プロローグ
ウミザリガニの化け物が毒を持っているとすれば、すでに噛まれた傷口から毒は体に回っているのではなかろうか。果たして夜明けは訪れるだろうか。
――池央耿訳「ザ・スリー」
(スティーブン・キング『ダーク・タワー』)
目を閉じると、視界にはいつも荒野が広がる。
照りつける陽光に塗りつぶされた、乾いた大地。
血管を熱せられるかのような気温。石が括り付けられたかのような体の重み。汗を拭い、朦朧となりながら、俺は荒野を一歩ずつ進む。
何故歩くのか。それは俺にもわからない。いつも、気が付けば荒野に立っていて、気が付けば荒野を歩いている。眩しく輝く太陽に向かって。
時間の流れなどわからないが、いつも長く歩く。歩みを止める事はない。不思議な事だが、歩いている間は、辛くても休もうとは思わないのだ。歩く事が何よりも重要に思えて、それ以外の事を考えない。
そうして歩いていると、いつも出くわす奴がいる。
そいつは、不意に前方に現れる。捻じくれた枯れ樹に止まり、逆光で姿は影になっている。
大きな鳥だ。猛禽だろう。羽毛は乱れていて、ひどく荒々しい印象を受ける。樹の上からは微動だにせず、その視線がじっと俺を見つめている。白く、朧に光る二つの目玉。いつも気が付くと現れて、俺の目を覗き込んでくる。
俺はその目から逃げられない。一度目が合うと、二度と離せなくなる。歩みは止まり、俺の視界は巨鳥の光る目だけに焦点が合う。
ああ、こいつは何だ。何故俺を見つめているのだ。
俺を取って食らいたいのか。この俺の体を。この俺の魂を。
気が付くと、俺は不明に陥っている。俺が鳥か、鳥が俺か。足をつけて立っていたはずの荒野は、その時には消えている。俺は自分自身の境界線を見失い、その内に光も闇も見失って――……。
「……っ!」
目が覚めると、俺はベッドの上で跳び起きている。全身に汗をかいて、呼吸が整わない。
深呼吸を繰り返す。現実感が体に戻る。窓の外を見ると、空が白け始めている。
左手で額の汗を拭い、右手で窓に触れようとする。鋭く伸びた猛禽の爪が、こつ、とガラス窓に当たる。俺の右腕。 鳶色の羽毛が生え、肌は黄色く骨ばっていて滑らかだ。指先の一本一本から伸びた黒い鉤爪。人間なら掌に当たる部 分にあるのは、鳥類のアシユビだ。鳥ならば樹に止まるのに便利だろう。だが人間なら、コップを持つのでさえ苦労する。
これが《フュージョナー》だ。人間の体に、本来なら必要ない他の生き物の一部を背負った者。今や世の中に蔓延った、出自不明の新人類だ。
そして俺は、多くのフュージョナーの一人。このナユタの街の片隅で、いつも怯えるように暮らしている。鳥ならば飛べるだろう。飛んで、どこまでも渡っていけるだろう。だが俺に翼はない。あるのは右腕だけ。不自然に鳶の一部を持って生まれた、この体だけ。
生まれた時から、俺はずっと迷子だった。
どこへ行ったらいいのか、わかった試しがない。
今日もまた一日、行き場なくうろつくだけだ。
自ら迷走を終わらせようとも考えたが、どうしても、この世から飛び立つ事が出来ない。生きて、真っ当に歩みたいという願望はあっても、その能力がない。
失意のままに俺は寝床を出る。どの道生きるなら、まず食わなくちゃならない。それだけは体が勝手に行ってしまう。
希望が見えないと自己が希薄になる。両親は俺に名前をくれたが、もう随分と人に呼ばれていない。代わりに人は、俺の右腕を見てこう呼ぶ。『ろくでなしのトビ』と。
だから、それでいい気がする。俺の名はトビ。ろくでなしのトビだ。ただ生きるために食い、食う為に働き、誰とも話さずに眠る。そして。
こんな朝を、いつも迎える。
朝食を終えると、俺は支度を済ませて仕事場へ行く。
