1 俺の部屋に現れた卵が突然孵った 前編
あらすじにあるように、この話は私が書いているもう一つの小説シリーズ「ACT ARME」と話が連動しています。
この第一話の時系列はACT ARMEの10話前の話となっています。この話を読んでいただいた方は是非ACT ARMEの方もよろしくお願いします。(ステマ)
自分は、何のために生きて、今、何をしているのだろう。
そんなことを考えた人って、少ないようで実はそうではないのかもしれない。
この地球の日本に住んでいる桐戸純一は、少なくともこの時はそんなことを考えていた。
「ただいま。」
その言葉に、返事は帰ってこない。当然といえば当然、両親は共働きからまだ帰ってきてはいないのだから。今夜も帰りは純一が眠ったあとだろう。
こんなのはいつものこと、一人は慣れている。そう心の中で呟きながらもその表情は浮かない。まるで自己破産して人生に疲れきったような顔をしている。
ただこの後、彼は誰であろうと決して体験することが無いであろう体験をすることになるのだが、まだ知る由もなかった。
と、その前に。まずここまでの経緯というか、彼の生い立ちを語らなければならない。
桐戸純一は今から十七年前に生まれてきた。ちなみに一人っ子である。
純一は一般的な家庭に生まれ、両親に愛されながら育ってきた。多少内気で引っ込み思案な性格だが、だからといって幼稚園でも特別浮いているわけでもなく、友達もいてよく母親と友達の家に遊びに行った。
幼稚園を卒園したあと、小学校に入学して三年がたったころ、父親の仕事の都合で都会に引っ越すことになる。思えばこの出来事が引き金になったのかもしれない。
引っ越してから数ヶ月経ったある日のことだった。
親しかった友達と離れ離れになってしまったため、その時こそわんわん泣き続けた純一だったが、新しい場所での生活にも結構早く順応し、新しい学校でも友達は出来た。そのおかげで両親も安心することができた。ところが
「ただいまぁ。純一。」
純一の母親が買い物から帰宅する。しかし、返事が返ってこない。時間的に純一は学校から帰っているはずだし、食卓の上にメモもない。この家では、家に一人でいるときに出かけることになったら、必ずメモを置くようにしているのである。もちろん純一にもそれを言い聞かせている。そしてちゃんと言いつけを守っている。寄り道もダメと言ってある。だから家にいるはずなのだが。
「純一、いないの?」
母親は純一の部屋に向かう。すると途中でゲホゲホと激しく咳き込む声が聞こえてきた。慌てて部屋に入ると、ベッドに横たわりやはり激しく咳き込んでいる純一の姿があった。
これはただの風邪ではないと直感でそう感じた母親は、すぐに病院に連れて行った。
診断結果は喘息。命に別状はないようだった。だがタチの悪いもので、完治するまでには時間がかかるとのこと。あと発作を抑えるための薬代が結構かかることを知らされた。
これから何かと金がかかる時期に入る。桐戸家は特別貧乏ではなかったが、かと言って裕福でもない。そこで母親はパートを始めることにした。
純一も、夜にならないとお母さんが帰ってこなくなってしまったのは寂しかったが、結構勘が良く、お母さんは自分の薬のお金を払うために一生懸命働いているのだということを理解していた。だから、おとなしく毎日を過ごした。
喘息の発作は基本的に明け方起こるものだが、純一のそれはいつ起こるかわからない。激しい運動はNGということで、体育の時間も見学することが度々あった。まあ元々活発な方ではなかったため、純一自身はそのことでそこまで苦にしていなかった。
ただ、この年頃の子供は多感である。自分たちと違うところがあると攻撃してしまうのもひとつの習性と言える。純一の学校でも例外ではなかった。
体育の時間見学することが多かった純一は、体力がほかの子供たちより劣っていた。そこをついてくる悪ガキ共が這いよってきたのである。はじめは、体育の時間に見学していると、軽くからかわれる程度だった。だがそれは、次第にエスカレートしていく。
のろま、マッチ棒(体の線が細かったから)、もやし、その他言動や姿に関する悪口は毎日のように言われる。それだけでなく、下校時に足を速くしてやると殴りつける仕草をしながら追い掛け回される。もっと体を大きくしてやると給食の時に無理やり給食を口の押し込むこともしてきた。
そして、末期になった時には校舎裏に連れ出されることも珍しくなくなった。
純一はこのことを誰にも話さなかった。話せばまたいじめられるという意識もあったし、何より両親に心配をかけたくないと思っていた。
夫婦共働きになってから家族と一緒にいられる時間は減ってしまったけど、それでも両親は純一のことを大切にしてくれた。たまにお互いの仕事の都合が取れると、疲れた様子など微塵も見せずに遊びに連れて行ってもくれた。
もちろん寂しい時も多々あった。でも両親への感謝はなくさなかった。両親が自分のことをとても大切にしてくれているとわかっていたから。
小学生としては、というより人としてとても素晴らしい心構えだが、これがアダとなり、学校も両親も発見が遅れた。この遅れは、決定的な事態を生む。
純一が病院へ救急搬送されたのだ。パート中にこの話を聞いた母親は血相を変えて病院へ飛んでいった。
