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8-9

 8


 眩暈がする。頭が重い。

 床に膝をついていたレベッカは、ゆるやかに意識を取り戻した。少しの間気を失っていたようだ。頭がまだ痛む。思ったより傷は深いのかもしれない。

 気分が悪かったが、我慢して顔を上げる。

朦朧としている間にもそれなりに歩いていたようだ。エレベーターへと続く小道が見える。


 背後を見る。緑電が激しく発光している。今のうちだ。頭の鈍痛を堪えながら、レベッカは立ち上がる。ジェラルミンケースを掴み、足を踏み出す。

 呼吸が荒い。気持ちが悪くて、なかなか息を整えられない。

 傷を受けたのは頭部だが、フュージョナー特有の自己再生は起こっていない。体を休めていないせいだろうか。いや、理由については考えようがない。痛みから逃れるのを期待するのは、やめておいたほうがいいのだろう。


 そこまで考えて、不快感に思わず足が止まる。拳を握り、壁にもたれかかる。

 他の事を考えなければ。何とか気を逸らさないと、もっとひどい事になる。

 ポケットの中を探って銃把を握る。小火竜の電気がそろそろ底を尽きる。最少出力ならあと十一、二発。最大なら、およそ三発。充電しておきたいところだ。その暇があれば……。

 ……ああ、気分が悪い。


 夢の中とはいえ、いやにはっきりと母の姿を思い出したものだ。

 ライムントと出会い、結社に身を置くようになってからは、病院へはほとんど行かなくなった。研究漬けでそれどころではなくなったのだ。地下研究所の中で、来る日も来る日も解剖と実験を繰り返し、膨大な量のデータと向き合い、モンストロストーンの完成を目指した。フュージョナー因子を意のままに操り、特異部位の表出を完全に制御できる、『薬品』としてのモンストロの完成。


 最初は母のためだった。

 あんな姿になってしまった母を元に戻したい。それだけだった。

 それがいつの間にか……そう、いつの間にか、だ。母の事を忘れて、研究しか目に入らなくなったのは。

 初めて行った時は、正直入るのが恐ろしかった研究所も、いつの間にか住みつくようになっていた。他の研究員と共に何時間も、何十時間も、ただひたすらに研究だけを続けていた。モンストロが放つエメラルドの光に脳を刺激されたのか、結社が掲げる『フュージョナー因子の制御』、『生命神秘の解明』といったお題目に、気が付けば心を奪われていた。


 面白かった。フュージョナーという、史上最も奇怪な生物の謎を、自らの手で解いていくのが。そして何より、モンストロが引き起こす神秘的な肉体の変化が。

 白王――ライムントが見出したあの少年が、初めて〝超越〟を成した時、レベッカは確信したのだった。モンストロの可能性、その力がもたらす輝かしい未来を。

 ――この成果を祝福しよう、レベッカ君。あれこそが我々が目指すべき到達点なのだ――


「……嘘だ」

 記憶の中のライムントに向かって、レベッカは言った。

 目指すべき到達点、などではない。彼らはあの力を、恐ろしい事に使おうとしている。あの時『計画書』を盗み見ていなければ、レベッカは今も結社の思想を疑わずにいただろう。