再開発計画によって生まれた巨大都市ナユタ。その中で、未だ開発が進んでいない区域が旧市街だ。その旧市街の一画にある機械整備請負会社に、俺は勤めている。今の時代、手作業で機械を直す事が出来る技術は貴重だ。高校を卒業してから、俺はしばらく自動車の整備工見習いとして働いていた。結局そっちの道はうまくいかなかったが、見習いの時に機械整備を少し齧っていた事が役立って、ナユタに来てからすぐに、この会社に拾ってもらった。
「潰れた?」
我ながら間抜けな声だと思いながら、俺は上司にそう問い返した。いつもはこちらが挨拶しても無視するような男だが、今回は一応言葉だけは返してくれた。
「そうだよ。社長は会社の金を持って昨日のうちに夜逃げした。電話もパソコンも、金になる物は全部売っ払ったらしい」
残された書類を読みながら、上司は淡々と言った。
「元々無理だったよなー。今時ナユタみたいな街で機械整備とか。そもそも人間の手なんかいらないんだから、そりゃ行き詰まりもするわ」
「……何だか、余裕そうですね」
「そりゃあ俺は、次の働き口見つけておいたし。社長にはそれなりに美味しい思いもさせてもらったし? まあ、しょうがねえんじゃねえの。ご苦労様って感じ」
ぽん、と読み終えた書類を車の後部座席に放り投げると、上司はゴミでも見るかのような目で俺を見た。
「じゃ、俺行くから。君もせいぜい頑張りなよ。ろくでなしのフュージョナー君」
言うだけ言って、元上司は車に乗り込むと、そくささと会社から去っていった。
俺は、会社が入っていた小さなビルのドアを開ける。奴が言った通り、中はもぬけの殻だった。机や椅子、ゴミ箱さえなかった。僅かな期待の元、隠し金庫などないかと探してみたが、当然そんな物もない。金目の物など、たぶん、一切残っていないだろう。
退職金なんて、当然出ちゃいない。
ろくでなしは、どうやら俺だけではないらしい。
外にいても良い事はない。そしてたぶん、家で寝ているぶんには悪い事は起きないだろう。一人暮らしを始めてからわかった事だ。俺一人の世界に収まっているなら、世の中は俺に関わってはこない。
そういうわけで、せっかく朝起きたにも拘わらず、俺はその日一日を家に帰って寝て過ごした。今度は妙な夢も見ない、平穏な眠りだった。
次に起きた時、窓の外はすっかり暗くなっていた。朝食しか食っていないせいで、起きて早々に腹が鳴った。体は、相変わらず気怠いが、空腹感はなおも強くなるばかりだ。
仕方なく、俺は行きつけのコンビニで夕飯の買い物をする事にした。仕事で使っていたツナギを着て、俺は外に出る。歩いて、十分といったところか。
今時、こんな店があるのはナユタの旧市街か田舎くらいだろう。新市街じゃ、大半の人間は買い物を自宅でする。 ショップのメニューとリンクした電子立体タブレットを操作するだけで、食料は冷蔵庫に、衣服は棚に、煙草は書斎に、自動で搬入される。
以前、新市街の高級マンションに仕事で入って、その様子を実際に目の当たりにした時には、自分が暮らす世界との違いに眩暈がした。救いがあるとすれば、そういう設備が整っているのはこの国じゃナユタくらいのもので、国民のほとんどは、まだ買い物かごを片手に買い物するのが普通だという事か。
旧市街はいい。暮らしていて気楽だ。周りの人間――新市街に比べて、フュージョナーが多い――は大抵俺と同じ、真っ当じゃなさそうな風体をしている。おかげで、毎日仕事から家に帰るまでの、ほんの少しの間だが、俺はほっと息をしていられた。家に帰れば自己嫌悪が苛むが、少なくとも街にいる間は、俺だけがろくでなしなわけじゃないんだ、と。
夜の七時。コンビニに人は少なかった。暇そうにしている店員と、小太りの中年男が一人、痩身の男が一人。知り合いらしく、何やらぼそぼそと話しているのが聞こえる。痩身のほうは見たところ普通の人間だが、小太りのほうは耳が犬のそれだ。
