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曲がり角の影に隠れ、電撃銃を握り締めてレベッカは深呼吸をする。通路の先に二人、黒服の組織の人間がうろついていた。どちらも手にサブマシンガンを持っている。どうやら、奥の扉から出てきたばかりのようだ。
探偵が戦っていた大ホールには、あの扉の向こうへ真っ直ぐ進めばいい。緊張で手には汗が絶えなかった。ジェラルミンケースを持つ左手がぬめりそうだ。
《小火竜》の安全装置を操作し、電撃の威力を最低にする。ライムントに向けた時とは違う。これで相手に必要以上の痛手を与える心配はない。
この銃をレベッカに手渡した時の、父の瞳が思い出される。何も語らない。だが父の気持ちはわかった気がした。
――いつか、お前がこの引き金を引く日が来るのか?
「……父さん」
わたしは今、貴方の銃で戦っています。
「――おい、そろそろ引き上げるぞ。時間がない」
不意に男の声が聞こえ、レベッカはそっと黒服達を見た。まだ、こちらに気付いてはいない。どちらも若い男で、立場もそう変わらないようだ。厄介なのは二人とも銃を持っている。
「まだ犬野郎が見つかってないぞ」
黒服の一人が言った。
「もう時間切れだ。ぐずぐずしているとこっちまで巻き込まれる」
「なあ、本当にここを爆破するのか」
「さっきの音を聞いたろ? 作戦はもう始まってる。ライムント博士の指示で、焼却炉の爆発事故に見せかけるらしい。大方の奴等はとっくに逃げ出しているさ。俺達みたいな貧乏くじ引いた奴だけだよ、残っているのは」
「事故だろうが何だろうが、こんな大きな施設を吹っ飛ばしたらそれだけで大事件じゃないか。どうやったって人の目は誤魔化せないぞ。それなのに何でこんな大雑把な……」
……爆破? この研究施設を?
予想外の方向に事態は動き始めたようだ。男達の話は続いている。少し情報を集めなければならないだろう。
「上は処理班を呼んだんだそうだ。仮に消し損ねた物があっても、人目に触れる前にそいつらが全て後始末するらしい」
「処理班だって? 聞いた事がないな」
「俺もだよ。でも噂じゃ、結構前から結社には存在していたらしい。こういう時のためにな。さあ、早く行こうぜ。俺は爆破されるのも、処理班とやらに消されるのも御免だ」
「爆破、ねえ……。どうも現実味がないな」
黒服の一人が、そう言って首を捻った。
同感だった。これだけの大きな施設をただ破壊したら、注目が集まるのは考えるまでもない。初めに消防、次に警察。事故原因を調べるため、調査の手は深く及ぶだろう。モンストロ研究のために用意された設備や資料。それらと一緒に地下フロアまで焼き尽くせると、ライムントは思っているのだろうか。それは、少し目算が甘くはないのか?
黒服達の足が向きを変えた。ひやりとした汗が、レベッカの背を流れた。こっちにくる。電撃銃の引き金に指をかけ、壁に張り付くように身を隠す。
「今ここであいつに襲われでもしたら、洒落にならないな」
黒服の一人がぼんやりと言った。もう一人の黒服は答えなかった。足音がふと、途絶えた。
「……案外、ああいう風になったほうが楽かもな。怪物になったほうが」
「冗談だろ? お前もモンストロを飲みたいのか?」
「希望の見えない生活を続けるよりマシさ。俺もフュージョナーだったら、あのレベッカって女の実験動物だったんだろうよ」
不意に名を呼んだその声音が、レベッカの身を否応なく竦ませた。
その瞬間、電子音が後方のエレベーターの到着を知らせた。
身を隠す暇はない。扉が無感情に開いていく。中にいたのは一人だった。組織の人間が身に着ける黒服。体を情緒不安定そうに揺さぶっている。扉が開き切る瞬間、そいつと目が合う。
最初にレベッカを追っていた男だ。
