10話 『働く、とは』
開店時。客はまばらだった。
店内の掃除や看板などに失敗はしなかった。ミラが俺を褒めるくらいに丁寧に拭いてやった。
俺はこれでも綺麗好きなんだ、いくらでも拭いてやるし掃除だってする。
最初に接客した客も良い人そうだ。
注文を聞くとき、また呼ばれたときに少しは緊張感はあったが、俺はちゃんと対応した。
笑顔も出来たつもりだ。客も俺に「新人さんかい? 頑張ってね」と笑っていた。
会計もどうにかなった。この世界の通貨はもちろん全く知らないものだったが、そうすぐに覚えられないものでもない。単純な計算なら得意だ。
今のところ失敗はなし。
これは、余裕、だな。
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開店から3分の1刻(1時間)。
「いらっしゃいませ〜」
ミラの声に乗り、俺もいらっしゃいませ、と声を上げた。
来店してきたのは子連れの親子だ。1組ではない、一気に4組が店に入ってきた。
席は完全に自由だ。客が好きな席に勝手に座る。
今日は昼間から酒を出さない日だ。だから子連れの母親の客が多い。普段は昼前のこの時間から酒を飲みにくるオヤジが席いっぱいに座っている。
子供の扱いに俺は残念ながら慣れていない。
適当に1人1人に挨拶をしているつもりで軽くお辞儀をして、席に着くのを見守っていた。
「新人ー?」
ある子供が俺の顔を見上げて声を掛けてきた。
「そ、そうだよー」と以前家庭科で習った子供の扱い方を必死で思い出しながら返事をすると、子供はニヤリと憎たらしい笑みを浮かべた。
途端に他の子供までもが集まってきた。
「新人だってよー」
「なんか弱そー」
「新人ー、いつものー。なんちて」
「オレンジジュース早く持ってきてぇ〜」
「⋯⋯ただいま」
新人だということをいいことに子供は図に乗り始めた。
全員小学校に上がったすぐくらいの年代だ。
⋯⋯俺が一番嫌いな年代でもある。
「じゃあ新人さん。私はこのパスタ願いするわ」
「このパンケーキセットと紅茶で」
「白身魚のムニエルとシムの実ジュースをお願いね」
「えっ、あ、はい。かしこまり、ました!」
ガキにオレンジジュースと、パスタとパンケーキ紅茶にムニエルとなんかのジュース⋯⋯だよな!?
俺はすぐにメモを取り、厨房にいるジェイデンに知らせに行く。
つかなんで酒場にパンケーキとかあんだよ、紅茶ってなに?
酒場というよりどう見ても喫茶店かなんかだと思うんだが。何料理を扱う店なんだここは。
「ミズキくん! そっちのテーブルお願いっ」
「えっ、わ⋯⋯分かった!」
さっきの子連れ客に続いて客が突然大幅に増えた。
ミラの言う通り店員を待つ客が俺の担当する前のテーブルに集まっていた。
まだ昼前なのになんでこんなに客が来ているんだ。
俺はすぐに他のテーブルへ注文を取りに行った。
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客足が異常に高い。
頭が混乱してきた。料理の見た目も名前も分からない。
まず体が1つじゃ足りないほど忙しい。
さっさと食べ終え、すぐに次の客が来店する。
「⋯⋯あの、コレ頼んでないんですけど」
「え⋯⋯?」
もう誰が何を頼んでいたのかも忘れてしまった。
何もかもが早すぎた。
客の顔が冷たい。俺を静かな目で眺めて、試しているかのようにすら見えてしまうのだ。
「えっと、あの⋯⋯な、なんでしたっけ」
「⋯⋯パマダのパイですけど」
パマダ⋯⋯パイ!? そんなのメモに書いてないっ⋯⋯!
ーー聞き、逃したのか?
「す、すぐにっ!」
まずい、失敗した!
めっちゃお客さん怒ってた⋯⋯!