このコンビニを利用する客は大体決まっていて、俺はたぶん、夜の客なら誰でも一度は見た事があると思うが、この二人は初めて見る顔だ。まあ、旧市街には流れ者が多いから珍しい事じゃないが。
見知った顔といえば、ちょうど俺のすぐ近くに二人、よく見る顔ぶれがいた。毎日とは言わないが、二週に一回はこの店で見る顔で、端から見ても随分と変わった取り合わせだと思う。
一人は子供だ。たぶん、まだ小学生くらい。古着らしい、片方の膝から下が破けたオーバーオールを着た、髪の長い少年だ。頭のほうから二本の触角が伸びているのと、甲虫の物らしい翅が二対背中に生えている。フュージョナーだ。しかし、何のフュージョナーかはよくわからない。二対の翅を持つ虫が、世の中にはいるんだろうか。
「だからさあ」
飲み物の棚へと進みながら、少年が隣に立つ連れを見上げて、呆れたように声を上げた。
「煙草は駄目って言ってるじゃん。医者にも止められたんでしょ? 調子が良くなるまでは止せって」
自分より一回りも二回りも大きな大人を、まるで年長者のような口調でたしなめている。言う少年も少年だが、言われるほうも相当駄目な奴だ。俺がこの二人のこんなやり取りを見るのは、何もこれが初めてじゃない。
「わかっている。わかってはいるのだが……」
子供にたしなめられている大人の男に、俺は目を向ける。
でかい男だ。俺もそれなりに背は高いが、この男は俺の背丈より拳二個分は高い。白いシャツにネクタイ、その上からベストを着て、暗い茶のコートを着ている。二十歳は過ぎているだろうが、まだ若い。同い歳か向こうが少し上ってとこだろう。何より目を引くのは、腰から生えている大きな蠍の尻尾だ。傍目にも凶悪な毒針が、一見男を近寄り難く見せる。
だが、実際に男が見せるのは、実に情けない表情だ。
「……禁煙は、どうも好きじゃない。俺の師匠も喫っていたが、止めても聞いてくれなかった。代わりに辞書が飛んできて『いいから一カートン買って来い、小僧』、と」
「知らないよ、そんな話。大体止めた本人がニコチン中毒じゃ意味ないよ。よく出来た『ミイラ取りがミイラ』じゃないか」
「そうは言っても、喫う事自体はそれなりに役に立つ。昔から人は秘密の話を喫煙所で漏らし……」
「はいはいタバコミュニティって奴ね。喫煙者はホント好きだよな、それ」
男のほうは眉根を寄せたまま、少年の言葉を聞いている。
「そんな事言ってると、今に変な病気になって後悔するよ、サソリ」
少年が少しだけ真面目そうな声で男に言う。男のほうは聞いているのだろうが、顔の向きを変えたせいで、その表情は見えない。
サソリ。どうやらそれが、この男の呼び名らしかった。本名なのかあだ名なのか、それはわからない。だがまあ、一応昨今の学校では、フュージョナーはその特徴で呼んではいけない、などという教育がされる。ようするに蠍の尻尾がある奴をサソリと呼ぶなとか、鳶の腕を持つ奴をトビと呼ぶな、とか。確かに、俺だって知らない奴から急に鳶野郎などと呼ばれたら気分は良くない。即座にこの右手で反撃に出るだろう。
この男と少年がどういう関係なのかは知らないが、少なくとも少年は侮辱の意味で、男をサソリと呼んでいるわけではなさそうだった。
入口のほうで古びた自動ドアが、部品を擦らせながら開く音がした。誰かが駆け込んできた。普段なら誰が入って来ようが別に頓着しやしないのだが、つい自動ドアの不快な音に反応して、そっちのほうを見てしまった。
当たり前の事だが、知らない顔だった。
外人の女だ。人目を引く、燃えるような赤色をした髪、膝に手をつき、息を切らせている。左手に、古い映画で見るようなジェラルミンのケースを持っていた。
「いらっしゃいませー」
多少戸惑った様子だが、店員が言った。女は勢いよく顔を上げた。
「匿って!」
「は?」
「でなきゃ裏口から逃がして!」
