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思考が止まった。血管の中を血があっという間に引いていくのがわかった。トビを切り裂いて突き落とした少年は、特に表情を変える事もない。ペントハウスの影に、仁は咄嗟に身を隠した。
「一匹は処理。まあ、この高さなら死んだかな。生きていたとしても、落ちたのがあそこなら同じ事だ」
少年が一人ごちる。落ち着け。自分にそう言い聞かせるが、それが限界だ。考えるという事が出来ず、息を潜めるので精一杯だった。
「さて、出てきなよ。隠れたって無駄だ」
白虎の尾を持つ少年の声が聞こえた。発声の仕方からして、こちらの位置に見当がついているようだ。なら、どうする。抵抗は無意味だ。
オーバーオールのポケットに、さっき預かった電撃銃を仕舞う。深呼吸をして、仁は物陰から姿を見せた。
「いい子だ。こっちへおいで。あいつみたいにはしないから」
あいつ、というのがトビの事を指しているのだという事に、仁は一拍置いて気付いた。勇気を出して、一歩ずつ少年の元へと歩いていく。足取りが重い。少年までの距離が遠く、一歩を踏み出すのに、いやに時間がかかる気がする。
少年からおよそ金網フェンス一枚分離れた辺りで、仁は足を止めた。
「全く、実験中に変な騒ぎを起こしてくれたよね。おかげで僕まで出張る事になったじゃないか。ライムントの奴も人質くらい自分で管理すればいいのに……」
仁の顔を見た少年がぼやく。どこかで聞いたような声だ。そんなに前じゃない。そう、ついさっきだ。あのライムントと名乗る男の部屋で、スピーカーから聞こえてきた声。
「……叉反を戦わせた人だね?」
半ば反射的に、仁は言った。言葉を口にしなければ、体は竦んだままになりそうだ。
「サソリ……。ああ、あの探偵ね。そうだよ。被験体の管理も僕の仕事だからね。僕は白王。白い王で白王だ。あの探偵はさっきのより見込みはあるけど、どうなったかなあ……」
「叉反はどこ!?」
「……何? なんで熱くなってんの? ああ、そうか。知り合いだったんだっけ」
さも納得したように軽く目を見開いて、白虎の少年は言った。
「さあてね。実験場の壁を壊したっていうのは聞いたけど、あとは知らない。ま、大丈夫だとは思うよ。あの探偵には特別な物をくれてやったから」
「特別な物?」
「運命を握る物だ。使いこなせるかどうかは、あの探偵次第だけどね」
そう言って、手袋をした右手を、白王は差し出した。
「で、君の運命は僕が握っている。いくら子供でもわかるでしょ、僕に従わなければどうなるかぐらいはさ」
自分が子供である事を、仁は充分に承知していた。下手な抵抗は、危険だ。
「僕をどうするつもり?」
「安心していいよ。君を捕まえる気はないから。むしろ逆だ、ここから出て行ってもらう」
予想外の言葉を理解出来ず、仁は身構えたまま、少し固まった。
「……どういう意味?」
「レベッカが保管庫から君と鳶を逃がしたのを確認したから、僕がコンテナの行き先を変更した。ちょっと事情が変わってね。早くしないと誰一人生きて帰れなくなるから」
「……?」
言葉に詰まった仁に構わず、白虎の少年は続けた。
「この施設は放棄する事が決まった。今から三十分後、焼却炉を最高温度まで引き上げて建物を焼き払うんだ。何一つ痕跡が残らないようにね」
あと三十分――。燃え盛る炎が建物を覆い尽くす様が目に浮かぶ。あと三十分だって?