結局、軽い捻挫だった。原因を確かめると、純一は階段から突き落とされたのだとのこと。
誰がやったのかもわかっている。もちろんいじめの常連の奴である。だが当の本人は『遊びのつもりで怪我させるつもりはなかった』らしい。加害者の母親も何故かそれで納得している。
普通なら激昂するところだが、純一の母親は冷静だった。遊びであろうとなんであろうと、純一が階段から突き落とされて怪我したのは事実。治療費を請求します。と毅然と立ち向かう。
子供の遊びに大人が介入するのかと無効が返せば、そんな話ができるレベルではない。もし万が一頭を打っていたら命の保証はなかった。それを遊びというのならあまりにも危険すぎる。このくらいのことは誰にでもわかることだという。
結果、加害者の子供は家庭裁判所にかけられ、桐戸家は怪我の治療費と、損害賠償を手にした。
捻挫は一ヶ月弱で完治したが、それでいじめが無くなったわけではない。学校でもこのことについて全校集会が開かれたりなど、大々的な取り組みが行われたが、そんなことでは根を絶つことはできない。
なにより、純一自身がダメージを受けていた。次第に学校へ行く回数が減り、ほとんど登校拒否状態に。両親はいじめを受けていたことを早く言って欲しかったということは純一には言わなかった。
彼の両親は、自分の子供がいじめを話さなかったことを考えて、何も言わなかったのだ。だから、心の中ではまた学校に通うようになることを祈りつつも、本人の前ではそのことを一切話さなかった。
そして登校拒否状態になって一年近くが過ぎた小学四年生の夏、事情を聞きつけた祖父母が家にやってきた。そして祖父はこんな提案をしてきた。
お前さんたちも仕事に育児に大変な時にこんなことまで起きて大変だろうから、家でしばらく預かろうか。
両親は困惑した。今は時期的に夏休みだから構わないが、夏休みが明けても預かるつもりなのかと。
それに対する返答は、今のままではいけないということは二人もわかっているだろう。でもどうしようもないというのが現実。だから俺に任せてほしいとのこと。
両親は躊躇いながらも、実質今の自分たちはいっぱいいっぱいで、純一にしてやれることが何一つ思い浮かばないという状況だったため、この提案に乗った。
という訳で、純一は初めての新幹線に乗り、田舎にある祖父母の家にしばらく滞在することになった。
田舎の生活は楽しかった。田舎と言っても家の前に広大な畑や田んぼがあるわけではない。両親と暮らしているところに比べれば高い建物が少なくて、若干古そうな家がたくさん並んでいるという程度である。
だがその代わりといってはなんだが、庭は広かった。やっぱり途中寂しくなって両親によく電話をかけたが、そのほかは全く心配はいらなかった。祖母も祖父もよく面倒を見てくれたからだ。だから、純一もすぐに懐いた。
「純一、お前は学校で友達にいじめられているんだって?」
ある日、祖父に突然そう言われた。
途端に純一はしょんぼりとする。
「うん。」
「いじめられてどんな気分だった?」
「すごく嫌だった。僕をいじめないでほしいと思った。」
「その気持ちはお父さんやお母さんに話さなかったのか?」
「うん。」
「どうしてだ?」
「だってお父さんお母さん、いつもお仕事一生懸命頑張ってくれているから・・・」
「心配かけたくなかったか?」
こくりとうなずく純一。その頭をおじいちゃんは撫でてくれる。
「お前は優しい子だな。立派だと思うぞ。」
その言葉を聞いて嬉しそうな顔をする。
「けどな、つらかったらつらいって言ってもいいんだぞ。純一には純一のつらさを受け止めてくれる人がいるんだからな。」
「受け止めてくれる人?」
「ああ、お父さんやお母さん。それにじいちゃんやばあちゃんだってそうだ。みんな、お前がつらいと思ったことを受け止めてくれる。」
「うん。」
「あとな、純一は強くなりたいと思ったことはないか?」
「え?」
純一にとって、強いということは悪いことだと思っていた。自分より強いやつが中心になっていじめてきたからだ。
しかし
「純一がこれから大きくなって、守りたいと思うもの、大切だと思うものをしっかりと守れるために強くなる。男ってのは大きくなると誰かを何かを守らなきゃいけないんだよ。」
この祖父の言葉が純一の心を大きく動かした。
「誰かを守る。」
「そうだ、そのためには強くならなきゃならない。純一がやりたいというならじいちゃんは手伝うことができる。もちろん楽して強くなることは出来ない。だから無理にとは言わない。
今でなくたっていい。純一が強くなりたいと思ったら、じいちゃんに相談してくれ。」
純一の祖父は若いころ武術を学んでいた。それを教えるという意味だった。
純一はその日ずっとおじいちゃんが話したことを考え続けた。いやはや健気なことである。そして、次の日には答えを出していた。
「おじいちゃん、僕を強くして。」
「もう決めたのか?」
「うん。」
「簡単なことじゃないんだぞ?痛かったり、疲れたり、きついことだってたくさんあるぞ?」
「うん。僕はお父さんやお母さんを守りたい。だから大丈夫。」
この返事には流石に面食らったようである。純一の顔をしげしげと眺めた後、にっこりと笑った。