一字一句聞きたがえる事のない、はっきりとしたこの国の母国語だった。店員が面倒そうな顔を隠さず、手で頭を掻いた。女が不意に表情を変えた。その瞬間だった。
けたたましい炸裂音と共に、入り口のガラス戸が粉々に吹き飛んだ。気付いた瞬間には女の体が俺に向かって突っ込んできた。俺は突き飛ばされた形になって、瞬時に店の床を転がる。女の床に伏せるように体を投げ出していたが、すぐに姿勢を起こした。
「嘘、何でここが……」
言葉の終わりに舌打ちが混じる。女の顔に困惑が浮かんでいた。何かが起きていた。尋常な事態じゃない、何かが。
「ごめんなさい」
口早に女が俺に言った。女の赤い髪の右側に、直に挿したような小さな花が揺れていた。綺麗なブルーの瞳がはっきりと見て取れて、返事をしようとした俺は思わず言葉に詰まる。再びの爆音がして、俺は反射的に身を伏せた。本棚の裏側のガラスがまとめて砕け散る。飛び散ったガラス片が音を立てて床に落ちた。
小さな悪態が聞こえた。英語のようだ。どうやら女が言ったらしかった。
派手にガラスを踏む音がした。ちらと、顔を上げる。破壊され尽くしたドアを踏み躙って、誰かが入ってきた。一人じゃない。二人だ。喪服よりは品のあるダークスーツに、黒いサングラス。前時代的な格好だった。一人は手にマシンガンみたいな銃を持っている。
女が身を起こした。ダークスーツの男達に背を向ける格好だった。マシンガンを持つ手が置き上がった。狙いは、た
ぶん――
「止せッ!!」
腹から飛び出すように俺は叫んでいた。マシンガンを持っていないもう一人の男が俺のほうを見た。マシンガンのほうに変化はなかった。視界の中で、物事はひどくゆっくりと動いた。
何かが放物線を描いて男達の足元に落ちる。ごん、という重たい音。赤いラベルの飲料缶だと判別した瞬間、はためきと共に黒い影が宙を舞った。
衝撃に店が揺れた。長身の男が放った跳び蹴りがマシンガンの男の胸元に飛び込んでいた。引き金が引かれ、重機めいた銃声と共に天井に勢いよく穴が空く。もう一人の男が反応するより早く、その顔に拳がめり込む。暗茶のコートが翻り、蠍の尻尾が身震いするように揺れる。
ダークスーツの男達が、瞬く間にタイルの床に伏せていた。素早く身を返し、男が相手の手からマシンガンをもぎ取る。
「動くな」
両手で構えたマシンガンの銃口を、サソリは倒れているダークスーツに向けた。男達が僅かに呻く。まだ意識があるようだ。
「――……っ、サソリ」
小さな声が、静まった店内に響く。少年の声だ。
飛び込んできた光景に、俺は息を呑んだ。
翅を持った少年の顔が強張っていた。その蟀谷に、黒い凶器が力任せに押し付けられている。太い指に握られた、拳銃。
「銃を捨てろ。お前の負けだ、探偵オガサソリ」
店内にいた二人組の一人、小太りの男が言った。俺は、暴力沙汰にはついさっきまで関わりがなかった。だが、少なくとも今、少年を人質に取っているこの男が、事によってはその引き金を引くだろうという見当くらいは、容易についた。
サソリが両手を上げていた。二人組のもう片方、痩身の男がその手からマシンガンを奪い取る。ダークスーツの二人組が、ゆっくりと起き上がった。
「ったく、情けねえ。探偵如きに遅れを取りやがって」
小太りの男がぶつぶつと言った。ダークスーツ達は答えなかった。受け取ったマシンガンの銃口をサソリに向ける。痩身の男も、懐からすっと拳銃を取り出した。
「やめなさい」
女が立ち上がった。ブルーの目が、小太りの男を睨み付けていた。
「投降する。狙いは私一人でしょう? その子は関係ない。放してあげて」
「最初からそう言えばいいんだよ、お嬢さん。おかげで店を一つぶっ壊しちまった」
「黙りなさい。暴力屋め」
「はっ。いい気なもんだな」