「レベッカ・アンダーソン!!」
喚き散らすような声ともに、男の手に握られたアサルトライフルの銃口が上がった。同時にレベッカは踵を返して、曲がり角へと入る。扉の前にいた二人の黒服達がレベッカに気付いた瞬間、猛烈な射撃音が背後でした。目の前の男達が驚きながらもサブマシンガンを構えたその時、レベッカは小火竜の引き金を引いた。
銃弾が吐き出されるより早く、電撃が黒服達を襲った。もつれそうになる足を動かして全速力で走り、崩れ落ちる黒服達を追い越して振り返りざま小火竜を構える。
タイミングは全く同じだった。アサルトライフルの銃口が再びレベッカに狙いをつけていた。
「動かないで。指一本動かせば、こいつら以上の事になるわよ」
アサルトライフルを構えた男の口が、忌々しげに歪んだ。怒っているのか、体が小刻みに震えている。レベッカ達を連れ去り際、仁を蹴り飛ばしたように、どうやら精神的に安定しない性質のようだ。
「……ざっけんじゃねえぞ、このイカレアマが。組織の金で散々フュージョナーを刻んで実験してやがったくせに、今さら裏切りかましやがって。恥を知れってんだ、このアマ公!」
「認識に違いがあるようね」
言いながら、相手の様子を観察する。気質が不安定なのに反して、銃口はぶれていない。ここから撃てば電撃を当てる事は出来るが、体に流れた電流がその拍子に相手の指を引かせるかもしれない。この距離で銃弾を避けるなんて真似は、到底出来そうもない。
「銃を下しなさい。銃弾と電撃ならこちらのほうが早いわ。身の安全は保証しないけど、それでもいいの?」
「俺を馬鹿にしてえのか? 俺じゃてめえに勝てねえってか!?」
声高に男は喚き散らす。感情は昂ぶる一方だ。だが、銃を持つその手がぶれる事はない。
(この男……?)
違和感が湧いた。一見、膠着しているように見えるこの状況。だがそれは、もしかして相手の手によるものではないのか――?
「……っ、馬鹿野郎! 撃つんじゃねえ、素手でやれ!!」
「っ!?」
足元の黒服が上げた唐突な怒鳴り声が、レベッカを怯ませた。自分が隙を生んだ事に気付いた時には、繰り出されたナイフが迫っていた。思わず振り上げた小火竜の銃身が刃に削られ鈍い音を立てる。気を取られた刹那、下腹部を強い蹴り足が襲った。
「ぐっぅ!?」
「終わりだよ、イカレアマ!」
ナイフの煌めきが目に入った瞬間、レベッカは左腕を振るった。ジェラルミンケースが男の頭部を打った。浅い。感触でわかった。だがやるしかない。相手の腹に小火竜を密着させ引き金を引く。銃身の中で溜められた静電気が一挙に吐き出され、標的の体へと流れる。
「――――ッふざけるな、レベッカ!!」
振りかぶられたナイフは勢いを止めなかった。男の体を突き飛ばしレベッカは走る。正面の扉はスイッチ開閉だ。右手側に操作タブレットがある。
銃声が背後から響いた。止まりそうになる刹那、眼前の天井に連続して弾痕が生まれる。狙いが大きくずれている。振り返れば、電撃で沈めたはずの男達が立ち上がりつつあった。サブマシンガンが構えられる。咄嗟にレベッカは扉ではなく、左の曲がり角へと飛び込んだ。
追手が増えた。予定していたルートは駄目だ。別の道を行くしかない。
「待ちやがれ、レベッカ・アンダーソン!」
自らを呼ぶ怒号にレベッカは三度身を竦めた。
信じられない事だった。小火竜の直撃を受けたにも拘わらず、アサルトライフルの男は動いていた。無論、十全な動きではない。だが、距離を離して当てた二人でさえ、一分以上はまともに動けなかったのだ。直に受けたはずの者が、何故身動きを取れるのか。
答えは、直後にわかった。
男の体に、一筋の電流が迸った。見覚えのある光の色。小火竜の電撃とは違う、悍ましささえ覚える緑の雷。
――モンストロ!?