「何で……そんな事を」
「上の方針だよ。実験のために部外者を引き込んだのはいいけど、君らの恭順は見込めそうにない。だったら、今後妙な事が出来ないように施設ごと葬ろうってわけ。ま、ここも随分長く使っちゃったからねえ。どの道そろそろ処分しなきゃいけなかったんだ」
……どう考えても、こっちの手には負えない話になってきた。
「でも、どういうわけかライムントの奴が、君だけは生かして帰すように言ってきた。わけわかんないおっさんだけど、一応、うちの組織じゃトップに近い立場だから、言う事を聞かざるを得ないんだよね」
仁は、白衣の男の顔を思い出した。
「……ライムントって、蛇が生えたおじさんだよね。何で僕だけを?」
「さあ。神の子がどうのって言ってたけど、よく知らない。興味ないしね」
また『神の子』だ。ここに来てからは、混乱させられる事ばかりじゃないか。
「さて、もう話はわかっただろう。黙ってついてきてくれると助かるな。抵抗されると加減できないからさ」
「……他の皆は、どうなるの?」
「今見たでしょ? ああなるんだよ。レベッカも、探偵もね」
迸る殺気を纏い、少年が口の端を歪めた。トビの体を裂いた爪と爪の間で緑の電流が弾ける。
「殺す気なんだね……」
窮地が、仁の口数を少なくさせていた。
「別にいいだろ、君は助かるんだから。僕にしてみれば邪魔になりそうなのは皆殺しにすべきだと思うんだけどね」
「馬鹿言うな」
ぎりぎり、それだけを吐き出す。白王はそれを聞いても笑うだけだ。とにかく、逃げないと。あと三十分で叉反達を見つけないと。
「ああ、そうだ」
放電がふと収まる。少年が、人差し指を立てた。
「生かしておくにしても、喉くらいは潰しておいたほうがいいよね。何か喋られても困るし」
――やばい!!
咄嗟にその場から跳んだのは、幼い頃から旧市街遊びで培ってきた身体反応の賜物だった。殺意に満ちた少年の爪が空気を掠める。忌々しげな舌打ちが聞こえた。
反射的に、仁はポケットの中の小火竜を抜いていた。戦わなければという、声にならない声が聞こえた気がした。
「躱すなよ……。めんどくさいから!」
苛立ちとともに、少年の指先がこちらを向いた。その瞬間、緑の電流が爪の先で弾けた。
銃口を向けたのは内なる抵抗の声に耳を貸したからだ。少年の雷が放たれるのと、小火竜の引き金を引いたのは、全くの同時だった。
身構えた。緑の雷が自分に襲いかかる様を想像した。だが、放たれた二つの雷は激しい音を立ててぶつかりながら、まるでガラスの壁で隔てられたかのように、蜘蛛の巣状に広がって霧散した。
「……ああ?」
少年が喉の奥で呻った。
「マイナス電荷同士がぶつかったせいか。反発がうまく作用したってわけだ」
口調には苛立ちを含みながらも、少年は仁を見て酷薄な笑みを浮かべた。
「偶然とはいえ面白い事するじゃん。じゃあ、もう少しだけ遊ぼうかな」
少年が顔を覆うように右手を上げる。次の瞬間、緑の電流が全身から放たれ、思わず仁は目を閉じた。
慌てて目を開ける。自分を殺そうとしている相手の前で目を閉じるなんて――……
「え?」
仁は自分の目を疑った。目の前にいたのは、白虎だった。小柄な、子供とも大人ともつかない白い虎。だが、その目つきは、明らかにさっきまでいた少年のものだった。
「……回帰、症?」
「違う、全獣態だ。僕はすでに回帰を外れている」
白虎が少年の声で言った。はっきりと。
「うそ……。何で、こんな事が……」
「モンストロだ。ただし、鳶男が持つせこいストーンとは違う、宝球の力だよ」
完全に体は獣と化したはずなのに、少年は何故か少年としての意識を失ってはいないようだ。口元をまるで人のように歪め、虎の顔で器用に嗤う。
「さて、あと三十分しかないんだ。遊ぶなら早くしないとね」