「お前は本当にやさしい子なんだな。おじいちゃん嬉しいよ。わかった。純一がそう言うならおじいちゃんも協力する。」
そして、おじいちゃんによる純一の特訓が始まった。
おじいちゃんの言葉通り痛かったり疲れたり、怪我することもあったりもした。でも純一はへこたれなかった。そこまで鬼気迫るものはなかったが、純一は純粋に自分が強くなっていくことを喜んでいるようだった。
純一の両親はこの話を聞くなり血相を変えた。なにせ純一は重度の喘息なのだ。武術の修行などさせた日には純一の体に何が起こるか分かったものではない。
騒ぐ二人を前に、祖父は純一が修行をする決心をした理由を話した。話を聞いた二人は二人して俯いてしまう。涙も流していた。
そんな二人に祖父は純一は特別優しい子だから二人のことを気にかけてくれているんだ。
自分たちのことを情けないなどと思う必要はないと慰め、当然無理はさせないこと、発作を抑える薬は毎日飲ませること(これは純一を預けた日から言われ続けていることだが)、純一の状態を毎日伝えることを約束し、修行は両親も認めることとなった。
修行は厳しかった。祖父は純一の年齢を甘えにさせなかったからだ。けど同時に楽しかった。今まで自分は運動はあまり好きではなかったけど、出来なかったことができるようになるということは一番楽しいことなのかもしれない。
そして大体一年後、純一は両親のもとへ帰った。そして学校にも通いだした。
久しぶりの学校は、クラスメイトがどこかよそよそしかったけど気にしなかった。
今の自分はもう前とは違う。僕は、俺は、強くなった。
学校に戻ってしばらくはそんな状態が続いた。でも前の友達とかはいたからそこまで心配はしていなかった。いじめられていた時はその友達は何もしてくれなかったけど、別に怒ってはいない。もしあの時自分が友達の立場に立っていたら、きっと同じことをしていただろうから。
そう、それはいじめっ子に立ち向かうだけの力がなかったから。復讐とかは考えていないけど、またいじめをしてくるようなら立ち向かう。俺の友達をいじめても同じ。
そして、その時はやってきた。
性懲りもなくまた例の奴らが純一の前に立った。あの時と同じならここで純一は後ずさるが、もうそんなことはない。
いじめっ子連中もその様子に気づき、少し面食らう。だがここで引くわけにはいかないとばかりに荒々しく純一の腕を引っ張り、学校の裏に連れて行く。
「おい、もやし。」
「一年間何してたんだよ。」
「泣きながらママのおっぱいでも飲んでたのか?」
「ギャハハハハハ!」
この間、純一は一言も発さず、ただ目の前にいる敵をまっすぐ睨んでいた。そのことに気付いたのか、いじめっ子連中は純一の肩を突き飛ばす。
「おい、何黙りこくってんだよ。」
「どうしたんでちゅか?怖いんでちゅか?ママに助けてほしいでちゅか?もやしちゃん。」
「ギャハハハハハハ!」
「もうお前たちを相手にするつもりはない。」
「ハ・・・・・」
思いがけない相手から思いがけない言葉を聞いた連中は、怒り出す。
「今なんて言った?」
「俺はもうお前たちを相手にしないといったんだ。」
ドン!とさっきよりも強い衝撃を受ける。
「何生意気なこと言ってんだよ。」
「くたばれもやしがあ!」
一人が蹴とばそうとしてきた。純一はそれをかわし、こぶしを鳩尾に入れる。もちろん力は抜いてある。そこまで自分の力をコントロールできるようになっているのだ。
うめき声をあげて倒れるいじめっ子を前に、残りの連中が後ずさり始めた。
「まだやるのか?」
その言葉を聞いて、いじめっ子たちは散り散りに逃げ出した。
純一がいじめっ子を倒したというニュースは瞬く間に広がった。こういうのは大体尾ひれが付くものなのだが、幸いにもこの時の光景は上級生が目撃しており、先生に報告していたため、純一がいじめっ子を倒したのは自分がいじめられそうになっていたこと、やりすぎてはいないことは全員の知るところとなった。
ただ、このニュースの衝撃は結構大きかったらしく、この日を境に純一へのいじめは最初から無かったかのように無くなった。それだけなら何の問題もなかった。しかし、余波が生じてしまった。
純一が次の日登校すると、急に教室が静かになる。そしてまた何事もなかったかのように騒がしくなった。それはまるで、純一がこの教室にいないかのようなふるまいだった。
「まさと(純一の友達の名前)おはよう。」
「あ?うん。おはよう。」
そう言ったきり、顔をそむけてしまう。自分の周りに流れているこの空気はいったいなんだろう。純一には理解できなかった。
それからは、いじめもないが交流もない日々だった。どちらが苦だったかと聞かれても答えることは出来ないが、どちらも同じくらい苦だった。
そんな学校生活が一年ほど続き、純一は小学校を卒業した。特に思い出も涙も浮かばなかった。
中学に入っても特に生活は変わらなかった。変わったといえば寄ってくる奴が出てきたことくらい。それも、純一の小学校の話をどこからか聞きつけて生意気だと詰め寄ってくるガキ大将くらい。
そういう連中に対しても純一はすぐに手を上げず、必ず相手が攻撃をしてきたときだけ反撃した。部活には入らなかった。
いつしか純一は学校の番長のような扱いを受けていた。もちろん本人はそんなつもりは毛頭ないのだが、周りが勝手にそう奉っていったのである。そうした状況が災いを呼ぶことになる。