驚きに浸る暇はない。アサルトライフルの銃口が、既にレベッカを狙っていた。引き金を引くのは一秒とかからない。射線から外れるように身を捻って跳びながら、一か八か、レベッカは小火竜を天井へと向けた。
電撃が走った。電源回路に突如加えられた電圧が短絡を引き起こし、通路の明かりが消える。暗闇が訪れるのと同じくして、アサルトライフルのフルオート射撃が放たれた。そこら中の壁で銃弾が跳ね返り、金属音が響き渡る。が、それもすぐに止んだ。弾切れだ。
「クソっ、どこに行ったレベッカ!」
悪罵を聞き流し、痛みを堪えながらレベッカは立ち上がる。電力が回復するまでどれほどかかるだろう? いや、そもそも回復などするのか。考えを巡らせながら、闇の中で壁を頼りに進んだ。すぐそこにまた曲がり角がある。
男達の怒声が聞こえる。施設の構造を思い出しながら、足を急がせる。確か、この先は――。
背後で、何かが光った。振り返るまでもなく見当はついた。緑電。モンストロの光だ。あの男、生身の人間ながらモンストロを摂取したらしい。普通の人間ならば、受け皿となるフュージョナー因子が存在しないためにその負荷には耐え切れないはずだ。あの男にモンストロを与えたのは、一体誰だ?
一瞬、元上司の姿が頭をよぎったが、レベッカはすぐに頭を振った。事態は目まぐるしく、考えがなかなかまとまらない。思考を一本に絞る事にした。
通路に薄ぼんやりとした明かりが灯る。非常灯だ。視界は確保出来るがあまり嬉しくはない。この通路では追手から身を隠す術がない。追いつかれたら、次は逃げ切れるかどうか。
扉が見えてきた。白塗りの、普通のドアだ。だがここまで来ても、この先が何の部屋だったのかが思い出せない。
深呼吸をした。どの道、引き返せはしない。この先に道があれば進めるが、そうでなければ追手をここで迎え撃つほかない。
ドアノブに手をかけると、難なく動く。鍵はかかっていないようだ。
扉の向こうは薄暗がりだった。ここも非常灯が灯っていて薄暗く、奥までは見通せない。広く、いくつもの大きな機械が敷き詰められ、通路はその隙間を縫うようなものばかりだ。
「ここは……」
「処理区画だ。俺やあんたみたいなゴミにはうってつけの場所さ、学者先生」
闇の向こうから聞こえてきた声はレベッカの体を硬直させるには充分だった。一秒止まったか止まらないか、気付いた時には動いていた右手の小火竜の先に、制止を促すような黒い手があった。
「遅いぜ、先生。撃つなら撃つ、逃げるなら逃げる。どっちかでないと死んじまうぜ」
案外、落ち着いた声だった。銃を向けたまま、レベッカは慎重に相手を観察する。黒い体毛に覆われ、上半身が変貌している。頭部は犬。どうやら、獣人態のようだ。ここへ来る前にモンストロを口にした男の事を、レベッカは思い出した。
「貴方は……」
「とりあえず銃を下してくれ。俺は仕事を済ませた。もうあんたとは敵じゃねえし、殺されてやるつもりもねえ」
男は両手を挙げた。しかし、レベッカは銃口を逸らさなかった。
「おい。学者先生」
「言われた事を実行しているだけよ。疑いがあるのなら晴れるまでは疑い切る。仕事を済ませたと言ったわね、どういう意味?」
男の空気が変わった気がした。微妙な変化だ。言葉を選ぶような沈黙。
「――俺が組織から頼まれたのは、あんたの身柄の確保と実験への協力だ。それで俺は野良犬に戻るのさ。あんたをここまで連れてきたし、薬を何本もぶち込まれたが戦いもした」
戦った。そう、この男は戦っていたのだ。レベッカが助けなければならない、もう一人の人物。探偵尾賀叉反と。
「……探偵はどうしたの?」
内心気を落ち着かせながら、レベッカは言った。
男の瞳が、暗がりの中からレベッカを見ていた。
「殺した。焼却炉の中に落としたよ。あれで生きてるなら、人間でもフュージョナーでもねえだろう」
男の言葉にも、レベッカは淡々と頭を働かせた。
「焼却炉に落としただけ? 頭や心臓にダメージを与えたりだとか、生命活動の根幹にかかわるところには手を出していない?」