ばちり、と音が鳴った。否応なく身が固まった瞬間、右手に突き刺すような痛みが走った。
手首で何かが光っていた。輪だ。緑の電気で出来た輪。それが音を立てながら手首の周りを回っている。
「鬼ごっこだ。五分やるよ。五分の間に僕に触れる事が出来れば君の勝ち、かすり傷ひとつなく外まで安全に運ぶ事を約束しよう。ただし、もし五分で僕を捕まえられなければ……」
前足の指を滑らかに動かして、虎は言った。
「その腕の輪っかが君の手首を吹き飛ばす。でもその時は、特別に君にもモンストロをくれてやるよ。うまくいけば、吹っ飛んだ手が生えて来るかもしれない。まあ、虫の足かもしれないけどね」
迸る嫌悪の感情に、仁は恐怖さえ覚えた。白虎の瞳は負の感情に光って、気を抜けば喉笛を食い千切られそうな錯覚に陥る。
「……素直に運んでくれればいいだろ。遊んでなんかいないで」
「嫌だね。僕は、生意気なガキが苦しむのを見るのが好きなんだ。生き延びたければ力を示せよ。それが出来ないなら潔く死ねばいいんだ」
見開かれた虎の目が、仁の体を射竦める。
「さあ、始めるよ。血を流して悶えてみろ!」
負の感情を噴出させ、白虎の体から雷流が発散する。引き金を引きざま扇のように腕を振って、仁は小火竜の電流をばら撒きながら、一気に背後のペントハウスへと駆けた。追跡を振り切るにはついて来られない場所へ行くしかない。全力だった。全力で仁は駆けた。
だが――
「あれ、いいの?」
すぐ後ろで、生き物の気配がした。
「虎に背を向けて」
足が竦む。息が止まった。背の翅に尖った何かが触れた瞬間、死にもの狂いで仁は跳んだ。
思ったより、距離は空かなかった。歩みを止めた虎が笑い声を上げた。
「あっはははははは!! 何、今の! まさにゴキブリじゃん!! ふ、くくくッ!」
「お前……ッツ!」
恐怖と屈辱で胸の奥がぎりぎりと痛んだ。つん、としたものが込み上げてくる。
「はははは。でも、これでわかったでしょ? 下手に逃げようとすればその体を掻っ捌いてやる。お前はここで、僕と死ぬか生きるかの遊びをするしかないんだよ」
何が遊びだ。こんな下らない気紛れに巻き込んでおいて、ふざけた事を――
「そら! 早くしないと腕が飛ぶぞ!」
虎の爪が再び動いた。怒りを抱く間もない。爪が体を掠めるぎりぎりのところで、仁は一撃を躱す。いや違う。逆だ。爪のほうが体を掠めるように動いているのだ。
楽しんでいる。逃げ惑う仁を追い詰めて、五分間を楽しみ尽くすつもりだ。仁が一足で跳べる距離ぎりぎりを白虎は詰めてくる。
小火竜のグリップを掴む。迷わず引き金を引いた。電流は白虎の体に導かれるように飛び出していく。だが、無駄だった。向こうにしてみれば躱すまでもない。自身の緑電を少し放てば、それだけでこちらの電撃が弾かれてしまう。今出来るのは、その事実を認識する事くらいだ。
白虎が前足を振り上げた。鋭い爪が陽光を受けて鈍く光る。小火竜の口を足元に向けた。放たれた稲妻が、再び緑電と反発して舞い上がる。電気の壁を切り裂いて爪が真上から降ってくる。小柄な体の足が、全力でその発条を発揮した。至近距離の詰め合いだ。体はともすれば接しそうなのに、相手はまるで偶然、仁が爪にかかるのを待つかのようだ。
体は必死だ。たとえ踊らされているとわかっていても、避けないわけにはいかない。何とか手段が見つかるまで逃げるしかない。
あと一体何分だ? あとどれだけ、こうしていられる?
虎の姿が目の前から消えた。怖気が走る瞬間、白い影を視界の端に捉える。
「死んじゃう?」
少年の声が囁いた。足は動かなかった。爪が接近してくるのが見えた瞬間、仁は自分の人生が終わるのを悟った。ボケ探偵、こんな時くらい助けに来いよ――!
