第一部:5
寝床を共にしていた五花もほぼ同時に目を覚ました。
「ふあぁぁああーー。お兄ちゃん、おはよう」
五花は俺の妹であり妻でもある。現代日本では兄妹での結婚が認められ近親相姦も上等なのだ。御来屋は五花の元カレとなり俺が彼女を寝取ってしまったことになる。ざまあみろってんだ。
「ああ、おはよう。と言っても夜中の十時だけどな」
休日の土曜日であるのをいいことに、真昼間からの室内運動で疲れ果ててお互い眠ってしまっていた。生活リズムが崩れるお決まりパターンだ。月曜日までになんとかしないと。
「ねえ、なんかものすごくお腹空かない? 今にも飢えて死にそうなくらいに」
掴む袖がないので俺の右腕を引っ張ることで五花は反応を求める。
「そんな大袈裟な……いや、確かにそうだな……今にも飢えて死にそうだ」
ぐうと鳴り響く腹を押さえながら俺は答える。こんなに空腹なのは生まれて初めてかもしれない。
「とりあえず、冷蔵庫を見てみるか」
生まれたままの姿で二人して台所へ行く。そこの左端で厳かに駆動音を立てながら佇む冷蔵庫を開くとそこには――。
「……何もないな」
いや、正確に言えばこのよく分からない異常な空腹を抑えるに足る食べ物がなかったのだ。冷蔵庫の中にあるのはフレンチ・ドレッシングと三本の缶ビール、一本の大根、バター、脱臭剤だけ。大根のバター炒めをつまみに酔えとでも言うのか。
「どうしよう? 何か外に買いに行く? 『飢えで死んだ妹妻と兄夫!』なんてニュースで報道されて笑い者になりたくないし」
「そうだな」
そうするしか他ないと俺も思ったので頷く。ちなみに「妹妻」「兄夫」というのは兄妹(姉弟)間での結婚が認められることで生まれ浸透した造語だ。もちろん「姉妻」「弟夫」もあるので、ご安心を。
「あっ! ダメだ!」
しかし、突然、何かを思い出したかのように五花は大声を上げた。
「ど、どうした?」
そのわけを狼狽しながら尋ねると――。
「ごめん、お兄ちゃん。今、財布にお金ないや。一円たりとも」
「……マジで?」
現代日本では強盗の異常多発からATMはどこもかしこも日が出ているうちに閉まってしまう。狂気の国、現代日本。なので、引き出すことも不可能である。さて、いよいよこの飢えをどう凌げばいいのか分からなくなってきた。
「ああ、神様! 可哀想な私たちにパンでも構わないので無償で大量に恵んでください!」
天(井)を仰ぎながら、まるで演劇にでも登場しそうな悲劇のヒロインを気取ったセリフを五花は口にする。無駄なエネルギーを使って。こういうやつが遭難で一足先に息絶えるのである。
「ん? パン? 無償? 演劇?」
そのとき、俺に過去の記憶がドッと蘇えってきた。例えるならサケの放流のように。
「えっ? 『演劇』って何? 私、そんなこと言ってないよ。聞き間違いじゃない?」
疑問符を頭に浮かべる五花。俺はその一糸纏わぬ肩をガシッと掴んだ。そして初めてのキスのときのような真剣なまなざしで見つめる。
「んえぇっ!? ちょっ……お兄ちゃん!?」
顔を赤らめて恥ずかしがる彼女。何を今さらという感じだ。俺はそれに構うことなく己の欲望を吐露してやった。
「五花。今、俺は無性に無償でカレーパンが食べたいんだ」
そうして、ちゃんと服を着た後、俺たちはワゴン車で夜の街へと駒を進めた。取り立ての免許で暗闇を走るのはまだ恐いが、それよりも五花が後部座席に積んだレミントンのセミ・オート式散弾銃の方がよっぽど気になる。何あれ?
