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10-11

 10


「一体何をしにきた、破隠」

 白王は忌々しげに吐き捨てた。その光景でさえ、仁は気を張っていなければ見る事は出来なかった。いや、もはや気を張る事さえ限界だ。意識の手綱は今にも手からすり抜けていきそうで、もし一度でも手を離せば、二度と掴めないように思えた。


「お前は荷運びに回されたはずだろ。コロンビアへの搬入はどうした」

「まあ、そう質問責めにするなよ。俺は飛行機乗り継いでつい五時間前にこっちに着いたんだ。まったく、ケチくさい商人どもの真似事は疲れるぜ」

 機械音声めいた言葉が、徐々に近付いてきていた。破隠の大きな影が仁の上に落ちた。

「おい! 何している」


「何をもクソもねえ。神の子候補だ。くたばらないようにしないとな」

 ぱきん、と小さな音が聞こえた。意識はすでに飛ぶ寸前だ。

「おい待て。お前、それは……」

「がたがた抜かすなよ、小僧。ライムントはこいつが当たりだと踏んでいる。死なれて困るのはお前じゃねえのか?」

 顎が掴まれ、無理矢理上体を起こされる。だが、体に力が入らない。抵抗は出来なかった。


「さあ、まずは一杯やれよ。気分がすっきりするだろうさ」

 破隠が囁くように言った。唇に何かが当てられる。生温い液体が乾いた口を濡らした。動けなかった。液体は少量で、すぐさま仁の喉へと流れていった。

 ――何も感じない。意識は遠くなっていく一方だ。

 ――もう、駄目だ……。手足の感覚さえない。血を、流し過ぎた。


「……モンストロが効かない?」

「いや、そんなはずはねえ。前にもこのくらいのガキに試した事がある。回りが遅いのか……」

 破隠達が何かを言っているが、あまりよく聞き取れない。

「効かなきゃこの小僧は助からねえ。ちょっとした運試しだな」

 男がそう言った時、仁の意識はすでにそこになかった。



 機械の音がする。

 がん、がんと何かを打ちつけるような音だ。規則的に鳴っている。その音を認識した瞬間、仁は唐突に暑さを感じだ。そこら中から熱気を感じる。体の周りを炎で囲まれているような。

 目が(ひら)けた。


 炎が噴き出していた。足元には網目のような亜鉛メッキ質の板で足場が組まれ、その下でマグマがうねっていた。火山だ。巨大な火口だ。そこに足場が組まれ、どういう仕組みか機械が宙吊りにされ、そこかしこで作動している。まるで浮遊する工場だ。

 真っ赤なマグマの熱が、仁の頬に照り付ける。

 あれこそ、この星の血だ。地殻という皮膚の下で通う、真っ赤な血だ。いくつかの層に覆われたその最深部には、この星の心臓が脈を打っている。金属核。血を纏う心臓。


 ――……ヒトハ


 誰!? 仁は言った。しかし、自分の声は聞こえなかった。誰かの声がした。ひどくたどたどしい声が。

 ――……キズツケタ キズグチヲ フサイデシマウ モウ イヤセナイ カタチニ

 声は弱々しい。片言で、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうだ。だが機械の駆動音が止まない。一定のリズムで響き続けている。

 ――……チハ ナガレツヅケテイル ダガ キズハ モウ イヤセナイ


 がん、がん、かん、がん。かん、かん、がん、かん。

 ――……ワガコガ ウエルナラバ ミタス ダガ ワガコハ ヒトリデハ ナイ

 熱気が増している。さっきまで感じていた痛みはない。だが、心が、この声に捉われてしまっている。

 ――……コヨ キケ ワガコトバヲ ワガ イシヲ

 工場の音はどこまでも続く。仁は声を聞いた。全身の血が熱を持っている。背中の翅が一人でに羽ばたいている。声が聞こえる。仁はそれに耳を傾ける――……


 明槻仁は気を失ったままだった。血は止まっているように見えるが、傷口が治癒する様子はない。

 死ぬのか、と白王は思った。それならそれでいい。ライムントは当たりだと踏んでいたようだが、根拠はないのだ。候補はあくまで候補。明確に神の子だと断定されたわけではない。

「余裕そうだな」

 機械音混じりの不快な声で、破隠が言った。いらつく事ばかりだ。ライムントは何故、よりにもよってこの男をお目付け役に選んだのだろう。


「このままこいつが死ねば、貴重な神の子が一人消えるっていうのに」

 口ではそう言うものの、破隠に別段惜しむ様子はない。どうだっていいのだろう。この男は所詮、破壊活動にしか興味がないのだ。

「候補だ。そうと決まったわけじゃない。こいつ程度の変異型なら探せばいくらでもいるさ。それより、お前だ」

 右手を挙げて、白王は緑電を放出する。すぐさま電流は形となり、傍らに電影獣が現れる。


 空気が、一瞬緊張する。

「おいおい。一体何の真似だ」

 おどけたように――とはいえ、蛾の頭部と口元を覆ったマスクのおかげで表情はわからないが――破隠は大袈裟に肩をすくめるような真似をした。

「惚けるな。お前はモンストロに近付かない取り決めのはずだぞ。一ミリグラムたりとも所持は許されないはずだ。どこから盗み出した」


 あるいは誰かからせしめたか。結社はこいつがモンストロに関わる事を禁じているが、こいつの部下には何人かモンストロを使った者がいる。そいつらが自発的に与えたとも考えられる。何せ、こいつらは正式な結社の一員ではない。世間の目を結社から逸らしておくために契約した連中だ。その気になれば取り決めなど簡単に無視するだろう。