「いいザマだ」
少年の笑い声が、耳に残った。
爆音が轟いたのは、まさにその瞬間だった。
「何!?」
根元に特大の鉄球か何かが直撃したような、そんな衝撃が走った。建物が震えていた。白虎の動きが、あり得ないほど長く止まった。驚愕。戸惑い。それは少年が仁の前で見せた、唯一の隙だった。
叩き付けるかのようなスピードで仁は右手をその縞柄に接触させる。瞬間、電流が迸り、右手のリングに干渉する。コンマ一秒と経たぬうちに、緑電のリングは何事もなかったかのように掻き消えた。
直後、白虎が表情を変えた。
「お前……ッ!」
「遊びは僕の勝ちだ。帰らせてもらうよ!」
言うが早いか、全速力で仁は駆けた。もはや一秒だってこいつと一緒には居たくない。早く、早くこいつから逃げないと。
思考が働いたのはそこまでだった。足を踏み出そうとした瞬間、神経に畳み掛ける衝撃に仁は打たれた。全身を律していた意識の糸が、一瞬で断ち切られる。四肢は力を失い、体が崩れ落ちていく。
「遠慮するなよ。運が良かったとはいえ、約束は約束だ」
激しい緑の光が、虎を包み込んでいた。発光が収まった時、白虎の尾を持つ少年が、再び姿を現していた。
「何が起こったのかはあとで調べさせる。まずは運び出してやるよ、明槻仁」
少年がゆっくりとした足取りで近付いてくる。危機からは、まだ逃れる事は出来なかった。圧倒的な力と嵐のような気紛れを持ち合わせ、その手に仁を掴もうとしていた。
6
目を開けると、明け方の空が遠くにあった。遠く、見上げるほど遠く。俺はしばらくの間、何も考えられなかった。目を開けてはいるが、感覚としては不確かだ。俺は、どうやら目を開けているらしい。夢の中にいるようで、だったら、このままいっそ眠ってしまいたい。
大きな音が聞こえた。目を開ける前に、だ。とてつもなく大きな音がしたのは、たぶん確かだろう。記憶に残っている。俺はゆっくりと記憶を辿っていく。俺は一体どうなったのか。以前に目を閉じてから目を開けるまでに、何があったのか。
――ばいばい、失敗野郎。
記憶の声は、直後に起こった痛みも連れてきた。肉が裂け、血管が破裂する瞬間。真っ二つになったと思ったその時には、すでに地面に向かっていた。
死んだはずだ。じゃあ、ここはあの世か。
俺は手を動かした。重かった。さらさらと何かが静かに崩れていった。首を横に動かすと、灰色の中に埋まった、鳶のアシユビが見えた。
「死んでも楽にゃならないんだな」
そんな事を呟く。体に痛みはないがひどく重いし、傷口も、どうやら塞がってはいるが、しこりというか、切りつけられた時の感覚とでもいうか、そういうものが残っているようで気持ちが悪い。浅く息を吐く。静謐を感じる。寝起きみたいな感覚だ。心臓も動いているらしい。
……つまり、まだ生きている。
「いやいや嘘だろ」
起き上がる事はまだ出来ない――したくないが、とにかく俺は少し意識をはっきりさせた。いやだって、無理だろう。体分断寸前だったし、何より、まず助からない高さから落ちたのだ。普通に考えれば、生きているはずがない。
「どうなってやがる」
ようやく、俺は身を起こした。袖に被さっていた灰色の砂が、静かに落ちた。
手で掬ってみる。砂じゃない。灰だ。粉末になった灰の山。
俺は再び上を見上げた。巨大な円に切り取られた空。
屋上から見下ろした円形の、見えない底の正体が、この灰の山であるらしい。
出口は高い。壁をよじ登れば行けるんだろうが、取っ掛かりのような物は見当たらない。
落ちたら、終わりってか。
……ほら見ろ、これだ。
結局、世の中、そうそう上手くはいかない。どころか、ろくでもない事ばかりだ。何だって何度も何度も命の危険に晒されなきゃならない? 俺はただ、普通に生きたかっただけだ。普通に飯食って、普通に仕事して、あとはちょっと人から認めてもらえれば、それで――……
――俺は飛ぶ。
声がした。昔聞いた声が。よく知っている奴だ。生まれた時からの付き合い。鏡の中に映るうるせえ奴。
――俺は飛ぶんだ。
……うるせえってんだ。
――こんな下らねえ街は出て行ってやる。新しい場所に行くんだ。そこで、俺は世の中に飛び出す。俺だって何かが出来るって事を思い知らせてやる。俺の腕を見て笑いやがった奴等全員に、目に物見せてやるんだ。
……そうかい。しかしお前、ここで仕事一つ満足に出来ねえのに、新しい場所で何やろうってんだ?
答えたのは別の人間だった。冷たい目が俺を見ている。吐きそうになる。そんな目で見るんじゃねえ。ガキの戯言だったんだ。笑って見逃してくれりゃいいだろうが!
へえ。じゃあ、やっぱりお前にゃ何も出来ねえんだな。
夢みたいな事、言っておいて――
「――……ぁあああ」
体を支え切れない。アシユビの爪で頭皮を裂いてしまいそうだ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。思い出したくない! 自分の言っていた事なんて……!
