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第一部:7

 ようやく俺は五花と御来屋の待つアパートへ帰ることが叶った。

 約五分のアウトライン越え遅刻。

 名和め、正直に名乗った後もどうでもいいことを捲し立てやがって。

 このまま何食わぬ顔で部屋に入ったら確実に五花に怒られる。

 わりかし新築の三階建てアパート。そこの二階二〇三号室前で俺はドアノブを回すのに躊躇していた。自室であるにも関わらずだ。

 例えるなら初めて好きな子の部屋を訪れる初心な青年、あるいは連続殺人犯が潜んでいる部屋に突撃しようとする若手刑事のどちらかに近い心境。どちらかは言わぬが花。名和風(ナニワ風みたい)に言うなら分かりきったことに答えるのは無駄というものである。

 まあ、とりあえず妹がどれだけ怒っているのかは探った方がいい。多分、同室している御来屋に口うるさく愚痴っているはずである。俺は霜が張りついたドアに構わず耳を押し当てた。

(よし、いかがわしいことはしてないようだな)

 ふん、妹が怒ってる怒ってないなんかどうでもいい。そんなものそこらの犬にでも食わせとけ。今は妹とその彼氏がエロいことをしてないかが最優先事項。行動の途中に目的が変わってしまうのは誰しにもよくあることで酷いときには行動が目的になってしまう場合だってある。だから、これぐらい許してくれ。キンキンに冷えたドアに耳を当ててハァハァ白い息を吐くマゾヒストになっていないだけ俺はまだまともという好意的解釈を求める。

 兄としていかがわしい行為を黙認してやると言ったものの、それは黙って認めるだけであってどの段階までやってるのかはしっかり把握したいのである。「五花の初めては俺のものだ!」と宣言しておいて実は処女じゃなかったらとんだピエロ。噛ませ犬もいいところだ。

(うーん、もしかしたらその冗談のつもりで言った意気込みも達成できなかったら不用意な嘘になるのかなあ)

 妹の初めてを奪うことができなければ災いが起こる。それは新興宗教の教えのように滑稽な言い回しだが、名和聖という不気味な男の存在一つで途端に滑稽さをなくしてしまう。

 彼は一体、何者なのだろうか?

 と、そこまで考えたときだ。俺に蠱惑的な策が閃いたのは。

 それは遅刻を理由に怒られないものでかつ五花の初めてを奪えるもの。普通の者ならば、まず思いつかない。思いついても実行しない。言うならば奇策だ。

 それを達成されるためにまず俺は自分の部屋のインターホンを押すという珍しい行動に出た。

『はい。どちら様ですか?』

 聞こえてきたのは他人行儀な妹の声。勘のいい五花でもまさか相手がこの部屋の主だとは思うまい。鼻をつまんで宅配業者のフリをして遊んでやるのも面白いがそれはまた別の機会にする。

「俺だ、五花」

『んにゃ? お兄ちゃん? どうしたの? 鍵持ってるでしょ? そもそも閉めてなかった気がするし』

 五花は想定通りの疑問を投げかけてくる。

「荷物で手が塞がっててドアが開けられないんだ。頼む、開けてくれ」

 だから、俺もあらかじめ考えていた答えで応じる。

『ふーん、五分も遅刻しておいてよくそんな気安く頼めるね。罰金三十二円だからよろしく』

「罰金って小学生か。てか、えらく安いな?」

 本当に小学生スケール。おいしさイナズマ級のチョコレート菓子一つ買ってそれでおしまいだ。

『一分遅刻するごとに一円に二をかけていったの。一分過ぎたら二円、二分過ぎたら四円、三分過ぎたら八円って感じでね』

「二十三分で親父の年収並になるじゃねえか!?」

 社会人スケール甚だし過ぎる。危ねえ。たった五分の遅刻で良かった。ちなみに三十分だと軽く十億は超える。数学のげに恐ろしきことよ。

『ちょっと、外で年収とか現金なこと言わないでよ。逆玉狙いで私にイケメンが寄り付いちゃうでしょ? 嬉しいけど』

「いや、そこまでうちは裕福じゃない! しっかり二の二十三乗を関数電卓でもいいから計算しろ! てか、そこに彼氏いるだろうが!」

 自分の彼氏にイケメン願望なんて聞かせてやるなよ。

『ふふっ、冗談だよ。蔵之助くん、お兄ちゃんなんかと比べたら断然、イケメンだし。で、何? 開けてほしいの?』

 彼氏を持ち上げて兄を落とす。比較とは良くない。

「ああ。俺が掴むものは驚くほどすげえぞ」

 しかし、その不満を表には出さずただニヤリと口角を上げてそう言う俺。画面付きのインターホンではないので妹はそれを見ることはできない。そのため、この用意ある嘘もバレないのだ。

『……気持ちわる。いいよ。開けてあげる』

 月に家賃二の十五乗円ほどの六畳1K。その居室とキッチンを区切るドアがギィーと開かれる音が中から聞こえる。面倒臭そうにこちらに近づく足取りの気配もあって数秒後、暖かい光の筋とともにおさげを垂らした女子が姿を現した。

「あれ? 何も持ってないじゃ……」

「おりゃ!」

 俺は彼女の右側の微かな膨らみを掴んだ。というか、揉んだ。僭越ながら感想を述べさせてもらうとそれくらいできるほどにはちゃんとあるというのがまず驚きであった。あと服越しからでもそれなりに柔らかさが伝わる。すげえ。

 パチン!