学校の窓が割られていたのである。中は特別荒らされていなかったから、おそらく面白半分に割られたのだという結論になる。そして、容疑者候補に真っ先に上がったのが純一だったのだ。
純一が、本人にそのつもりが全く無いとはいえ、事実上この学校の番長になっていることは先生も知っていた。だから純一、もしくはその子分(もちろんそんな奴いないが)の仕業だという見当がついたのである。
放課後、先生に呼び出され詰問される。純一は、初めこそ自分ではないと否定していた。心当たりもないと言った。だが、しつこく問いただされているうちに、どうでもよくなった。だから自分がやったということにした。
すぐに保護者召喚が為され、説教を受け続けた後、反省文を書かされることになった。
放課後、純一は一人教室に残り原稿用紙を前に座っていた。
自分はどうして強くなったのだろう。
それは強くなって父さんや母さん、そしていずれできるであろう守りたいものを守れるようになるため。
でも現状はどうだろう。
小学生の時は孤立した。今はこの学校の番長にされ、やってもいないことで反省文を書かされている。その元凶となったのは、自分が強くなったから。
じゃあ強くなったのはやはり間違いだったのか。
分からない。間違いじゃないと信じたいけど、そうだと言い切れるものが無い。もちろん両親のことは今でも守り続けたいと思っている。その思いは変わらない。でも・・・
そして純一は考えるのをやめた。何度考えても結局は堂々巡りで答えが出なかったからだ。きちんと反省文を書きあげ、帰宅する。その夜、両親と話をした。
「今日の先生の話。本当に純一がやったのか?」
「・・・・・・・」
「お願い。きちんと話して。」
両親に無用な心配はかけられない。
「いや、俺じゃない。誰がやったのかは知らない。」
「じゃあどうして自分がやったと言ったんだ?」
「わからないよ。気づいたらそう言ってた。でも後悔はしていない。きっとこれで良かったんだよ。本当に窓ガラスを割った奴が助かったんだから。」
「純一・・・」
「心配しないで、俺は大丈夫だから。」
そう言って部屋に入った。ベッドに体を投げ出す。
自分はこれからどうすればいいのだろう。強くなるのはいけないことなんだろうか。でも、強くなったおかげでいじめはなくなった。それは事実だ。でも、その代わりに色々なことが変わった。自分が分からなくなった。これから一体どうすればいいんだろう。
どうすれば・・・・
それからは、自主的に誰とも話さなくなった。自分が原因で周りに危害が及ぶのも嫌だったし、なにより、人と関わらなければ問題も起きない。だから、ずっと一人でいようと思った。一人で、構わないと思った。
純一は、学ランの第二ボタンをつけたまま卒業し、高校に入学した。
ここでの生活も変わらなかった。というより、誰ともかかわらない生活が続いたせいで、変えることができなかったというべきかも知れない。
そして、今日も一人で帰宅した。
「ただいま。」
その言葉に、返事は帰ってこない。当然といえば当然、両親は共働きからまだ帰ってきてはいないのだから。今夜も帰りは純一が眠ったあとだろう。
こんなのはいつものこと、一人は慣れている。そう心の中で呟きながらもその表情は浮かない。まるで自己破産して人生に疲れきったような顔をしている。
理想と現実の矛盾は、思ったよりも大きい。いっそのこと、自分がこの世界からいなくなったら、どこか別の世界へ飛んでいけたら。
そう考えて頭を振る。両親はどうなる。きっと心配して大騒ぎしてしまう。そんなことはさせたくない。やっぱり、今のままでもこの世界にいた方がいいと思う。
そこまで考えて純一は苦笑する。自分はいったい何を考えているんだ。こことは違う世界って、一体どこにあるんだよ。
冷蔵庫から牛乳を取り出し飲んだ後、自分の部屋に行く。宿題やってとっとと寝よう。
ドアを開ける。いつもと変わらない部屋。というわけでは無かった。
部屋の真ん中に、奇妙な物体が落ちていたのだ。上の方が少し尖った感じのボールのような形で、全体的につるんとしている。これは・・・
「卵?」
そう、見た目はどこからどう見ても卵だった。ただ。
「にしてはデカすぎないか?」
大きさはバスケットボールぐらいだろうか。どちらにせよ、普通の卵とするにはデカすぎる。
「これは、ダチョウの卵か?」
純一はそう考えた。生のダチョウの卵を見たことはないが、テレビかなんかで見たことがある。ダチョウの卵は、一般的な鶏の卵をきれいに大きくしたような感じなのだ。でも。
「こんな色じゃなかったよなあ・・・」
色は全体的に水色で、所々に模様がある。ダチョウの卵はこんな色じゃないし、模様もなかったはずだ。何よりも。
「なんでこんなものが俺の部屋にあるんだ?」
一番の疑問はそれだった。両親は純一が登校するより早く出勤する。帰りも純一より遅い。つまり、純一が家にいない間は、この家は留守のはずだ。
空き巣に入られたのか?そう思い、家のあちこちを調べたが、どこも荒らされていなかったし、何も盗まれていなかった。じゃあ両親が途中何かの理由で家に戻ってこれを俺の部屋に置いた。
何のために?というか、これは一体何なんだ?