「あそこのミスドのカレーパンを強奪しよ。ね?」
隣りの助手席に座る彼女はミスタードーナツの看板を指差しながら微笑を浮かべて言う。多分、「強奪」を何か他の単語に置換すれば可愛らしい言葉になるはずだ。俺はあくまでも平和的に無償でカレーパンを食べたいというのにこの妹妻は。
「……ああ」
バックミラーに映る黒光りする散弾銃におののいてしまい反論できない。ああ、もうなるようになってしまえ。元はと言えばこの異常な空腹が悪いのだ。
「三十個は欲しいよね?」
さすがにそれは多すぎじゃね? しかし、口を開くことすら億劫になりつつあって、ましてや否定だ。やはり散弾銃でハチの巣にはされたくない。俺は黙って首を縦に振る。
それを認めた五花はこれから行う作戦の段取りを説明し始めた。
「いい? まず堂々と二人で店の中に入っていく。そして、店員さんがさながらルーチンワークのごとく『いらっしゃいませ。いいことあるぞ~ミスタードーナツへ』と言うのを合図にお兄ちゃんは懐に忍ばせておいた散弾銃をバッと突きつけるの」
「あんなでかいものを懐に隠せるか!」
もろにばればれ。服の起伏で何かが入っていることは一目瞭然である。てか、あの散弾銃、俺が使うのか。
「そこは四次元的な収納でなんとかしてみせてよ」
「無茶言うな……」
現代日本はまだそこまでの発展を遂げていない。精々、3Dプリンタが一般家庭に普及している程度だ。
「んーじゃあまあ、散弾銃は始めから出しておいていいや」
えらくテキトーだな、おい。
「でまあ、お兄ちゃんには全部の従業員と客を手早く一か所に集めてほしいの。それの威嚇効果を用いてね。あっ、弾は入ってないから安心して。あとは私に任せてくれれば大丈夫だから」
五花はさも頼もしげに言ってくれるが、これほど信頼性のない「安心」と「大丈夫」は初めてであった。
「いらっしゃいませ。いいことあるぞ~ミスタード……って、きゃあ!」
店内に入った俺たちを迎えたのは訪ねた客を歓迎する際の定型句とそれに続く甲高い悲鳴だった。突然、銃を手にした男がぬうとやって来たのだ。当然の反応と言えよう。
「ええと、客と従業員を大人しく一か所に集めてください。でないと、これを発砲しますよ」
レジスター近くに立つ悲鳴を上げたバイトの女の子の強ばった顔に鋭く冷たい銃口を向ける。客席側から騒ぎ声が聞こえないのでどうやら客は一人もいないようだ。俺は身体の内側から胸を撫で下ろす。
「ひ、ひえぇ! た、ただいまかしこまりましたあ!」
女の子は命の惜しさから怯えながら俺の指示通り動き出す。本当にごめんな。今度、菓子折りを持って平謝りに来るから。
「あなたが店長さんですか?」
俺がそうこう頑張っている間に五花は奥の物陰からこちらを覗いていた鷲鼻の中肉中背の男に対しカウンター越しに声をかける。
「……は、はい……そうですが、何か……?」
自分が店長であること逡巡しながらも認めた男は怪訝な顔をする。共犯者である俺(この場合、俺が主犯の可能性もある)でもこの状況は理解し難いので無理はない。
「カレーパンを三十個、テイクアウトで。もちろんお金は払いません」
毅然とした口調で要件だけ伝える五花さん、マジかっけー。理不尽なことを気にしない許容力を持ち合わせ、かつ俺が女だったら惚れていたかもしれない。いやまあ、結婚してんだけど……今は離婚したい気分だ。
「ええ……辛さを三段階選べますが、どうなさいますか……?」
これ以上、面倒事を起こしたくないのか店長さんは五花の注文に応じる姿勢になる。粗相がないようカレーパンにも辛さによって種類があることをあらかじめ言う。
「おまかせで。あとアイスカフェオレを二つお願いします。これの代金は封筒に入れて後日、店の前に置いておきます」