男の空気がまたも変わった。こちらに対する不審、そして嫌悪の色だ。
「学者先生……あんた、何を言っていやがる」
「直接殺害したわけでないのなら、まだ生存の可能性はある。炎に接触するまでに脳が動いていたのなら、防衛機能が働いたはず」
うまくすれば装置が完全に働いたかもしれない。それなら、ほぼ確実に生きているはずだ。宝球然り、ライムントが造り出したあれは、フュージョナーに人類の枠を超越させるためのものなのだから。
「焼却炉から出る灰は、塩素抜きのための洗浄槽へ行くのよね」
「……それが何だってんだ」
一つ、考えが湧いた。現状、有効な一手だろう。上手くいけば、少なくとも今のまま先に進むよりは勝算がありそうだ。
「私の味方に付いて」
電撃銃を向けたまま、レベッカは言った。
一、二秒の間を空けて、男が口を開いた。乾いた笑いが、暗がりに反響した。
「は、はは……冗談だろう。何で俺があんたに加勢しなけりゃならない」
「助っ人が要るの。探偵の元に辿り着くまで、戦いに慣れた人間が。貴方は組織の人間じゃないし、任された仕事は終えている。次は私に付いても何の問題もないでしょう?」
「理由になってねえな。俺が誰にでも尻尾を振ると思ってんのか? あんまり人を舐めているとろくな事にならないぜ、先生」
挙げた掌が力に戦慄く。狙いは頭に定めてある。ここで退く必要はない。
「それによ、探偵が生きていると本気で思っていやがんのか。まさか、灰を拾いに洗浄槽まで行こうって?」
「生きている探偵を迎えに行くのよ。巻き込んでしまった罪を償うためにね。目的を果たすためならどんな手段でも使う。危険な相手でも力になってもらう」
犬の顔がわかりやすい笑みを浮かべた。男の感情が如実に現れている。乱れる様子もない。人間性が保てているのだ。体内のモンストロが一時的に鎮静化しているのだろう。
「気合いは十分だな。だが、すぐにでも殺せる相手に従う馬鹿はいねえ。俺がその気にならない内に消えな。今なら見逃してやる」
本当に見逃すかどうかはわからない。相手が気紛れにこちらを襲う可能性は十分にあるのだ。何よりまだ、交渉を諦める気はない。
「……お金が必要なら」
「却下だ。馬鹿かお前。こんな姿になったんだ。金はたんまりと貰っている、今さら駄賃が要るかよ」
「……なら、その体を――」
「また妙なクスリをくれるってか。つくづく馬鹿だな。今度はあんたが俺で実験しようってか、先生?」
「進んでモンストロを使ったのは貴方でしょう!? 私は実験なんて……」
「事前によく聞かせてもらったぜ、組織であんたが何をしていたのか」
男が手を下した。銃を持つ腕に痺れを感じてきた。緊張が解けて、恐ろしいものがレベッカを飲み込もうとしていた。過去という恐ろしいものが。
「あんたが実験で使った奴等も見た。ひでえもんだったぜ、あんたやライムントの玩具にされて、今じゃあいつら――」
「黙りなさい!!」
叫んだのは、垣間見た記憶を消すためだった。ベッドの上に横たわる彼らは身動き一つしない。――いや、出来ないのだ。変わってしまったから。その体をモンストロに捧げたせいで。レベッカ・アンダーソンに関わったせいで。
「おお、怖い怖い。都合が悪くなったら俺も殺すのかよ、先生」
「私は、誰も殺していない……」
「殺したようなもんだろう。今のあいつらは組織に生かされている畜生だ。自分の意志なんてものはねえ。未来も見えやしねえんだ」
男の言葉が、いやでも意識を過去へと誘う。投薬。施術。毎日、毎日。貴方達を治すためだと言って。彼らの信頼に応えるために。自分の目的を果たすために。
「あんたが造った試作品のモンストロのせいで、連中は今も元の姿に戻れねえ。俺も、もう人の事は言えなくなっちまった。なあ先生、あんた、探偵を助けてどうするつもりだ? あいつも様子がおかしかったが、まさか、あいつにも何かしたのか?」
今さら問われるまでもない。
