3話 『バケモノ』
重い頭。
痛いのか、痛くないのか。
それすらも分からない、ただ気分が悪い。
激しい頭痛に俺は目が覚め、小さな唸り声を上げた。
視界は真っ暗。
だがすぐ目の前に小さな光の筋が顔に当たっていた。
俺はもがくように体を動かし、
やっとの思いで明るい空間へと身を動かした。
長い夢を見ていたような感覚だ。
ボーッとした変に心地の良い状態で目にした光景は、
不自然なコンクリートの上だった。
コンクリートと言っても形にはなっていない状態で、
使い物にならないくらい粉々になり、山のように積まれてあった。
俺はその中にいたのだ。
不安定な足場の上、
運動神経がよろしくない俺は怪我をしないように慎重に地面に足をついた。
降りた先は、見たことのない森の中。
誰一人として人影がない。
あれ、俺は電車の中にいて、
事故⋯⋯、にあったはずだよな?
経験したこともないくらい激しく揺れた電車に、
何事も無かったとは思えない。
このコンクリートの瓦礫がその証拠、と言いたいが。
「怪我⋯⋯どこもしてねーよな」
痛いのは頭だけだった。
俺の体には傷一つ付いていない。
しかも瓦礫はあっても肝心の車体がない。
人っ子一人いねーし⋯⋯
俺だけ吹っ飛ばされた、とか?
いやいや。
んなら無傷なのがおかしいだろ。
考えても分からない疑問を、
完全に機能していない不完全な脳で考えながら、
俺は知らない森の中を適当に彷徨く。
ご丁寧に俺の鞄もない。
携帯くらいあったらGo○gleマップで位置確認すれば一発だったんだが。
「⋯⋯ん?」
ガサリ。
物音ない静かな森に、短い音が響く。
それは後方からした背の高い雑草が揺れた音だった。
その瞬間、
再び同じところが大きな音と共に大きな道を作った。
そこから出てきた人影は、脳の理解速度をはるかに超えて
強引に俺の腕を掴んだ。
「サッ⋯⋯、サキ!?」
俺の腕を掴んだのはサキだった。
電車内で会った時と同じく、彼女は荒い呼吸で汗を頰から滴らせた。
サキも同様、大きな怪我はしていなかった。
ただサキの白いワイシャツの袖が、赤く滲んでいた。
「⋯⋯おい、どうしたんだ?」
荒い呼吸のまま、
焦点のあっていない視線に不信感を抱いた俺が掛けようとした言葉だ。
その短い一言は、呼吸をするように途切れて消えた。
「逃げて!」
「は⋯⋯、っいだぁっ!?」
突然サキが掴んだ俺の腕を思い切り引っ張り、走り出す。
途端にさっきまで誰もいなかった静かな森の木が飛んだ。
頭に響く轟音。
その衝撃に俺の首が勢いよく曲がってはいけない方向に曲がる。そしてその先には、
信じられない何かがいた。
いや、生きていた。
「なんだよ、あれぇ!?」
「知るか! アンタもボーッとしないで走ってよ!」
ガシュ! バリィっ!! と聞いたこともない音を轟かせ、追ってくる何か。
軽々しく木々を折り突進するデカイ図体に、
暗い森の中でも見えるくらい光る赤い目。
この世のものとは思えないほど醜い姿をした獣は、
いかにもベタベタした唾液をボトボト落としながら俺たちを追いかける。
その速さはまるで、踏切前を通り過ぎる電車のよう。
横からではなく、踏切の中に入り真っ正面から受ける迫力だ。
生きれる気がしない迫力。
死の迫力。
今、もうすぐ死ぬだろう迫力。
そんな獣の迫力に今でも襲われないのは、すぐここに
それに匹敵する速さがあるからだった。
見る見るうちに早変わりする景色が物語っている。
俺の足はしばらく地面に付いていなかった。
地面に着く前にはまた高く飛んでいるからだ。
なのに俺を引っ張るサキの足は、
逞しく地面を蹴る。
「お前そんな運動神経よかったっけぇぇぇ!?」
「そんな、訳っ、ないでしょ! 口開く前にちゃんと走って、重いぃぃ!!」
「無茶言うな! って、危ねぇ!」
ブゥンッと顔の横に凄まじい風圧。
咄嗟に俯いたことが吉と出た。信じられないほどはっきりと鮮明に映った残像が恐怖をより一層煽る。
呼吸の余裕も与えないバケモノは、唸り声をあげ筋肉の筋が見える太い腕を振り下ろした。
