もうひとり
雑踏の中、僕は一人で行ったり来たり。
たいていの人は一様に同じ方向へと歩いている。
その列から抜けて各々の道を自由に進んでいる人もいる。
光に吸い寄せられる蛾のように一心不乱に進んでいる人たち。
僕から見ればそれは熱心な宗教活動に思える。
なかなか進みださない僕に優しく声をかけてくれる人もいる。
それでもすぐに通り過ぎてしまって会話もままならない。
僕は「ありがとう」って伝えたいのだが、
離れた距離を埋めるような大きな声は出てこない。
そうだ、いつもなにか小さな声で呟いているのだけれど、だれも聞いていない。
よくよく聞いてみれば、それは助けを求める信号なのである。
「僕は義務を果たしているから、誰か気付いてください。」
「僕は義務を果たしているから、誰か覚えていてください。」
誰か応えてください、誰か答えてください、誰か…。
その一部始終を見ていた子どもが僕に話しかける。
「ねぇ、あなたは何を演じているの?誰も見ていないよ。
たぶん悲劇を演じている気になってるみたいだけれど、それにしても退屈な劇。」
でも、君が見てくれているじゃないか。
「私はあなただから。自分で演じて、自分で見ているの。そろそろ…飽きたな。」
飽きた?
「うん。」
じゃあどうすればいい?
「自分で考えなよ。」
君は僕なんだろ?じゃあ君が考えたって、同じことだ。
「…じゃあとりあえず、あの光のところに行かない?」
あれは違う。あれは僕の光じゃない。
「そう…。じゃあもういいよ。」
子どもの手にはナイフが握られている。
ディナー用のナイフだが、痩せた僕を貫くには十分だろう。
あぁ、事実、十分だった。僕は倒れている。
こうして僕は舞台を降りた。次は彼女の番だ。
舞台に上がった彼女は、わずかだけれど震えている。
彼女がどんな劇を見せてくれるのか僕にはわからない。
けれどうまくいくようにはとても思えない。
その時がきたら、優しく声をかけてあげよう。
冷たいナイフを握りしめて。




