カレー大好き桜子さん――新宿 大久保公園の激辛グルメ祭り
扇桜子はカレーが好きだ。だが、実のところ、そこまで辛党というわけではない。
桜子にとってカレーは辛いものではなく、美味しいものだ。無論、散りばめられ、溶け込んだスパイスの味と香りがピリリと身を引き立てるのは否定するものではないが、そこに過度な刺激を求めたりはしない。辛くなくても、美味しければ良いのだ。
そんな桜子が大久保公園で開催される激辛グルメ祭りを訪れた。
新宿東口方面、歌舞伎町へと下って行くと、ビルの合間にぽつんとあるのがこの大久保公園だ。
付近の雑多で猥雑とした雰囲気は、この公園にも漂ってきている。あまり小綺麗な場所ではないが、それでも桜子はあまり気にしない。短大生時代、アジア諸国を練り歩いた桜子からしてみれば、これくらいのほうがかえって落ち着くというものだ。
大久保公園は、よくグルメ系のイベントやフェスタが開催される会場として知られる。ケバブグランプリやガーリックパラダイス、オクトーバーフェスト。そして、この激辛グルメ祭り。会社帰りのサラリーマンや、新宿の東側を拠点とする若者で賑わう。供される料理は量に比べればいくらか割高な気もするが、まあそれも含めて楽しむのがお祭りだ。
桜子がこの激辛グルメ祭りに飛び込んでみようかと思ったのは、ほんの偶然だ。桜子は友人から、この大久保公園で激辛グルメフェスタが開催され、そこにいくらかのカレーを出す店が参加するという話を、耳にした。辛いのはさほど好きでもないのだが、カレーは大好きな桜子である。1人でここ新宿歌舞伎町までやってきたのだ。メイド服で。
なんでもこの激辛グルメ祭り、つい先週までは『世界一辛いカレー』なるものが販売されていたらしい。惜しいことをした。辛い、という点はともかくとして、『世界一』と名のつくカレーであれば、ぜひとも食べて見たかったものである。そんな後悔を、もう二度としたくないので、桜子は1人でここ新宿歌舞伎町までやってきたのだ。メイド服で。
「激辛……。激辛かぁ……。まぁ、嫌いでもないからなー……」
桜子は、そうつぶやきながら、大久保公園の敷地に足を踏み入れる。
うどんや丼ものには七味をかけるし、中華料理には鷹の爪を入れる桜子だ。辛いものは嫌いではない。ただ、極端に好き、というわけでも、ないだけであって。高校時代には大の辛党で暴君ハバネロをしこたま買い漁ったが、そのスコヴィル値への飽くなき情熱も、ある日を境におとなしくなっていった。何があったのかは彼女の名誉のために伏せる。
この激辛グルメ祭りに出店しているのは、どうやら世の激辛好きをうならせるような、激辛の名店であるらしい。ラーメン文化にはさほど詳しくない桜子も、蒙古タンメン中本の名前は知っている。その名だたる激辛グルメの中にカレーを供している店は2つほどあった。インド料理の店と、タイ料理の店だ。
「えぇ……っと。これ、どこに並べば良いのかしら……」
出店に並ぼうとしてみても、そこで金銭のやり取りが発生している様子はない。何かのチケットだけを渡しているところを見ると、おそらく食券だけを買う場所が別に合うのだ。
大久保公園は、その中央にテントが張られ、その下に大量の長机と椅子が並べられている。公園の外周を取り囲むように並ぶプレハブの出店で料理を受け取り、机に持ち込んで食べる方式のようだ。酒を供しているプレハブも見受けられて、どこかビアガーデンのような雰囲気がある。
「そういえば、今年の夏はビアガーデン、行かなかったなぁ……」
桜子は酒豪ではないが、人並みに酒は嗜む。で、ビアガーデンのガヤガヤとした雰囲気の中、知人とキンキンに冷えたグラスをぶつけあうのは、これがなかなか好きだ。