 全てを見たわけではない。だが、彼らの企みが大いなる破壊を呼ぶ事だけは承知している。


 何としても食い止めなければならない、結社が進める『騒乱計画』を――……

 突然、風が唸った。轟音と共に黒い影が目の前を横切った。

壁が砕け、砂埃と共に破片が飛び散る。バチバチと音が弾け、緑の電光が見えた。レベッカはすぐさま小火竜を構えた。

「くそが……ッ! 化け物かあいつは!」


 影が唸った。人間の姿ではなかった。四足で立つ獣だ。黒い犬。人間大の黒犬が、赤い瞳をぎろりとこちらに向けた。

「何だ、まだ逃げていなかったのか、学者先生」

 呆れたような、皮肉げな声だった。

「……好きで立ち止まっているんじゃないわ」

「ああ、そうかい。まあ、ひとまずそいつを別のほうに向けてくれ。俺と争っている場合じゃねえ」


 黒犬がそう言い終えた瞬間、まるで雷でも落ちたかのような発光が、薄暗がりの中で起こった。

「――――……レェェベッカァァ」

 雷鳴の中、辺りを震わせるような声がする。

「まだ動けるとはなあ。大人しく寝ていりゃそのまま楽にしてやったのに、苦しむのがお好きってか」

 激しく雷光が音を立てる。緑の雷流は黒服を包み込み、邪悪な獣の雄叫びのように辺りに喚き散らしながら弾け続ける。黒服はサングラスを捨てた。髪は逆立ち、雷と同じく緑に輝いている。


「こうなっちまうと自分じゃ制御出来ねえんだ。周りを消し炭にでもしない限りなあ!」

 黒服が手を振り上げた。雷鳴が迸る。走らなければならなかった。一瞬の動転が、レベッカの体を固くさせた。だが強い力が襟を掴み、自分の身が物凄いスピードで移動する。雷撃が一瞬の差で壁を黒く焦がした。

 レベッカの体は力に引っ張られるまま動いていた。ジェラルミンケースの取っ手を必死に掴む。第二の雷撃が咆哮と共に襲ってきた。


 体を大きな腕で抱えられ、床から壁へ、壁を蹴って床へ、繰り出される雷撃を躱しながら、あっという間にエレベーターのある小道へと入った。

「……はあ、はあ、クソっ」

 黒犬の獣人態となった男が舌打ちしつつ床を蹴る。エレベーターの扉に飛び込みざま白い扉を蹴破り、勢いを殺さぬままエレベーターを吊るすワイヤーロープを掴んだ。


「な、貴方――!」

「黙ってろ!」

 男がワイヤーを掴んだ手を離した。一瞬、二人の体は浮遊し、そのまま自然と落下していく。レベッカは声も出なかった。その前に男が再びワイヤーを掴み、そしてまた離す。四度、五度目、そこから数回繰り返して、男の両足が下で止まっていたかごの天井に降りた。


「ああ、くそったれ!」

 男の獣化した足に緑電を帯びる。筋力が増強された足が、二重の金網に守られた天井の換気口を何度も踏み抜き、へこませていく。

「おい、そのケース邪魔だ! 捨てろ!」

「勝手な事言わないで!」


 振り払われるようにして、レベッカは男の手から解放された。男の足が金網を踏み抜いた。その瞬間、頭上で轟音と共に緑雷が輝いた。

「来やがった!」

 男が唸った。レベッカは素早く電撃銃を抜いた。

出力を上げるのと同時に、小火竜は雷撃を吐き出した。一撃ではなかった。射方を乱し何度も引き金を引き、襲い来る緑雷へ向けて雷撃を放ち続ける。太い柱のような緑雷が、次々と枝分かれして小火竜の電撃に食らい付き、瞬く間に散っていく。


 派手な破壊音がした。男の獣足がかごの天井を踏み抜いたのだ。二、三度さらに踏み込み、人一人が通れそうな穴が出来上がる。

「先に行って!」

「当たり前だ!」

 叫びながら、男が穴へと滑り降りた。


 続いてすぐさま降りようとも思ったが、体はレベッカのそんな考えに反して、警戒を解く事が出来なかった。当然だ。今、ここで黒服の緑雷が落ちてくればレベッカも犬男も即死なのだ。

