1-2
1
体が分解されている。
全ての感覚が、際限なくどこまでも広がっていって、まるで自分の体が宇宙にでもなったかのようだ。暗闇に光る数多の星々が、自身を構成する細胞の一つ一つであり、それらはもう、取り返しがつかないほど分散されてしまって、もう戻って来ないのだと思った。
これが、きっと死だ。俺は、とうとうこの世から飛び立ったというわけだ。自分で飛んだという意識はなく、気が付けば空にいた、という感じだけれど。
「心配する事はない」
誰かが言った。落ち着いた、男の声だ。俺の知り合いにこんな話し方をする奴はいない。まるで教師か何かだ。限りない知性を脳に詰め込んだような、そんな声。
「君に新たな力を与えよう。これまでの人生から飛翔するための、革新の力を」
暗闇の中に光が現れる。大きな、緑色の光。その光が見えた瞬間、拡散していくかのようだった体の感覚が、収束し始めるのがわかった。強い引力を持つ星に、他の星が引き寄せられるように。
「さあ、目覚めの時だ。その姿を見せてくれ」
収束は止まらない。俺は、俺が知っている体が形作られるのを感覚する。光の中に、何かの影を見た。白く爛と光る目の、一羽の鳥の――……
「――ッ!! はあ、はあ……」
気が付くと俺は飛び起きていた。体中が汗でびっしょりだ。思わず掴んだ服は、気を失う前まで着ていたツナギじゃない。病院で患者が着るような、そんな服だ。左手が柔らかなシーツに触れ、俺は自分がベッドの上で眠っていた事を知った。真上に明るいライトがある他は、部屋の中に明かりはなく、どうやらここは少し広めの部屋らしいという事くらいしかわかない。
寝起きから血が通ってくるにつれて、いつもの調子が戻ってくる。右腕にも変わりはない。肘辺りまで羽毛に覆われた、鳶のアシユビだ。
「気分はどうかね?」
背後から声がした。闇の中で聞こえた声と同じだった。顔を上げると、明かりの中に人影が見えた。
白衣の男だ。糊の利いたシャツに上等そうな濃紺のネクタイ。顔は、どうやら俺よりは年上らしいが、実際のところはよくわからない。男はその半身を闇の中に置いていた。ちょうど光と闇の境界線上に、男は立っていた。
「誰だ……?」
喉が枯れている。唾を飲み込んだ。男の口が動くのが見えた。
「ここの責任者だ。君の治療を担当した。気分はどうだ? 何か気になるところはあるか?」
答えず、俺は殴られた後頭部に手をやった。痛みはない。どころか、傷さえ残っていない。
「いや……」
「ならいい。この部屋はしばらく好きに使える。ゆっくり休んでくれ」
言って、男は踵を返し、闇の向こうへと踏み出す。
「待て。何が、一体どうなってるんだ。さっぱりわからない。ここはどこだ」
「分岐点に来た、という事だ。運命を切り替えられるかもしれない地点に」
顔をこちらには向けず、そのままの姿勢で男が言う。
「君はこのまま日常に戻る事が出来る。受けた傷、巻き込まれた事件。全てを忘れて生きていく事が。ナユタから去るのもいいだろう。どうであれ、道を戻る事は出来る」
男が指で部屋の隅を示した。先にあるのは扉だ。
「あるいは、君は進む事も出来る。巻き込まれた突然の嵐に挑む、先が見えない道に。安穏のない、暴力が待つ道だ。だが、前進する事が出来る」
「何が言いたいんだ?」
「別に。ただ私はどういうわけか、君の未来の分岐点に立っていた。偶然にも何かを与える役割であったがために、君に手術を施した。これ以上の介入は出来ない。なにぶん、忙しい身なのでね」
「俺の体に何かしたのか!?」
「言っただろう。飛翔する力を与えると。あとは君の好きにすればいいさ、トビ君」
男の姿が完全に闇へと消えた。叫んで呼び止めたが、返事は返ってこない。
一点だけ強い光が灯った部屋に、俺は一人きりになった。
前進。嫌な言葉だ。進めない人間には聞くに堪えない。
大体、俺は巻き込まれたのだ。ここがどこだか知らないし、さっきの男が誰なのかなど知りたくもない。とっとと家に帰って、次の職を探さなきゃならない。バイトでも何でもいい。生きなければならない。生きないと。
生きないと、死んでしまう。
笑ってしまうくらいに当たり前の事だが、俺はいつもここで立ち止まる。生きる理由は、生きなければ死んでしまうからだ。職を失くし、貯蓄を失い、家を失くして、路頭に迷う。目に浮かぶのはそんな暗い未来ばかりで、俺はそれから逃げようと必死になる。友人も、恋人もいない。将来の夢も持っていない。そんな物が手に入る人生じゃなかった。
生きていくと虚無ばかり味わう。自分の事などとっくに見捨てている。フュージョナーなんて、所詮はただの人間だ。人間に数えられない人間、というのが、なおの事厄介だ。
だからもう、本当に生きていく理由など見当たらないのだが、死を選ぶほど絶望し切れてはいないのだ。どんな目にあっても、明日に期待してしまう。明日は、明日こそは、劇的な何かが起こって、人生が変わるんじゃないか、と。
……今が、その時か?
