第一部:6
無事、予定通りの時間に演劇は幕を下ろした。カーテンコールで謝辞を述べる際に「こやま」と名乗った彼女の表情から儚さは消えており、代わりに愛着をわかせる可愛い笑顔を貼りつかせていた。心なしかそれは俺に対してだけ向けられたもののように感じた。
自意識過剰乙さることながらルンルン気分で家路に就く俺。何ならすぐにスキップをしてやってもいいくらいだ。青信号を待つ横断歩道前でそう豪語する俺は自殺志願者ではなくただの恋する乙男であった。
そんなときだ。後ろから俺にしわがれた声がかけられたのは。
「そこの君、もし良かったらタバコを一本、僕に恵んでくれないかな? さっき切らしちゃって」
振り返ったそこに佇んでいたのは浅黒い肌の上に無精髭を生やした壮年の男だった。茶色いスーツを着ているがそれはビジネスライクなものではなく政府のお偉いさんが着るような高級なソフトスーツ。しかし、ところどころシワだらけでだらしなくお世辞にも様になっていない。
「はあ……」
俺は曖昧模糊な受け答えをする。突然、こんな怪しげな風貌の男に声をかけられたのである。至ってまともなリアクションだ。そもそもなんで俺なんかに頼むのだろうか? たまたま彼がニコチンを欲したときに近くに居合わせたからか?
「いやあ、ごめんごめん。別に誤解しなくていいよ。君が喫煙者に見えたわけじゃない。ただタバコを持ってそうな顔をしてると思ってね」
喫煙者でないのにタバコを持ち歩いている。そんな稀有な存在が果たしているだろうかと一瞬思ったが、よくよく考えればそれは俺だった。
一か月ほど前の二十歳の誕生日。俺は自分で勝手に定めた通過儀礼として適当に選んで買ったタバコを吸うことにした。だが、それはとてもじゃないが俺に合うものでなく結局は箱に十九本を残したまま今、背負うOUTDOORの黒いリュックサックの奥深くに眠らせてしまった。そういうわけなのであるが……。
「なんで俺がタバコを持っていると分かったんですか? というか、そこのコンビニに買いに行けばいいじゃないですか?」
俺はここから目と鼻の先にあるコンビニを顎で示す。ちなみに一時間前に暇潰し目的で行こうとしたのがそこだ。
「後者の質問には答えよう。僕はね、コンビニでたばこを買うとき、年齢確認と称して画面を触るよう言われるのが嫌なんだ。どこからどう見ても僕は二十歳以上じゃないか。どうにもそういった分かりきったことに答えるのは無駄と考えてしまう性質のようでね」
雰囲気はいい加減そうなくせに狭量な男だなあ。画面タッチなんてたった一秒で済むのに。潔癖症ならまだ知らず。
「だから、前者の質問には答えない。なんで君がタバコを持っていることを僕が分かったか。それに答えるのは無駄ということだ」
ここキレるとこ?
しかし、怒りを露わにするということはすなわち、自分の触れられたくない弱さを見せつけてしまうことでもある。それは信頼する親しい相手にだからこそできることだ。なので、ここは我慢する。早くタバコを渡してこの男から離れよう。部屋で妹とその彼氏が待っている(今さらながらどんな状況だ)。
「……そうですか。分かりました。一本と言わず箱ごとあげますよ」
俺は肩ひもの左側だけ外しリュックサックを胸の前に持ってくる。ジーとファスナーを開けて中に手を入れる。そして中央に星が描かれた銀色の箱を最下層から引っ張り上げ、杜撰にも投げ渡した。
「おっ、セブンスターか。いいねえ」
パシッと小気味のいい音を鳴らして受け取り彼は言う。
「でも、僕がいつも吸ってるのより箱が小さい。もしや若い子がよく好むスーパースリムってやつかい? あれ、太さが通常より半分くらいしかないから吸う煙の量も半分になっちゃうだろ? 僕ならそんなの好んで吸いたくないなあ」
もしその太さというのが直径の話ならば、断面積的に考えてスーパースリムサイズは通常サイズの四分の一の大きさとなる。それならば吸う煙の量は半分のさらに半分だ。簡単な小学校で習う算数。しかし、このことは黙っておこう。タバコの大きさと煙の量の相関関係がはっきりしているわけではないし、何よりあまり話を長引かせたくない。
「けど、折角もらったものだ。ありがたく味わわせてもらうよ」
男は銀の箱から細い一本をゆっくり取り出す。そして、些か慣れない挙動でひとさし指と中指の間にそれを挟み、安っぽい百円ライターで先に火をつけた。歩道のど真ん中での出来事。予想通り喫煙マナーもなっていない。もう知ったことか。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
ああ、こうやって話していた間に背にする横断歩道の信号はどれほど青と赤を繰り返したことだろうか。到底、パーティ開始時刻の七時に間に合いそうにない。俺は諦めを感じながら踵を返す。
「まあ、待て。君、名前はなんて言うんだい?」
まだ引き止めるのか。
こんな男に軽々しく本名を教えるのは危険でしかない。
だから、俺はそれっぽい偽名を考えるほんの少しの時間稼ぎのためにベタな常套句を口にした。
「そういうのはまずそっちから名乗るのが礼儀なんじゃないですか?」
それを聞いた彼はキョトンと目を見開く。僅かに語気を荒げた俺に驚いたのだろう。
「ふう……ああ、そうかいそうかい。それは悪かった。僕はね、名和聖と言う」
男はタバコの煙を吐き出して形だけの謝罪を添える。「名はキヨシ」?
「それは上の名前ですか? それとも下の?」
副流煙を気にしていても自然と俺の口は開閉する。
例えば「木吉」という苗字なのか。
例えば「清志」という名前なのか。
そういった意図を酌んだ質問。別にそんなことは実際、どうだっていいのに。
そして、なぜだが彼はまるで純真な生徒に「1+1はどうして2になるんですか?」と訊かれた教師のような戸惑いを現した。
「うーん、それは誤解して欲しくなかったかなあ……いや、僕の言い方が悪かったのか。そう、いつだって悪いのは僕なんだ。自分が赤子の頃から分かりきっていることでも他人は一生かけても分からないかもしれない。勘違いもすれ違いだってある。それが世の摂理というもの」
「……どういうことですか?」
この男、もしかして俺に偽名を考える脳みそを使わせないためにわざと意味深な発言をしているのかもしれない。だとしたらかなりの策士だ。
「君のその質問に答えるなら下の名前ということになるだろう。漢字はちょうど今日のような聖夜の聖をキヨシと読むもの。そして、上の名前。これはナワという。名古屋の名に、ちょうど今日のような平和の和で名和と書く。続けて名和聖。これが僕のフルネームだ。どうだ、この説明で分かったかい?」
名和聖。勘違いを正されてそれを頭の中で書き並べて即座に思ったのは三文字とも口が含まれているということであった。
口は災いの元。災い転じて福となすとも言うが「福」の中に口がさりげなく二つも含まれていることに気づいている者は実はそうそういない。
某魔法少女風に言うなら災いは円環の理に導かれループするのだ。
「さあ、僕は名乗った。君も僕に名前を教えてくれるかい?」
そんな外連味を考えてしまったからだろうか。
「俺は淀川の淀に、揚子江の江で淀江。一体いつ訪れるのか分からない平和の……」
この口で不用意な嘘を吐くのが恐くなったのは。