思い出せば確認すらしてなかった、お客さんの注文をもう一度聞くこともしなかった。
早く他の客の注文聞かないとと焦って、いつの間にか雑に対応してしまっていたんだ。
心臓が五月蝿く鳴る。汗が垂れ、拳を強く握っていた。
「誰、あの子? 謝りもしなかったわよ」
「新しい人でしょ」
後ろからさっきの客の声が聞こえてしまった。
こんなにもいろんな声や音が行き交っている空間で、その客の声だけが鮮明に聞こえてしまったんだ。
すぐにジェイデンに報告して、先ほどの客に今度こそ注文通りの料理を出した。
客は「ありがとう」と言ったが、目は笑っていなかった。静かな、感情のない声だった。
俺は頭を下げ、他のテーブルへ注文を受けに行った。
その後はもう、俺の集中力は完全に切れた。
また俺は失敗する。それでまた集中が切れる。悪循環だ。
注文を聞き逃し、皿を落とし、料理を落とす。
「あっ⋯⋯、すみません⋯⋯っ!」
料理を運ぶ上で、通路に盛大に落下させた。
散らばった料理を素手で広い、割れた皿に乗っけて片付けようとしか思わなかった。
客の顔すら見ず、一心不乱に清潔を保たないといけない店員が素手で乱雑に拾い上げる。
こんな店員、俺は見たことがない。
「大変申し訳ありません、お怪我はないですか?」
ミラが駆けつけ、客に頭を下げた。
ここはいいから。そう言われ、俺はそこでやっと客に謝った。
もうダメだった。
全部の行動が遅くなり、声までも小さくなる。
「分からなかったら聞いてって言ったでしょ!?」
ミラが怒るのは当然だ。
いつもは優しくて話しやすいミラが、見たこともないくらいに鋭い目を俺に向けたのだ。
「もっとでけぇ声出せ、聞こえない!」
ミラだけじゃない。ジェイデンもだ。
すぐに俺は会計をするだけになり、時間が経つにつれ出番もなくなっていった。
ミラ1人でもこの店を回すことが出来てしまっていたのだ。
「ごめん、休憩入って」
店に出てたった1刻。3時間だ。
冷たい声でミラに言われ、俺はついに店を出た。
「⋯⋯くそ」
ボフンと家のソファに腰掛け、頭を抱えた。
歯軋りが誰もいない所で寂しく響く。
自分は何もしなかった。何も出来なかった。
己へ向けられた嫌悪感が自分を潰そうとしていた。
俺は邪魔をしただけだ。
ミラはほとんど毎日あれを1人でこなしているのだ。あんなに混雑した店内を作ったのは俺のせいだ。俺の行動が遅いから。俺がもっと周りを見ていたら。もっと『努力』していたら。
「情けないな俺って⋯⋯」
どこにいても俺は変わんないじゃないか。
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「ジェイデン⋯⋯?」
しばらくしたあと、俺は厨房へ来ていた。
一度たりとも手を休めず、凄い速さで次々と料理を作っていた。
実を言うと厨房に入ってすぐに俺はジェイデンに声をかけられなかった。
忙しそうな背中、横顔。
罵声を上げられたことへの恐怖に慄き、声を出すことさえ難しかったからだ。
俺が名前を呼ぶと、ジェイデンは驚いた顔をした。
「あの、洗い物、やっていいですか?」
1人のはずなのにジェイデンは皿まで洗い、料理までも作り上げていた。
もちろん、俺がやる必要もないが⋯⋯
「ああ、頼むよ。休憩中じゃないのか?」
流しに近付き、洗剤をつけたスポンジを握って皿を洗い始める。
俺はジェイデンの顔を見ずに、答えた。
「⋯⋯なんもしてねーから⋯⋯」
ジェイデンは何も言わなかった。
その日、結局最後まで洗い物だけをやり、閉店を迎えた。
その後、改めてミラに迷惑をかけたことを謝り、店内の掃除を熱心にやった。
何も出来なかったからせめて、という意味ではない。
もうただの八つ当たりのように掃除をしていた。自分の不甲斐なさを紛らわせるためにただただ手を動かした。
ジェイデンはミラを怒っていた。
「お前の教え方が悪い。自分が良ければ彼はいいと言うのか」
仕事の流れさえ教えていないのに誰が出来るというのか。隣の部屋から聞こえてくるジェイデンの声に、俺の背中が震えた。
ミラは俺に謝りに来た。
「ごめんなさい、ミズキくん。⋯⋯本当にごめんね、明日はもっと丁寧に教えるわ」
彼女は何度も何度も「ごめんね」と言って頭を下げた。
なんで謝るんだ。俺の方がもっと謝らないといけないのに。
「⋯⋯ごめんなさい」
俺にはもう、腹をたてるほどの力が残っていなかった。
今にも消えそうな声で、俺はミラにもう一度謝った。
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次の日。
店に出る前、制服に着替える時。
なかなか袖を通らなかった、しばらく無言で抵抗していた。
