともしてるし」
「……」
「空とだって」
「あれは首筋じゃないか。それに、武器化実現を目指して夢中だっただけで……」
「そう言うけれど、なんで私は首筋にすらキスできないのかしら」
「それは……」
突っ込まれて、俺は言葉を失った。ルナは、少し悲しげな表情を浮かべている。
「……あなた、この間、左腕が変色したじゃない」
「ああ、そうだった。夢見てて……。もうすっかり治ったけどな」
そういえば、今日も疼いて痛痒い。俺は、思わず左腕をかきむしった。
「あのときね……」
紅茶をひとくち飲んで、ルナはほっと息を吐いた。
「あのとき、私、思わず凝視しちゃったわよね、なぜだか」
「そうだな。全員、驚いてたよな。ルナがちょっと変だったから」
「あの後、考えたの、私。あなたのことが、自分の命より大切なんじゃないかって」
「……」
「それほど好きだからこそ、思音の変調に我を忘れたんだと……」
「ルナ……」
「ううん、本当は、もっと前から自分の気持ちに気づいてた。沖縄の夜だって……」
あの暑い夜を、俺も思い返した。たしかにあの晩、俺ももう少しでルナにキスするところだった。まるで魔女に魅入られたかのように。ひとり気高く屹立する心を持つガーディアンは、夜にこそ心が輝くのだろうか。
「痛々しいあなたの腕を見たとき、思音のことが心配で怖かった。呪いで思音が死んだらどうしよう。私は思音がいないと生きていけないって思った。でも、あなたには婚約者がいる。誰かはわからないけれど」
また紅茶を飲む。
「私思ったの。婚約者が誰かなんて、本当はもうどうでもいいんじゃないかって。――だってそうでしょう。私たちは、異次元の記憶を持っているとは言っても、この時空の住人よ。なら……それなら、私が『この世界』で、新たに思音の恋人になったっていいじゃないの。はるか彼方の恋愛沙汰なんて、もうみんな忘れればいいのよ」
冷めたコーヒーを口に含み、俺はしばらく下を向いて考えた。それからルナを見つめ直した。ルナは、じっと俺を凝視している。
「ルナの言うことは、よくわかるよ。たしかにそんな考え方はあるよな。なにがなんでも俺達が過去の亡霊に囚われる必要はない。――でもルナ、俺には無理だよ」
ルナが、悲しい微笑みを浮かべた。
「『心が終わってる』からでしょ。沖縄で聞いたわ」
「……」
俺は、深く息を吐いた。
「理解してるつもりよ、思音の辛さ。でも私だって辛い。だからお願い。キスだけ。そう、キスだけして。あかねや陽菜、空のように」
「いや……それは……」
「私だけ仲間外れなんて、思音のほうが意地悪だわ。パーティーのリーダーなんだから、そのくらいの望みを叶えてくれてもいいじゃない」
涙がひと筋、ルナの頬をつたった。
「ルナ……」
「思音……」
近づいてくる。涙に濡れ、高ぶる感情を秘めた瞳は、とても魅力的だ。そして唇。柔らかそうでみずみずしく、俺を求めて濡れている……。
「ルナ……ルーナ……」
避けがたい激情が心の底から湧き出て、ふらふらと不器用に、ルナと唇を合わせた。ルナと俺の唇は、永遠とも思える一瞬、この世の神秘を共有した。頭がくらくらするほど。
そっと唇を離すと、ルナは俺の胸にそっと身を寄せた。俺はその体を優しく抱いてやる。ふたりしばらく、互いの鼓動と息遣いを感じていた。
「ああ……ああ、夢見てた、思音とこうして抱き合う日を。永遠につながるの。……あなたが邪悪な魂に滅ぼされる日まで」
「あっ!」
「……どうしたの、思音」
優しく囁くと、ルナは体を起こした。微笑みながら。
「う、腕が……あ、熱い」
「えっ」
ルナが俺の手を取る。左手は急速に変色を始めている。肌色から青黒い緑色へと。
「やだっ、またおかしくなってる。ちょっと見せて、ほらっ」
あわててハサミを取ると、俺のシャツを切り裂く。あらわになった俺の左腕は、この間よりはるかにひどい有様だった。水死体のように醜く膨れ上がり、皮膚はかさぶたのようにガサガサになっている。
「始まったのかしら」
ルナが腕をさすり始めた。
「痛い? 思音」
「くそっ。熱い……痛い」
あまりの痛みに、気が遠くなりそうだ。額に浮かんだ脂汗が、滝のように流れ落ちる。
「もがれた……ときより……痛い……くらいだ」
「そう……」
ルナは微笑んだ。
「でも大丈夫。安心して思音。きっとすぐ楽になるわ」
俺の腕を優しく撫で続けている。
「もうすぐ世界を統べる神が顕現するから」
「っ! ルナ……」
「ほら逃げないでじっとしててよ。平気だから」
「どうして……」
「あらあら、もう膝を着いちゃって……。情けないわね。これが創造主様を倒したパーティーのリーダーなのかしら」
ルナの顔に、嘲笑が浮かんだ。
「お前……いったい何者だ」