やっぱり、やめよう。ここで、リタイアしよう。
くだらねえ。ろくでもねえ。無理だったんだ俺には。こんな、こんな意志薄弱な俺には。
遠くのほうで、何かが音を立てだしたのは、その時だった。
いや、よく聞けば遠くじゃない。この円形の壁の中からだ。しかも、だんだん近付いてくる。
がこん、がこん、と音は移動し、唐突に左方の壁が水飲み鳥の仕掛けのように開いた。間を置かず、壁の中から大量の灰が流れ出てくる。朦々とした煙が立ち、陽光が照らす円形の中に漂う。
どうやら、ここの灰はああやって溜まっているらしい。だから何だって話だが。
……ああ、何だありゃ。灰の上に何かがある。
俺はすぐ身近にあったそれに手を伸ばした。茶に近い、よく見たことがある色だ。鳶色。この右腕の色だ。灰の上にあったのは鳶色の羽根だった。俺の体から抜けた、って事はない。羽毛めいた物はあっても翼はない。
煙が晴れてくる。がこん、と壁が元のように戻る。
違和感があった。灰の山の中に、妙な物が混ざっていた。でかい。大柄の人間くらいの大きさの、赤い何かの塊。鞘、とでもいうか。昆虫の卵みたいな。そんな形をしている。
「……あれは」
赤い鞘の中に、俺は人影を見つけた。その次の瞬間には、俺は灰の中から立ち上がっていた。
――爆発した。
炎の中に落ちていく最中は、全ての事象がスローモーションに思えた。背で火炎の揺らぎを感じていた。炎に呑まれる瞬間も、それとわかった。体があっという間に焼き尽くされるのをはっきりと知覚した。
何かが起こったのはそのあとだ。暗転のような間があり、大きな爆発音が一つ。それからしばらく経って、叉反は自分の前に何者かの気配を感じた。その時には、もう火炎の熱は感じなかった。
目の前にいるのが何なのか、何となく予感があった。目を開けた時、予感に間違いがなかった事を知った。
そいつは血のように赤い胴体に、蝙蝠のような翼を広げ、そして太い一本の蠍の尾を持って目の前に鎮座していた。四足の獣だ。巨大なその口を開ければ、否応なく、自分などひと齧りだと想像させる。
「お前は何者だ」
待ち構えていた怪物に向かって、叉反は言った。
怪物は答えず、ただ不気味に笑っていた。黒曜石のような爪のある前足を動かし、まるで猫が眠るような姿勢を取りながらも、爛と光る二つの目が、じっと叉反を捉えている。
笑う顔は、まるで人間のようだ。
「質問がわからないのか。お前は何者だと聞いている」
「そんな問いをする必要があるのか、探偵尾賀叉反」
さながら地獄の底に吹く風だ。ごうごうと呻り立てるような声で、怪物が答える。
「俺達は一心同体だ。何者かなどと問う必要はない。ただ使えばいいのだ。手に入れた力を」
「どういうつもりか知らないが、願い下げだ。とっとと出て行ってもらおう。俺には関係ないし、今後も関わるつもりはない」
「いらない物を簡単に捨てられるなら、とっくに尻尾を千切っているだろう。もはや無理だ。俺はお前となった。お前の血肉は俺の物で、お前の心には俺が住み着いている」
「図々しい奴だ」
叉反はコートの内側に手を伸ばした。腋の下にホルスターが吊るされ、中に拳銃が入っていた。FEGモデルP9R。かつてテロ組織との戦いで手に入れた、叉反の銃。
「簡単に銃を向けるようになったな。叉反」
人間の顔で、怪物が言った。額に、口元に皺が出来ていた。
「銃は最低、ではなかったのか?」
「知ったような口を利くな。お前は俺じゃない」
「いいや、同じだ。お前が頑なに銃を握らなければ、俺達は出会わずに済んだかもしれない。だが、お前は銃を握り、力を使って、人を殺した」
巨大な蝙蝠の両翼が、叉反を包み込んだ。怪物の顔が間近にあった。
「お前が自らの道にぶちまけた血の匂いを辿って、俺はやって来た。お前は顔を逸らして俺を見ないようにしていたが、俺はこうしてお前と顔を突き合わせている。よく見ろ、お前の顔を」
「消えろ」
引き金に指をかける。力を込めれば、弾が出る。前のような減装弾じゃない。怪物の脳天を貫通して、くたばらせるには充分だ。
「くく、残酷な事を考える」