 追撃は、しかし来ない。見上げた上の階からは奴が放っていた緑の電光が確認できない。

 黒服は消えていた。移動したのか? 一体、どこへ……。

 小火竜の電力パッケージを確かめる。電撃銃の残存電力は残りあと僅か。一発撃てれば良いほうだろう。


 かごの中でまた激しい音がして、すぐさま破砕音がした。犬男が扉を破ったのだ。

 慎重に、上方の様子を伺いながら、レベッカはジェラルミンケースをかごの中へ降ろし、自らも続いてかごへと降りた。

 扉は滅茶苦茶に叩き潰され、強引に開かれていた。前に立っていた男が荒い息をついている。

「ボタンは?」


「それで開くならとっくに逃げている」

 こちらを見ずにそう返答して、男は深呼吸する。緑の電気が弾けて、男は獣人態を解き、元の姿へと戻った。

「ああ……気分が悪い。自分の体をころころ変えるもんじゃねえな」

 男が不快げに呟いた。

 白王の言葉では、使用限界を超える程のモンストロ原液を注入されたはずだ。


 そんな事をされれば、まず元の姿形は保っていられないはずだが、この男はすでに形態変化を体得している。

 体内のモンストロ活動に変化が生じている。安定してきている、のかもしれない。

 だとしたら、変化を促した要因は何か?

 ――探偵との戦闘のせいか。彼の中で起動した〝心臓〟がその力を発揮したという事か。

 ふと気付いて、レベッカは後頭部に手をやった。


 傷が塞がっていた。あれほど感じていた不快感も今はない。

 知らないうちに自己再生が起こっていたらしい。

 無言のまま、男は前方へ歩き出した。とにかく留まってはいられない。ジェラルミンケースを拾い、レベッカも歩を踏み出す。

 地下階層の通路は電灯が灯っていた。


 地図の通りなら、この先に灰を洗浄するための浄水槽があるはずだ。

「さっきはありがとう。助けてくれて」

 先を進む男の背に向けて、レベッカは言った。

「ああ? 別に助けたわけじゃねえよ。何かの役に立つかと思ったから連れてきただけだ。邪魔になれば置いて行く」

「……それはどうも」


 いちいち挑発的な言い方にはむっとするが、とにかく苛立っても始まらない。今しばらくはこの男と行動を共にする事になりそうだ。

「……そういえば、名前をまだ聞いていなかったけど」

「俺は野良犬だ。名前なんかねえよ」

 不愉快そうに言って、男は威嚇するようにこちらを振り返った。


「勘違いするなよ、学者先生。俺とあんたはお友達じゃねえんだ。あんたを助けたのはあくまで俺のため。今言った通り邪魔になれば置いて行くし、何なら俺が殺してやってもいい」

