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ライムントの顔に笑みが浮かんだ。レベッカは、その笑いが彼の上機嫌を示している事を知っていた。うまくいったのだ。およそ、望んだ結果を得られた時に彼が浮かべる、かつては魅力的にさえ見えていた微笑。
「手術は成功だったようだね、レベッカ君」
モニターの中で死闘を繰り広げる探偵を横目に、ライムントは言った。
銃口は、未だ彼の額に向けられている。だが、結局そんな事は意にも解さない。この男は、そういう男だ。
「成功させなければ、彼は死んでいました」
銃を向けてはいるものの、レベッカは内心、震えを押さえるので精一杯だった。ひとたび引き金を引けば、この《小火竜》がターゲット目がけて電撃を放つ。およそ落雷に等しい電撃を浴びせられれば、普通の人間に耐えられるわけがない。
だからこそ、手が震えてしまう。元より殺す気はない。だが、人に凶器を向けるというのは、これほどまでに恐ろしいものなのか。
「鳶の彼の居場所を教えてもらいましょう、ライムント博士。それと、全通路に使えるマスターキーを」
「本当に逃げられると思っているのか? これだけの施設を後にして」
「貴方の研究に付き合うのもこれで終わりです。組織の事もモンストロの事も、一切公表させてもらいます」
「出来ると思うのかね? 組織の手はどこまでも及んでいる。一個人が抵抗したところでどうにもならないのは、君だってわかっているだろう?」
胸の裡が煮えくり返る。ライムントの言っている事は事実だ。一度レベッカが逃げられた事でさえ、彼らの掌で踊っただけに過ぎないかもしれない。その全容はわからなくても、彼らがこの社会の中枢に根付いているのはわかる。そういう連中だ。組織……《結社》は。
「結局、君はここにいるのが一番安全というわけだ。君の才能を一番引き出せるのは我々だし、組織に協力する限り、君が脅かされる心配はない。何より、君は楽しんでいたんじゃないのか? 人を超越した存在を生み出す事を」
「……私がしたかったのは怪物を生み出す事じゃない」
生まれながら怪物と呼ばれてしまう者を、本物の怪物にしていいわけがない。
「これ以上言い合いをするつもりもない。さあ、言った通りにして下さい。この引き金は軽いんです」
「君に引けるとは思えんよ。私から何かを引き出したいのなら、第一に撃つべきだった」
ライムントの蛇が、ゆらりと動く。反射的にレベッカは銃口をそちらに向けた。
ブザーの音が部屋中に鳴り響いたのは、その時だった。
「何を!?」
「銃を向けられたのだ。緊急事態につき、警備の者を呼んだ」
コーヒーカップに口をつけ、顔をしかめてライムントはそれをソーサーに戻す。それから、懐からカードキーを取り出して、テーブルの上に置いた。承認が必要な扉を全て開ける事が出来るマスターキーだ。
「行くのなら行きたまえ。君がどこまで逃げられるのか、やってみるといい」
「私が逃げ切れないと?」
「恐らく君は捕まるだろうね。組織にではなく、自分の心に」
「何が言いたいんです」
「己を知れという事さ」
ライムントはそう言うと、これ以上は語らないとでも言うふうに目を閉じた。
業腹だが、今は構っている暇はない。レベッカは仁に目で合図し、マスターキーを掴むとドアに向かって走る。
「せいぜい神の子を大事にする事だ。また会おう、レベッカ・シャーレイ。そして明槻仁」
ライムントの戯言を聞き流して、レベッカは仁を連れて部屋を出た。
警報がそこら中で鳴り響いている。警備の者達の足音が聞こえる。だが、マスターキーの存在が大きかった。緊急事態につき施錠された扉ですら開く事が出来る。裏口を使い、非常階段を降りた。探偵達が戦っているのは、地下二階にある大ホールだ。手術を行ったのは地下一階、通常通り被験者を移動させたのなら、同じく地下一階の一画に運んだはずだ。
「どこに行くの?」
仁が言った。暗い階段を降りながら、レベッカは答えた。
「ひとまず鳶の彼を探す。モンストロの効果は一度切れている頃だから、今のうちに運び出さないと」
「……どうやってさ。僕もお姉さんも、男の人を抱えられるような体力はないと思うけど」