太い指が、少年に突き付けた拳銃の突起に触れた。カチ、という音がいやに大きく聞こえた。女の顔色が変わった。
「何をするの!?」
「決まっているだろう。顔を見られたんだ。このガキも探偵もそこの男も、生かしておけるわけがない」
たるんだ肉が笑みで歪んだ。その瞬間、俺の頭の後ろに固い物が押し付けられた。何を、なんて考えるまでもない。横目に痩身の男の顔が見える。
「やめなさい!! 彼らを殺すなら私も死ぬから!」
「馬鹿な事は止せ。元を糺せば、お前がこいつらを巻き込んだんだ。恨むなら、頭が回らなかった自分を恨むんだな、学者先生」
胃の中に刃物を直接突っ込まれた気分だった。俺みたいな屑は、どうせそのうち野垂れ死ぬんだろうと、ずっと他人事みたいに思い描いていた。それがどうだ。銃を頭に突き付けられるなんて、今の今まで考えもしなかった。
「――わかった。こうしましょう」
女が意を決したように言った。
「先に荷物を渡す。だから、その子は助けてあげて。まだ子供だし、貴方達の顔を知ったところで、何も出来ないはずでしょ」
手に持ったジェラルミンケースを掲げる。少なくとも、あの子の命だけは助けようって事らしい。賢明な判断って奴なんだろうが、俺とサソリの探偵の命は危険に晒されたままだ。
小太りの男は、しかし、いい顔をしなかった。
「どうかな。このガキはさっき探偵が動くのを察して、注意を逸らすために物を放り投げた。咄嗟の機転にしちゃいい判断だ。土壇場で動ける奴は始末するに越した事はねえ」
「貴方、本気で子供を殺す気?」
「自分を守るためだ。少しでも不安を覚える事は潰しておくのさ。……だが、そうだな。先生が自分で証拠を示すって言うなら、考えてやってもいいだろう」
「……何が言いたいの?」
小太りの男が楽しげに笑みを漏らし、左手を後ろに回してから何かを放り投げた。
物体は女の少し手前に落ちて、そこから二、三、緩やかに回転した。
「お前の手で、そこにいる探偵を始末するんだ。そうしたら、ガキの命は助けてやる」
男が自ら放った物を顎で指した。黒い拳銃が、そこに転がっていた。
「何て事を……」
青ざめた顔で、それでも女は毅然と男を睨みつけた。
小太りが気にした様子はない。
「どちらでもいいんだぜ、先生。一人を殺して一人を助けるか。何もせずに三人死ぬのを見届けるか。好きなようにやってくれ。ま、探偵は逃げないだろうが」
男の言葉に、探偵は何も答えなかった。さっきから無表情のまま、じっと目の前の出来事を見つめている。
女が目を閉じる。小さく息を吸って、微かに吐き出す。
「ごめんなさい」
はっきりとそう言って、彼女は床に手を伸ばした。動きは早かった。銃を掴んで、振り返りながら立ち上がり、銃口を相手に向ける。顔色は変わってはいない。体が小刻みに震えている。
「探偵を近付けさせろ。絶対に外さないようにな」
小太りが乱暴に指示を出した。ダークスーツの一人が押し出すように探偵を前に進める。蠍尾の男は抵抗しなかった。女と探偵の距離が縮まり、銃口がベストの上から押し付けられた。
「妙な真似はするなよ、探偵。大人しくしているんだ。最期までな」
小太りの言葉に、マシンガンの銃口が探偵のほうを向く。
ふと、それまで黙っていた探偵が、静かに口を開いた。
「ぴったり心臓の辺りだな」
一瞬、誰もがその言葉に反応出来なかった。小太りでさえ意味が取れないようだった。奇妙な沈黙がやってきて、しかし、すぐに去っていった。
「慣れているから」
直に銃を突き付けた女が、律儀に返答した。
「ちっ。さっさと撃ちやがれ! レベッカ・アンダーソン!」
小太りの男が前のめり気味にがなった。覚悟を決めるかのように女が大きく呼吸をして、その引き金にかかった指が動く。咄嗟に俺は目を逸らした。
銃声は、聞こえてこなかった。そっと、俺は視線を元に戻す。状況は全く変わっていなかった。指は引き金にかかったままだ。