長い間密かに抱え続けた期待が、報われるのか?
暴力が待つ、とあの男は言った。安穏はないと。たぶん、もう二度と、自宅のベッドに潜り込めさえしないような道だ。いつ死ぬか、わからない道だ。それでも……。
「……っ!?」
ふと、胸の辺りで動悸めいた鼓動がして息が詰まる。
心臓じゃない。胸の中心、胸骨の下のほうだ。鼓動は次第に激しくなって、俺は堪えられずベッドから崩れ落ちる。気が遠くなってくる。体中が熱くて、たちまち汗が噴き出してきた。胸が焼かれるように熱い。熱を発しているところを思わず握って、そこで気付いた。
緑の光だった。皮膚の下からでもわかるくらい強い光で、何かが俺の中で光っていた。小さい、拳くらいの大きさの何か。発光は次第に強く、熱はさらに温度を増していく。
息が苦しい。皮膚の下で何かが蠢いている。気のせいじゃない。まるで筋肉自体が意志を持ったかのように、勝手に動き出したかのようだ。ばちり、という音がして、俺はそちらに目をやる。コンビニの男と同じだ。指先に巻きつくように、俺の体から放電が始まっていた。
鳶の右手からは感覚がなくなっていく。指が動いているが、俺が動かしているという感じじゃない。体と右腕が切り離されていくみたいだ。霞んだ視界が、閉じていく。
それでも……。
それでも、飛べるなら?
2
情緒不安定で暴力的な黒服に腹を蹴り飛ばされ、混乱の中で気を失い、見知らぬ部屋のソファの上で目を覚ましてから、既にかなりの時間が経過していた。携帯電話の画面を確認するが、やはり電源が落ちている。ボタンを押しても反応がない。
「はらへった……」
普段は使わないような乱暴な言葉で呟いて、明槻仁は思わず鼻で笑った。これじゃあ、まるで叉反だ。あの探偵、いつも食事の事を気にかけている気がする。質よりは、どちらかと言えば量といった感じで、いやに食事量が多い。あれは将来、絶対太ると毎度思う。
お腹が鳴った。どうしようもなく、空腹だ。でも緊張がひどくて、何も口に入れたくない。
布団代わりなのか、かけられていた大き目の白衣を半纏のように羽織る。気を紛らわすために、仁は改めて自分が今いる部屋を見渡す。
妙な部屋だ。扉はあるが窓はなく、しかし一人の部屋にしては随分と広い。事務机らしい大き目の机と、少し離れたところにキッチンが設置され、その横には冷蔵庫と食器棚がある。ソファの前には一本足のシンプルな丸テーブルと、来客用らしい椅子が二脚。
部屋は全体的に掃除が行き届いていて、床には塵ひとつ落ちていない。まるで誰も立ち入ってない部屋に家具だけ置いたかのようだ。
丸テーブルの上にはココアの入った白いカップが置いてある。さっき起きた時に、部屋の主が置いていったものだ。だが、仁は手をつけてはいなかった。喉は乾いていたが、我慢した。
部屋のドアが開いた。入ってきたのは部屋の主と、さっきにコンビニで出会った、赤い髪の間から白い花が一輪生えた女の人だ。どちらも白衣を着ていて、女のほうは少し疲れたような顔をしている。電灯の白い光が二人を照らし、床にその影が映っていた。
「おや、飲まなかったのかね」
部屋の主である白衣の男が、仁の前のココアを見て言った。
「当たり前だよ。自分を攫った相手から出された飲み物なんて、飲むわけないだろ」
「馬鹿な。コルドロンのココアだぞ。一級品に無粋な物を混ぜるわけがないだろう」
男がさも心外だという顔で言った。男の左肩甲骨辺りから生えた大蛇が、掠れた声で鳴いた。
異様な男だった。顔立ちは、外国人らしい。大人だ。お父さんよりも年上だろう。肩幅は広く、浅黒い肌。その右頬には鱗があり、髪の毛は、左半分はしっかりと整えられているが、右半分は獣の体毛のようで、毛羽立っていた。左右の目もそれぞれに違い、左目は人間の黒い瞳、右目は金色で、鳥の物らしかった。
フュージョナー、だ。だが、常識的に言えばあり得なかった。一般的にフュージョナーと類される人間の体に現れるのは、一種類の生物だけだ。ところが、この男は目に入る部分だけで既に四種類もの動物が発現している。しかも、そのうちの一つは生きてさえいる。