意外に冷静で、現実的な事を言う。一回りも年下の子供が落ち着き払った言動をしている事に、レベッカは改めて、自分が浮足立っている事を自覚する。
冷静にならなければ。落ち着いて、判断を下さなければ。何より、彼らをこの状況に巻き込んだのは、他ならぬ自分なのだから。
「この先の保管庫にモンストロの調整剤がある。それを使えば、万全とは言えないまでも、彼の体調を戻す事が出来る。あと、地下一階には地上出口まで通じる、搬送用のエレベーターがあるの。そこまで運べば、外までは一直線で行ける」
「叉反はどうするんだよ。置いて行く気?」
「貴方は鳶の彼と一緒にそのエレベーターで脱出して。貴方達がエレベーターまで乗り込んだら、私は探偵の救出に向かう」
「僕とあの人だけで逃げろって?」
「他の連中は私が引き付けておく。出口はエレベーターを降りてすぐだから」
レベッカは言って、仁の手に握られた小火竜を指した。
「それは最後の手段として持っておいて。足辺りを狙えば、大怪我をさせずに済むから」
「嫌な事言うなあ……」
掌より少し大きいくらいの電撃銃を見て、仁は眉を顰める。
「……本当に、申し訳ないと思っている。貴方達を巻き込んでしまって」
状況を考えるなら、歩みを止めている場合ではない。だが、レベッカは少年に頭を下げた。今は、これくらいしか出来ない。
困惑気味に少年は返答する。
「うーん……。まあ、気にしないでいいよって言ったら嘘だけどさ、今、そんな事言っても仕方ないんじゃない? 詳しい話はあとで聞くしかないよ」
「そう……ね」
ともすれば冷たいような物言いだ。だが、少年の言葉には希望があった。レベッカの『話』を聞くためには、ここを脱出するしかないのだ。彼には、その意思がある。
「でも、これだけは聞かせて。探偵はあのままで大丈夫なの? 一体叉反に何をしたの?」
自分を見つめる少年の瞳が痛い。
「……順を追って説明するわ」
誠実に、しかし言葉を選ぶ必要がある。
「この組織が出来るずっと前の事、組織の中核となるメンバーは、秘境と呼ばれる場所である物を発見したの。電流を伴う緑の液体と、その中で白い物体が蠢く謎の泉。調べるうちに彼らはそれが、この地球上ではそれまで確認されていなかった形態の生命だという事を突き止めた。豊富な栄養素を含む液体の中で暮らす、『生きる』という活動そのものが体を得たかのような生命体。彼らはその発見を喜び、早速サンプルを採取して研究を始めた」
歩みを再開しながら、レベッカはそこで一旦言葉を切った。仁は黙って話を聞いている。
「研究を進み、ほどなくして彼らは動物実験に移った。緑の液体をラットに摂取させる事から始め……それから、液体の中の生命もラットに摂取させた」
レベッカは直接その実験を見たわけではない。全ては、実験を執り行った当人から聞いた事だ。あの男から。
「ラットは変化を起こした。急速に成長し、肉体も知能も我々が知るラットとは異なるものになった。ラットは自らの身体を自在にコントロールするに至り、人間さえも超えた、新たな肉体を得た。彼らはその現象を《超越》と呼び、そして現象を引き起こした生命体に名前を付けた。一個の生命を怪物じみた存在に変化させる生命体――《モンストロ》と」
そう、あの男が名付けたのだ。あの規格外の頭脳を持つ、ドクター・ライムントが。
「人類が次のステージに行くため、だっけ。……ねえ、どうしてお姉さんは、あんな奴等に協力していたの?」
仁は、結局核心を突いた。レベッカの胸中に苦い物が浮かぶ。
しかし、答えないわけにはいかない。
「騙された、と言えば言い訳になるわ。でも、私が研究に加わった時、彼らはこの世から回帰症を失くすためと言ったのよ」
「回帰症を?」
「ええ。モンストロの効能を持ってすれば、確かに人体のフュージョナー因子をコントロール出来る。私はその研究に期待したの。……過剰なほどに」
「……お姉さん?」
レベッカは頭を振った。地下一階フロアへの階段が見えていた。
「……続きはここを出てからにしましょう。まずは鳶の彼を助けないと」
依然として、警報は鳴り止まない。だが、地下一階フロアには、人の気配がなかった。
マスターキーを使って保管庫のドアを開ける。厳重な自動扉がゆっくりと開いていく。左手側には、アンプルに入った各種薬品が低温保存された棚がある。右手には研究資料の棚だ。