台風が近づき冷え込みも厳しい9月だが、ここはカプサイシンで身体を温め、火照った身体を冷えたアルコールで冷やすのも、悪くない。通り過ぎた夏のビアガーデンをここで楽しむのだ。
専用のチケット売り場は、やがてしばらくもしないうちに見つかった。若い男女のカップルや、外国人観光客なども並んでいる。チケットは600円、800円、1000円のものがあり、それを金券として店のところまで持っていくシステムらしい。
「(ま、ひとまず私が食べたいのはカレーだから……)」
出店している店のメニューは、すべて大きく貼りだされていた。インドカレーがバターチキン、タイカレーがグリーンカレーのようだ。2つくらいならまぁ、入るかしら、と、桜子は並びながら考える。合わせて2000円近い出費になるのだが、お祭りであることだし。
カレーのほかにも、様々な店が提供する激辛料理がある。定番では麻婆豆腐。中華も激辛の本場であるからして、納得のチョイスだ。他にもブリトーやらサルサチップスやら、見ているだけで身体の熱くなるようなラインナップが目につく。桜子も、ちょっぴり楽しくなってきた。“ジョロキアうどん”なるメニューだけは、理解の範疇の外にあったが。
食券を購入し、で店に並び、料理を受け取る。使い捨てのトレー容器に注がれた2種類のカレーに、心が躍りだした。満面の笑みを浮かべ、スキップをしそうになりながら、桜子は席を探す。
「んふ、ふふふふふ……。んふふふーん♪」
今日、桜子は新宿まで電車でやってきた。つまり、酒が飲める。お供にはハイボールをチョイスした。
バターチキンにはナンが、グリーンカレーにはタイ米がついている。どちらもスパイスの効いた良い香りがした。席を見つけ、トレーを置き、ようやく腰を落ち着ける。
バターチキンは、トマトベースのオレンジ色がよく映える、粘り気のあるカレーだった。ごろっと入っている具が嬉しい。桜子のよく知るバターチキンと、見た目のうえで大きな差はなかった。普遍的で万人受けする、インドカレーの看板料理。基本に忠実な印象のある一品である。顔を近づけて匂いを嗅いでみても、必要以上の刺激を感じさせる香りは、漂ってこない。
「んんー……」
桜子は、わずかに首をかしげた。
激辛グルメ祭り、である。バターチキンは、インドカレーの中でも比較的甘めの味だ。このメニューが、激辛グルメ祭りに出品されていること自体に、何やら罠の匂いを感じる。
「いや、でも、言うてバターチキンでしょう……?」
桜子はナンを握りながら、わずかにそれをカレーに浸すことに躊躇をした。
ちらり、と周囲の喧騒に視線を伸ばす。
この激辛グルメ祭り、どの料理も横綱級のスコヴィル値を叩き出す猛者揃いであるらしい。会社帰りのサラリーマンと思しき、ワイシャツ姿の男4人が、無言のまま沈痛な表情で顔を付きあわせていたりした。顔は真っ赤で、汗がびっしり。それでいて空気は通夜のように冷え込んでいる。
更に視線を移せば、男女のカップルが1つのトレー容器を前に、やはり沈黙を保っていた。男は顔を赤くそめながら、ぼそぼそとうどんを啜っている。うどんを少し口に運ぶたび、彼はペットボトルの水に口をつける。女の方はあからさまに不機嫌で、男の方を見ようともせずにスマホをいじり続けていた。体温とは対象に、やはり2人の関係が冷えきってしまっているかのようだった。
すべては、激辛グルメが招いたことである。
ああ、げに恐ろしき激辛!
いかに桜子とは言え、この状況を目の当たりにすれば、躊躇だってしようというものだ!