「行きたくねーな⋯⋯」
すでにバックレさえ考えていたくらいだ。だが俺にバックレる度胸さえない。
気持ちや覚悟が出来ていないまま時間が来てしまい、俺は着替えた。
ミラはもう一度俺に仕事内容を最初から教え、今度はなるべくフォローに入れるように努力するわ、と言ってくれた。
開店からすでに2刻の時間が経った。昼過ぎ、お客さんの数は昨日より少ない。
失敗はしたくない。出来る限り注意をして、周りを見るようにした。
客の数が少ないおかげだ、ゆっくりとした動きでもお客さんを待たせることはなかった。
店を出る前、会計を中心にやっていたのは接客が怖くなったからだった。
そうしていてもミラが何も言わなかったから、俺は彼女に甘えていたんだ。
今度こそは、と思い食べ終えた皿を取りに俺はテーブルへ言った。
ミラに教わった通り、お客さんに聞こえる声で皿を持っていってもいいか聞いた。
「お願いします」と笑顔を向けられた。
緊張が表に出ないように必死に腕に集中して、無事終えた。
皿を重ねてくださったお客さんに「ありがとうございます」とお礼が言えた。
お客さんに話しかけることさえ昨日は怖かったが、今日は出来たようだ。
「大丈夫、ミズキくん出来てるよ」
ミラは優しく俺を褒めた。
仕事になるとミラもジェイデンも本気度が違うのだろう。人が変わったようになるが、当たり前なのだ。
俺はただ小さく頷くだけだった。
「ミズキくん」
皿を厨房に持って行き、客の姿が減りただ立っている時間が増えた時、ミラが俺に話しかけてきた。
ゆっくり振り向くと、彼女は苦笑していた。
「⋯⋯ミズキくん、一度戻って鏡で自分の顔見てみて? それからまた戻って来てきてくれる?」
「⋯⋯顔?」
俺は言われた通り、一度戻り鏡を覗いた。
鏡は全身を写す大きなものだ、俺の姿がそのとおりに写し出されていた。
思わず自分を見て笑ってしまった。
なんたって、これ以上ないくらいにひどい顔をしていたからだ。
鏡に写った笑顔でさえ、不自然なのだ。
「どうした俺⋯⋯、まだ2日目だぞ」
うっすらと隈が目の下にあった。白い電気に晒されるとはっきりと見えてしまう。
店内が白い電球だったらお客さんまでいい気分にはならないな。
働くって、こんなキツイのか。
軽い気持ちでバイトしたいなんて思うんじゃなかった。俺みたいな奴は特にだ。
顔を洗い、パンと頰を叩いた。
軽い痛みじゃダメな気がした。もう一度強く叩いた。
笑顔の練習をする。数分、ずっと鏡の前で立っていた。
店に再び入ったとき、ミラを見る。
全く疲れた様子を見せず、好感の持てる笑顔で接客をこなしていた。
⋯⋯なんであんなにうまく出来ているんだろうか。
お客さんと仲が良さそうに話している様を見てしまうと、俺が小さく見えてしょうがない。
経験の差だ、と言われればそれまでだが。やはり出来ないよりは出来ていた方がいいに決まっている。
カランカラーン。
扉に取り付けられたベルが鳴った。
お客さんが来た合図だ。俺はすぐに出入り口へ急いだ。
「おーミズキ!」
「あ⋯⋯いらっしゃいませ」
来店したのは久しぶりに見た顔見知りだった。
グラン、エミリアとサキだ。
彼らは俺を通り過ぎ、空席に座った。
ミラもいらっしゃいませと言うと、俺に「お願いね」と手を合わせた。
たぶん剣術の練習の帰りだ。
なぜグランもいるのかは謎だが、サキが興奮しているのを見ればすぐに分かった。
すぐに水を3つ出すと、彼らはすぐに料理の注文を終える。
軽食だ、俺はメモに取りその場を離れようとする。
「どうだミズキ。大丈夫か〜? 昨日行こうとしたんだけど人いっぱいだったからさー」
エミリアが引き止めた。
俺は精一杯の笑顔を作って「そうだなー」と返事をする。
さっきの鏡でみた自分の表情がどんなにひどいか知っているからだ。
これ以上あの顔で接客はいけない。
いつも通り、この3人と接する平然を乱さないように慎重に。
「ど、どうしたサキ。変な顔して」
サキが俺の顔を直視、何も言わずにただ見上げていた。
彼女は「いや⋯⋯」と答えたが、エミリアが「なんだよー」と言わせようとしたためにサキは口を開いた。
「やっぱり忙しい? すごい疲れてるように見⋯⋯」
「はぁ? 別に疲れてねーよっ」
サキの言葉を咄嗟に塞いだ。
「疲れてないよ。ミラもジェイデンも助けてくれてるし。
ほら、そろそろ厨房行かないと。料理遅くなるの嫌だろ? じゃあまた⋯⋯」
ほとんど逃げるようにその場を去る状況を作り出し、俺はテーブルを離れる。
ジェイデンに料理を伝え、頼まれたドリンクを作る作業を始めた。
「あんな簡単に気付かれんじゃダメだろうが、俺⋯⋯」
赤い実をミキサーにかけ、俺は小さく呟いた。
もちろん、誰にも聞こえないように。