笑みを消さず、怪物が言った。
「だが、どうしてもそうしたいなら、顎の下に銃を当てるがいい。他人を撃つより怖いだろうが、そのほうが確実だ」
「俺は消えろと言ったんだ」
蝙蝠の翼が大きく羽ばたいた。視界が不明瞭になる。銃を構えている腕の感覚が消え、体がそこにあるという感覚もなくなっていく。
「挨拶はこのくらいにしておこう。まずは楽しむがいい。お前が手に入れた、人を超えた力を」
羽ばたきが大きくなるにつれて、意識が浮上していくのがわかった。
目を覚ました時、叉反は自分が横になっている事を悟った。掌に、ざらざらとした感触がある。視界にあるのは空だ。真円に切り取られた、白っぽい空。
「よう。起きたか」
知っているような、知らないような声が聞こえた。即座に叉反は身を起こした。懐に手を入れるが、右手の先には何もなかった。
銃。そう、P9Rは、本来は持ってきてなどいない。
「おい、落ち着けって。俺は助けてやったんだぞ」
目の前の癖っ毛の男が呆れたように両手を挙げる。男の右手は鳶のアシユビだ。それでようやく、叉反はこの男がコンビニにいた若い男だという事を思い出した。
「……助けた?」
「説明し辛いけどね。あんたが灰の中に沈みそうになっていたから、引っ張り上げた。見かけより重かったぜ」
「俺は、どうなっていたんだ?」
「どうなってたって言われてもな……」
男は困ったように頭を掻いた。
「……まあ、座れよ。立ってんのも疲れるだろ」
言って、男は灰色の地面に腰を下ろした。ふと口元が寂しくなって、叉反は内ポケットを探った。今度は目当ての物があった。潰れかけた煙草のケースが。
「吸ってもいいか?」
ケースを見せると、男はどうでもいいように頷いた。
「どうぞ。俺は気にしない」
ケースを下方に傾けると、白い吸い口が見えた。もう、そんなに数はない。一本を取り出して口に銜えると、ライターで火を着ける。若干のラム香がして、きつめの煙を肺に取り込んだ。
腰を下ろすと、叉反は煙草を手にやり、煙を吐き出して男に言った。
「自己紹介がまだだったな。探偵の尾賀叉反だ」
「ああ、知ってるよ。あんたと別れる前にあいつらが言っていたのを聞いた。俺は……トビだ。トビって呼んでくれ」
「わかった。助けてくれてありがとう、トビ」
叉反は軽く頭を下げた。トビの顔は曇っていた。
「……言っとくけど、お礼なんかしてる場合じゃねえぜ。探偵さん」
沈んだ面持ちでトビは言い、それから、叉反と別れた後、自分達の身に何が起こったのかを語った。
「――ここに落ちてから目が覚めるまでの記憶はねえ。目を覚まして少ししたら、あんたがそこの壁から出て来たんだ。赤い膜っつーか、鞘みたいなのに入ってな」
左の人差し指で、トビは後方の壁を示した。
「その鞘は、どうなったんだ?」
「俺が触ったら溶けたよ。欠片も残らなかった」
「なるほど。赤ん坊の保護膜に似ているな」
「……何だって?」
トビが顔をしかめて聞き返してきた。
「フュージョナーの胎児が母親のお腹にいる頃に作る膜だ。俺の尻尾の毒針みたいに、出産時に母体を傷つけかねない物を覆ってしまう。体から剥がすとそのうち溶けてしまうんだ」
「何ていうか、SFみたいだったぜ。あんたの全身を守るカプセルみたいなさ」
間違ってはいない。気を失う直前、叉反の体は焼却炉の炎の中へと放り込まれた。熱を感じてはいたが、死ぬ気は決してしなかった。
これまでトビから聞いた話と、叉反自身に起こった事を総合する。
「仁は、この真上の屋上にいると言ったな」
叉反は言った。意図せず吸い込んだ紫煙が、ささくれ立ちそうになる神経を押さえる。
「ああ。うまく逃げ切れていればいいけど、な……」
「聡い子だ。何とか切り抜けているとは思うが」
とにかく、のんびりしている暇はないようだ。煙草を消して、叉反は立ち上がった。
「行くか」
「行くか……って、どこにだよ。ぱっと見た感じ出口はねえぞ」
辺りを見回して、トビが言う。確かにそうだ。周囲は壁で囲われ、その壁には手足をかけられそうな物はない。ここは焼却した灰の集積場だ。叉反がそうしたように燃やされてしまうか、トビがそうであったように上から落ちてくるかでしか、ここに立ち入る術はない。