さて、翻ってバターチキンだ。桜子の周囲にこのカレーを食べている者は見当たらない。激辛を極めしバターチキンがいかなる味を生み出すのか、もはや桜子には自らの手で確かめるより、ほかはないのだ。
「(落ち着いて桜子……。タイ旅行で学んだムエタイの基本を思い出して……)」
錯乱した頭でそのようなことを考えだす始末である。
「(だいたい今までいくつのカレーを食べてきたと思ってるの。ヨユーよヨユー。あなたはカレーを恐れる女じゃなかったわ。そうでしょう、桜子)」
桜子はひとまずナンを置き、代わりにスプーンを握りしめる。震える手でそっとスプーンをルーに浸した。
どろりとしたバターチキンが、スプーンを満たしていく。正面から見据え、ゆっくりとバターチキンを、自らの口元へと運んでいった。薄桃色の唇が上下に開いて、そこでようやく、激辛と称された未知のバターチキンを受け入れる。
「ンッ……ん……ん、んう……?」
それを口に入れるとき、思わず目を閉じていた桜子だが、やがておずおずと片目を開き、そして首をかしげた。
「ん……あ、あれ……?」
思っていたほど、辛くない。
いや、そんなことはない。辛いのだ。舌の上をピリピリと削り取っていくような辛さが、口に残る。
だがそれ以上に、バターチキンの持つ本来の甘さと味わいが、ゆっくりと広がっていくのがわかった。それは、桜子の知るバターチキンとなんら変わらない、優しさを内包したオーソドックスな味わいである。
「なんだ……。これくらいならっ……」
桜子は2杯め、3杯めと、次々にカレーを口に運んだ。辛さが引く前に次のカレーが運ばれるのだから、舌のピリピリは決して途絶えないが、そんなことも気にならないほど、このバターチキンは美味しかった。
「だったら、ナンも……!」
桜子はスプーンを一度置き、ナンを手でちぎる。まずはそのまま、カレーにつけることなく、口に放り込んで見る。
やわらかくもっちりした食感と、特有の甘さ。これは間違いない。一切の間違えようのない、ナンだ。桜子は再びナンをちぎってカレーに浸し、そしてまた口に放り込む。
「うん……。うんっ」
確かに、辛い。確かに辛いが、これは必要な辛さだ。
ただ舌をいじめるために作られたような、無慈悲で冷酷な、荒野の地雷原を思わせるような殺伐とした辛さではない。辛さは甘みを引き立て、甘みは旨味を引き立てる。とかくインドカレーにはうるさい桜子を、大いに満足させる原初の味わいが、そこにはあった。
バターチキンは、あっという間にカラになる。桜子は、一度ハイボールを口に運び、舌のリセットを試みた。
「(やっぱり……。まだちょっと舌がビリビリするなぁ)」
ハイボールの炭酸、カレーに焼かれた舌を刺激して、ちょっぴり痛い。
だがここまで来たら、躊躇もしていられない。次に食べるべきはグリーンカレー。
タイカレーは厳密にはカレーではない。などという定義論を、今更しても仕方が無いだろう。
香辛料がたっぷり効いた、少し甘めの汁物だ。グリーンカレーも本来甘みを持つカレーになるのだが、こちらはバターチキンと違って、もっとハッキリと辛い。ココナッツミルクの甘さと、香辛料のスパイシーさは、まったくの別次元で同列に存在しうるからだ。
だから、桜子には辛いグリーンカレーというものが容易に想像できる。何より、さっきこれを取りに出店に並んだ時、鼻腔をくすぐるスパイスの香りでむせ返りそうになったものだ。
付属のタイ米をスプーンですくい、それをグリーンカレーにひたして、いただく。
先に舌に染みこんだのは、ココナッツミルクの甘さだった。同時に、しっかり効いた香辛料と、煮こまれた肉や野菜の出汁が流れ込んでくる。美味い、と思ったその直後に、やや刺激の強い辛さがやってきた。
「(辛さがあとからくるタイプかぁ……。でも……)」
まったく気にならない。桜子は、グリーンカレーもぱくぱくと口に運んでいく。口の中の辛さゲージはぐんぐん上昇していったが、それもやはりカレーの甘さを引き立てる。桜子は気がつけば、額から汗をだくだくと流し始めていた。
「う、ちょ、ちょっと……。暑いかも……」
しゅる、と首元を解いて、襟を開く、なんとか服の内側に空気を送り込まないと、先に参ってしまいそうだ。肌着のほうもじっとりと濡れ始めているし。
だがグリーンカレーも美味しかった。こちらの方は、具はあまり大きくなかったが、スープの味わいだけでも十分すぎるほどだ。桜子はふたつのカレーをぺろりと平らげ、たいそう満足な心地になった。
「ふぅーっ。美味しかった! ごちそうさま」
紙おしぼりで手を拭き、桜子は両手を合わせる。本当に、ごちそうさまだ。良いものを食べられた。