必要な物は二つあった。調整剤と、そして、もう一つ。レベッカは資料棚の奥を探る。書類を乱暴にならない程度に放り出し、棚を動かす。
「な、何やってんの?」
仁の疑問には答えず、レベッカは壁を指でなぞりながら調べを続けた。ここに連れてこられた時に取り上げられた物が、この保管庫にあるはずだ。
ほどなくして、レベッカは壁の中に目を凝らさなければわからないほど細い、直線の切れ目を見つけた。
隠し棚だ。さらに壁を探ると、ある一点で壁の一部に光が灯った。光に触れると、たちまち電子光のテンキーが浮かび上がってくる。暗号式だ。ここに物を入れられるのも、取り出せるのも限られた者だけらしい。
誰がこの機能を知っているか、を考えれば、自ずと答えは浮かんでくる。この施設で最も権限を持っている、あの男の事を。
研究において使用していた、原液の加工に関わる重要な数値を思い出し、一つ一つ入力していく。最後の一つを打ち終わると、キーの下に細く小さな横穴が空いた。マスターキーを差し込み、壁の中の機械に読み取らせる。
どうやら一回目で正解のようだった。切れ目から壁がスライドしていき、隠し棚の中身が見えてくる。
角ばったジェラルミンケース。取り出し蓋を開け、目当ての中身が入っている事を確認する。
「何それ?」
後ろから、仁が覗き込んできた。
「切り札よ」
レベッカは言って、ケースの蓋を閉じた。あとは薬だ。アンプルが並んだ棚へと足を向ける。
黄緑の薬品のアンプルと滅菌された注射器を手に取る。鳶の男と、そして探偵に使う分を。回収した道具を、レベッカは白衣から取り出した持ち運び用のケースに仕舞う。
次は、鳶の男を探さなければ……。
「お姉さん!」
仁の声に振り返った時、レベッカは自分の迂闊さを呪った。同時に、手は素早く電撃銃を構えていた。
「……よし。お前達、そこまでだ。銃を下せ。勝ち目はねえぞ」
コンビニにいた二人組の片割れ、痩身の男が、入り口に立っていた。ショットガンの銃口をこちらに向けている。レミントンM870。昔、父の職場にあった銃だ。
問題は一つだった。男とレベッカの間、二人の射線がぶつかり合う間に、仁がいる。
「レベッカ・アンダーソン。お前が銃を下せば、俺もそうしよう。ガキを殺したいわけじゃないだろう。言う通りにすれば、身の安全だけは保証してやる」
「信じられるわけがない。仁、こっちに来て」
「おっと、動くなよガキ。てめえが動いた瞬間に俺は撃つ。この距離なら二人まとめて死ぬぞ」
仁の顔が強張った。幸いな事に、彼が持つ電撃銃は体の影に隠れて、男からはぎりぎり見えていないらしい。
「結局撃っちゃうんだ。どういう命令されてんのさ?」
「抵抗するなら殺せ、だ。ガキ、てめえも死にたくないんだったら、大人しくしてろ」
「殺すとか死ぬとか、いい歳して恥ずかしくないわけ?」
「仁、やめなさい!」
男の顔色が変わっていた。血の気が引いた顔で、銃口が少年へと向けられる。
「ガキ、一つ教えといてやる。俺達ゃな、もう人殺しなんて何とも思っちゃいないんだよ!」
「仁!!」
反射的にレベッカは飛び出していた。引き金を引くより、彼の体を射線からずらせれば、あるいは――
しかし、銃声は聞こえてはこなかった。代わりにしたのは、痩身の男の呻き声だ。男の体が崩れ落ちる。その後ろに、誰かが立っている。荒い息遣いが聞こえた。
「無事か……あんたら」
息の切れ間から、その男が言った。
「おじさん……」
鳶の男が、苦しげに息を漏らす。変身は解け、元の姿へと戻っている。よろよろとした足取りで、男はレベッカ達の元へ歩み寄る。
「なあ……薬か何かないのか……。体が、さっきから破裂しそうなんだ」
「わかってる。これを使って」
取り出したばかりのアンプルをへし折り、薬液を注射器に吸わせる。男の腕の血管を探り、薬液を注射する。
男が奥歯を噛みしめた。
「おじさん、大丈夫?」
「……トビだ」
「え?」
「トビと呼べ。まだおじさんって歳じゃない」
男――トビの発汗がひどい。安定剤を注射したものの、効き目があるかどうか……。
「! どけ、お前ら!」
トビが叫んだ。その瞬間に銃声が響いた。