テロリストはテロリストだ。白王にしてみれば暴徒と一緒だ。つまるところ、自分達の目的しか見えていない。自分達の欲求、快楽を優先する短絡的な生物。自分達が所詮は結社の犬である事を自覚していない。飼い主の恐ろしさも理解出来ない。


「取り決めを破ればお前は処刑だと伝えたはずだ。忘れたのか?」

「ほんの少し借りただけだぜ。しかも、お前の立場を守るために使ってやった。むしろ感謝して欲しいくらいなんだがな」

「黙れ。虫に同情される謂れはない」

 憎悪が胸の裡で膨れ上がる。電影獣が感応したかのように唸り声を出す。


「何でもいいが、まさかその虎で俺を殺る気だとは言わないよな?」

「お前如き、こいつ一匹で十分だ」

 破隠は大袈裟な素振りで、呆れたように肩をすくめた。

「迫力不足だ。所詮は造り物だ。俺は昔、人食い虎を見た事があるが、実に立派だった。こんな子猫じゃない」

「そいつに引導を渡してもらえばよかったのにな」


 電影獣が低く身構える。場の空気が変容している。本物のように喉や首を狙わずとも良い。爪が触れれば、それで終わりだ。

「ああ、そうだな」

 破隠は全く変わらない態度で答えた。その手には、先ほど硬貨を吹き飛ばした拳銃が握られている。

 ――コールタールのような殺気が迸る――

「旨かったよ」


「電影獣!」

 白王は叫んだ。同時に破隠の銃が動いた。黒い気配が一気に溢れ出た。一触即発だった。身構えていた電影獣は主の声に跳んだ――背後へと。

 電流で出来た電影獣の緑電爪が、容赦なく標的に走る。聞き苦しい叫び声がまたもロビーに響き渡る。

 白王は振り返り、自分を背後から狙った者の腹を踏み抜く。


「驚いた。まだ生きていたとはね、スガロ」

 足元で鰐が呻いた。破隠が銃を下す気配がした。

「何だ、気付いてやがったのか」

「当たり前だ」

 鰐の腹を蹴り飛ばす。弱り切った鰐がまた呻いた。


「言ったはずだ、スガロ。お前は超越からは程遠い。ストーンを使って獣人態がせいぜいとは。我々が求める超人ではない」

 鰐が、尻尾を揺らした。電影獣が傍へ寄る。

 殺す価値もない男だ。最初に出会った時からそうだった。元々はどこにでもいるような普通の男だった。空手が得意だったが、同門と言い争いになった時に怒りに任せて相手を殺した。それも空手の技じゃない。どこぞで手に入れた粗末な銃で撃ち殺したのだ。行き場を失ったこの男を、結社の下っ端が実験用にと言って連れて来た。白王がじきじきに品定めしたからよく覚えている。


 屑だ。こいつは。生まれつきの頑健さと暴力性でのさばる屑。ほんの少しだけ他人より優位であっただけで、自分が特別だと勘違いした男。なまじストーンの実験で生き延びたから始末に負えない。

 目が気に入らなかった。卑屈さと傲慢さを隠しもしない目。力ある者、力を振りかざして生きてきた者の目。あの村に生きていた屑どもと同じ。


 ――気味の悪いガキだ。虎の子なんて、いつ俺達を襲うかわからないだろう?

 ――殺せばいい。こいつも、こいつを生んだ親も、こいつを育てた家族も同罪だ。

 ――……おい。何睨んでるんだ、お前。

 ――いいか、もう一度教えてやる。お前に、生きる価値なんてないんだよ。


「殺してやるよ」

 思考を無理矢理に引き戻す。過去を拭い去れない。弱かった幼い頃を。まだ王ではなかったあの頃を。

「殺してやるんだ。お前に、生きてる価値なんてない」

 知らず、手袋の先に備えた鋼鉄の爪を、スガロの喉元に当てていた。

「ヴぉれ、は……」


 スガロが、消え入るような声で何か言った。捌かなければ。この手で。この醜い男の喉元を。

「……ヴぉれは……オウ、にナる。オウになっテ、このセカイを――」

 ――なら、僕は王になってやる。この先何千と生まれる、超人どもの王に――

「馬鹿言うな」

 右手を引いた。鰐の喉元が深々と抉られた。一筋の赤い線から血がスプリンクラーのように噴出した。たちまち手や顔が朱に染まっていく。不快感はあった。だが、目障りだったものを始末したという肩の荷が下りたような感覚があった。