ライムントは言った。かの探偵には以前から目をつけていたと。〝心臓〟をテストするにはうってつけの人材だ、と。
――名前を見てもぴったりじゃないか。私達の〝心臓〟に。
「なるほど。要するに懲りちゃいねえってわけだ。あんたは結局、人様の体を弄らなきゃ収まらない変態って事さ」
「……あんまり汚い言葉を聞かせないで欲しいわね。耳が汚れるわ」
「汚れてねえところがどこにあるってんだ先生。自分の手を見てみるんだな」
埒が明かない。これ以上問答を続けている暇もない。味方に引き込めないのなら、無力化するしかない。
「……最後にもう一度だけ聞くわ。私の味方に――」
「なあ、先生。あんた、間違ってるぜ」
後頭部を叩き割られるような、そんな痛みが、レベッカから意識を奪っていった。ジェラルミンケースが手を離れ、体が崩れ落ちていく。
「会った瞬間に俺を撃つべきだったんだ。追われているんならな」
激痛に頭が耐え切れない。倒れ込んだのはわかるが、その感触は感じない。だが、頭上に影が差したのはわかった。犬男の影ではない。
「手間かけさせやがって。レベッカ」
緑電を放つ黒服が、彼女を見下ろしていた。
「あ、なた……」
まだかろうじて口が動く。
「しばらくそこでじっとしていろ。お前はすぐに殺してやる。その前に……」
緑電迸る右手を掲げ、黒服が前を向いた。
「野犬狩りだ」
犬の男が僅かに怯んだような間を空けて、口を開いた。
「どういう事だ? 組織はもう俺の事は放っておいてくれるんじゃねえのか?」
「ライムントはそうするつもりだったらしいがな。生憎とそれじゃ困るというお方もいるんだよ。で、俺達処理班の出番ってわけだ」
「処理班だと?」
「そうさ。悪いがお前はここで眠れ」
言葉とともに緑電が弾けた。唸り声を上げた犬男が後ろへ跳び去るとともに、その形態を変化させる。
「ぶち殺してやるぜ、野良犬!」
黒服が喚いた。レベッカは何とか体に力を入れる。二人はあっと言う間に奥へと進んでいく。電撃が弾け、黒犬が吠える。
立ち上がった瞬間に、体がぐらつく。とても立ってはいられない。這うような格好でレベッカは入り口へと戻り、すぐ近くの壁に手をついた。
見取り図が壁に貼られていた。良い事がひとつわかった。貯水槽へと続くエレベーターがこの壁沿いの先にある。
深呼吸をし、何とか立ち上がりながらレベッカは歩き出した。急がなければならない。次に見つかれば今度こそ命はないだろう。
混濁しそうになる意識を保ちながら、レベッカは歩いた。足元はおぼつかない。何とか進んではいるものの、目の前には闇が広がっている。
徐々に意識が遠のいていくのを感じながら、レベッカはそれでも歩き続けた。
※
――花が咲いていた。立ち並ぶ木々についた幾万もの蕾が開き、白、薄紅、赤に近いものと鮮やかな色合いを様々に見せる。
「見て見て、ママのはな!」
声がした。と、同時に指をさす。ああ、これは私の声だ。小さい頃、父と母と三人で見に行った、ワシントンの桜祭り。
「ふふ、そうねえ。綺麗ね、レベッカ」
見上げた母が笑っていた。小さなレベッカにとって、母はとても大きな人だった。太陽の影に優しい母の笑顔がある。白金の髪の間から生えた桜も、周りと同じように花開いている。
少し後ろを歩く父は何も言わない。でもレベッカ達のやり取りを聞いているのはわかる。父はそういう人だ。
母の歩みはゆっくりで、レベッカも父もそれに合わせて歩いていく。
「ママ、足はだいじょうぶ?」
「大丈夫。レベッカは優しい子ね」
母は足が悪かった。出かける時は杖が欠かせなかった。レベッカが足の事を心配すると、母は決まって、優しい子だと言ってくれた。
「あ、ワタアメ屋さーん」
「こら、走っちゃ駄目よ。レベッカ」
母が笑って言う。愛情をかけられて育ったと思う。父も母も、レベッカの事を大切に育ててくれた。母の足が何故悪いのか、その原因はいくら小さなレベッカでもわかっていたが、それ以上悪くなると思った事はなかった。いや、仮に思い浮かべたとしても振り払ってきた。