最近自分の周りではわからないことばかりだな。そう思いながら、そのまま放っておくのは気が引けたから、棚の上に落ちないように置いた。あと、どう見ても卵にしか見えなかったのでタオルを何枚か持ち出し、それで卵を巻いた。
そして、宿題に取り掛かる。今日は数学の宿題が出ている。数学はそこそこ得意なので特に時間もかからず終わることができた。
これが苦手な英語だったらそうはいかなかっただろうが。
母さんが用意しておいてくれた夕食のカレーを食べ、風呂に入り、歯を磨いて部屋に戻る。
その時だった。
パキッ!
「?」
パリパリ・・・
「???」
パカッ!ゴトン!
「!?」
急いで部屋に入り音の根源を探る。その正体はすぐに分かった。というより、確認する前からなんとなく予測していたことなのだが・・・。
棚から落ちて床に転がっているからの上半分。所々にかけらが落ちている。そして、視線を徐々に上げていくと・・・。
卵の下半分と卵の中にいたものが姿を見せていた。
「卵が、孵った?」
誰が見てもその通りなのだが、そう言わずにはいられなかった。それほどの驚きがあったのだ。そして、その生き物?があまりにも奇妙だった。
「なんだ・・・こいつ?」
何の生き物に例えればいいのか・・・、とりあえず色は卵と同じ水色。卵の中にいるのでまだよくわからないがおそらく二足歩行。長く後ろに垂れ下がった耳。あと長くて上に反りあがったしっぽ。全体的に体毛は生えていないようだ。この感じは・・・。
「恐竜?じゃないか・・・」
でもパッと見そんな風に見えた。けどやっぱり違う。でも耳のようなものを除けば爬虫類っぽい感じだ。多分。
しげしげと観察していると、生き物が純一の姿を認めてこっち来てと言っているかのような仕草をする。
それにつられて手を差し出すと、その生き物はぴょこんと掌に飛び乗ってきた。因みに大きさは掌ちょい大サイズである。大きい目に口、爪は三本で長い。正体はわからないが、その見た目は・・・
「かわいいな・・・。」
思わず眺めていた。その時だった。
「おなかすいた。」
「!!!?? 喋った!!?」
思わず投げ出すところをすんでのところで抑える。
「おなかすいた。」
相手は構わずそう言い続ける。
「あ?ああ、わかった。なんか持ってくるよ。ちょっと待ってて。」
そう言ってベッドの上に置き、純一は冷蔵庫の中を探る。
「やっぱ赤ん坊なんだからミルクがいい、のか?」
そう言いつつ牛乳を取る傍ら、自分が今の状況にかなり早い段階で順応してることに驚いた。いや、正直まだ驚いていて、何が何だかわからない部分は多々あるのだが、それでも今はあの生き物のために牛乳を注いでいる。
そのことに違和感というか、不思議な感覚になっている。
器に注いで生き物の前に差し出す。少し匂いを嗅いだ後、飲んでくれた。のだがすぐに飲むのをやめた。
「これ、おいしくないな。」
「へ?」
「なんか、他のものがいいよ。」
「ほかのって・・・ちょっと待っててくれ。」
そして再び冷蔵庫の前へ。
「他のって言われてもなあ・・・。ジュースとかはないし、コーヒーは絶対だめだろうし、かといってお茶もなあ・・・。」
さっきから純一は飲み物しか候補に挙げていない。それはもちろんあの生き物が生まれたばかりで、ものは食べられないだろうという推測もあったが、何より冷蔵庫の中には食べ物と呼べるものは何もないというのが一番の理由だった。
母親がパートを始めてから、基本的に冷蔵庫の中はその日の純一への料理が入っているだけになった。それはもう食べてしまったから、今はすっからかんである。
「あ〜、もうどうすりゃいいんだか。」
そしてふと視線を食卓に向けると、いりごまの袋が目に入った。
「これでいいか。」
悩むのをあきらめた純一は、いりごまを器に入れ持っていった。そして差し出してみると・・・。
「? なんだこれ?」
「ごまだよごま。とりあえず食べてみて。おいしくなかったらまた探してくるから。」
そう言いつつも、これで勘弁してくれという思いはしっかりと胸の中に漂っていた。
「うまい!うまいよこれ。」
「そうか、よかった。」
心の底からそう答える。
「これ、何ていう食べ物なんだ?」
「だからごまだって。」
自分から質問した割には返事を聞いていないようだ。その生き物は夢中でごまを食べ続けた。
「ありがと。うまかった。」
あどけない顔で見上げてくる。その様子を見ると、思わずかわいいと頭をなでそうになる。もちろん自制した。かろうじてだが。
「そうか、それはよかった。ええと。お前、名前は?」
「名前?オイラの?」
「そう。」
「分かんない。」
「え?」
「オイラ、自分の名前は知らないよ。」
そんな常識的なことを聞かないでよ。という雰囲気で返されても困る。