「……イク……シー……ド」

 喉を裂いても口は動くようだ。最後にそれだけを言って、スガロは沈黙した。

 いや、完全に事切れたのだろう。

「ひどいナリだな」

 破隠が言った。


「返り血を浴びるなんて何年振りだ? ()地下(チカ)じゃ珍しくなかっただろうがな。アンダーグラウンドチルドレンなら――」

「黙れ、虫野郎」

 白王は言った。破隠の表情はわからない。マスクと、蛾の頭部とに隠されて。だが、その心はわかる。嘲笑しているのだ。よりにもよって、この白王を。


「僕は光の下に出た。トチカも阿片窟も関係ない」

 破隠の目が嗤っていた。

 ばちり、という音がしたのは、その時だった。

「……あ?」

 振り返る。そこに転がっているのは鰐の死体だ。死体でしかないはずだ。だが……。


 ばちり。

 また聞こえた。緑電が走るのがはっきりと見えた。

 ばちり。鰐とも人ともつかなくなったスガロの足の、太腿に当たる部分が膨らんでいた。奇妙なほど大きく。今にも破裂せんばかりに。

 何かを言うより早く体が動いた。放緑電。太い稲妻が白王めがけて走った。火花が散った。跳んで躱したから、神の子に当たったかもしれない。どうでもいい。


「生きてやがる」

 破隠が言った。

「こいつは面白い」

 黙っていろと言いたかったが、その前にまたも太い電撃が飛んだ。

 朦々とした煙の中で緑電が光り、弾け、さながら雷雲のように立ち込めている。


 その中で、影が動いていた。およそ考えられないスピードで、次第に大きくなっていく影。

「ヴぉれ……は……」

 床が割れた。凍ったガラスのように。巨大化していく影の重みに耐えられずに。

「オウ、に……なる」

 鰐人。いや、もはやそれは人ではない。鰐ですらない。フロア一帯を自身の体で埋め尽くすほどに成長した怪物。


 黒々と光る鎧めいた鱗。重々しくうねる大蛇の如き尾。巨大化は止まらない。ヒビは一気に柱へと広がり、上から天井の破片が落ちてくる。フロアどころか建物自体が、急激に増えた重量に耐え切れなくなっている。

 影が揺らいだ。巨身がぐらりと倒れてくる。爆音めいた衝撃音とともに倒れ込んだ怪物は、舞い起こった埃を咆哮で蹴散らした。


 黒々とした表皮は水に濡れたように光沢があった。発達した四肢やその全身は小山ほどもあり、前肢、後肢の肘や背中にかけては棘状の突起が生え、口元にのぞくびっしりと生えた鋭い歯には常に緑電が迸っている。

 竜――四足で這う翼のない竜。認めたくはないが、まさにそのままだ。人喰い鰐が竜となったのだ。

 黄色い目玉が白王を睨んでいる。荒い呼吸だけを繰り返すその口は、もはや人語を話す事はないように思われた。

 気配を窺う。破隠はすでにいない。神の子候補を連れて逃げた。


 まあ、いい。こいつを片付けて追えばいいだけの事。

「少しだけ見直したよ、チンピラ」

 すでに言葉は通じないであろう怪物に向けて、白王は言ってやる。

「ここに来て超獣態に成るとはね。認めてやる、お前は超越を成し遂げた」

 電影獣を消し、緑電を自分へと還元する。もはや、使役するだけの獣では勝てない。


 本気で。そう、少しばかり本気で、相手をしなくてはならない。

 緑電を全身に走らせる。オーブを所有する自分にとって、緑電は尽きぬ泉だ。その真価は電撃による攻撃ではなく、肉体操作による飛躍的な身体能力強化にある。

怪物の口が動いた。口の奥で雷が蠢いていた。エメラルドグリーンに輝く雷が。比の付いた導火線の如き放電音が弾ける。超獣態となった者が為し得る超電量緑電放出――プラズマブレス。


実際に受けるのはこれが初めて。

構えを、取る。

「そのストーン、僕自らが回収してやる。王たらんと思うなら、少しは足掻いて見せるがいい」

 緑電が漲る。白王が言ったその瞬間、巨大な柱となった怪竜の雷撃がフロア中を光で覆い尽くした。



      11


 地中に引き摺り込まれた瞬間、咄嗟に腕を交差して顔を覆った。目、鼻、口、耳。出来るだけ灰の侵入を防ぐ。

 足に食い付かれている。灰の中でわかったのはそれだけだ。振りほどこうとするが、身動きが取れない。地中の中に潜む巨大な〝虫〟は決して叉反を放さない。喰らおうとしている。

 ――まずい!!

 だが体はどうしようもなかった。押し退けようにも灰が重過ぎる。〝虫〟の力は強く、その速度は早い――駄目だ、打つ手がない!


 視線を感じた。奇妙な事だが、今、こうして喰われそうになっているこの瞬間、叉反の意識は全く違う次元へ向けられる。

『――虫けら如きに何をしている?』

 あいつの声がした。ついさっき顔を合わせた怪物。蝙蝠の翼、蠍の尾、人の顔をした獅子。

『俺達の体はそんなもんじゃない。こんな息苦しいところにいつまでも捕まっているな。そら、お前に出来ないのなら、俺が代わってやる』 


 口を挟む暇もなかった。体の底から力が溢れてくる。全身の筋肉が撓み、傍聴したかのように瞬間発達する。

 ――赤い星が燃え盛る。獣の心を感じた――

「グルアァァ……」

 口の中で獣の声が漏れる。次の瞬間、自分の意志とは裏腹にとてつもない力が働いて、叉反は掴まれていた足を蹴り上げた。体は止まらない。自分では考えられもしなかった力で灰を蹴散らし、一気に地上へと飛び出す。


 ――さ、が……れ

 辛うじてそれだけを思う。だが、もはや叉反の体は叉反の意志を反映していない。五本の指が骨から変形し、肉食獣めいた禍々しさを備え、上腕は膨れ上がって姿勢は自然、前傾となる。

 犬歯は自分でもそれとわかるほど急速に伸びて、唇に牙の先端が触れた。

 衝動が体を突き動かそうとする。獣の衝動。本能のままに敵対者を仕留めたいと思う衝動。その蠱惑的なまでの衝動に呑み込まれないように、必死に叉反は自らの意識にしがみつく。