 わかったら黙って歩きやがれ。唸るようにそう言うと、男は踵を返して歩き出した。

 レベッカはしばらく立ち止まっていた。

 体が震える。落ち着け。怯えるな。あの男と私と、お互いに利用し合う立場だというだけだ。


 とにかく今は探偵に会う事だ。この男の話が本当なら、探偵はこの先の浄水槽に流されてきている可能性が高い。

 探偵を〝心臓〟の呪いから解き放つ事だ。摘出は難しいが、少なくとも安定剤を注入する事で生命が脅かされる心配はなくなる。

 罪は償わなければならない。幸せを取り戻すために犯した罪。巻き込んだ人々への贖罪。

 目的を果たさなければならない。再び、再び母の笑顔を。この目に。

 ――――ズウン。


 低く、振動にも似た小さな音がレベッカの逡巡を断ち切った。

 頭上からだ。電灯が僅かに明滅している。全身に怖気が走る。何か、また何かが来る。

 明滅が瞬間的に大きくなり、一瞬、辺りは闇に包まれた。

 その一瞬だった。

「――誰だ、てめえは!?」


 目の前を歩く男がそう叫んだ瞬間、その胸元から血が勢いよく噴出した。

「――ッ!?」

 反射的に電撃銃を構えたレベッカの前で、黒犬の男の体がいやにゆっくりと崩れ落ちていく。

「野良犬の駆除は完了した。次は学者を確保する」

 知らない声がした。子供の声だ。白王、じゃない。たぶん、仁くらいの。


『ああ、すまねえな。俺もすぐそっちに行く』

 通話口越しに聞こえるような男の声。さっきの黒服だ。それがわかった瞬間、黒犬の男の影に、小さな人影を見つけた。

「早くしろ、ボクの仕事を増やすな」

 小さな手には大き過ぎるレシーバーを持った子供。足元まで丈のある灰色のマント。フードの中にある少年とも少女ともつかない顔。


 その瞳が冷たくレベッカを見据える。

「じゃ、あとでね。リッキィ」

『ああ、レベッカを殺すなよ。トウカツ』

「それはどうかな」

 子供がレシーバーを耳から離した。


 床に横たわった黒犬の男から、赤い血が流れ始めている。

「ボクは無駄な事が嫌いだ。手間取らせるならお前を殺す。わかった?」

「……貴方は――」

 口を開いたその瞬間、トウカツと呼ばれた子供の目がレベッカを睨み、同時にマントの中から突き出された大きな鋏が、レベッカの首を狙っていた。


 いや、正確には鋏ではない。子供の左腕には別の生き物が同化していた。灰褐色の体を持つ、地に潜む昆虫。突き付けられたのは鋏ではなく、その大きな顎だ。

 アリジゴク。

「大人しくこちらの指示に従えば、殺しはしない。ボクらのボスはお前の持つ情報を欲しがっている。ライムントや結社の上層部のね。それを話すのなら、今しばらく生かしておいてやる」


「……結社の人間ではないの、貴方達は?」

「結社が一枚岩でない事は、お前もよく知っているはずだ。ボクらは結社の使い走り。用心していないと、駒として使い捨てられる。この研究所のように」

 頭の中を閃くものがあった。

「結社の……処理班」


「そうだよ。ボクもリッキィも、結社の情報が外に漏れないように仕事を任された。ボクらはお前やライムントが好き勝手にばら撒いた、結社に繋がる痕跡を消し去るゴミ処理係。結社が抱える汚れ仕事を引き受ける集団。地の底の住人――……」

 レベッカは思い出しつつあった。結社に身を置いていた頃、たとえ『処理班』という名は聞いた事がなくとも、結社が諸々の後始末のために、あるテロ組織を抱えているという噂は有名だった。結社が働いた悪事の痕跡を破壊活動によって塗り潰す、表の組織。地獄の鬼を名乗る、破壊集団。

「――ボクらは、《獄魔(ゴクマ)》だ」


      9


 最初に知覚したのは痛みだった。そこら中の筋肉が痛み、全身が痺れている。

 目を開いても視界はぼやけていて、明槻仁は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。

 明るい場所だ。綺麗で、そう、例えるなら新市街にあるような企業ビルの入り口みたいだ。青い床や、植木鉢から生えた小さな木が見える。

 ただ妙なのは床が上に、天井が下にあって、しかも視界はそれなりに揺れている……?