まだ少し、食べ足りないという気もしないでもないが、得てしてこういうのは、足りないくらいがちょうど良いのだ。実際、おなかはともかくとして、口の中はすでにだいぶヒリヒリしている。
このトレー容器はゴミとして片付けるのだろうか。どこへ持って行けば良いのだろう。
桜子が立ち上がろうとしたちょうどその時、彼女の対面席に、1人の男が腰を下ろした。
最初は浮浪者かと思ったが、彼は桜子にも見覚えのある顔をしていた。全身をボロ布のようなものに包み、剣呑な光を宿した双眸を覗かせる様は、石川賢マンガのコスプレかと思ってしまう。男は、自らの運んできた激辛料理を、何やら思うところがあるかのようにじっと眺めていた。
「えっ、えーっと……。もしもし?」
「ん?」
こちらに気づいていないようなので、ひとまず声をかけてみた。
彼は、桜子のネットゲーム仲間のひとりである。住所不定職業不詳だが、東京周辺で暮らしていることは知っていた。
「ん、ああ……。あんたか。こんなところで会うとは奇遇だな」
「奇遇ですね。私は、今から帰るところですけど」
桜子の姿を認めるなり、男はやけにソワソワしはじめる。
「一朗さまならいませんよ」
「そうか。なら良い」
桜子のネットゲーム仲間には、彼女の雇い主に対して妙に苦手意識を持つ人間が少なくないが、目の前の男もその一人だ。オフ会で1度会った程度でしかないのだが、この男は食事の時も、石蕗一朗から一番遠い席に座ったまま、石のように動かなかった。
「辛いの、お好きなんですねぇ。知らなかった」
「割りとな。おでん屋でも、大根にカラシを塗りたくって知人に不可解な顔をされる」
「ああ、ちょっとわかりますねー。私もおでんにはカラシを多めにつける派です」
まだまだ寒い季節ではないが、コンビニにもおでんが並び始める頃だ。和カラシにしてもワサビにしても、桜子は割りとあの、鼻にツーンと抜けるタイプの辛さは、けっこう好みである。ただ、あれはカプサイシンによるものではないし、この激辛グルメ祭りで供されるものの系統とは、少し外れてくる。
まぁ単純に刺激物が好きなのだろう。目の前の男は。と、思って桜子は視線を下ろし、そして絶句した。
先ほど、桜子は食券を買う時に『ジョロキアうどん』なる看板を目撃した。
イメージは、鴨南蛮のざるうどんに近い。つけ汁が暖かく、ネギや肉が入っているタイプの、あれだ。だが問題はそこから先である。桜子の見た写真のジョロキアうどんは、つけ汁が赤かった。おまけにトウガラシが何本も浮かんでいた。
だが、目の前にあるうどんは、それより更に一歩先をいっていた。
なんというか、ドス赤いのだ。毒々しい、とか、禍々しい、とかそういう形容詞ともそぐわない。
ドス赤い。
未だに舌がひりひりと痛み、カプサイシンが身体を火照らせる桜子である。今度はそれを眺めるだけで、どっとイヤな汗が噴き出してくるかのような感覚があった。
それだけではない。白いうどんの上に、これでもかというほどブチ撒けられた一味唐辛子が、ご丁寧にドクロのマークを作っている。これはもう、作った側が食うなと明言しているようなものでは、ないのだろうか。本能が拒絶する。2杯のカレーを満足して平らげた桜子だが、これはキツい。見るだけでも、キツい。
「な、なんですか、それ……」
「デス・ウドンだ」
ボロ布の男は、誇らしげに言った。
「ちょっとした特別収入があってな。ここで激辛グルメ祭りをやるというから……奮発して、いつもの5倍の食費を払ってな。こいつを食ってみることにした」
「おカネなら、もっと他にも使いみちがあるでしょうに……」
桜子は呆れた声を出しつつ、溶け残りの氷が入ったハイボールのカップを、ずいと男に差し出す。
「……なんの真似だ?」
「水もなしに食べるものじゃないですよ。それ……」
「もう水を買うカネもないんだ」
「だから私の飲み残しでよければあげますよ……。氷だけですけど、ないよりはマシでしょう?」
この男がいかに辛党であろうと、この得体のしれないドス赤い物体を、水もなしに完食できるとは到底思えない。なにせ『デス・ウドン』だ。『ジョロキアうどん』ならば、まだわかる。ジョロキアは食用だし、うどんも食べ物だからだ。食べ物+食べ物。ごく自然なネーミングと言える。
しかし『デス・ウドン』である。『デス』とは、本来食べる物に対してつける形容詞ではない。明らかに殺す気だ。マッドマックスかよ。
「……いや、女性の飲み残しをもらうのは……」
「わかりました。じゃあ水1本奢ります」
無駄な出費と言っても100円ちょっとだ。桜子はこういう時、見てみぬふりをすることができない。というよりは、この男が水もなしにデス・ウドンに手を出し、残してしまうのが勿体無いように感じたのだ。いかに人を殺すためのうどんとは言え、食べ物は食べ物だ。食べ物を残すところを見過ごすのは、桜子の信条に関わる。