「……引けない」
小さな声で、女がマシンガンを持った男に言った。女の指が、何度も引き金を引こうとするが、強い力で止められているかのようにそれが動く気配はない。
「おい。セイフティがかかったままだぞ」
ダークスーツが非難がましい声で言った。そのままマシンガンを下げて女へと近付く。
――その、僅か数秒――
「この馬鹿野郎!!」
小太りの怒声が響いた瞬間、ジェラルミンケースがマシンガンを持つ手に叩き付けられる。握りが解かれ、長い銃は男の手から離れる。苦悶の声が上がるのと同じく、もう一人のダークスーツが俺の目の前に投げ飛ばされた。
「っ、こいつら!」
俺の後頭部から銃が離れた。痩せ男が狙いを変えたのだ。男の銃が動くのが見えた。それがきっかけとなった。
体を駆け巡った電流の命ずるまま、鳶の右腕が裏拳紛いに男の顔面に振るわれた。人を殴った経験なんて、ガキの頃の喧嘩くらいしかない。骨ばった俺の手が、相手の鼻っ柱を打ったのがわかった。
反撃は一瞬だった。怒り狂った痩せ男の拳が俺を顔面ごと殴り飛ばした。浮遊感。痛み。飛んだ体が床に投げ出され、情けない声が喉から漏れた。
「舐めた真似しやがって!!」
痩せ男が俺に狙いを定めた。銃口が向けられたその瞬間、真横からでかい拳が男に叩き込まれる。まるで隙間に挟まったボールのように、男の顔が商品棚に突っ込んで動かなくなった。
男の顔から拳を引き戻す探偵が俺の顔を見た。黒い、無表情な目。
「大丈夫か」
「……ああ」
探偵の言葉に、俺はそんな返答しか出来なかった。見れば、女が残ったダークスーツに、拳銃を突き付けていた。悠然とした足取りで、探偵はそのまま前に進み、床に落ちたマシンガンを拾い上げた。
「さあ、形勢逆転だ。ジンを放してもらおうか」
素早くマシンガンを構えて、探偵が小太りに告げた。男の犬耳がひくついた。
「調子に乗るんじゃねえぞ! こっちにはガキがいるんだ。てめえらこそ銃を下しやが――」
言葉はマシンガンの轟音によって遮られた。拳銃を持つ男の右腕がだらりと下がり、肘の辺りが激しく出血していた。苦悶の声が、男の口から漏れていた。少年が男の腕を振り払い、探偵の元へと駆け寄る。男にそれを止める力はない。膝をつき、目を見開いている。
「お前の負けだ」
探偵が静かに言った。
「……俺の負け?」
俯いたまま、男の口から喉を鳴らすような笑い声が聞こえた。笑うと傷に響くのか、すぐにその声は呻きに変わる。
「……そうか、俺の負けか。それじゃあ、仕方がねえ」
男が上着のポケットに手を入れた。マシンガンが再び男を狙った。
「抵抗は無駄だ。大人しくしていれば撃ちはしない」
「馬ぁ鹿。俺はもう負けてるんだ。こっから先は場外乱闘だよ」
太い指で摘んで、男はポケットから何かを取り出した。銃じゃない。太めの、一言では言い表しづらい器具だ。上下を銀色の蓋で塞がれた容器。中に入っているのは、エメラルドに近い色の液体だ。男の掌に握られていて全容は見えないが、俺はその緑の液体の中を、白い何かが泳いでいるのを見た。
「モンストロ……」
女の声が聞こえた。銃はダークスーツの至近距離に近付けているが、目は完全に男が持つ容器に捉われていた。次の瞬間、女は探偵に向かって叫んだ。
「あれを撃って! 早く!」
「はっ。もう遅えよ」
探偵が答えるより早く、男は容器を口に銜えた。男の鋭く尖った犬歯が見えた。小さく、何かが割れる音がした。
緑の液体が、ぽた、と床に落ちた。
「逃げて」
女が口早に言った。少年が女の顔を見る。女は周囲の顔を見て言った。
「全員よ。死にたくなかったら、今すぐ全力で!」
一拍の間が空いて、ダークスーツが悲鳴を上げて駆け出した。小太りの男は床に突っ伏している。俺は妙な事に気が付いた。今しがた銃弾が貫いたはずの男の右肘から、出血が止まっている。