トビの腹部から、瞬く間に血が溢れ出した。
ポンプ・アクションの音がする。痩身の男が、次の弾を装填した。
「クソフュージョナーどもが。てめえらまとめて地獄に送ってやる……ッ!」
右手が瞬時に動いた。ポケットに入れた電撃銃を抜きざま引き金を引く。〝小火竜〟が火を吹いた。音もなく迸る電撃が男の体に直撃する。
「あ、あああああああああッ!?」
神経伝達を一瞬阻害し、相手を行動不能にして制する。護身のために父が作った、小さな竜。
今度こそ、男は倒れた。着ていた白衣を脱ぎ、急いでトビの傷を止血する。彼の体には固形化したモンストロが入っている。機能すれば自己治癒するはずだが、その気配はない。
足音が聞こえる。かなり早い。追手が来ている。
「仁!」
レベッカはカードキーを投げた。
「扉をロックして、今すぐに!」
少年が走る。足音はもうすぐそこまで近付いている。
カードキーをスライドさせ、赤いボタンを押す。部屋の扉が閉ざされていく。その隙間に組織の黒服の姿を見た時、扉は完全に閉まり切り、ロックされた。
「どうするの!?」
「ここの保管庫はマスターキーと同じレベルの鍵がないと開けられない。奴等が鍵を持って来る前に逃げないと」
「どうやって」
「仁、薬品棚の中身を全部出して。人一人、入れられるくらいに」
「……わかった」
仁は何かを察したようだった。棚の扉を開け、中身を次々と外へ出していく。
「……ぶ。……とぶ」
「え?」
不意にトビの右手がレベッカの腕を掴んだ。鳶のアシユビ。力は入っていないが、精一杯握り締めている。
「……俺は、死ぬのか」
切れ切れに、トビが言った。
「貴方は死なない。体内のモンストロストーンが動けば、こんな傷すぐに」
「死にたくねえ」
聞こえているのかいないのか、トビは声を出す。
「さっきまで、死にたかった。でも、今は怖え。死ぬのが、すげえ怖い。ろくでもねえ。冗談じゃねえ」
「……すぐにストーンを動かすから」
小火竜を取り出す。出力を調整し、服のボタンを外してストーンを埋め込んだ胸元に宛がう。
「俺は、飛ぶんだ」
トビが言った。確かな意思を込めて。
「このろくでもねえ状況から、飛ぶんだ」
「勿論。絶対に、そう出来る」
引き金を引いた。トビの呻き声が上がる。電流が皮膚の下のストーンへと流れ込む。
ばちり、と緑の電流が、傷の辺りで弾けた。
「終わったよ!」
仁が叫ぶ。棚の中は綺麗に空になっていた。余計なパーツも取られ、人一人余裕を持って入れられる空間が空いている。レベッカは頷き、棚の横にある電子パネルを操作した。緊急搬出。コンテナ装填。
棚の裏側で機械が作動し始めた。いざという時、薬品を運び出せるように用意された空のコンテナが、コンベヤーの上にセットされた。
「仁。彼を運び込んで」
「入るの?」
「ええ。急いで」
二人でトビを抱え、奥のコンテナに体を折り曲げて入れる。少し窮屈かもしれないが我慢してもらうしかない。
「仁、貴方も入って」
「え?」
「貴方とトビならちょうど入れる。行き先を一階の運搬口に設定しておくから、そこから逃げて」
「お姉さんはどうするんだよ!」
「私は探偵を脱出させる。さあ急いで!」
強引に仁を棚の奥へと押し込む。コンテナの中に入ったのを確認して、搬出を開始させる。コンテナの蓋が閉まり、コンベヤーが動き出す。
大砲のような衝撃が、保管庫の扉を襲ったのはその時だ。
瘤のように扉の中心部分が盛り上がっていた。鍵を待たず強引に破りに来たか。レベッカは気絶している痩身の男に近付き、その手からショットガンを取り上げた。撃った事はないが、撃ち方の知識はある。
二度目の衝撃。保管庫全体が震えている。扉に大きな亀裂が入った。おそらく、次の一撃には耐えられないだろう。ジェラルミンケースを資料棚のほうへ滑らせ、手近にあった道具を掴み、資料棚へと走る――アンプルを折る。間に合うかどうか。
次の瞬間、三度目の衝撃が、鉄壁の扉を突き破った。
「ふー……」
のそり、と影が入ってきた。大きな頭部、筋肉が膨れ上がった腕。全身を取り巻く緑色電光。鰐だ。鰐のフュージョナー。その姿が目に入った瞬間、レベッカはショットガンの引き金を引いた。