そして、ここから出るためには。
「こういう施設の灰が、この後どうなるか知っているか?」
「……いや、知らねえよ。ていうか、あんたはここが何なのか知っているのか」
「菊月環境美化センター。ナユタと他都市との境にあるゴミ処理場だ。ここで出た灰は、このあと塩素を除去された上で、セメントなどの原料にされる」
「……つまり?」
「ここで終わりじゃないって事だ」
そう言い終えた瞬間、叉反は足元に奇妙なものを感じた。気のせいではなかった。機械の駆動音が聞こえる。巨大な筒の底が振動し始めていた。
「今度は何だよ……」
心底うんざりしたような、泣きそうな声でトビが言った。足元の砂粒のような灰が、僅かにだが動き始めていた。
「灰を洗浄槽に流し始めたな。おそらく底にパイプラインがあるはずだ」
「なあ、あんたまさかそこから出ようって言うんじゃないだろうな?」
「出口はそこしかない」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 灰まみれになって出て行けって言うのか!」
どころか、このまま潜れば窒息する。そう言おうかと思ったが、相手を刺激しそうなのでやめておく。灰の流出は続き、沈下していく感触と共に、目に見えて量が減っていくのがわかる。
「周りを見ろ。灰の減る勢いが早い。おそらくパイプの口は大きく、人が通れるくらいはある。灰が流れ切る瞬間を狙って入れば洗浄槽まで行ける。そこからなら、脱出は可能だ。どの道このままじゃ手詰まりなんだからな」
地面は下がり続けている。だが、灰がなくなるまではまだまだかかるようだ。この集積タンクの底は深いらしい。無性にもう一本吸いたくなって、叉反は新たに煙草を銜える。
「……出られるのか、ここから?」
「俺は出ないがな。仁を助けなければならん。こう言っては何だが、あんたも出られるかどうかわからんぞ。この施設に巣食っている奴等が、秘密が外に漏れるのを良しとするわけがない」
「まだ誰かに狙われるっていうのか?」
「まず確実にな。逃がす理由がない」
「くそ! 何だってんだよ。実験だの何だの俺は知ったこっちゃねえってのに、何だ、俺が悪いってのか!? 俺は巻き込まれただけだぞ!」
「俺だってそうだ」
そう言って煙を吐き出した叉反の目に、苛立ちに満ちた目つきで睨み付けてくるトビの瞳が映った。
「何だ?」
「こっちの台詞だ。何であんたそんなに落ち着いていられるんだ? 大した事ないとか言いたいんじゃないだろうな?」
「何の話だ」
「タフぶってんじゃねえよ。そりゃあんたこういうの慣れていそうだけどな、俺は違う。俺は殺されかけるなんて初めてだし、骨がばきばき音立てながら体が変わっていくのなんて経験したくもなかった。なあ、あんた本当に俺の味方か? 実は向こうの回し者っていうんじゃないだろうな?」
男はその身を震わせて、猜疑心に溢れた目で叉反を見た。何て事はない。そこにいるのは、見えない脅威に怯える若い男だ。
自分は我慢強く出来ている。叉反はそう自負している。職業柄、感情的にならないように普段から訓練しているし、自分の精神の起伏には気を遣っている。
目の前の男の姿に、僅かな苛立ちを感じたとしても、叉反は心の別の場所から、その感情の動きを他人事のように観察して、制御する事が出来る。
「だったらどうする?」
短くなった煙草の灰を落とし、携帯灰皿に吸い殻を仕舞うと、叉反は新たにもう一本、煙草を口に銜える。
「俺が仮に敵だとして、お前に何が出来る。言っておくが、素人に負けてやるほど俺はお人好しじゃない。お前のその鉤爪が届く前に、俺はお前を黙らせる事が出来る。パニックになるのは勝手だが、それで物事は解決しない。助かりたければ、まずは落ち着くんだ」
「……黙らせるだとか、そういう事を言い出すから信用出来ねえんだよ。あんた、本当に味方なのか?」
「確かめてみろ。一本吸え」