自動販売機はすぐに見つかった。会場が会場なので、とっくに売り切れていると思ったのだが、赤ランプはひとつも点灯していない。補充がしっかしているのかしら、と思いながら、桜子はペットボトルの水を購入した。
会場のそこかしこで、激辛にうめき、あえぐ人間模様が見られる。人はなぜ、激辛を求めるのか。辛い辛いと言いながら、笑顔で麻婆豆腐を頬張るサラリーマンを眺めながら、桜子は思う。
トウガラシは本来、鳥に種を遠くまで運んでもらうため、哺乳類には激痛に感じ、鳥類にはさほど感じない味を作り出すよう進化してきた植物だ。そんなものを喜んで食べる哺乳類は人間だけである。冷静に考えると、頭がおかしい。
「……ま、私も、人のことは言えないけど」
なんだかんだ言って、激辛バターチキンも激辛グリーンカレーも、たいそう美味しいものだった。
「辛いもの好きの人間って、やっぱり本質的にはMっ気あるのかしら……」
などと呟きながら席に戻ってくると、ボロ布の男が机に突っ伏していた。
何が起こったのか、わかりきっていながらも、とりあえず礼儀として聞いてみる。
「……どうしました?」
「……喋ると口の中が痛む」
「そうですか」
とん、と500mlのペットボトルを、男の前に置いた。
「……口の中に手榴弾を放り込んだようだ」
男は、デス・ウドンにすでに手をつけていた。一味のかかったうどんの玉が崩され、つけ汁に浸した跡がある。見るに、ひとくちかふたくちしか、食べられていないようだった。『あーあ』と桜子はつぶやく。
男は『いただく』と短くつぶやいてから、ペットボトルの蓋を開けた。ごくごくと一気飲みして、すでに半分ほどの水を、身体の中に流しこむ。
桜子は、デス・ウドンへの挑戦を再開した男を横に見ながら、スマートフォンでぽちぽち検索を始めていた。
「……そういえば、どうして辛いモノを食べた時は水を飲むんだろうな」
「ああ、それ、今調べてたんですけど、なんだか水って逆効果みたいですねー」
「早く言え!?」
水を飲んだ時、口の中が冷えるので一時的に辛さを凌ぐことができる程度であって、実は水自体はトウガラシの辛さを抑えるのに逆効果なのだそうだ。まぁ考えてみれば、思い当たる節はたくさんあるというか。
なお、ワサビや和カラシの辛さを抑えるうえでは、有効らしい。トウガラシの辛さを抑えるのには、やはり乳製品だ。が、ここでは売っていないし、会場は持ち込み禁止である。
「……まぁ、がんばってください」
「そっ……ぐ、げ、げほっ! げほげほっ」
どうやら、デス・ウドンのデスつけ汁が喉に絡まってデスむせたらしい。辛い液体というのは、どうしてああも喉をえぐるような痛みを覚えるのだろう。
「も、もうダメだ……。残す……!!」
「そんな、勿体無いですよ」
「こんな辛いとは思わなかったんだ! 胃袋の中から外側を突き破るように……内臓が暴れてるし、喉はいたいし、舌はひりひりするし唇も燃えるようだ。俺はいま、全身でカプサイシン感じてる!」
「あなた普段の食費の5倍払って何しにきたんですか」
「確かに食費を無駄にしたが、これ以上食べるとそれ以上の何かを失いそうだ……!」
うどんは半玉以上残っている。デスつけ汁もたっぷり残っている。
「うう……。腹の中に溶鉱炉の鉄を流し込んだようだ……。重いし、痛い……」
桜子はため息をついた。
「じゃあ、私が食べます……」
「えっ」
男は、ボロ布の間から驚いたような目を向ける。
「いや、女性に俺の食べかけを食わせるのは……」
「あなたが残すからでしょう! 私は一朗さまのお食事を毎日作る身として! 台所の番人として! 目の前で米粒ひとつだって残されるのを、耐えられないんですっ! ほら、よこしなさい!」
桜子は、妙なところで男らしくない目の前の相手から、強引にデス・ウドンをひったくった。
ふん、と鼻息も荒く割り箸を真っ二つにし、デス漬け汁を覗き込む。
しかし、息巻いてはみたものの、これは。
やはりどう考えても、食べるために作られたようには思えない。なにせデスだ。
だが女は度胸だ。ここは、覚悟を決める時だろう。桜子は、まずうどんを取る前に。カレーを食べるのに作ったスプーンを一度綺麗に舐めとってから、ゆっくりとデス漬け汁にひたし、その中身をすくった。
「………」
おそるおそる、口元に運ぶ。それは、バターチキンやグリーンカレーを食べるときの、何倍も緊張した。
そして、それを口に含んだ瞬間。
「……んっ?」
桜子は、首をかしげた。確かに辛いといえば辛いが、言うほどのものでは、ないような……?