「うわっ⋯⋯!」と反射運動のように漏れる俺の声よりも早い腕の動きに、
俺の目は瞬きを忘れる。
途端、再び目の前に茶色い煙と緑色の葉が舞った。
動体視力もいいのか。瞬時に横にずれ木を盾にしたサキが危機一髪で避けた。
しかし一本、二本の木は無いものと同じようで、
すぐにバケモノは飛び上がり跡形もなく切り刻む。
木の破片が銃弾のように飛び掛かる。
必死で体を右に左にさせ暴れる俺の体は奇跡的に銃弾に傷付けられることはなかった。
「っ、ゔぁ⋯⋯っ!」
ばきぃぃい。
この音と痛みで俺の脳が一気に覚めてしまった。
勢いよく突撃した木々に腰が垂直に叩きつけられた。
感じちゃいけない激痛。
痛過ぎて呼吸が止まった。涙も出ない。
ーー恐い。
容赦なく襲い掛かるバケモノに抵抗するようにサキは尋常じゃない速さで疾走。
サキの細い腕が俺の全体重を持ち上げる。
耐えられるのか?と冷や冷やするがガッシリとサキは俺を掴み走り続けた。
もちろんサキがこんなにも運動神経がいいわけがないのだ。
小学生の頃から水泳、徒競走、器械運動、球技など全てにおいて男子を凌ぐほどの運動神経の良さだが、彼女はまだ人間だ。人間をやめてはいないはずだ。
そんなわけがない。そんなわけはないのだが、
そうでもないとこの足の回転の速さを説明出来ない。
そして残念ながらまだ一分も経っていない。
その間でさっきまで電車に乗っていたただの高校生が呼吸を必死でしている。
そうだ。俺はただの高校生のはずだろ
意味分かんないんだよ、なんなんだよこれは。
なんでこんなことになった?
何故俺はサキにしがみついて、
何故サキは必死で走っている?
まずあんなバケモンが俺らを追いかけてんのが可笑しいんだよ!
なんで野放しになってんだよ、国は何をしてんだ!?
わかんねぇ⋯⋯、分かんねぇ⋯⋯。
「ミズキ!」
ーーここはどこなんだ。
「⋯⋯え?」
突然視界が大きく変わった。
俺の目が捉えたのはあのバケモノじゃなかった。
どこか安心をした。
ただの熊だ。
見慣れた熊が俺の腕を掴むサキの手を打ち付け、その衝撃で離れてしまった。
為すすべもなく、真っ逆さまに落ちた。
絶望に染まったサキの表情を直視しながら落下し、
ーーまただ。
「あ、っはぁ⋯⋯あ゛ぁ、あぁ⋯⋯」
バケモノの爆音で俺の体が折れた音さえ掻き消された。
再び腰骨を地面に打ち付け、
痛過ぎて感覚すらなくなった右腕を左手で触ると、ヌルッと嫌な感触がした。
ダメだ、動けねぇ。
こんなイタイの今までなかったんですけど⋯⋯。
筋肉のない俺の二の腕から伸びる硬い棒は、
腕を貫いたコンクリートの留め具だった。
⋯⋯なんで死なねーんだよ、俺は。
こんな痛いのに。痛過ぎて動けもしないのに。
「はぁっ、⋯⋯は、っぁあ! あ゛⋯⋯はぁ」
早く死なせろ。
ピクリ。閉じかけた瞼が震えた。
⋯⋯サキの悲鳴だ。
まだ近い。
あの後すぐに追いつかれてしまったんだ。
俺の目はまた静かに閉じた。
今度は眠るように。
痛みは⋯⋯、もう感じないかもしれない。
怖いんだ。怖くてしょうがないんだ。
もう痛いのは嫌なんだ。
⋯⋯サキ。
⋯⋯サキ。
動けねぇんだよ。動くと痛いんだ。
仮に動けたとしても、俺に何が出来んだよ?
ごめん、サキ。
俺は死ぬからさ。
⋯⋯サキは、
「ひっ⋯⋯! きゃぁぁあ!!」
真っ暗で寒い空間に再びサキの叫び声。
まだ叫んでいる。音がする。爆風が俺の体を揺する。
サキ! サキ!
「ざ、っ⋯⋯ざけんじゃねぇえぞぉ⋯⋯!!」
感覚を失った腕に再び激痛が走った。
躊躇なく俺が腕を引き上げたからだった。
ブチブチブチ!と引きちぎれる音とともに腕から噴水のように血が流れる。
ゴクンと口にたまった血を飲み込み、
ーー何故だろうか。俺は歩けていた。
「サキ⋯⋯!」
動けねぇじゃねぇ。痛いじゃねぇ。怖いじゃねぇ。死にたいじゃねぇ。
サキはまだ生きてんだ。俺が死んだら今度こそサキも死ぬ。
それはいけねぇんだ。サキは生かせろ。
犬死だけはするな。サキのほうが今恐いんだ!