ケースを軽く振って飛び出させた煙草を、トビに差し向ける。戸惑いながら、トビは左手で煙草を受け取りぎこちなく銜えた。ポケットからライターを取り出して擦る。
トビの銜え煙草が火に近付いた瞬間、叉反は痩せた頬に拳を振るった。力まず振り抜くだけの拳。手応えはあった。会心の当たりだ。およそ想定したようにトビの口からは煙草が飛び出し、その体は吹っ飛んで灰の上に落ちた。
「何しやがる!」
怒号がすぐに返ってきた。自分の煙草に火を着け、落ちた煙草を拾い、灰を払う。
「俺が敵なら今ので死んでいたな」
「てめえ……!」
トビの瞳に怒りが宿った。灰の上から立ち上がり牛のようにこちらに突っ込んでくる。鉤爪を持つ右手が顔面目がけて迫ってくる。
思ったよりは早い。
だが内股を蹴り払うほうが早かった。
眼前で鉤爪が空を切り、トビは大の字に倒れ込んだ。
「頭でも腹でもどこでも狙える」
見下ろして、叉反は言った。
「ぶっ殺してやる。てめえ!」
跳ね起きたトビが振るった腕を半身で躱す。それなりに、喧嘩の仕方はわかっているらしかった。鉤爪を外した瞬間、間髪を入れず左の拳が飛んでくる。足を蹴り上げただけのキック、再びの鉤爪。体の勢いに任せるまま、叉反は相手の足を刈り上げ、三度灰の上に転がした。
煙草の灰が少し長くなっていた。崩れそうだった灰を叩いて落とし、また口に銜える。
今度はすぐに起きようとはしなかった。
「何を考えてやがる、あんた」
寝転がったまま、間を置いてトビが言った。
「何がしてえんだ?」
「一番納得出来るやり方を選んだだけだ。お互いにな」
「出来るわけないだろ、納得なんて……」
言いながら、トビは身を起こした。まだ怒っている。
「俺が喚いたから殴って黙らせる気だったのか?」
「昔、俺が喚いた時はそうされた。諭す事も出来たが、今のあんたにそれは効果的じゃない。軽く喧嘩をして、頭の血を下げさせる必要があった」
「必要なら暴力を使うって?」
「平和な世界なら必要ない。だが、命を狙われる場所では別だ。どんな手段を使っても、まずは頭を冷やさなければならない。生き残りたいのであれば」
叉反は煙草を差し出した。トビが手を伸ばしかけ、引っ込めかけた後、結局叉反の手から摘み取り、口に銜える。
「火が着く時に軽く呼吸しろ」
言って、ライターの火を近付けてやる。トビの煙草の先が赤く燃え、紫煙が流れた。煙を吸い込むとトビは顔をしかめ、ひどく咳き込みながら煙を吐き出した。
「なんだこりゃ……」
「ハイライトだ。昔からある煙草だ」
「きつい」
恐る恐るトビは続きを吸って、慣れない様子で煙を吐き出した。
「ここを出るまではあんたの味方だ。安心してくれ」
「そりゃどうも。結構なご指導痛み入るぜ」
煙草を銜えたまま、苦々しい顔で言う。
「だが、もう殴るのは――」
――その姿が消えたのは、一瞬の出来事だった。
「――ッ!?」
叉反の目に捉えられたのは、煙草とともに舞い上がった灰埃の端だけだ。足元で何かが蠢く気配がした。
いや、気配だけではなかった。叉反は目を見張った。盛り上がった灰が、眼前でゆっくりと動いていた。さながら鮫の背びれだ。姿の全ては見えないのに、そこにいる事をこちらに理解させる。
盛り上がった灰は次第に低く下がっていき、再び平らとなった。深く潜ったのだ。叉反を捉える、その一瞬を狙うために。
ないはずの視線を感じる。あからさまな照準合わせ。しかし銃ではない。もっと大きな、何かだ。
――――来た。
踏切の悪い足場を全力で駆ける。コンマ数秒おいて、叉反のいた場所から灰が噴出する。精査する隙はない。再び足元から気配がして、体すれすれで灰が舞う。その中で、黒く長いものが蠢いて、またすぐに足元へ消える。
肢、だ。とすると相手は――
背後の殺気めいた感覚に思考を中断し、叉反は無理矢理跳んだ。間違いない。視界に入ったのは紛れもなく昆虫の肢だ。相手の正体が見えた。こいつは――……
「――ッ!!」
影が叉反の背後で伸びていた。振り返り際、強い力が両端から叉反を締め付ける。抵抗しようとしたその時、相手の姿が目に映った。
直後、叉反の体は一気に地中へと引き摺り込まれた。