到底、耐えられる衝撃ではない。だが、背を張り付けた資料棚が安定を保った。散らばった散弾が鰐へと着弾する。衝撃に震える体に鞭打って、レベッカは素早く右手を動かし、小火竜の銃把を握り流れるままに引き金を引いた。空間を走った電撃が標的を捉えた瞬間、畳みかけられた敵が血を吐くような声を上げた。
ショットガンを捨て、ジェラルミンケースを掴み駆けた。駆けて逃げるしかない。無残に開いた扉を通り、まだ状況を掴めていない黒服どもの脇をすり抜け、一拍置いてレベッカに気付いた彼らの声に後ろ手に電撃を放つ。エレベーターだ。そこまで行けば、地下二階まで一気に行ける。
「待てよ、センセイ」
むずりと、有無を言わさぬ強い力が、白衣とその下の衣服の背を掴み上げた。
「っ!?」
足元が浮遊感に襲われる。反射的に小火竜の銃口を向けた瞬間、固い鱗のような感触が乱暴にレベッカの手を弾いた。ジェラルミンケースの取っ手を握る指がすべり、ケースが足元へと落ちる。
「効かねえよ。俺はモンストロを完璧に使いこなした。あんたのお得意の電撃はシャワーみたいなもんだ。ショットガンの弾もな」
襟を掴まれたまま、レベッカは強く壁に押し付けられた。
鰐男の得意気な顔が、目の前にあった。
「スガロ……」
「その節は世話になったな、センセイ。おかげさまでどうだ。今や俺はそこらのフュージョナーを完全に〝超越〟した」
ばちり、と緑電がスガロの体から迸る。なるほど、確かにモンストロストーンのコントロールには成功したらしい。だが、それだけだ。
「超越ですって?」
ライムントの片腕の頃の経験が、男の見当違いな言葉に反応して、レベッカの中から冷笑を引き出した。
「馬鹿言わないで。貴方はまだ獣人態を操り始めたばかり。ライムントや白王が望むレベルには、全く達していないわ」
「その白王だって、今に俺が身の程を教えてやる。たかがネコのガキに、化けモンになった俺が負けるわけがねえ」
鋭い歯が並んだ口が、そっと耳元に近付く。
「綺麗な顔だな、センセイ。手術してもらった時からずうっと綺麗だと思ってた。白王は逃げるなら殺せって言ってたが、なあ……」
尖った爪の先が、レベッカの頬に触れた。男の笑みとともに顎のラインをなぞっていく。
「俺ならあんたを助けてやれる。こんな状況だ。バレやしねえよ」
「スガロ、何をしている!」
黒服の一人が叫んだ。
「その女を始末しろ! 反逆者は結社には不要だ!」
「……うるせえよ」
スガロが無造作に腕を振った。その腕に無数の電流が発生しているのが見えた。
さながら連続する落雷だった。スガロの腕から迸った無数の緑電が、廊下にいた黒服四名の体に瞬く間に降り注いだ。声を上げる事すらなかった。強力な電流に晒された人間達は、そのまま床へと倒れ伏した。
肉の焦げる臭いがした。
「ちっと疲れるんだがな、こんな事まで出来るようになったんだ。もう銃もいらねえや」
下卑た笑みを浮かべて、スガロがこちらへ顔を戻した――瞬間、レベッカは全霊を懸けて、その首筋へ飛び込んだ。忍ばせた注射器の針を皮膚へと突き立て、薬品を体内へと送り込む。
「……確かに、すごいわ。モンストロストーンが生み出す生体電流を増幅させて放つなんてね。でも、それだけ」
その耳元で囁くと、注射器を引き抜きスガロの巨躯を蹴り飛ばし、レベッカは拘束から逃れた。いや、もうスガロには力を保つ余裕はない。
「組織変異を強制的に停止させる、モンストロ被験者用の鎮静剤。死にはしないけど、二、三日はまともに動けないから」
スガロの返答はない。骨格の変化が始まり、元の姿――生まれた時の姿へと戻っていく。
小火竜を拾い、レベッカは先を急いだ。探偵を探さなければならなかった。
警報が鳴り響いている。しかし、それは今の戦闘に関係ない。
まるで、他の誰かに体を明け渡したかのような、しかし自分の意識も確実に存在する中で、叉反は攻撃を繰り出していた。背負った二挺の銃はもはやない。武器は己の体のみ。
だが、相手に叩き込む拳の威力は、明らかに銃弾の比ではなかった。
人型と化した黒犬の胸板に拳がめり込んだ刹那、その衝撃に耐えられないまま相手の体は宙を舞うが如く飛び、壁にその体の跡を残すほど叩き付けられる。
それを見ても、不思議と感情は湧かない。鉄の意志。一切の感情が消え去ったような感覚。何一つ、心が波立つ事はない。