「彼を一体どうするつもりです。ライムント博士」
赤髪の女が口を開いた。二人は、どうやら知り合いらしかった。ただ、どういう関係なのかまでは、わかるはずもない。上司と部下、というところなのだろうか。
蛇の頭が動く。緑の大蛇の視線が女に向かい、ライムント博士は蛇の頭を撫でつけながら女のほうを見た。
「まあかけたまえ、レベッカ君。話はそれからにしよう」
ライムントはそう言って、キッチンへと足を向けた。赤髪のレベッカが仁の座るソファに近付き、近くに椅子をずらして腰かける。
お互いに無言だった。レベッカの顔は曇っていて、仁を見ようとはしない。でも、こっちには聞く権利がある。自分達が巻き込まれた状況について色々な事を。
「何者なの、お姉さん達」
レベッカは口を開かなかった。青い瞳が怯えたように揺れている。
「――ただの研究者だよ。明槻仁君」
唐突にライムントが口を挟んできた。盆の上から湯気の立つカップを三つ、テーブルの上に置いていく。ブラックのコーヒーだった。
「研究者?」
ライムントを睨みつけながら仁は問い返した。背蛇の男は仁の前からココアのカップを取り上げ、中身を一気に飲み干す。
「ふむ。やはり一級だな、コルドロンは」
「質問に答えてよ。今の研究者は人攫いもやるわけ?」
「研究のためならね」
何でもない事のように言って、ライムントは盆をソファに置いた。
「つまり、人でなしって事?」
「全ては運命に挑むためだ。我々フュージョナーという存在が何故生まれ、それが世界にとって何を意味するのか。そして、我々は世界に対し、どこまで自らの手で影響を及ぼし得るのか。それを知るためなら、素材を掻き集めるのに手段を選ぶ必要はない」
「僕らはあんたの研究材料って事?」
抑えようもなく怒気が膨れ上がって言葉に滲む。だが、ライムントの顔色は変わらない。
「鳶の男と、蠍の探偵。発見は偶然だったが彼らはそれぞれ、現在行っている実験の被験者として適切だと判断した。だからレベッカ君を連れて帰るついでに回収してもらった」
「博士」
非難がましい口調で、レベッカが口を開く。
「相手を怒らせると知って言葉を使うのはやめて下さい」
「怒らせる? ふむ……」
考え込むような仕草の後で、ライムントの目が仁を見た。
「不快だったかね?」
「とてもね。僕も叉反もあのおじさんも、あんたに良いようにされる筋合いはない」
「ふむ……。しかし、果たしてそう頭ごなしに否定したものかな」
言いながら、ライムントの指がテーブルを叩いた。指で触れた場所が青く光る。と、部屋の奥の壁に光が走り、瞬く間に壁一面に映像が映し出された。
呻きが聞えた。のた打ち回る男の姿が映っている。右腕が鳶のアシユビである男の姿が。
「おじさん!?」
男は叫び声を上げていた。骨が折れ曲がる音が聞こえる。服が裂けて、背中が盛り上がり、赤い血を流しながら急激に身体が変化する。軋む音と共に現れたのは、翼だ。血と共に羽根を撒き散らし鳶色の翼が広がる。体は人の形を留めてはいない。
男の喉から出る声が変わりつつあった。人とも鳥ともつかない、苦しげな声に。這いずりながら息をする巨鳥の姿が、そこにはあった。いや、それを鳥と呼んでいい物かどうか。半人半鳥。今や、誰も見た事がない生物へと男は変化していた。
「なに……これ……」
「やれやれ。モンストロストーンは原液より制御が楽なはずなんだがね。一度目の変身から形を保てないか。もう少しサイズを小さくすれば一般人にも耐えられるんだろうが、そうすると全身を変える事が出来ない可能性がある。全く、うまくいかないものだな」
眉根を寄せながら、ライムントはコーヒーを口にした。
「あれが……あんなのが実験だっていうの?」
目の前の大人の――大人というものが必ずしも信頼出来るわけではないという事を、知っていたにも関わらず――大人の落ち着きぶりに、仁はどうしようもなく動揺した。世の中には、到底自分には理解出来ない論理で行動する人間がいる。目の前の男は、まさに理解の外の存在だった。