 叉反の葛藤をよそに灰を掻き分けて、大きな影が地中から姿を現す。

 消えそうな意識の中でも分析は出来た。昆虫だ。赤に近い茶の体色。突起のある特徴的な前脚はさながら土を破砕する馬鍬の刃先だ。昆虫の名はケラ。土中に潜む虫。

「……どういう事だ?」

 そのケラが喋った。発声は明瞭だった。子供の声だ。


「蠍のフュージョナーじゃないのか? あんた」

 同時にばちりという音がした。放電音とともに、たちまち緑光が巨虫の体を覆い、激しい稲光を放ちながら収束していく。

 光が収まると、少年が立っていた。仁くらいの、少年。両腕の皮膚は甲虫めいていて、人間の腕の形状でありながら、その側面からはケラの前脚が、まるで鎧のような硬質さを備えて生えていた。


「まあいい。何であれ獲物は獲物だ。殺してから他の奴に調べてもらおう」

 言うが早いか、少年は跳んだ。突風のように一直線に。

『ほう、来たか。どれ、俺が遊んでや――』

「――ッ、下がっていろ!!」

 内部の怪物が精神に顔を出したその瞬間、叉反は全力でそれに掴みかかった。精神の中での、力の戦いだった。鬣を掴み、引き摺り戻す。不思議と抵抗はなかった。ただ奴の笑みが見えた気がした。


 構っている暇はない。瞬時に視界がクリアになった。変化していた体が一気に元へと戻る。少年の顔に戸惑いが生じた。すかさず掌打を打った。突撃に合わせた顔面の狙いの打撃。

 戸惑ってなお、少年の反応は見事だった。叉反の攻撃を瞬時に躱し、刃の腕を振るってくる。ぎらりと光る鍬状の刃にバラ手裏拳の左で応じる。ぶつけるのではない。相手の肩を打って止め、間を置かず右の掌打。空中でありながら、少年は体勢を変えた。身を引きながら足を蹴り上げて叉反の右腕を攻撃し、そのまま宙返りして着地する。


 血が一気に湧いて出て来た。コートの裂け目が赤に染まる。アドレナリンが痛みを鈍くさせているが、傷は深い。致命傷ではないが、想定外の痛手だ。

 恐ろしい使い手だ。今の蹴りで、危うく右腕が死にかけた。構えを取る。思わず拳を握ってしまう。油断すれば、よもや……。

 着地した少年はそれを見て、素早く身に着けたマントの中に己の両腕を隠した。足元まですっぽり隠した灰色のマントに。


「何で戻るんだよ。あっちのほうが断然強そうだったのに」

 不満そうな顔で、少年は言った。あっち、というのは意識が呑まれかけていた時に起きた形態変化の事か。

「……子供と戦うつもりはない。お前が退くなら俺は追わない」

 いや、無駄な言葉だ。わかってはいる。態度は子供じみていても、あの眼は尋常の者のそれではない。

 案の定、冷め切った目つきで少年は笑った。


「はっ。大人は皆そう言うんだよね。オレみたいな子供には殺されないと思っている。いい気なもんだよ」

 少年の目が殺気でぎらついた。まるでそれに呼応するかのように、右腕の傷口が塞がっていくのがわかった。急速回復。それも速度はこれまでの比ではない。ここへ来てからはこれで二度目か。語りかけてくる怪物。制御出来ない肉体の変化。輝く、赤い星。

――俺の体に何をした?


「何をぼーっとしてるんだ」

 灰色の影が動いた。背後だ。殺意がすぐそばに迫る。足場が悪い。灰が積もった地は踏ん張りが利かない。判断は一瞬、素早く前に転がる。刃が空を切る。だが止まりはしない。起き上がりながら振り向けば二撃目が迫っている。右の掌打。少年は躱す。同時に相手の三撃目。視界に相手の姿をはっきり捉えた。左袖。右腕。掴み取ると同時に組み伏せた。


 灰の中に少年の体が沈み込む。抱きかかえるようにして右腕の動きを封じ、左腕を喉に当てながら裏から回した腕で頭部と左腕をロック。

「ぐうぅ……!」

 苦悶の声。今は届かない。このまま無力化する。あとは、締め落とすのみ―――――――――――――――――――――――――ばちり。

「ッ!」

「煙草臭えんだよ、オッサン!」


 咄嗟に組技を外せない。腕の中で放電とともに相手の体が膨れ上がるのがわかった。直後、両腕に刃が走る。血が噴出したその時には少年はすでに解き放たれ、鋸めいた刃が叉反の体を瞬く間に切り刻んだ。

 視界も、我が身も、真っ赤に染まった。動く事は不可能だった。血を流したまま、体は地面へと崩れ落ちる。

 地に伏した。出血は続いている。一度にあまりにも多くの血を流した。駄目だ。立てない。立たなければ。このままでは。


『――手を貸すか?』

 怪物が嘲笑う。何かが心の奥で灯った。

 黙っていろ――!