 そこまで考えて、仁はようやく自分が誰かに担がれている事に気が付いた。

「……ん、起きたか」

 自分を担いでいるらしい誰かが、ふと呟いた。

 何かが仁の足を掴む。何をされるか直感的に読み取った瞬間、仁の体は投げ飛ばされていた。

「このッ!」


 危うく地面に投げつけられるところを、何とか体勢を取って着地し、仁は自分を投げ飛ばした相手を睨みつける。

「そんなに怒るなよ。約束通りちゃんと運んできてやったじゃないか」

 腰から生えた白虎の尾を揺らして、呆れたように白王が言った。

「かすり傷一つなくって約束だろ」

「そうだっけ? 忘れちゃった」


 どうでもいいと言わんばかりに、白王は背を向ける。

「じゃ、出口はそこだから。気を付けて帰りなよ、坊や」

 白虎の尾が揺れる。少年の姿が早々と遠のきそうになる。

「待てよ」

 白王は足を止めた。振り返るその目が鬱陶しそうに仁を睨んでいる。


 怖いと思う気持ちと、それに勝る怒りが胸の中で渦巻いている。

「探偵はどこだ。それにトビさんとレベッカさん。皆無事で出られなきゃ意味ないだろ。あの三人をここへ連れて来い」

「…………はあ?」

 白王の体から、緑電の光がばちりと弾ける。ほとんど反射的に、仁はポケットから小火竜を取り出していた。


「お前、何か勘違いしてない? 小虫如きとの約束を守らないのも癪だから運んでやっただけで、何でお前が僕に命令出来ると思ったわけ?」

 白虎の少年の目は俄かに殺気が溢れている。だが、今退くわけにはいかない。退く気が起きなかった。

「お前こそ、本当に僕がのこのこ帰るとでも思ったのか? いいから早く僕の言った通りにするんだ。でないと――」

 ――思いついた時、心が震えた。けれど、揺さぶりをかけるならこの手しかない。


 電撃銃の冷たい銃口を、自らの蟀谷(こめかみ)に押し付ける。

「今、ここで死んでやる。僕は生かして帰さなきゃいけないんだろう?」

 小火竜の引き金に指をかけ、仁は白王を見据えた。

 これが今打てる精一杯の手だ。戦力では勝てないのだから、相手の失いたくない物を握って交渉するしかない。

 本当に引き金を引けるとは思えないが、もし、いざとなったら――やるしかない。


 思考に夢中で、視界に意識がいかない。白王の顔を、ようやく仁は認識する。

「呆れたよ」

 大きな手袋をした手で顔を覆いながら、白王が呻く。指と指の間から、不愉快げに眉根を寄せているのがわかる。

「電流一本走らせれば、お前なんか即座に眠らせられる。でもそれだけ銃が近いと、下手に刺激すれば筋肉が勝手に動いて引き金を引いてしまう。いや、まったく呆れたもんだ」


 意識しないまま、笑みが漏れる。よし、これで膠着状態を作った。あとは、交渉を――……

「と言えば、満足か?」

 白王が呟いたその瞬間、雷鳴にも似た電気の迸りが起こり、少年の全身が緑光に輝く。

 静電気が周辺の埃を吸い寄せ、光が霧散すると同時に散っていく。

 まるで砂埃のように舞った薄靄の中に、一匹の獣がいた。


「要は電気を使わなきゃいいんだ。その手、小火竜ごと切り裂いてやる」

 白虎が言った。直後に獣が動く。怖気が走るその刹那、飛び掛かる虎が眼前に迫っていた。

 反応出来ない。手も足も動きはしない。死――――

 緑の光が仁の目に瞬いたのは、その時だった。目が眩み、硬直していた体が咄嗟に動いた。

 獣の唸り声が聞えた。


「誰だ?」

 白王が言った。目はまだ開かない。眼球がひどく痛む。

「……見つけたぜえ、白王」

 粗野な声が聞こえてくる。目をしばたたかせ、ゆっくりと目蓋を持ち上げる。

 ロビーの向こうに人影が見えた。男だ。何故か半裸で、下に履いた紺色のズボンもほとんど破れている。男の足取りはおぼつかなく、よろめくかのようだ。


「スガロ。一体何のつもりだ」

 白虎の姿のまま、白王が言った。

 男は笑っていた。両の目の焦点が合っていなかった。筋肉質の体が戦慄いている。

「何、俺もそろそろ独り立ちしようと思ってなあ。俺は〝超越〟を成し遂げたんだ。もうお前やライムントに頭下げる必要はねえ。組織を抜けるついでにてめえの首を貰っていく。そうすりゃ、あのセンセイも納得するってもんだ。へへへ」


 男の口元が光っている。涎だ。

「……お前はさっきレベッカに薬を投与されたはずだ。何故、動いている?」

 相手に問うたというよりは自問したかのように、白虎は呟く。

 男の顔に笑みが広がる。

「へ、へへへ、知りたいか? え? ネコちゃんよ。俺が何で動けているのか知りたいか?」


 震える手で、男がズボンのポケットを探る。中に入っていたゴミや小銭が落ちて音を立てる。男の手に小さなガラスの容器が握られていた。エメラルドに輝く液体が入ったアンプル。