俺は走った。
口から血を吐き、腕、腹から血を流しながら走った。
少し歩くと綺麗に木々が真っ二つに折れ、
真ん中に大きな道を作り出していた。バケモノが通った道だ。
そしてそのすぐ先に、グゥルルルと喉を鳴らし岩に近付いていくバケモノと熊。
サキが岩に凭れかかり頭から血を流していた。
目を瞑り、ピクリとも動かないサキは眠っているようだった。
嘘だろオイ、死んでないだろ⋯⋯?
「サキ!」とバケモノの存在を忘れ叫ぶと、目を覚まし顔を青ざめた。
彼女は眉毛を吊り上げ俺に向かって逃げろ!と怒鳴る。が、
たちまち俺を土煙が襲い、視界を眩ませた。
しかし何が起こったのかは当たり前のように予想がついた。
生々しい水音、土を纏った血の塊が宙を舞う。
地面に転がった目を瞑った血塗れのサキが森の奥へ風圧で吹き飛ばされた。
顔に血を塗った人間は初めてみた。
どうしようもない吐き気が胃、喉元を通り、
俺は無防備に腹を抱えて屈んでしまった。
気が付いた時には時すでに遅し。
咄嗟に避け大事は免れたが俺は軽々しく吹き飛んだ。
走ってきた道を引き返し、無残にボトッと落下した。
⋯⋯あれは、サキの、死体⋯⋯?
血に混じった嘔吐物が吐き出された。
歯が折れていた。歯軋りが出来ない。その間からダラダラと血が流れる。
ふはっ⋯⋯、ウケる。
あと少しで俺も大量出血で死ぬ。
サキを守れずに、俺も死んでしまうんだな。
「はぁっ⋯⋯! や、べぇっ⋯⋯」
あいつらの近づいてくる気配がした。死の直前なのか、五感がすべて敏感になっていた。
このままここで立ち止まっていれば確実に死ぬが、俺は必死で物陰目指して走った。
俺には立ち止まって死を待つ勇気すらなかった。
ザンザンザンと地面を抉って現れたのは熊だった。
大きな黒目、汚れた毛に生臭い唾液。
俺は走りながらも熊から目が離せない。
そしてガクンと、足をもつらせ物陰に隠れるように奇跡的に転んだ。
上手く熊を避けた。
そう思った途端に俺の真横から現れた本命の黒い未確認生物が、
目の前で熊を頭から喰らった。
首に噛みつき、左右に振られた瞬間熊の胴体が吹っ飛んだ。
ぶしゃあ、と切断部分から大量の黒い血
全身から鉄の匂いがした。
熊の血と俺の血が混ざり、酷い味だった。
ひいぃぃい、コケなかったら喰われてた!
バチリとバケモノと目が合った。
ヤツの狙いはもう俺だけだ。
熊じゃ満足していないのか。
怯えた顔をした俺をニヤリと口を曲げたバケモノの鋭い目が捉えた。
「⋯⋯っぶ、ねぇっ!」
急いで倒れた身体を起こして、
すでにどうしようもないくらいにボロボロになった腹を手で抑えながら逃げる。
連続で奇跡が起きた。いや、起きてしまっている。
死の直前、人は信じられない潜在能力を発揮するのだ。
人より強い生物がいないあの世界。平和ボケ、本能さえ忘れてしまっているのではないか。
それが今ここで表れている。
俺は今、人間としての本来の本能を貫き続けている。
息のつく間もない速さでバケモノは俺を狙うが、
俺は何度も何度も避け続けた。
俺はまだ生きている。
人間、そう簡単に死んじゃいねーんだ!
そうさ⋯⋯サキ!
無心で走り続けたその先は深い森の中。
サキが吹っ飛ばされた方向だ。
根拠なんか考えもしなかった。ただ、俺が生きてんだ。
サキが、死んでいるはずがねぇ。
「サキッ⋯⋯! っ、サキ!」
サキがいた。
髪が顔を覆っていたが目を瞑り血を流すサキが。
その隣に、
サキを喰おうとしているバケモノがもう一匹現れていた。
後ろからはずっと俺を狙うバケモノが凄まじい迫力を纏いながら近付いてきている。
身体が脳の命令を完全に無視をした。
バケモノに喰われる恐怖より、
サキが喰われる恐怖の方が勝ってしまったんだ。
背後から飛びかかってきたバケモノを器用に交わし、
俺はサキの元へ走った。
腹を抑える思考すら消えていた。
見えていたのは目を瞑るサキだけだった。
助かることなんて考えずに、俺はバケモノの足元を潜り抜け、
自分の身が彼女の盾になるように全身で、
「サキイイィイ!!」
ーー抱き締めた。
頭をかち割るような爆音に鼓膜が破れる音がした。
いや、⋯⋯それだけじゃない。
ブチブチブチッ!
違う、この音は。
抱き締めたサキの先に俺の視界が捉えたのは、
放物線を血で描いた、
二本の俺の脚。
下半身を襲うあまりの激痛。
今まで流さなかった涙が目を覆い、
ーー今度こそ俺の目が真っ暗になった。