「あーもう、手間かけさせてくれんじゃん」

 少年の声が聞こえた。幼さが際立つ声が。


 集中する。出来る事はまだある。やれるかどうかはわからないが、やるしかない。

 少年が近付いてくるのがわかる。

「そのわりにまだ息があるし。決めた、お前はいたぶって殺してやる。相手がオッサンっていうのは色気ないけど、そのぶん、たくさん刻んでやるから」


「下らない真似はやめろ、ゴクク」


 新たな声がした。やはり子供の声だ。年端もいかぬ少女の声。

 とす、という微かな音がした。誰かがこの場に着地したのだ。

「トウリン。何でここに」

 少年――ゴククが驚いたような声を上げた。

「兄さんに言われた。お前が遊ばないように釘を刺せと」


「ははは。トウカツも疑り深いな。遊んでるかどうか見てみろよ、今から探偵の首を刎ねるところだ」

「いたぶって殺すとはっきり聞いた。兄さんに言いつけてやる」

 新手だ。厄介な事になった。

だが――……

「その探偵を甘く見るな。仮にも嵐場を倒した男だ。殺すのならさっさと殺せ」


「ふん。ストーンも持ってなかった奴に勝ったからって何だってんだよ。所詮、オレの敵じゃない」

「なら、さっさとやれ」

 あくまでもぶっきらぼうな少女の言葉。ゴククは鼻を鳴らした。再びその足が近づいてくる。

 ぎりぎりまで引き寄せる。そう、あと二歩。一歩……。

 首筋に刃が当てられた。少年の足が見えた。


「あばよ、探偵」

 ――刹那――

 暗器のように構えた尾。唯一の武器を、筋肉を駆使して突撃させる。鋭く伸びた毒の針。フュージョナーたる叉反の隠し槍が、一直線にゴククを貫き――

「馬鹿が」


 少年が体勢を変えた。毒針は的を外した。

 その一瞬が狙いだった。

「なにッ!?」

 間髪入れずマントごと少年の足を掴み取る。動揺が文字通り手に取るようにわかった。加減をする余裕はない。掴みざま立ち上がり投げ飛ばす。その一連の流れの中で、第三の影が動いていた。少女。トウリン。やはりフュージョナーだ。緑電発光。この灰色の場では派手すぎるスパニッシュローズの鎌が襲い掛かってくる。ハナカマキリの双鎌。尋常なフュージョナーではない。鎌は金属のように滑らかに硬質化している。ゴククと同じく、触れれば切り裂く。


 風を裂く二本の鎌を、叉反は跳んで躱した。身はすでに軽い。血は失われたが、傷口は塞がっている。

「貴様……自分の意志で再生を!」

 トウリンが叫んだ。ご明察だ。傷口を塞がなければ動けない。だから、自らの意志で塞いだ。それさえ出来れば、あとは流れのままにだ。

 距離を取って、構えを取る。全身が発熱しているかのように熱い。心臓が早鐘を打っている。急速に、血液が造られている。


「ゴクク!」

 トウリンが少年を呼んだ。灰色の影が視界の中で跳躍する。――二手に分かれた――小さく発光した緑電がまるで流星のように尾を引き――全身の細胞が活性化している――目で追えなくとも、気配はわかる。

 上下でくる!


 上方、下方。同時に掌打を叩き込んだ。手応えはない。インパクトの瞬間、跳んで勢いを殺している。間を置かず迫り来る刃と鎌。二者四手の乱舞。完全には躱しきれない。身を掠めても深くはやらせはしない。合間を縫い、飛び回る二人を打ち落とすかのように掌打。躱す二人を追わず、迫る二人を迎え打つ。退けばやられる。だが一度深く当てられれば――!

「「ハアァア――――ッ!!」」

「おォオオッ!!」


 三者の攻撃が激突した。左右から迫った刃と鎌、それを迎え撃った渾身の掌撃。

 両腕が血を噴く。斬られた。すぐには再生しない。

 しかし、手応えはあった。深く穿ったという手応えが。

「ぐぅ……」

「ちっ……」


 初めて――幼くして血と暴力にまみれた二人の戦闘者が、初めて――膝をついた。

 痛みを堪えながら、叉反は必死で念じた。つい今やったように。傷口を治すイメージ。再生していく感覚を脳裏に蘇らせる。裂けた皮膚、斬られた肉。傷口が瞬時に治癒していくように。

「――……刀輪、等活、それに極苦か」

 両腕が俄かに熱を帯び始める。自己再生の始まりだ。痛覚は鈍くなり、気を抜くと頭がぼうっとする。叉反は続けて言った。


「ゴクマの中に子供の殺し屋がいると聞いた。お前達がそうか」

 叉反の言葉に、少年と少女が同時に立ち上がる。顔つきが、俄かに変わっている。

「へえ。少しは勉強したんだ、ゴクマの事を」

「大した事はわからなかった。ゴクマが関わった事件の中で、生き残った者の証言にいくつか目を通した。片腕を切り落とされた男性が、年端もいかない子供にやられたと言っていた。警察は重体による記憶の混乱だと判断したらしいが……」


「片腕? うーん、どこだったかな。オレ、オッサン嫌いだから、わりとしょっちゅうやっちゃうんだけど」

 即座に伸びたトウリンの鎌が、少年の軽口を制した。

「余計な事を喋るな」

「へいへーい」

 ゴククは肩を竦める。


「何故、俺を狙う?」

 腕の調子と、彼らとの間合いを計りながら、叉反は言った。

「俺は被験者だったはずだ。あの白虎の少年がそう言った」

「ビャッコ? ああ、白王か。あいつはゴクマじゃない。ゴクマを仕切っている上の連中、《結社》の一員さ」

「ゴクク!」


「いいだろ? どうせあいつ殺すんだから」

 トウリンの非難を躱しながら、ゴククは一歩前へと出た。

「要するに探偵、あんたは《結社》という巨大な組織に目をつけられたんだ。この間の事件、覚えてるだろ? あんたが例の〝計画書〟に関わったあの一件さ。なまじあんたがあの一件を生き延びたせいで、結社はあんたをマークする事にしたんだ」


 ――数週間前の一件だ。

 叉反はある人物が盗み出した〝計画書〟と、その人物の身柄を追っていた。陰謀によって織り込まれた追跡劇だ。盗み出された計画書はゴクマが進めているという秘密計画の物だったらしいが、実際の内容まではわからなかった。