「……原液か」

「二、三個じゃ足りなくてな。手当たり次第喰っちまった。でも、また欲しくなったら困るからさ。へへ、へへへ……う」

 不意に、男が顔をしかめる。喉仏がごくりと動き、男の口の中が少し膨れ、たちまち背中をくの字に曲げて、男は口から反吐を吐き出した。


「うっ……」

 微かに臭ってきた酸性の臭気に、仁は鼻を押さえる。その時だった。目を逸らそうと視線を動かそうとして、仁の目は嫌な物を捉えた。

 ――人間の指だ。汚物の中に、人の指が――

「うぅっ!」

 思わず戻しそうになるのを、仁は何とか堪える。


「ほう。ついでに人まで喰ったか」

「も、モンストロだけじゃあ足りねえからな。で、でも喰い過ぎちまって……」

 ばちり、と男の体から太い電流が弾ける。たちまち放電が始まる。電気が多く流れるにつれ、男の腕が黒く、皮膚は鱗へと変じて行く。首からはぼこぼこと肉が膨れ上がり、男の形態は醜い音を立てて変化していく。

 とても見ていられず、仁は目を閉じる。


「ちっ。何て醜い変身だ。完全にモンストロに呑まれている」

 白王は吐き捨てる。

「〝超越〟からは程遠い」

「ぞんなわげ、ねえだろ。ヴォれば、ぢょうえづをなじどげだぁッ!!」

 男の叫び声と共に、緑電が発光する。布が裂ける音がして、肉塊のようだった体が一気に光の中で成形される。たちまち巨大な頭部と屈強な体を持ち、怪獣めいた立ち姿の男が現れる。鰐人。まるでゲームで見たリザードマンのようだ。


 もはや破けて用を為さなくなったズボンを、スガロはゴミのように剥ぎ取った。

「原液の大量摂取による動物的本能の発露、理性が消えかかっているためにまともな形態変化も行えない」

 白虎の体が光に包まれる。音さえ立てず光の中でシルエットが変化し、衣服も手袋もそのままに、再び少年の姿の白王が現れる。

「回帰のレールに乗ったな。スガロ」


「ヂガウ、ヴォれは、がイぎをぢょうえづじた!」

 言いながら、その大きな口に、スガロはアンプルを放り込む。口の中でガラスが割れる音がしたが、意に介しない。

「ごろジてヤる、ガギ。ごロじで、レベッガにヴぉれをみどめさぜてやるゥウウウ!!」

 歪んだ人声がロビーに響き渡る。

 白虎の少年は僅かな動揺も見せなかった。ただ静かな動作で手袋をした右手を前へと突き出す。爪のような飾り先で緑電が弾け、たちまち全身から電流が放たれていく。


 それはこれまで見たのとは少し様子が異なった。緑電は、白王の前に集まっていき、何かの形を成していく。

「失敗したのなら処分するしかない。だがお前如き、僕の爪にかけるまでもない」

 電流が何を形作っているのか、仁はわかった。先程白王が変じたのと同じくらいの大きさの獣――虎だ。

「こいつで十分だ。電影獣」

 雷で象られた緑の虎が雷鳴にも似た唸りを上げる。仁はありったけの意志で足を動かして後ろへ下がった。


 今なら逃げられる……か?

「動くなよ、坊や」

 振り向きもせずに白王が言う。

「さすがに貴重な神の子候補を戦闘には巻き込めないしな。ライムントに知られると面倒だし」

 言葉の調子は普通だった。むしろ、さっきまでに比べれば穏やかなものだ。


 だが、首筋に爪が触れているかのような緊張感が拭えない。

「それに、そう長くはかからない」

 再び歪んだ人声が聞こえてきた。ただし、今度は苦悶の声だ。

 緑電虎は俊敏だった。まるで野生の虎そのものの動きでスガロを翻弄し、確実に手傷を負わせていた。

 電影獣と呼ばれた雷の虎の爪は鰐の鱗を切り裂く事はない。代わりに与えるのは、その身を構成する電撃そのものだ。虎が相手の皮膚を切り裂けば、その爪痕には血の代わりに緑電が走っている。スガロは虎を追い、牙や尻尾で敵を破ろうとするが、まずその速度に追いつけない。