「って、……あっ! あぁっ!? あ、あ……!? ――――――ッ!?」
痛みは後からやってきた。桜子は喉元を抑え、舌を出して声にならない喘ぎ声をあげる。
「―――っ! っ、か、らぁっ!? からっ! からぁっ!?」
「だから言っただろう……」
目の前の男は神妙な顔をして言った。
「無理をして食べることはないんだぞ」
「い、いいえっ! 食べ、……食べます! 残したりなんか、しません!」
がっ、と割り箸をデス・ウドンのうどん玉に突っ込む。粘り気のある小麦粉麺に、一味唐辛子がべったりと絡みついている。桜子は、それを先ほど自らを喘がせたにっくきデス漬け汁の中にぶち込み、ぐるぐるとかき混ぜた。
口の中が、ヤバい。インドカレーとタイカレーによってピリピリしていた舌の上には、デス・ウドンという新たな火種が投下された。燃え上がるスコヴィル値はもはやとどまるところを知らず、桜子の舌を無慈悲に蹂躙し、焼きつくす。カプサイシンみなぎってきた。
桜子は、かき混ぜたうどんをガッと持ち上げ、バッと口の中にかき込み、そのまま一気にすすり上げる。
「んッ! んぅっ……んっ、か、うっ……!」
これは悪手であった。リップグロスによって守られていた桜子の唇の守りが剥がれ、薄皮にデス漬けダレを大量に刷り込むことになったのだ。唇もヒリヒリしだす。
こりゃあ、あれだな。桜子は思った。さっき見かけたカップルも、口がこうなってしまえば仲直りもいちゃいちゃもお預けに違いない。ご愁傷様なことでは、ある。
まずいわけでは、ない。
旨味は、ある。だが、それを追い出して余りあるほどに、激辛の主張が強すぎるのだ。
桜子は、自らの体温が一気に上昇していくのを感じた。全身からまたも汗が吹き出し、瞳からは涙が溢れる。
何が腹立つかって、このうどんが予想以上にコシのしっかりした、美味しいうどんであることだった。わざわざデスにしなくても、ただのうどんとして十分立派にやっていけるだけのポテンシャルが、この麺にはあったのだ。
というか、辛いことを除けば立派な漬け汁うどんだ。ダシもちゃんと取れているし。だが、今の桜子にはそれを十分に味わう余裕がない。
「……っくう」
桜子は、懐から長財布を取り出すと、千円札を一枚取り出し、バンとテーブルに叩きつけた。
じろり、と目の前に座る男を睨みつける。
「……グリーンカレーを」
「まだ食べるのか!?」
「あなただってこのまま帰りたくはないでしょう! 半分あげるから早く買ってきて!」
グリーンカレーは、ココナッツミルクの甘みが効いたカレーだ。交互に食べることで、ある程度このデス辛さを中和させる目論見が、桜子にはあった。辛いもので辛いものを中和させようとしている時点で、彼女の脳みそも相当ゆだっていたと言わざるを得ないが、まぁ、桜子に罪はない。
桜子は、男が千円札を握りしめ、席をたった後も孤独な戦いを続けた。漬け汁の中に入っているネギや豚肉の切れ端が清涼剤となって、桜子の舌を楽しませる。
やがて、戦いの終わりが見えてくる。うどん玉は残りわずか。漬け汁はまだ大量に残っているが、具はおおよそ食べ尽くした。あとはトウガラシが浮かぶのみだ。
ここまで来ると、桜子はデス・ウドンに対して一種の敬意と友情を感じるようになっていた。
辛さと旨さを高次元で両立させる匠の技には、素直に感心せざるを得ない。あと10歳ほど若ければ、桜子はもしかしたら、デス・ウドンの虜になっていたかもしれない。そして、カレーではなくデス・ウドン大好き桜子さんとなっていたことだろう。
カレーとは異なるもの。だが、スパイスからくる刺激と、素材の味わいを競わせ高みへ導くこの思想は、通じるものがあるのかもしれない。