「知らないって、まあ確かに生まれたばかりだし。でも喋ってるのに自分の名前はわかんないのか。」
「ん。」
コクリと頷く。
「う〜ん、じゃあ名前を付けるか。」
そしていろいろ考えだした。チビ、ミニ、アオ、テール、アイ、アシ、ウデ・・・。頭を抱える。なんかもうただ体の部位をカタカナにしただけになってしまった。
まさか自分にこれほどネーミングセンスが無いとは。思いもよらなんだ。
ひとしきり考えた後、結論を出す。
「もういいや。ゴマで。ごま好きなんだし。」
「ん?」
「お前の名前はゴマに決定な。」
「え〜?オイラもっとかっこいい名前がいいな。」
「例えば?」
「ん〜と、アウスシュナイケルアトミシャニル・・・」
「長い。却下。」
「え〜?」
不満たらたらな様子だが、これ以上名前を考えるのも面倒だったので異論は黙殺した。
「名前は覚えやすい方がいいの。」
強引に名付け終えると、まだ不満そうな顔をしながらもゴマが純一の名前を尋ねてきた。
「じゃあ、お前の名前は?」
「俺?俺の名前は桐戸純一。」
「きりと?じゅにち?」
首をかしげながら微妙に間違っている名前を復唱する。その様子がおかしく、思わず吹き出しそうになるのをこらえながら訂正する。
「純一でいいよ。」
「じゅにち。」
「じゅんいち。」
「じゅにち。」
「じゅ・ん・い・ち。」
「じゅ・に・ち。」
最初の方は思わず笑ってしまったが、ここまで間違えられると困惑してしまう。
「なんで『ん』が抜けるんだ?」
「だって難しいんだもん。」
「・・・難しいか?分けて言ってみるぞ。じゅん。」
「じゅん。」
「いち。」
「いち。」
「よし。ちゃんと言えたな。じゃあ、つなげるぞ。純一。」
「じゅにち。」
がっくりと頭を下げる純一。
「もういいや、じゅんでいいよ。」
「じゅん。」
じゅんはきちんということができてほっとした。もしこれすら駄目だったらどうしようか本気で頭を抱えるところだ。
「そう。しかし、あんな長いカタカナが言えて何で純一が言えないのかね。」
「さあ、オイラ難しいことよくわからないもん。」
お互いの呼び方が決まったところで、とりあえず質問してみるだけしてみる。
「う〜〜ん、まあいいか。とりあえず、聞いても無駄かもしれないけど聞くよ。ゴマはどこから来たんだ?」
「知らない。」
「ゴマは、何て生き物なんだ?」
「知らない。」
「自分を生んでくれた親も知らないのか?」
「うん。知らない。」
「何か知っていることはないのか?」
「うん。なんも知らない。」
「何だそりゃ。」
思わず大の字に寝転がる。が、自分はベッドの端に座っていることを忘れていた。純一の体は大きくのけぞり、頭はそのまま床に激突した。目から軽く火花が散る。
「あい、たたたたった。」
「大丈夫かよ〜。」
「ああ、大丈夫。多分。しかし、何にも知らないんじゃなあ。どうしたものか。」
「でも、オイラじゅんに会えてよかった。」
「え?なんで?」
初めてゴマの口から、何か有力な情報になりそうな言葉が発せられる。純一は期待する。だがしかし、
「う〜ん。オイラにもわかんない。」
この返答である。
「わかんないのかよ。」
「うん。でもじゅんに会えてすごく良かったって気持ちになってるんだ。」
それは純一にもよくわかる。それほどまでにゴマの表情と仕草が如実に喜びを語っているのだ。
正体も自分に会えた喜びの理由も何もかもわからないのに、ここまで無邪気に嬉しそうにされると、なんだか照れくさくなる。
純一は少し火照った顔を横にそらし、話を変えた。
「ふ〜ん。ま、そんなことより、これからどうするかだな。」
「これからどうするかって?」
「とりあえず、ゴマはうちに来てくれたんだから、俺が面倒見るけど、両親には見せられないからなあ。」
「りょうしん?」
ゴマが首をかしげる。
「俺のお父さんとお母さんのこと。あともうしばらくすると帰ってくるんだ。でもお前みたいな生き物は俺たちの住む世界にはいないし、申し訳ないけどお前を人前に出すわけにはいかないんだ。」
「どうしてだよ?」
「お前のことを調べようとかして、どこかに連れ去られたりとか、まあ色々と騒ぎになりそうだから。とにかく、ゴマは俺の部屋の中にいてくれ。外に出なければ安全だから。」
フィクションではよくある話である。宇宙人とか、河童とか。
「わかった。じゃあ、オイラじゅんの部屋から外に出ない。」
「約束な。」
「うん。よろしくな、じゅん。」
「ああ、よろしく。」
そして、一人の人間と不思議な生き物一匹は握手した。もっとも、握ったのは手というより爪だから、握手というよりは握爪と書いた方がいいかもしれない。しかしそれだと読み方がわからないから、やっぱり握手でいいことにする。