 だが、戦いの終わりに、叉反はある人物から警告を受けた。正体不明の人物から。

――公安からお前のマークを外しておいた。最後のチャンスだと思え――


「……結社とやらの手は、どうやらかなり広く届くようだな」

「そうさ。何処で誰が見ているのかわかったもんじゃない。オレ達は結社の使いっ走りみたいな扱いだから、上位である連中の意向がいまいち掴めない。そのくせ奴等、人手が足りなくなると平気でオレ達をこき使う。たとえば、この秘密研究所を探ろうとした奴をオレに殺させたり、あるいは必要な実験動物がいなくなれば――」

 ゴククの赤茶けた腕刃に、緑の電流が走る。


「こうしてオレの体を使ったりする。ま、これに限って言えば不満ないけどね。おかげで裂くのも刻むのも思いのままさ」

 少年の顔が、まだ十歳くらいの少年の顔が、ひどく嗜虐的な笑みに歪んだ。他人をいたぶる事に楽しみを覚える人間。暴力と悦楽が結びついている。あの年頃の少年の中で。

「あんたが殺した嵐場は、所詮モンストロを使っちゃいない一般フュージョナーだ。ま、それでも強かったけど、オレほどじゃない。オレなら回帰のレールに乗ったりなんかしない」


追跡の最中、叉反はテロ組織ゴクマの人間達と関わり合う羽目になった。銃火を交える、という形で。

嵐場――嵐場道影。ライオンのフュージョナー。完全回帰してなお生命活動を保ち、そして叉反が自らの手で、殺すべくして殺した人間。

 そして、もう一人の男。計画書争奪戦においてゴクマを指揮し、決着を待たず消えた男。


――じゃあ、俺達は行くぜ。二度と会う事はないだろうが、せいぜい生き延びるんだな――

 

 ゴクマは今、ここにいる。この施設の中に。叉反の目の前に。

 という事は、まさか、あの男も……?

「もういいだろう」

 スパニッシュローズの鎌を伸ばして、トウリンが言った。目つきが変わっている。

「死ぬ男にこれ以上の話は無用だ。さっさと終わらせるぞ」


 ゴククが怪訝そうな顔をした。トウリンの表情から何かを読み取ったかのように。

「おいおい。まさか、あれをやるのかよ。こんな奴に必要ないだろ」

「さっきの攻撃。この男は私達の動きについてきた。さらに自己再生までモノにしようとしている。戦場での適応力は高いようだ」

 淡々と、少女は告げる。冷静に叉反を分析し、そして対処しようとしている。まだ仁とそう変わらない歳に見えるのに。彼女は一体何を見てきたというのか。


「これ以上こちらの動きに対応される前に殺す。確実にだ」

「だからって」

「あまり遅れるとトウカツも怒る。……そろそろ着く頃だしな」

 トウリンの言葉に、ゴククは不承不承といった様子で頷く。どうやら、二人には時間がないらしい。が、それ以上会話の内容を吟味する余裕はない。


「何故だ。結社が俺を実験に使うというのなら、俺を殺すのは結社の意に反するんじゃないのか?」

 ゴククの顔に嘲りが浮かんだ。

「はん、オレ達に結社の意向なんて関係あるかよ。ゴクマはゴクマだ。誰も彼も地獄に落とせばいいんだ」

「話は無用だと言った。その赤き心臓、奪わせてもらう」

 トウリンが鎌手を青眼に構えた。ゴククが刃の腕を、顔を覆うように振り上げる。もう腕は動く。叉反は構えた。次の攻撃は、これまでとは違う。


「「イクシード」」


 二人の声が重なった。緑電が静かに輝いた。灰色のマントが分解されていく。まるで風のように逆巻いて、電流が二人を包み込む。

 光が晴れ、再び現れたその姿は、まさに異様だった。

 まるで人型に模した虫だ。だがどちらも、その肌に弱々しさはない。金属的光沢をたたえたさながら鎧のような肉体。腕部のみならず脚部を覆う足甲、兜の如き頭部。赤茶の皮膚は重甲冑めいた重厚な容姿となり、手甲に付随していた鍬状の刃は禍々しいまでに大きく鋭く変化していた。どういう仕組みで変化したのかはわからないが、あの形状の狙いはわかる。対象を惨殺するため。肉を引き裂き、骨をも砕くため。


 対して、スパッニッシュローズの肉体は金属的皮膚に変化しながらも、決して鈍重な印象は受けない。全身を装甲しながらもボディラインを見せるその姿は、むしろ防御と軽さを兼ね備えているようで危険だ。両腕が変化した鎌は本人の足元に届くほどに長く、おそらくその動きは自在だろう。嫌なイメージが湧く。触れた者を地獄にまで連れて行く鎌。首筋に触れた瞬間、一気に肉体と切り離される――


「――蟲人態・甲。見せるのはあんたで二人目だ」

「〝心臓〟を上手く使うのだな。楽に死にたいなら別だが」

 ともに鎧の中からのようなくぐもった声で、二人が言った。

 見ればわかる。あれは生身の体で防げるものではない。銃があれば別だが、下手に攻撃を加えればこちらの手が砕ける。かといって、奴らの攻撃を躱し続けるのは――


『手は一つしかないぞ。わかるだろう? 何をすべきか』

 囁きが聞こえる。怪物の囁きが。燃えるような赤い星が、まるで心臓のように脈打っている。

「……黙れ」

 わかっている。身を委ねてはいけない。怪物の囁きに応じるのは、魂を差し出すに等しい事だ。怪物そのものになってしまうという事だ。だが。


 葛藤している暇はなかった。スパニッシュローズの影が雷を伴って跳躍する。同時に赤茶の重甲冑が地を蹴った。トウリンの速度は増しているように思えたが、ゴククはむしろスピードが落ちている。だが安心出来るものではなかった。遅くなったとはいえ、それはあくまでさっきのような目で追えないスピードではないというだけだ。力強く地を蹴って灰に足を取られる事もなく、まるで戦車のように甲冑は迫ってくる。拳が風を切った。さながら金棒を振るっているかのよう。反撃せず距離を取る。鎌はまだ襲ってこない。だが、どちらにも意識を配るのは困難だ。甲冑はその重さをものともせず、拳を放った体勢からくるりと回りつつ足払いを放ってくる。足場が悪い。半歩下がる。ジャブ。スウェーで躱す。赤茶の刃が光る――