 聖夜のゴールデンタイムに祝福のような音が鳴り響く。あくまで「ような」であって実際は拒絶のビンタだった。

「痛っ! 何するんだよ!」

 俺の左頬はソリを引っ張るトナカイの鼻の色。冷たい外気も合わさってヒリヒリと身に染みてくる。

「それはこっちのセリフだよ! なんでいきなり私の胸を揉むの!」

涙目で兄を睨みつけながら抗議する五花。いい頃合いだ。ここでこいつの紹介をさながら初登場のようにしてやろう。

 淀江五花。少し赤みがかかった茶髪をゴムでしばることで左右に垂らす彼女は唐王大学農学部所属の一回生だ。薄桃色の唇はたいてい緩く結ばれており、ほど良く筋肉のついたしなやかな身体は兄に制裁を加えるためにあるのではないかとまことしやかに噂されているように思う。

「なぜ胸を揉むかって? それはそこに胸があるからだ」

「いや、そんな登山家っぽくカッコ良く言われても!?」

「そこに尾根があるからだ」

「うわっ!? 本当に登山家っぽい!?」

「そこに山茶花(さざんか)があるからだ」

「わざわざルビを振ってまで言うこと、それ!?」

 そして、こんな兄妹漫才に付き合ってくれる愉快なやつである。

 事前に打ち合わせたかのようなツッコミができるのはこいつの才覚だけがなせる業。妹のことは嫌いだがこうやって話すのは結構好き。ボケがいがあるのだ。

「やけに騒がしいですねえ。どうしたんですか?」

 でも、最近は夫婦漫才にお熱だったりするんだよなあ。

 奥からやってきた妹の彼氏、御来屋蔵之助の姿を認めた俺はそう感慨深くなる。こんなひょろいゲームオタクのどこがいいんだか。

「蔵之助くん、聞いて! 私、さっきお兄ちゃんに汚されちゃった!」

「ええっ!?」

 五花の語弊がある物言いにそのひょろオタクは困惑する。おいおい、それじゃあまるで俺が汚いみたいじゃないか。

「ど、どういうことですか、先輩!」

「まあまあ、落ち着け。紀伊国屋くん」

「御来屋です! せめて苗字くらいは覚えてください!」

 そんないじりやすい苗字を持つ家系に生まれたのが悪いんだろ。覚えやすいとは思うけど。

「ただ胸を揉んだだけだって。安心しろ、左の方はお前のためにちゃんと残してあるから」

「『冷凍庫に入ってた雪見だいふく一つ食べちゃった』的な軽いノリですね!?」

 ほう、なかなか上手いことを言ってのける。「冷凍庫=五花」とさりげなく暗喩もしている。さすが新しい相方っすねー。しかし、お前は雪見だいふくが胸より格段に柔らかいことをまだ知らない。

「俺が五花の胸は揉んだのは妥協案というか折衷案みたいなものだよ。ほら? 今日、五花の初めては誰のものかって話し合いをしたじゃん?」

「してませんよ!?」

「え……ちょっと待って……それ、どういうこと……? 説明して、蔵之助くん」

「ご、誤解だよ、いっちゃん! 先輩が勝手に言ってるだけだって、ね?」

 しらばっくれやがって。ここも二階だ。スマホか何かで録音しておけば良かった。ところで、まったく脈絡のない関係ないことであるが俺はそこまで記憶力がいい方ではない。

「ふーん、そっか……」

 冷凍庫は氷点下の視線を突き刺す。それを受けて縮こまってしまう御来屋。こいつも俺と同様、苦労してんだなあ。

「でまあ、当然の帰結として兄である俺のものということになったわけだが……」

 バチン!

 今度のビンタは右頬に炸裂した。

「キモっ! 十二回死ね!」

 それを見舞った張本人である五花は激しく俺を糾弾する。

「バーサーカーのサーヴァントかよ、俺は!?」

 相手に約束された勝利がない限りほぼ無敵の英霊じゃねえか。

 てか、さっきから五花が割りこんでくるのがわりかし邪魔。今は御来屋と俺でお前の貞操の行方について話してるんだ。あっち行ってろよ。

 と、心の中で文句を言っても仕方ないので俺は構わず話を続ける。

「……けど、後でさすがにそれは彼氏くんに可哀想だと思ったわけよ。でも、男としては一度決まったことを反故したくもない。そういうアンビバレンツの解決策として閃いたのが五花の胸を揉むというものだ」

「何言ってるんですか!?」

「『アンビバレンツ』というのは『相反する感情を同時に抱く』って意味だ。悪いな。教養の差を見せつけて」

「いや、そういうことではありませんよ!?」

 今さらだけど玄関先でこんなに騒いでたら近所迷惑である。

 もうちょっとした修羅場だし。そろそろ終わらせよう。

「つまり、『五花の初めて』を初胸揉まれと曲解することによって処女を奪わずして決まったことを遂行できたというわけだ。めでたしめでたし」

 そして、俺は妹の胸を揉んだ理由説明にピリオドを打った。まあ、当の妹にとってはめでたしでは決してないんだろうが。とんだとばっちりもいいところ。俺は三度目の天丼ビンタが飛んでくるだろうと思い身構えた。

「はあ……何言ってるの、お兄ちゃん」

 しかし、着弾予測は呆気なく外れ呆れから生じた溜息の後に、

「そんなのとっくに済ませてるに決まってるじゃない」

 天丼よりもきつい衝撃が俺に襲いかかった。

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