「ジン。彼らと逃げろ」
探偵が言った。その目つきがさっきよりきつくなっている。
「逃げろって……」
「いいから彼女達と逃げろ。そこの人、あんたもさっさと行くんだ」
「いやでも――」
俺が思わずそう言いかけた時だ。
しゃ、しゃ、しゃと裂けるような音が続いて、小太りの影が大きくなっていた。
いや、それはもう、小太りの男じゃなかった。その腕は幹のように膨れ上がり、墨のような動物めいた毛で覆われていた。どういう原理か、体のそこかしこから稲妻が走り、体の膨張に伴って放電していく。肘が砕けたはずの右腕が、再生しながら獣の前足のようになり、まるで生まれつきそうだったかのように地に着いている。
足はもっと凄かった。目に見える電流と共に何本もの筋肉が次々と切れ、骨がへし折れて形状が変わっていく。関節は完全に逆転し、体毛が猛スピードで生えていく。
それはもう人間の足じゃなかった。巨大な黒犬。俺達の目の前に現れたのは、そんな怪物だった。
「急げ!!」
探偵が怒号を発した。女が少年の手を取り、俺の顔を見た。
迷っている暇はない。立ち上がり、飛び散ったガラスを飛び越え、俺は女達の後を追う。背後で、獣の咆哮と共にマシンガンが放つ銃声が聞こえてきた。
振り返るわけにはいかない。俺は女達に追いつくと、言った。
「どこへ逃げる?」
「ここから少し行ったところに探偵の事務所がある」
答えたのは少年だ。
「下手に変なところに隠れるよりは安全だよ。鍵は預かってるから」
「意外と冷静だな……。お前」
「別に落ち着いているわけじゃないよ」
言いながら、少年はちらと後方を振り返った。
「なら、二人でそこへ行って。私は探偵を助けてくる」
女が足を止めた。踵を返し、来た道を引き返しだす。俺は慌てて、その肩を掴んだ。
「待てって! あんたが行ってどうにかなるもんなのか? あんな奴を相手に」
「策はある。それに、このままだと彼が死ぬわ」
「……なら、せめて俺も一緒に――」
「残念だけど、出来る事は何もない。来るだけ無駄よ」
俺には目を合わせずに、女が言った。
「ごめんなさい。私があそこへ行かなければ、こうはならなかったのにね。貴方達はちゃんと逃げて。私が彼を助けてみせるから」
女が走り出そうとした。髪の間の小さな花が揺れる。白い四枚の花弁。あれは、確かヒナゲシだったか。
「おい待――」
言葉は最後まで言えなかった。
頭蓋骨を叩き壊されるような衝撃が、突然俺に襲い掛かった。冗談みたいに目の前が光り、頭がくらくらする。食った物が胃からせり上がり、堪えきれず吐き出した拍子に体の力が抜ける。地面に転げれば、アスファルトの感触が冷たい。
「おじさん!?」
少年の声が聞こえた。その声が急にくぐもった。黒いスーツの足が、少年の腹を蹴り飛ばしていた。痛みを堪えるように、少年が腹を抑えて蹲る。
「……にしやがって。馬鹿にしやがって」
誰かが、ぶつぶつとそんな事を呟いていた。視界もだいぶ悪い。ぼやけてやがる。だが俺は、俺の事を襲った奴の顔を判別する事が出来た。さっき一目散に逃げ出した野郎、ダークスーツの片割れだ。
「動くんじゃねえ! レベッカ・アンダーソン。動くとガキとこの男を殺す」
ダークスーツが興奮した様子でまくし立てる。どこから持って来たのか、手に持った消火器を俺の頭のすぐそばに叩き付けた。
「銃を捨てて両手を上げろ。一緒に来てもらうぞ。博士のところまでな!」
男の言葉に女が頷くのが、辛うじて見えた。両手を上げて女は銃を手放す。
立ち上がらなきゃ。今すぐ女と少年を助けなきゃいけない。だが、足に力が入らない。どころか、全身の感覚さえ無くなってきている。
ダークスーツが女を拘束するのが見えた。近くには、他に誰もいない。