「ぐぞがぁッ!!」

 ばちばちばちと、スガロの皮膚から緑電が放たれる。だが無意味だ。電影獣には実体がない。雷はあくまで雷。虎を象り、生き物のように動いても、痛みを感じはしないらしい。

「ヴぁあああああッ!?」

 雷電を受けたスガロの体が、一瞬にして焼け焦げる。その臭いもすぐに漂ってきた。初めから勝負になっていない。スガロはただあしらわれているだけだ。


「ひどい……」

 思わず、仁は言った。すかさず白王が口を開いた。

「ふん、馬鹿が身の程をわきまえないからこうなるんだ。ストーン一つ御せないくせに――」

 茶色の物体が空を切った。植木鉢だ。尻尾を器用に巻き付け、電影獣目がけて投げる。鉢が獣の体に衝突した瞬間、電影獣の姿が歪みを見せた。が、


「無駄だ」

 白王の呟きと共に、電影獣の体を通った植木鉢が音を立てて砕け散る。植木は瞬時に燃え破裂の衝撃のまま白王の背後へと落下し、爆発的に舞った土埃の中から飛び出した電影獣の顎がスガロの喉笛に食らい付く。

途端、緑雷が迸る。

「グうア――ッ!?」


 絶叫が上がった。真っ黒に焦げ上がるスガロの体は幾度か痙攣を繰り返し、やがて、動かなくなった。

 ――勝負は着いた。

 雷に焼かれた木が仁の目の前で燃え続けている。

「死んだか。ま、こういう奴の最期なんてこんなものだよな」

 今や動く事のないスガロに向けて言い捨てて、冷たい気配はそのままに、白王が仁へと振り返る。虎が、スガロから離れて寄って来た。


 刃のような二つの目が体を射竦める。

「で、ええと、何だっけ? 探偵達をここへ連れて来い、だっけ?」

 炎を挟んだすぐ正面で、白虎の少年が仁をその間合いに捉えている。

 臓物を鷲掴みにされるような怖気とそれに立ち向かおうとする意志が、仁の中で相争う。

 ――策があった。成功の保証はないが、それだけが頼みの綱だ。うまくいけば、この場を切り抜けられる。


「坊や、最後の忠告だ。身の程を知れ」

 白王が告げる。

 震える腕を、意志が制する。

「……嫌だね」

「電影獣!」


 緑電の虎がすかさず躍りかかる――自らの背後に植木鉢がある事は確認済みだ――仁はポケットの中の物を掴み、放り投げざま植木鉢の影へと跳んだ。投擲物が、緑電虎の中を通り――弾け飛んだ。

「何!?」

 驚きの声は空を裂くいくつかの音と共に上がった。仁の頭の上を何かが掠め、正面のガラス戸に激突し、粉砕する。

 慌てて顔を隠し、仁はまるで受け身を取るかのように床の上を転げた。腕に痛みが走った。砕いたガラスで肌を切ったのだ。だが、傷を気にする暇はない。


 起き上がり仁は白王を見た。飛びかかってきていたはずの電影獣は、緑電の体を崩して伏せ、その操り主である白王は、左腕を抑え、憎々しげな目を仁に向けている。

 抑える手袋に、赤が染み渡る。

「何をした……これは……」

 白王が血に濡れた掌を見つめる。だらりと下がった左腕には、まるで何かが貫通したかのような穴が空いていて、出血が続いている。


 白王が、ちらと後ろを見た。

「……小銭?」

 そう言った時、仁もまたガラスを突き破った向こうにあるそれを見た。

 それは小さな銅貨だった。電影獣を透過した瞬間、その身を構成する緑電の直流電流が硬貨へと流れ込み、さながらレールガンのように撃ち出したのだった。小銭入れに入った硬貨は破裂と同時に拡散し、一枚はガラスを、一枚は白王の腕を貫いた。