赤い熱が、体中を駆け巡っている。
「……一体、何が起きやがった」
黒犬の口が動いた。まだ息がある。
加速とともに放った跳び蹴りが、壁を破壊して犬の男を廊下に転がした。満身創痍。肉体の再生に際して、体中で緑の電流が発生している。
「……冗談じゃ、ねえ!」
男の体が四足獣へと変じる。完全に叉反に背を向け、一目散に走り去る。
何処へ逃げようというのか。
一歩一歩、叉反の体は進んでいく。……いや、進むのは俺の意志だ。心は、体から離れてはいない。俺が奴を追っている。奴の息遣いを感じ、気配を感じ、一歩一歩近付いている。
奴を、仕留めるために……。
暗い廊下を進んでいくと、やがて叉反は開け放たれた扉を見つけた。
先に見えたのは複雑に入り組んだ、広い空間だった。多く機械、装置があり、そのほとんどが小型の家屋ほどの大きさだ。どうやら、清掃工場の根幹――処理装置に当たる区画らしい。
静まり返った区画の中、叉反は柵に仕切られた、一本道の狭い通路に足を踏み入れた。
物音はしない。だが、強烈なまでに冴え渡った勘が獲物はここにいると確信していた。あの犬はこのどこかで、息を潜めている。
ばちり、と今や聞き慣れた音が響いた。道の先だ。
破砕機から続くコンベヤーを辿って、見えてきたのは切り立った崖だった。砕かれたゴミはコンベヤーで運ばれ、やがてその崖の下に落ちる。崖下はつまり、ゴミ置き場だった。そしてその淵の近くで、奴は傷を癒していた。あと一歩踏み出せば、その体を踏み潰せる位置にまで叉反は近付いていった。
「来やがったか……探偵」
苦しげな息遣いの中、黒犬が言った。叉反は淡々と、事実だけを返した。
「お前もこれで終わりだ」
弱り切った体のはずの犬が、叉反の言葉に笑みを浮かべる。
「何があったか知らねえが、さっきまでと随分態度が違うな。それがお前の本性ってわけか」
「何?」
「惚けんなよ。お前は暴力を楽しんでるんだ。この俺を好き放題打ちのめして、挙句には殺したいって思ってんのさ」
「何を言っている……」
――何を怯えている? 叉反は自問した。自分はこの男を殺しにきたのではなかったのか?
違う。俺は、俺は人殺しをしようとしているんじゃない。必要なのは状況の打破だ。暴力も武力も全てはそのためだ。
本当か? 叉反は自分の耳でその問いを聞いた。
赤い獅子が見えた。翼の生えた獅子。刃のような歯をぎらつかせ、蠢く舌が叉反に問うた。
――俺達はこいつを殺しにきたんじゃないのか?
「俺は……」
体の奥から発されていた熱が引いていく。周りの音や気配がリアルに聞こえ、ようやく自分の血が通い出した錯覚さえ覚えて、目が眩む。
「隙だらけだな」
黒い影が動く。反応が遅れた。飛び込んできた黒犬の爪が深く身を抉る。体がくの字に折れる。続く背後からの二撃。背中を抉られ、ふらつきながらも振り返り、構えを取ろうとした瞬間、人型に戻った黒犬の、膨れ上がった巨腕が拳を握って放たれた。
躱せるはずがなかった。
強い衝撃が体を宙へ運ぶ。浮遊感は一瞬だけ。すぐさま体は下方へと落下する。
ゴミの山に穴が空いた。体を強く打ったせいで、意識さえ混濁している。
「逆転だ。この間の借りは返したぜ」
男の声が聞こえた。最低限しかついていなかった電灯が、大きく光り始める。遠くで、機械の駆動音がした。
ゴミ山が震えている。地面が動き始めた。ゴミ置き場の床が次第に傾いているのがわかる。
床が傾く下方に扉があった。大きな鋼鉄製の扉だ。それが音を立てて開いていく。その隙間から、熱が漏れていた。
赤い炎が見える。さっき見た幻覚めいたものじゃない。本物の炎。
焼却炉だ。
「あばよ探偵。安心しろ、一瞬で骨も残りゃしねえ」
勝ち誇ったかのような男の声が響く中、燃え盛る炎を持つ口は、ゆっくりと叉反を飲み込もうとしていた。
コンテナの中は自由が利かなかった。傷が治癒しているのはわかるが、それでも意識を保つのは辛かった。気を抜けば何もかもが飛びそうになる。呼吸はだいぶ落ち着いてきたのか、息はそれほど苦しくない。それとも、半分意識が消えかかっているだけか。
「お兄さん、平気?」
隣で添うように体を縮めている少年が、俺に言った。名前は、仁というらしい。
「平気、じゃねえ……」