視界が混濁する。首筋にぬるりとした物が垂れてくる。足を下に引っ張られるみたいに、意識が保てなくっていく。視界が暗く、暗く、暗く……。
……ああ、くそ。ろくでもない事になりやがった。
※
タウルス・モデルSMT9。ホルハス・タウルス社製サブマシンガン。装弾数三十発。さっきからそれなりに引き金が引かれていたから、あまり弾は残っていないだろう。
叉反は前傾姿勢気味にサブマシンガンを構え直す。自身の銃は、今はない。あと利用出来そうなのは後ろに倒れている痩せ男の銃、それに小太りの男が持っていた拳銃だ。もっともそれは、今や黒い巨犬と化した男の足元にあるが。
男の骨格が音を立てている。顔面の骨が人間の物から犬のそれへと急激に変化し、しかも正常に機能し始めている。口が自然に開閉し、呼吸を行い、眼球が物を認識していた。まるで最初からその体であったかのように、骨も神経も筋肉も、全てが正常に動いていた。
強いて言うならば、回帰症だ。フュージョナーがその体に宿した動植物そのものに変じてしまう病。
だが、これは違う。回帰症の変化はこんな急激なものではないし、そもそも回帰症では巨大化しない。
「場外乱闘だと」
思わず、言葉が口を衝いて出る。
「熊に出くわしたようなものだ」
叉反の独り言に答えたのかどうか――
「ガァアアアルルァッ!!」
巨犬が咆哮と共に床を蹴った。
狙いは定めていた。巨犬が跳んだ瞬間、叉反もまた犬が地を蹴った地点目がけて回転するように飛び込む。瞬間、背後で商品棚が音を立てて吹っ飛んだ。小太りの男が握っていた拳銃を左手に掴みざま、SMT9の引き金を強く引く。 リズミカルな震動と共に火を吹くSMT9の九ミリ弾が巨犬の背へ吸い込まれるように着弾する。空撃ちの音。弾切れだ。サブマシンガンをガラスへ向かって投げ捨てる。半回転したマシンガンがガラスを打ち破り、本棚を足場に外へと躍り出る。
黒い影が迫っていた。次の行動を取る前に猛烈な攻撃が叉反の体を壁へと吹っ飛ばす。自身の体が壁を砕く衝撃に内臓が震える。銃を構える暇などない。跳躍した巨犬の追撃が、叉反の肋骨を砕いた。
血が喉からせり上がった。吐き出した真っ赤な血が、犬の黒い前足を汚す。万事休す、だ。もはや腕を上げる力さえ残っていない。
死が迫っていた。この前足がもうひと押しされるだけで、俺は死ぬ。造作もなく。心臓を破られて。
犬の顔が近くにあった。血の臭いを嗅いでいるようだ。生暖かい吐息が頬に触れた。終わりはもうすぐそこまで来ていた。
「おー、いい具合にやられたねえ」
――声が聞こえた。知らない声が。
「これなら回復速度の実験も出来る。死亡寸前の怪我からでさえ、被験者の体は修復されるのかどうか」
声は、次第に近付いているように聞こえた。少年の声だ。たぶん、仁よりは年上だろう。
「だから、それ以上は駄目だよ。さすがに完全に死亡した体は蘇らないだろうし。博士はその探偵の回収を望んでいる。手を引くがいい……って」
すぐ目の前にいた巨犬の表情が、刹那、変わる。
「まあ、聞こえてないよね」
風が唸った。瞬く間に巨犬の体が飛び去っていた。一拍遅れて、巨体が地面に叩き付けられる音と、その悲鳴が聞こえてくる。
信じられない事だが、どうやら巨犬は自ら飛び退いたのではないらしかった。投げ飛ばされたのだ。とてつもない力によって。
巨犬の影が去ったその場に、小さな人間が立っていた。褐色の肌に、銀髪。小柄な、十四、五才くらいの少年。
「心配しなくてもいい。君は助かるよ。もっとも、後になって苦しむかもしれないけどね。死んだほうがマシだったって」
彼の口が動く。外見に似合わない大人びた口調。血が失われていくせいで、視界が急速に閉じていく。
「さあ行こう、探偵尾賀叉反。運命を握るための遠き道のり。その始まりの場所まで」
全身の力が抜けていく。手の中の拳銃が地に落ちて、乾いた音を立てた。