という訳で一人と一匹の生活は始まった。この日を境に純一は、周りからの見た目こそ全く変わっていないが、自分から見たら随分と明るくなった。
自分がどこか今の生活からのしがらみから抜け出したいと思っていた時に、あんなことが起こったのだ。正直言って、ものすごく嬉しかった。
うちにあるごまを大量消費してしまうと両親が困るかもしれないし、何より奇妙なことこの上ないので、帰りがけにスーパーでごまを買ってきた。レジを打っていた人は、学生がごまだけを5袋も購入するのを見て怪訝な顔を浮かべていた。
「ただいま。」
随分といそいそと帰宅してしまった。部屋に入ると、部屋が昨日とはまるで違う様相をしていた。
本棚の本は床一面に散らばり、棚に置いていたものも一面に散らばっている。早い話がもの凄く散らかっているのだ。下手人は当然。
「お、じゅんおかえり。遅かったじゃないか。オイラ腹減った。」
満面の笑みを浮かべるゴマとは対照的に純一の顔からは表情が消えている。
「なるほど、それでどこかに食べ物でもないかと俺の部屋を荒らしたわけだ。」
「オイラ、ちゃんとじゅんとの約束守ったよ。」
純一の言葉には無反応で誇らしげに胸を張るゴマ。それを見て深いため息を付く純一。
「ま、壁に傷つけなかっただけマシか。」
そして純一はゴマに食べ物を置いて出かけなかったことを謝り、同時に一緒に部屋を片付けるよう命じた。
「え〜。なんでオイラがそんなことすんのさ。」
「散らかしたのはゴマだろ。グダグダ言わずにとっとと手伝う。」
「ちぇ〜。 ! そうだ、オイラどこに何があったか覚えてないから片付けられないな〜。」
「手伝わなかったら今日ごま抜きな。」
「えぇ〜。ケチ!」
「ケチじゃないだろ!嫌なら手伝え!」
「ケチ!」
「ケチじゃない!」
「ケチ!」
「ケチじゃない!」
「ケチ!」
「ケチじゃない!」
「ケチ!」
「ケチじゃない!」
以下、このやりとりはしばらく続いた。
醜い口喧嘩をなんとか終了させ、そしてなんとか部屋を片付け、ゴマにごまを与える。
「お前、ごまばかり食べて大丈夫なのか?」
「大丈夫って、何が?」
「だから、栄養が偏って病気になったりとかしないのか、とかさ。」
純一はこれまでに生き物を飼ったことがない。もしゴマが病気にでもなったりしたらどうすればいいか分からない。その前に、獣医もゴマを診せられた日には途方に暮れてしまうだろう。だからゴマには体調とかには気をつけて欲しいのだ。が・・・
「わかんない。」
「ハァ〜。またそれかい。」
能天気なゴマにため息を付く純一。
「じゅん。ため息ばかりしてると幸せが逃げるぞ。」
あどけない声でじじむさいことを言われた。
「ほんとにお気楽極楽だなあ、お前は。」
「大丈夫だって。オイラ、病気になんかなったりしないもん。」
「どうしてそんなにはっきりそう言えるんだか。理由はあるのか?」
「無い!」
そんな自信満々に言われても。
「だろうな。」
「だからそんなに心配すんなって。オイラは全然平気だから。ほ〜ら!」
そう言うと立ち上がり、元気良く飛び跳ねるゴマ。その姿に純一は少し安らぎを感じた。
のもつかの間だった。
「おい、ゴマ。そんなに飛び跳ねると危な・・・」
「え?うわぁ!」
どんがらがっしゃーーん。
部屋は再び元の様相、つまり散らかった部屋へと戻ってしまった。
「・・・・・・・・・。もっかい片付けるぞ〜。」
「おう、じゅん頑張って。」
「お前も片付けるんだよ!」
「え〜。オニ!」
「オニじゃない!」
「オニ!」
「オニじゃない!」
「オニ!」
「オニじゃない!」
「オニ!」
「オニじゃない!」
この醜い喧嘩は、さっきよりも長く続いた。
純一の心配をよそに、ゴマは毎日を元気に過ごした。時折、ちょっとしたイタズラを仕掛けて純一の手を焼かせるようなことをしたが、夜にはおとなしく眠って、両親にもその存在はバレていないようだった。
純一も、ゴマのイタズラに怒鳴ることは増えたものの、家に帰ったとき独りではないという孤独感からの解放に、とても喜んでいた。
ただ一つ、気になることはあった。ゴマの体が、日を追うごとに徐々に大きくなっていくことだ。
生き物なんだし成長するのは当たり前なのだが、一体どこまで成長するのかがわからない。
今、ゴマは身長が大体六〜七十センチぐらいに成長している。このまま大きくなり続けたら部屋で飼うのにも限界がある。それに、ゴマ自身部屋の中では退屈だと駄々をこねることがしばしばあった。
そんなゴマを見た純一は、ゴマを休日や夜に公園に連れ出した。
たまの外出時にゴマは思い切りはっちゃける。純一は、色々と不安はあったものの、この生活が続けばいいと思っていた。
そんなある日のことだった。
「ただいま。」
純一はいつものようにごまを買って帰宅する。だが、ゴマの姿が見えない。