ここでいい格好が出来るほど、俺は人間が出来ちゃいない。
「痛くて死にそうだ。腹に穴が空いてんのがわかる。くそみてえな気分だ。いっそ死にてえよ」
「あー……その元気があれば大丈夫だね。すぐ良くなりそう」
このクソガキ。大丈夫じゃねえって言っているだろう……。そう言いたくなったが、体調は確かに良くなりつつあった。
まあしかし、今日ほどろくでもない日もあるまい。攫われるわ、変な手術はされるわ、挙句撃たれるわ。冗談じゃねえってんだ。
だが、さっき体験した自分の体が全く別の物に変化していく感覚。麻酔なしで体をいじくられるような苦しみ、溶けるかと思うほどの高熱。そんな状況でも、心のどこかに感じる期待。
そう、翼が生えてきた時、確かに俺は思ったのだ。これで、何かが変わるんじゃないかと。どん詰まり気味の俺の人生に、何か劇的な変化が起こるんじゃないかと。
これでようやく飛べるのか、と。
「お兄さん」
思考の最中、唐突に仁が話しかけてきた。
「何だよ」
ぶっきらぼうに俺は答える。子供は苦手だった。特に小さい子供は。何を話したらいいかわからない。
「お兄さんって、ずっと旧市街に住んでたの?」
「……何だよ、急に。何が聞きたいんだ、お前」
「コンテナが着くまでの暇つぶしだよ。黙っているだけだと息が詰まるからね」
俺としては黙ったままでも全く問題ないが、痛みが続いている。気を紛らわすにはいいかもしれない。
「……ずっとじゃない。ナユタに来たのはここ二年くらいだよ。前は東京だ」
高校を卒業して、しばらく勤めていた頃の話だ。
昔の話は、好きじゃない。ろくな事をしていない。
「お前はどうなんだ。新市街が出来る前からナユタ周りに住んでたのか」
「うん、旧市街にね。橘樹の辺りに高い丘があるんだけど、小さい頃は、そこから開発前の新市街が見えたりしてさ。旧市街だけなら叉反より詳しい自信があるよ」
サソリ――あの探偵だ。
「なあ、お前とあの探偵、一体どういう関係なんだ。親戚か何かなのか?」
「僕が? 叉反と親戚? いやいやいや。ただの知り合いだよ、知り合い」
知り合いというには、随分懐いているようにも見える。
「ちょっと前に……新市街が出来た当時だから二年前、僕が通ってた学校が新市街に移る事になってさ。その時、事件があって移転どころか廃校もあり得るって話になったんだ。そこに、当時にナユタに来たばかりの探偵が首を突っ込んできたの」
「大きな事件だったのか?」
「うーん……。まあ、ね。ちょっとはニュースになったんだけど」
少年の言葉に、俺は記憶を探る。二年前なら、俺もちょうど越してきた頃だ。だが、事件に聞き覚えはない。当時が慌ただしかったせいもあるだろう。というか、今言われるまで、俺は新市街に学校がある事さえ忘れていた。
「結局どうなったんだ? その事件」
「解決したよ。探偵が街中を調べ上げてね。悪いけど、あんまり人には話せないんだ。まあ、とにかくその頃からの付き合いだよ、探偵とは」
「あの人は……何をやってたんだ? ずっと探偵を?」
「いや、ナユタに来る前の事はよく知らないんだよね。当人曰く『荒んでた』ってさ」
「……不良か」
何だか拍子抜けした俺は、固まりそうになった体を動かしてほぐす。
仁少年は笑った。
「いやまあ、そういうのじゃないんだろうけど。でも叉反言ってたよ。やり直すために来たんだって」
「やり直す……」
何を、だろう。あの探偵も、たとえば過去に何かを間違えたのだろうか。あるいは、後悔するような事をしたとか。俺と、同じように……。
そういえば、何のために俺は――
「ところでさ、お兄さん」
さっきとは違うトーンで、仁が言った。
「いくら何でも到着が遅いと思わない?」
仁の言葉に、俺はコンテナの動きに注意を払った。言うなれば、箱に入ったままエスカレーターに乗っているようなものなのだが、そういえば、さっきからずっと昇っているようではあるが、止まる気配はない。まあ、荷物を運ぶためのものらしいから、止まる気配も何もないだろうが、それにしてもコンテナはずっと上昇を続けている。
「なあ、あのレベッカって女、どこまで運ぶよう設定したって言ってたっけ?」
「一階の運搬口だよ。僕達がいたのが地下一階。いくら何でも、ちょっと遅いね」