「ああ。私にとっては実験であり研究の一環だ。だが、彼にとってはチャンスだとも言える。肉体の変化は彼の人生さえも変化させ――」
「そうじゃない!! 人間の体をあんな風にしておいて、一体どういうつもりなんだ!?」
血の遡りと共に、仁は自分でも信じられないくらいの声で怒鳴った。
ライムントは顔色一つ変えなかった。湯気の消えたコーヒーを口に運び、カップをソーサーに戻した。
「気に入らないかね?」
「当たり前だ。あんな風になって幸せな人はいない。さっさとおじさんを元に戻せ!」
「取るに足らない、と言ったら、どうかな」
「何だって……」
「残念ながら、私は生まれつき他人と理解し合うという事が出来なかった。物事を考える上でのスケールが違うんだ。他の人間は自分と、その周囲の人間関係でしか物事を考えない。だが、私はどうしても全体を俯瞰する観点から考えてしまう。どちらがいい悪いではなく、完全に思考の違いだ。人は私の研究を非人道的だというが、私にしてみれば地球が与えた謎を解明するほうが正しく、先決であるように思えた」
「何でだよ」
「解明こそが人類のためだからだよ」
ライムントが全く変わらない調子で答える。
意図的にこちらの怒気を無視しているわけではない。温度のない返答を聞きながら仁は思った。言葉にするのにはもう少し確信に足る証拠がいるが、ライムントという男の一端を、仁は掴みかけている気がした。
「全ては人類が新たなステージに辿り着くためだ。そのためなら、たとえ姿形が変わろうと、何人の命が失われようと……『倫理』という奴の上では問題だろうが、知った事ではない。何故なら、地球は進化の過程で何億、何兆という命を奪ってきているからだ。今日に至るまでにも多くの人間が実験で命を落としたが……彼らは私の介入がなくても、同日同時間に別の理由で死んだかもしれない。事故だの病気だのという個人的な理由で、だ。だが少なくとも、私が運命に介入した事で、彼らの生に確かな意味づけを行う事が出来た。私が実験に参加させた彼らは、少なくとも人類の発展に貢献するために生まれ、そして死んだんだ」
淀みなく語る男の目には、迷いは一切見られない。
――ああ、わかった。この男には他人の感情なんて本当にどうだっていいんだ。僕が怒っていたとしても、雨雲が出来たから雨が降ったくらいにしか考えない。この人にとって、他人の感情は天気か何かと同じようなものなんだ――
「貴方は神ではありません。博士」
それまで黙っていたレベッカが、静かに言った。
「前にも申し上げたはずです。所詮人一人に、神の視点で物事を判断する事は出来ません。ましてや、他人の運命に介入するなど。そんな事は、貴方の傲慢でしかない」
「そう。地球から役割を与えられなかった人間がそうするなら、そうだろうね。しかし、私は違う。望むと望まぬと関わらず、生まれた時から役割が与えられていたんだ。〝神の子〟としての役割がね」
「……ただの自意識過剰だろ」
「ただの自意識過剰では、人間の形態を変化させるような物は作れんよ」
ライムントの蛇が、ぴくりと画面のほうへ首を向ける。
「生まれてきた以上、誰にでも役割がある。私は私の役割を全うするまでだ。そして、いずれは君も……」
ライムントの黒茶の瞳が、仁の目を覗き込む。
「っ、やめろ!!」
「気付かないのか? 自分でも薄々感じているだろう。どう見ても自然界には存在しない二対の大きな翅。自分の正体を探さなかったはずはない。数あるフュージョナーの中でも自分だけが特異だという孤独。それが意味する事に――」
「何の話だよ!?」
「神の子」
ライムントの言葉が頭に落ちる。
「君に与えられた役割も、また……」
「そこまでよ。ライムント博士」
声と共にレベッカの腕が伸びていた。右手に小さな黒い物体を握っている。小型の拳銃のようだが、全体的にかなり薄い。その拳銃らしき物の先がライムントの頭に突き付けられていた。
「それ以上無関係の人間を巻き込まないでもらいましょう。特に、貴方の話すおかしな話には」