その頃、ボロ布の男は桜子の言いつけ通り、グリーンカレーを持ってきた。約束通り、半分ほど彼に分けてやる。
「……甘いな、これ!」
ひとくち食べて、男が叫んだ。
「……まぁ、デス・ウドンの後なら、そう感じるかもしれないですね」
桜子はそう言って、残ったデス漬け汁に、ペットボトルの水を半分ほど注いだ。溶岩のようにドス赤いそれを水で割った後、一気に飲み干す。
「っううっ! かっらい……!」
「そうだろうよ……」
男はスプーンを片手に、唖然とした顔でつぶやいた。
だが、これでデス・ウドンは完走だ。未だに燃え上がる口を鎮めるため、桜子はグリーンカレーに手を伸ばす。
「……うん。やっぱり、甘くて、美味しい」
辛さに関しては、すでに口の中が麻痺してしまっているのか、殆ど感じない。その代わり、ココナッツミルクの甘さが、やけに舌にはやさしく感じる。
強敵デス・ウドンとの戦いを制した桜子を、カレーが優しく抱きとめてくれているかのようであった。
「っはー……」
2杯めのグリーンカレーも2人で完食し、桜子はスプーンを置く。
「改めて……。ごちそうさまでした」
「ああ、ごちそうさまだ。なんだか、悪かったな」
ボロ布の男は、テーブルに手を置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「特に、礼になるようなこともできないんだが……」
「いえいえ。良いんですよ。また、時間と金銭に余裕ができたら、ナロファンにログインしてくださいね」
そろそろ時刻も21時を回って、激辛グルメ祭りも今日の分はおしまいとなる。今日彼と出会って起こったことといえば、デス・ウドンの後始末を任されグリーンカレーを半分おごっただけという、それだけ見ればロクでもない結果になってはいるが、桜子の心の中には、激辛の熱をも鎮めるような、涼しく爽やかな風が吹いていた。
食べ終わってみればデス・ウドン。良い料理だった。
だがやはり、自分の心の故郷はカレーにあるのだということも、再確認した。
このふたつを知っただけでも、桜子の激辛グルメ祭りには、意味があったのかもしれない。
「……んッ、むおッ……!」
「ど、どうしました?」
背中を向けた男が、急に下腹部を抑えて唸ったので、桜子は訝しげに尋ねた。
「な、なんでもない……。だがちょっと、膀胱が……」
「あ、あー……。大丈夫ですか?」
「大丈夫だ……。尿道に溶岩を流し込んだような感覚だが……。なんとか、な、る……」
男はそのまま、よろよろとトイレを探して歩き始める。
そうだった。
激辛というのは、食べたあとが恐ろしいのだった。何せ刺激物である。ついでにこの辛さの成分というのは、胃腸ではなかなか分解されないので、そのまま身体のデリケートな部分を直撃する。
「(……デス・ウドンの漬け汁、飲んじゃったなぁ)」
桜子は苦笑いを浮かべ、トイレに駆け込む男の背中を見送った。
メイドエプロンの上から、おなかを擦る。確かに、今の桜子の胃腸は溶鉱炉の鉄を流し込んだかのように重く、そして熱い。これはひょっとして、カプサイシンの熱に任せて、やっちまっただろうか?
「(ま、今からでも乳製品しこたま飲んでおこう……。無駄かもしれないけど)」
あと、あまり消化に悪いものは、明日の昼まではお預けだ。
桜子はそのまま男の幸運を祈りながら、大久保公園を出た。トウガラシの熱気に浮かされたかのような激辛グルメ祭りの客たちは徐々に撤収をはじめ、新宿歌舞伎町の雑踏の中に消えていく。ひとまず桜子は、胃腸のケアをするために、足早にコンビニに駆け込んだ。