だって、こんな優しい人たちがこれ以上不幸になるとは、とても考えられなかった。
「――どけ、退けえ!」
賑わう桜祭りの会場に相応しくない怒鳴り声が、不意に人ごみの中から聞こえてきた。人ごみがすぐに割れた。
飛び出してきたのは男だった。フードを被っていて顔は見えない。何かに追われているかのように、こちらに向かって駆けてくる。
「レベッカ!!」
父と母が叫んだ。その声が重なったのを聞きながら、目の前の男が銃を構えるのを見た。銃だ。弾が出て、体に当たればとてつもなく痛い。あの銃だ。
ほとんど転ぶように母がレベッカの体を掴んだ瞬間、銃声が轟いた。
一発だけじゃなかった。三発、四発は聞こえたと思う。一発はあらぬ方向へ飛び、一発は地面を削って、二発が母の体にたどり着いた。
間を置いて、炸裂音のような何かが響き、フードを被った男が倒れた。父が構えていて銃のような物を下ろし、すぐさま母とレベッカの元へと駆け寄ってきた。
悲鳴が聞こえてきた。どうやら騒ぎが広まっているらしい。だが、レベッカには朧な出来事だった。意識がそちらまで回らない。自分の上に崩れ落ちる母の重みだけが現実感を伴っている。力が抜けていく母の体。とても自分では、支えきれない。
「……ママ?」
起き上がりながら、母に触れる。背中の辺り、抱きかかえるような格好になる。湿っていた。中指と人差し指が、違和感に触れた。
手が、レベッカの手が濡れていた。この時の自分の手を、今でもはっきりと思い出せる。真っ赤に染まった右手。何て小さな手だろう。
「ぁあ」
母の服に二つ穴が空いていた。どちらも色が変わっている。どんな絵具でも出せないような、気持ちの悪くなる赤。
「――……っあああ」
吐き出すように漏れた声は、あっという間に絶叫に変わった。
気が付くと、病室の中にいる。
目の前のベッドで母が眠っている。寝ているだけだ。撃たれた傷も、今は塞がっている。
「回帰症です」
淡々と、医者が言った。体を冷やさないようにかけられた布団を、医者はそっと持ち上げる。
茶色い枝が見えた。レベッカの人差し指の何回りも太く、さらに細い枝がいくつか生えていた。細い枝のさらに先端から伸びた枝に、緑の蕾がいくつかついていた。
「傷口が再生するのに際し、さらに進行したようです。切り落とす事も出来ますが根を除去しない限りはまた生えてきます」
「では根を全て取り除けば……」
「残念ですが、傷口のみならず、全身に変化の兆候が見られます。今ある根を全て取り除いたとしても、次にまた発生しないという保証はありません」
嫌な話を医者は淡々とした。父はしばらくの間押し黙った。レベッカの脳裏に浮かんだのは桜祭りの桜だ。鮮やかな赤、貝殻のような白、珊瑚の如き薄紅。風が吹いて、花びらが一斉に舞い散る。目の前を埋め尽くす桜吹雪の中へ、母の姿が消えていく。
――幸せは奪われる。何の前触れもなく、理不尽にレベッカの日常を打ち壊していく。
心の中に空虚が生まれて、幼いながらにレベッカはその穴を自覚して生きる事になった。母の笑顔のような桜色の日々は消えた。色のなくなった世界で、レベッカは父と共に母のいる病院へ通い続けた。
十年以上経っても、母はベッドの上で眠ったままだった。桜の花は毎年のように咲いた。花が咲くのは母がまだ生きている証拠で、その色艶は母の健康状態を示していた。桜は母の血を吸い上げ、その内側に母の血を通わせていた。それがどれだけおぞましくても、桜もまた母の一部なのだった。医者は淡々と言った。お母さんは死んだのではない。意識が戻らないのでもない。ただ、生きる形が変わっているのだと。眠りながら、人間とはまた違う生命活動をしているのだと。
十年の間にレベッカは勉強をした。母の体の事。自分の体の事。自分達、フュージョナーと呼ばれる生命体について勉強を重ねた。
忌まわしい桜を取り除き、再び母の笑顔を見るために。
そうして、一足早く大学に入学し、二年の歳月で生物学者という肩書をレベッカが手に入れた頃、彼女の前に肩に蛇を持つ男が現れた――