嫌な感じがする。コンテナは俺達を乗せたまま、どんどん上へと上がっていく。
ガタン、と何かに乗り上げるように、コンテナが一度揺れ、すぐさま安定する。
そこから先は上がり方が変わった。今度はエレベーターにでも乗った気分だ。今までの緩やかな上昇より早く、上へ向かっている。
やがて、小さな震動とともに、コンテナは動きを止めた。
俺と仁は、少しだけ様子を伺ったが、やがてどちらからでもなく蓋に手をやり、押し上げた。
光が見えた。雲と、青い空。陽光が空を照らしているのだと気付いた時、仁がコンテナの中から出た。
「おい、誰かいるかもしれねえぞ」
「大丈夫。見た感じ誰もいない」
言いながら、仁はコンテナを出て、外へと歩き出す。仕方なく、俺も後に続いた。コンテナの中に縮こまっていたせいで、体を動かすのに苦労する。
外へ出ると、心地よい温度の風が吹いてきた。辺りの景色は緑の山々だ。たどり着いたのは屋上だった。仁の言う通り、他に誰かがいる様子はない。その仁は、一人でコンテナが上がってきた運搬口の周りを見て、裏に回って行った。どうやらここを調べ始めたようだ。まあ、頭は回りそうだから、放っておいても問題ないだろう。
「何だって屋上なんかに」
レベッカ。彼女が行き先の設定を間違えたのだろうか。切羽詰っていたしあり得るかもしれない。見回した限り、出入り口らしいのは、向かいにある扉のついた小屋だけだ。下に行くには、恐らくあそこから行くしかないのだろう。後ろのコンテナでもう一度下りるというのは、さすがに御免だ。
痛みはすっかり取れていた。レベッカが打ってくれた注射のおかげか、体の調子はすこぶるいい。二、三度、深呼吸を繰り返す。新鮮な空気が肺を満たして、こんな状況ではあるが、少し気分が晴れやかになる。つい、もう少しだけ羽を伸ばしたくなって、俺はフェンスの前まで行く。景色は山と、白に近い色で輝く空で、下に目をやると、巨大な円形の穴があり、その中は真っ暗でどうなっているのかはわからなかった。
どうやら、明け方らしかった。つい、ぼうっと空を見つめてしまう。見た事がある。こういう空は以前にも。
ナユタに出発した日だ。あの自動車工場を飛び出した日。
逃げたってどうにもなんねえぞ、と工場長が言った。夢みたいな事言ってないで、現実を見ろと。
俺は耳を貸さなかった。そんな事はないと自分に言い聞かせた。俺は失敗しないと。
そう思い込もうとした。
「――感傷に耽っているようだけど、そんな余裕があるの?」
唐突に、声が俺の耳に飛び込んできた。子供の声だ。仁の声じゃない。ガキ、そう言いたくなるような、苛々する声だ。
いつの間にか、俺の後ろに子供が立っていた。仁よりも年上の、中学生くらいのガキだ。銀髪に焼けた肌。ぬいぐるみみたいな、妙にでかい爪のついた手袋を両手にしている。そして、後ろのほうからは白毛に黒縞の尻尾が生えていた。あれは、虎か……?
いわゆる顔立ちの良いガキだが、表情が気に食わなかった。可笑しそうにこっちの顔を見ていやがる。
「何だ、お前」
「実験動物風情に名乗る気はないよ。ストーン一つ満足に扱えないくせに」
「……ストーン?」
「気にしなくていい。用を果たせない動物には必要のない知識だ」
「……おい。さっきから動物動物と、舐めた事言ってんじゃねえぞ」
「粋がるなよ。飛べないくせに」
同時に、ガキのぬいぐるみみたいな手が、素早く動いた。まるで虎の爪が、何か引っ掻くかのようだった。
痛みを感じたのは、一拍遅れてからだった。肘、胸、腕。服とともに肉が一気に切り裂かれ、すかさず血が噴出した。声は出なかった。喉が潰れたみたいに、掠れた呼吸しか出来なかった。
「ばいばい、失敗野郎」
ガキの細い足が、俺の体を蹴り飛ばす。フェンスは間近にあったが、受け止めてはくれなった。力がなくなったみたいに、何の抵抗もなく体は宙へと投げ出される。フェンスもまた切り裂かれていた。浮遊感も何もなかった。下から、見えない大きな手が伸びて来て、俺の体を掴んだかのようだった。俺は声を漏らした。喉が健在なら叫んでいただろう。だが実際に出たのは幽霊のような呻き声だけだった。
帯のように俺の血が空へ空へと伸びていく。掠れ声と血の帯が明け方の空へ昇るのを見ながら、俺の体は地面へ向けて落下を始めた。