日常6
狂っている。
俺の父は確かにどこか狂っている。
狂っていたのだ。
たとえ目に見える明確な狂乱でなくとも、そう、例えば隙間から染み出した雨水が、年月をかけてやがてバケツから溢れ出るほど溜まるように。
確かにどこか歪み出した歪みは、時間をかけて侵食し、彼の父親をゆっくりと飲み込みその頭角を現したのではないだろうか。
まるで抜け落ちたパズルのピースをはめるように。
俺は今ならそう素直に思うことが出来る。出来るが、その時は無理だった。
それに勿論そんな事微塵も思っていなかったものだから、祖母が、自分がいわゆる「常識」からかけ離れた言動をしたのに手を挙げなかった事に、酷く驚き、恐怖していた。
もしかしてもっと酷い罰を与えられるのか。
このまま首をねじ切られてしまうのか。
それとも殺されるのか。
これを見て「お前頭おかしいんじゃないか?仮にも実の祖母だろう」と笑うやつもいるだろう。
けれど考えても見ろ。
例えば、朝の散歩で会うだけの少女の行動が予測できるか?
答えはNOだ。
いや中には出来るなんて曲者もいるかもしれないが、それはカウントしないでおこう。
とにかく、俺にとってその時の祖母とはそういう対象であった。
散歩中に少しばかり会うだけの、名前も知らぬ少女と同義、故にその行動なんて絶対に予測不可能。
敵対心むき出しである。
人という生き物は生来仲間を欲する生き物である。どのような形であれ、独りを極端に嫌い、畏怖する。それは単に人としての種そのものの性か。
はたまた、人の漢字の由来から来るものなのか。
もしくは、ただ単に寂しさや、孤独を埋めるため?
あるいは、ただ群れることに個の価値を見出しているのか。
どうでもいい。
そんなこと、今はどうだっていい。
大切なのは、理由の如何に関わらず、人という生き物がその生涯を通して、少なからず自身が深く絡みつき、心身共に依存することができる相手を欲する、という点である。
例えば、夫が妻を、妻が夫を、親が子を、そして、人が人を。
多種多様な依存の定義の中で、最も強いものの一つが友愛だ。
人にはそれぞれ波長がある。
ほら、よく「波長が合う」とかって言うだろう?
聞いたことないか?
波長が合う者は基本的に価値観も似ている。考え方も、物事の見方も、どこかしら共通点が存在してるからこそ、互いに好感を持ち、互いに寄り添うことができるのである。
逆にいえば波長が合わないものはことごとく全てのものを分かち合うことが出来ない。故に好感を持つことが出来ず、結果的にそれらは全てまとめて「自分にとって敵である」と認識されてしまうのだ。
あるいは、「自分と混ざりあわない部外者」と割り切るか。
根本的にはこの二つのどちらかである。
そして、人間は好感をもって側にいる者には深い信頼を抱き、結果的にその人の行動パターンや言動まで予測できたりすることもある。
反対に、馴れ合えない人間は行動パターンも全く読めず、まさしく恐怖と警戒の対象になる。
俺にとってそれが祖母だ。
それは相手の事をよく知らないが為の情報搾取の欠如によるものが大きい。今更ながらに祖母のことをよく見ていなかったことを後悔した。俺は母と姉と妹以外の家族は敵視していたので、祖母のことをよく知らないでいたのだ。
実際祖父母の家に来るのは年に1回程度だったのだから、無理もないが。
我が家の構成は、祖父母がひと組ずつ、その内母方の祖父は既に他界。今対峙している目の前の祖母こそその未亡人にあたる。父方の祖父母は健在、父の性格そのままで、厳格で頭が固く、彼らもまた敵にあたる。
5人兄弟で、長女と長男は父の生き写しで、プライドの高い横柄な奴等だ。そして次女が俺の姉にあたる。彼女は性格は母譲りで、温厚で寛容、常に上の姉兄達の壁となって俺たちを守ってくれていた。本当に彼女には頭が上がらない。その下に俺がいて、末に妹がいる。彼女もまた母譲りのおだやかな性格の持ち主だ。
つまり家族とかほざきながら、実のところ俺の味方は酷く少数であったのが現状なのだ。