「おらァッ!!」

 寸でのところで躱した、はずだった。

 胸元から下腹にかけて一気に刃が走っている。瞬く間に皮膚が深く切り裂かれ、血が噴水のように噴出した。

 血液の消失が否応なく意識を朧にし、

「まだまだァ!」


 鋼鉄の拳が容赦なくあばらを襲った。内臓が潰れた。せり上がってきた血を吐き出す。自己再生。それだけを念じる。体さえ動けば。

「止めだ」

 上空から迫る影。長く伸びた鋼鉄の鎌。頭部粉砕。いや、両断される。このままでは。



 ――銃で人を殺したくないのなら技を磨け。かつて師はそう言った。そして殺された。銃で。頭部を撃ち抜かれて。だから誓った。二度と銃は握らないと。師を殺した道具に二度と近付かないと。

甘かった。誤魔化し、工夫し、命を奪わないようにしても、選択の時は何度でもやって来た。ついに避けられなかった。暴威に晒されて誓いは破られた。

手は血で汚れた。

銃は今、この手にない。あるのは自らに向けられた殺意。そして銃よりももっと強力な、怪物の囁き。

 人は、もうとっくに殺している――生きるために。生き残るために。

 だから――



「ッ――!!」

 全身全霊を込めて、前方へと身を投げ込む。一瞬、甲冑は棒立ちだった。虚を衝かれたのだ。夥しい量の血を流した相手が、こんな動きをするはずがない。だが、回転は叉反の重要な体術である。何故なら、叉反の体には、振り回せる武器が生まれながらに備わっているからだ。

「ぐっ!?」


 強打とはいかないまでも想定外の一撃が、すぐ上にいたトウリンの体を薙ぎ払う。スパニッシュローズの体は灰の上に叩き付けられる。全身が稼働限界まで動き続ける機関のように熱くなっていた。自己再生機能を限りなく早く働かせている。かつて対峙したあの男のように。

『何をしている!』

 怪物が吼えた。意識の内側で。構わず甲冑の右膝に側面からの蹴りを加える。前転は位置取りの役割をも果たした。 勝利を確信していた甲冑は姿勢を崩されて反応するが、頭部はすでにさ反のほうへと傾いている。


 逃さない。上体を捻りざま放つ右拳。フックブローが甲冑ごと相手の頭部を打ち上げる。拳が粉々になるかのような痛み。だが、それさえも瞬時に再生していく。

『馬鹿な事をするな!!』

 怪物が怒鳴りつけた。耳元で怒鳴られている。

『力を使えばこんな下らぬ怪我などしない! 虫共など一瞬で殺せる。いいから力を使え、お前に与えられた、俺の力を!』


 捻りはまだ終わらない。勢いそのまま振り回した蠍の尾が遠心力によって甲冑に激突し、その体バランスを完全に崩して地に転がす。

「この野郎――――っ!?」

 甲冑は叫び、腕を振り上げようとした。しかし位置がまずい。その体はすでに灰へと沈んでいる。灰は、浄水槽へと流されるために常に下方へと落ち続けている。それはいわば人工的に造られた流砂だ。もがけばもがくほど動きを奪われる。


 殺気が側面に感じる。その時、スパニッシュローズの鎌がすぐそこに迫っていた。

 その間合いは把握している。

 すかさず放った側面蹴りが、トウリンの体を突き放す。己の勢いと合わせて蹴撃された体はそのまま吹っ飛んだが、鎌使いはすんでのところで着地し、まるで四足獣のような体勢で灰の上を滑った。

『チャンスだ! 今のうちに――』


「断る」

 体の熱はさらに上がっていく。潰れかけのケースを取り出してひしゃげたハイライトを銜え、抜き出す。まだ無事だったライターで火を着けると、ハイライト独特のラム香が薫る。

「っ……舐めるなッ!」

 トウリンの全身に電流が生じる。瞬間、その姿が消えた。高速移動。トウリンはゴククとは逆に形態変化してなおその速度を保ち続ける。目では追いつかない。ただその放電音だけが取り囲むように聞こえ続ける。


 煙草の煙が舌先で転がる。吐き出した紫煙が風に巻かれた。

「死ねぇッ!!」

 眼前に死の刃が迫っていた。今度は近い。緑電が破裂するかのように弾けている。

 叉反は手の中のライターを投げた。音のするほうへ。直後に腕で顔を覆い、体を背ける。

 ――――ばちり。


 直後、大岩を叩き割ったかのような爆音が轟き、鎌の軌道があらぬほうへ逸れる。

 服に火は移っていない。叉反はトウリンを見た。左肩を抑えている。スパニッシュローズの滑らかな鋼の体には大きな焦げ跡がついていた。ライター内の可燃性ガスが緑電によって引火したのだ。危険な爆発事故から引用した策だった。気分は晴れやかではない。それに、爆発それ自体は、鎧に纏われた少女にとって大した痛手ではないらしい。肩の焦げ目を払いながらも、トウリンは立ち上がる。