「ふん。《小火竜》か。御父上の作品だな。お守りかね?」
「文字通りね。いくら貴方でも、脳に電撃を食らいたくはないでしょう」
ライムントが笑った。両手を挙げてゆっくりと身を起こす。
レベッカが左手を白衣の懐に入れて何かを取り出し、それをテーブルの上に滑らせた。
手元に来たそれを仁は見つめる。思わず、レベッカの物と見比べた。差し出されたのは、レベッカが持つ物と同じ形の武器だ。
「それを持っておいて。相手に向けて引き金を引けばあとは銃が勝手に電撃を当ててくれる。動けなくはなるけど死ぬ事はないから。――……一緒にここを出ましょう」
「出るったって……叉反とおじさんは!?」
「一度目の変身はそう長くは続かない。肉体を生かすためにモンストロが活動を休止するから、部屋さえわかれば鳶の彼は連れて行ける。蠍の探偵は……」
「そういえばレベッカ君。探偵の手術はうまくいったのかね?」
思い出したように、ライムントが言った。
仁の胸の裡に嫌な予感が走った。
「手術?」
「ああ。探偵の彼には別の実験で協力してもらった。本当は私が完遂したかったんだが、途中トビ君のほうが難航したものでね。探偵の仕上げは、レベッカ君に任せたのだ」
レベッカの顔が曇る。反射的に、仁の口は動いていた。
「この男の手伝いをしたの……?」
「放置出来る状況じゃなかった。手術自体は問題なく完了したから、体は無事よ。今は安静にしているはずだけど、目を覚ましたら……」
「どこにいるの?」
「え?」
「探偵はどこにいるかって聞いたんだ!」
感情を抑える事が出来なかった。もし、もし叉反まで、あんな姿になるんだとしたら……!
「案内してもらうよ、お姉さん。叉反とおじさんを助けないと」
「……勿論。貴方達は、私が必ずここから逃がしてみせる」
思い詰めた女の顔から仁は目を逸らす。レベッカの声の悲痛な響きを、聞かないようにした。
部屋中に聞こえるように電子音が響いたのは、その時だった。
『――博士。聞いてるかい?』
どこからともなく聞こえてきたのは子供の声だ。といっても、おそらく仁よりは年上だろう。
「……白王か」
両手を挙げたまま、ライムントが答えた。
『ちょっと早いけど、次の実験を始めるよ。鳶の彼は使えそうかな?』
「まだ完全にストーンが機能していない。何らかの刺激を与える必要があるかもしれん」
『ふうん。なら、まあ仕方ない。犬のほうで試そうか』
「ああ。モニターに映してくれ。今ちょっと手が離せないんでね」
『りょーかい』
少年の言葉と共に、壁の画面に光が走る。
新たに映し出されたのは、白い壁に囲われただだっ広い部屋だ。黒い床の他は何もない。音もなく、奥の壁が唐突に動きだし、扉のように開いていく。そして、その中から黒い影が姿を現した。
「あれは……」
呟きをかき消すほどの大きな唸り声が、画面の中から轟いた。
黒い犬だ。コンビニでレベッカを狙っていた男の一人が変身したものだ。だが、あれからさらに変化が進んだようで、その大きさはもはや小山のようになっていた。
「まさかモンストロを……」
「ああ。追加で注入した。彼は原液との相性が良かったようでね。せっかくだから、耐性実験に協力してもらった。鎮静剤が刺せなかったので、白王が随分苦労したみたいだが」
グリップを握るレベッカの手がきつく締められる。
同時に画面の中で、黒犬の向かいにある壁が開いた。
誰かが出て来る様子はなかった。白い壁に空いた黒い闇が、映し出されるばかりだ。
だが、やがて、闇の中で何かが動く気配があった。一歩一歩、確実に部屋のほうへ近づいて来る。闇の中の歩行者に、部屋の光が当たり出した。長身。暗茶のコート。肩にかけた二挺の銃。左右の手に二挺の拳銃。眼前の黒犬を静かな眼光で捉えている。
蠍の尾が、闇から完全に抜け出す。
「叉反……!」
仁の声に、白王と呼ばれた少年の、笑みが混じった吐息が重なる。
『さあ始めるよ。探偵対モンストロ、戦闘実験開始だ』
画面の中の叉反が、二挺の拳銃を構えた。