「ゴマ?どこにいるんだ?」
どうせまたいつものようになにか企んでいるんだろうと、部屋の中を探し回る。だが、どこにもいない。
「ゴマ?どこだ?」
徐々に心配になっていく。自室、リビング、キッチン、ゴマがいそうな部屋をくまなくさす。クローゼット、押入れ、和室、テレビの裏、トイレ、やはりいない。
「ゴマ!どこだ!」
半ば叫びつつ、部屋を探し回った。もし、自分の知らない間に外に出てひと目に触れていたとしたら。不安はどんどん大きくなっていく。
家中を探し回り、それでもいないことを確認すると靴を履いて外へ飛び出した。が、すぐに引き返す。もう一箇所見てない場所があった。
純一は急いでその場所へと向かう。ドアを開け、浴槽を見た。ら
「ふ〜んふんふん〜♪」
気持ちよさそうに仰向けで水に浮いている生き物が。
「ゴマ・・・」
向こうも気づいたようだ。
「ん?じゅん、お帰り。」
こちらの心配を余所にあっけらかんとそういうゴマの姿を見て、純一もつい爆発してしまった。
「バカ野郎!」
突然怒鳴り出す純一に、ゴマは驚いてあたふたしだす。
「え!?じゅん、何いきなり怒り出してんのさ?オイラ今日はいたずらしてないぞ?」
続けて怒鳴ろうとする純一は、その言葉にはたと我に返る。
確かに、ゴマは湯船に浮かんでいただけだ。ここでの生活も二ヶ月ぐらい経とうとしている。
ゴマもここでの生活に慣れたのか、両親がいない時を見計らって、こうやって気ままに過ごすようになった。今回はただ自分がナーバスになりすぎて一人で騒いでいただけに過ぎない。さっきまでの自分の状態を思い出しものすごい羞恥心に駆られる。
「悪い、ゴマ。」
ゴマはそんな様子の純一を見て、ニヤ〜と笑う。
「あれ〜、もしかしてじゅん。オイラがどこにもいなかったから寂しかったんだ?」
図星。
「ばッ、バカ!んなわけ無いだろ!」
「いいっていいって、気にすんなよ。」
「いや、俺は何も気にしてないっての!」
やれやれ。謝ろうと思っていた純一は、ゴマが茶化したせいで謝罪のタイミングを逸してしまった。
「にしてもお前、いつの間に湯船に水溜めること覚えたんだ?」
「じゅんがあれから水を出してるのを見たから、あれでここに水を溜めようと思ったんだ。どう、すごいだろ?」
毎度おなじみのドヤ顔。正直見飽きた。
「あー、はいはいすごいすごい。ちゃんと水抜いとけよ。」
「はーい。」
純一は軽くため息をついて風呂場を後にした。
そして数分後、ゴマがタオルで体を拭き拭き出てきた。
「ん?どうしたのじゅん。そんな難しい顔してさ。」
「え?いや、なんでもない。」
「なにさ。言いたいことがあるならはっきり言えよ。そっちのほうがすっきりするぞ?」
本当に正直な奴である。多分ゴマの辞書に「躊躇」の文字はないのだろう。
それは呆れると同時にうらやましくもある。
「お前なあ。言わない方がいい事だってあるんだぞ?」
「え?そうかな?でも、じゅんが言うならその通りなのかもな。」
その返事に苦笑しながらも、純一は最近大きくなった疑問を繰り返す。
ゴマは一体何者なんだろう。
これまでに幾度となく考えてきた。だが当然答えなど出てこなかった。以前はそれで終わっていたが、楽しい日々が続くにつれ疑問が不安となり大きくなっていったのだ。
何が不安なのかと問われても、はっきりと答えることはできないが、それでも不安だった。それに純粋にゴマのことを知りたいという気持ちも大きくなっていた。
だが、当の本人は知らないの一点張り(最も、話さないのではなく本当に知らないようなのだが)で、ゴマのことについて分かることは何一つない。
ゴマの仲間は一体どんなところで生活を送っているのか。やはりごま(もしくはそれに類する食べもの)が主食なのだろうか。
純一は、そこまで知的好奇心が旺盛ではないが、自分だけの身近な問題として、やはり気になった。
すると、ゴマが突然耳を逆立てた。
「どうした?ゴマ。」
「なんか、聞こえない?」
その言葉に純一も耳を澄ませる。だが何も聞こえてこなかった。
「いや、何も聞こえないけど。」
純一はそう言ったが、ゴマは警戒を解かない。
「いる。何かがここに来てる・・・!」
「何かがって、何がここに来てるんだ?」
突然、ゴマは走り出した。
「! ゴマ!どうした!?」
慌てて後を追う純一。ゴマは玄関の扉を開け、外に飛び出した。その瞬間、ゴマの姿が忽然と消えた。
「!! ゴマ!!!」
純一も急いで靴を履き、玄関から飛び出した。そして一歩外に踏み出したその瞬間。
「――――あれっ?」
そこにあるはずの地面がない。そんな馬鹿な。目には見えているのに、足がそれを踏むことができない。
どうしてだ?と考える間もなかった。
純一はそのまま見えない穴の中へと落ちていった。
―続く―