「何故わかった。私の位置が」

 叉反は紫煙を吐く。ゆらりと漂う煙。

「速すぎるからだ」

「何?」

 そう言ったものの、トウリンはすぐさま気付いたようだった。


「……まさか、風か? 煙の動きから私の接近を把握したのか?」

 煙草がじりじりと燃えていく。答えなかった。必要はない。どうであれ次の一合で、勝敗は決するのだから。

「随分と良い目を持っているな。だが、タネが割れたならもうお終いだ。次の一撃で首を刎ね飛ばしてやる」

 トウリンが右腕を振り上げる。左肩には僅かにへこみがあった。叉反の再生は続いている。砕けた右手はもう動く。神経が研ぎ澄まされている。煙草の味がいつもの何倍も濃く感じる。


「試してみろ。次こそ取れると思うなら」

 カマキリの頭部のような鉄仮面が、僅かに苛立ったように見えた。トウリンは腕を下げて、こちらを見ている。肩幅程度に足を開き、全身に力みはない。その気になればすぐにでも動ける体勢だ。

 左半身に構える。こちらはいつでもいい――

 上空で風が鳴った。突風が吹いた。大きな筒状のこの灰溜めの中に、風が紛れ込んできた。煙草の煙が一気に舞い上がる。


 雷が弾けた。

 間違いなく最高速度だった。影さえ見えない。派手な色であるはずなのに知覚出来ない。放電音も、緑電の一筋さえも見えない――迅雷を伴い、疾風の速度で刈る。鮮やかな死鎌。


 ――――今だ。


 持てる最高速度で繰り出した右拳と、鋼の鎌が交錯する。

刃は首筋を狙った。拳は鋼を打った。

鋼の体が光に包まれ、灰色のマントを纏ったトウリンが膝をついた。生身のハナカマキリの手で、右肩を抑えようとして、だらりと下がる。呼吸が荒い。相当疲労している。無論、こちらにももう余裕はない。

「何故……だ。何故、二度までも……」


「消去法だ。爆発のせいで、お前の左腕はすでに使えない。自己再生も起こっていない」

 だから、攻撃は右腕からのみだと判断した。そして。

「お前は決して後ろから斬りかかってはこない」

「は……何を。私が、そんな甘いわけが」

「手段を選ばないのなら、まず俺の目を潰したはずだ。その緑色の電光を使えば人の目は眩む。斬りかかる隙などいくらでも出来る」


 死角を狙うのは生死を賭けた戦いでは卑怯でも何でもない。互いが互いの目的のためにありとあらゆる手段を駆使する。

 だが、この娘は未だ割り切れないでいる。相手をいたぶるような陰湿さを嫌う気質。ゴククとの戦いに集中し、完全に他方への注意を怠っていた叉反を斬らない甘さ。

「……どうでもいい」


 吐き捨てるように、トウリンは言った。

「殺せ」

「断る」

 即座に、叉反は言った。

「はは。甘いぞ貴様。こんな傷、治るのはすぐだ。今、私を殺さなければ、数分後に転がっているのはお前だ」


 無視して叉反は踵を返す。短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、地面に向かって声を出した。

「聞こえているだろう。仲間を連れて帰れ」

 声はない。代わりに、放電音が聞こえた。瞬く間に灰を蹴散らして、小さな影が地面から飛び出す。

 ゴククだ。彼もまた元の姿に戻っている。かなり疲労しているようだ。

 思った通り、両者とも例の甲冑姿になるにはかなりのエネルギーを消耗するようだ。だからこそ、容易に身体が回復しない。


 悪鬼の表情で、少年が叉反を睨みつける。

「今、ここで、お前を殺すのは簡単だ」

 怒りが、一語一語に滲んでいる。

「だが、姉さんがそれを許しはしない。それに、弱り切ったお前を切り刻んでも、オレの心は満たされない」

 ゴククはトウリンを抱えた。そして、右手の壁を指差す。


「あそこに扉がある。ここに溜まった灰の量が減ると開く仕組みだ。そこから地下に行ける。浄水槽に」

 放電音がした。小さな影が跳び上がっていた。壁を蹴りながら、瞬く間に上へと昇っていく。

 また風が吹いた。目に入った灰に顔をしかめる。

「次は容赦しない! 次こそは!」

 怒りに満ちた少年の声が聞こえた。しかし、もはや二人の姿はどこにもない。


 ……強敵だ。次に相見える時、果たしてまた生き残れるかどうか。

『何故、〝力〟を使わない』

 もう一つの、怒りに満ちた声がした。まるで地獄からの……いや。

 こいつは俺だ。俺の中に住み、ようやく素顔を見せた、もう一人の俺。醜い怪物。

『あんな餓鬼ども、本来物の数にも入らん』


「黙れ、怪物。俺の中で喚くな。下がっていろ」

 煙草に火を着けようとして、ライターを失った事を思い出す。参った。どこかで火種を調達しなければ。

『覚えておけ。血は洗い落とせない。人の倫理など捨ててしまう事だ。弱ければ命は失われる。人より獣に近いお前にはわかるはずだ。正しき摂理。当然の結果だ。血の汚れを啜って生きろ』

「俺は人間だ。怪物には従わない」


 だが、怪物の姿はすでに胸の裡になかった。潜ったのだ。また叉反の意識の影に。

 ――誓いは破られた。心血を注いで守っていた誓いは、死を直前に感じて守り切れなかった。

 ――散り散りになって、今も無残に、心に残っている。

 叉反は扉に向かって歩き出す。一見、やはりただの壁だが、目を凝らせばうっすらと切れ込みめいた線が入っている。


 ――だから、だ。

 だからこそ、行かねばならない。

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