 放電音を立てて、電影獣が消えていく。傷を負った白王が一瞬そのコントロールを失ったせいだろう。

植木鉢の破裂から思い付いた目くらまし紛いの策だ。硬貨の動きは概ね想定通りだった。

 だが――結果は決して成功とはいえない。

「…………あーあ」

 ……もう何度も、同じ感覚を味わい、その度に気力と知恵と幸運を得て切り抜けてきた。


「無事に帰してやるつもりだったんだけどなあ」

 だが、今度という今度は、動く事が出来なかった。

 目の前の少年が放つ鬼気に、体を石にでもされたかのようだ。

 背後で、何かが音を立てている。カタカタと。いや、音は一つではなかった。ロビーのそこかしこから、何かが震えるような音が――――――


 空を切った音がした――――太腿に軽い衝撃を感じたのはその時だった。とすん、と何かが入ったような。いや、その感覚でさえ束の間の――――

「――――っ、う、ああああぁ!?」

 血が、これまで見た事もないような量の血が、自らの足から噴き上がった。骨さえ砕かれたかのような痛みが襲い掛かってくる。堪えきれず叫び声を上げた刹那、左肩を何かに撃ち抜かれる。左腿、右わき腹、次々と何かが突き刺さってくる!


「非力な虫の分際でよく僕に傷を負わせたもんだ。ご褒美に、同じ痛みで殺してやる」

 激痛の中、白王の声が聞こえる。硬貨だ。腿の傷口にひしゃげた銅貨が突き刺さっている。視界が朦朧としている。 体が何の支えもなく地面に倒れ込む。痛むが、その痛みさえ遠のいていく。

「さあ、最後の一枚だ。その脳天をブチ抜いてやる……!」

 少年の声が宣告する。死への忌避感は、もはや起こらない。流し過ぎた血が思考も意識も失わせていく――――……


「死ね」

 音が空を裂いた。わかったのはそれが全て――

 ガウン!!

 爆音がした。その音が、仁の意識を再び現実へと呼び戻した。

「誰だ!?」


 白王は驚き、仁は何とか顔を上げる。

 朦朧とする視界の中に、新たな人影が見えた。大きな人影だ。コートを着ていて、腕をこちらに向けて突き出すように上げている。いや、あれは違う。銃だ。大きな拳銃を構えている……。

「……叉、反?」

 いや違う。背丈は同じくらいだが、尻尾がない。逆に、目立つのは額の辺りに見える角だった。特徴的な角。まるで触角だ。あれは、確か――……


 蛾の――……

「やめておけよ小僧。ライムントに叱られるぜ」

 雑音が混じったような、低い男の声だった。まるでスピーカーから聞こえて来るような。

「何をしにきた、虫!」

 白王が激昂した。そう、怒っていた。その大男がそこにいる事自体が、気に食わないとでも言うように。

「お前はしばらく戻らないはずだろう! こんなところで一体何をしている!」


 ふん、とざわついた笑いが聞こえた。

「喚くなよ。お前がそんなんだから、ライムントがわざわざ俺を呼び出したんだ」

「黙れ。お前らは言われた通り暴れていればいいんだ。テロくらいしか能のない使われが、僕に生意気な口を利くんじゃない」

 男はすぐには答えなかった。ただ、その足がゆっくりとこちらに近付いてきている。

有礼(ありかた)の馬鹿が騒ぎを起こしたせいで、今の俺達は好きに暴れられもしねえ。前みたいな処理班仕事さ。だがまあ、今回は悪くねえ。まさか、こんなに早く再会するとはな……」


「何を言っている」

「そこのガキの望んだ通りさ。妙な因縁だ。俺もあいつの顔が見たい。さあ、連れて行ってくれよ」

 男が銃を構えた。大きな銃だ。男の顔が見えた。吊り上がった複眼。全体を覆う体毛。頭部は完全に蛾だ。ただしその口元は黒い機械めいたマスクに覆われている。

「何のつもりだ……」


「地獄に落ち損ねた奴を迎えに来たのさ。あの蠍の探偵を。何せ俺は……」

 男の影が伸びる。その姿はまるで、地獄の底に住まう――――

「ゴクマの、破隠(はがくれ)だからな」

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