五花はほんの少し間を置かせた後、おそらく一番口にしたかったであろう言葉を紡いだ。
「――カレーパン以外は何も盗る気ないので」
それを聞いた店長さんの鷲鼻をひくつかせた表情は複雑怪奇に満ちており今でも忘れることはできそうにない。
再度、ワゴン車を夜の街に走らせる。そして二十分ばかりで適当な大型スーパーの駐車場に停まり、たらふくカレーパンを食べてカフェオレをがぶ飲みした。
もちろん罪悪感がないわけではない。しかし、異常なまでの空腹に苛まれていた俺たちは断じて誇張ではなく生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨っていたのだから――……。
「生きるべきか死ぬべきかそれが問題なのです」
力強い意志に裏打ちされた響き。その澄んだ声に真紅のオーラが纏うのを幻視し、俺は目を覚ました。
もしやこれは共感覚というものかもしれない。
受付の女子からもらった紙袋にはこんがりと焼けたきつね色のカレーパンが詰められていた。それと紙コップに注がれたオレンジジュース。その二つのデュエットは昼から何も食べていなかった俺の腹をいい感じに満たし、それに暖房の効いた心地よい空間、劇の初めに流れる難解なナレーションが加わることでカルテットとなった。カルテットは強引に俺をまどろみの彼方へとゴーイングさせ、その結果がこの居眠りとなってしまったわけである。
右手で瞼をこすり、そのまどろみから引っ張り上げてくれた声の主を見ようとスポットライトに照らされた眩しい檀上へと目を向ける。
俺に解呪不能な呪いが降りかかったのはそのときだ。
虹彩中の平滑筋が伸縮するのと同時に胸が締めつけられていく。煌めくステージ。その中央に立つ少女に俺は釘付けになってしまう。
彼女が召しているのは中世風の喪服のような黒衣の装束。それとは対照的に小ぶりな卵形をした顔は透き通るように白くどこか儚げなものだった。また凹凸が乏しく目もそれほど大きくないというティピカルな日本人顔でもあり、左頬に並ぶ滑らかな円形状の二つのほくろが良いアクセントとなっていた。スタイルはというと小柄で華奢な体躯でありながら出るところは出ているという印象を与える。普段、見慣れない衣装を着ているので俺の審美眼が上手く作用していないがおそらくそうである。
重厚感漂う、クラシカルな演劇の主役を演じる彼女をそんな風に凝視してしまっていたとき、俺はすでに呪いにかかり恋に落ちていた。
なぜ「呪い」と物騒な表現をするのか?
それを説明するためには先ほど居眠りの最中に見ていた夢に触れる必要があるだろう。
約六・四キロバイトの情報量で語られた馬鹿馬鹿しくも摩訶不思議なピカレスク。それは昔、中学の読書感想文で読んだ三十ページほどの短編小説『パン屋再襲撃』のストーリーラインになぞられたものだった。しかしながら、俺の見た夢はその小説と細部はまったく違うもので整合性も何もあったものでない。そもそも夢にそれを求めるのは酷という気もする。
その『パン屋再襲撃』のあらすじをうろ覚えながら掻い摘んで説明すると真夜中に耐え難い空腹を覚えた結婚間もない主人公とその妻が空腹の原因である呪いを解くためにパン屋の代わりにマクドナルドを襲撃するというものだ。何を言ってるのか分からないと思うが、俺も分からん。
とにかくここで最も重要なのはその「呪い」。この話の主人公はかつて相棒とともに強盗目的でパン屋を襲撃した過去を持つ男で、そのときクラシック音楽マニアであるパン屋の主人に「もしワグナーの序曲集のレコードを最後まで聴いてくれるなら店の中のパンを好きなだけ持って行っていいだろう」と取引きを申し出され迷いながらも応じてしまうのだ。
このパンと引き換えにワグナーの序曲を聴くというのが呪いだ。
今回、俺は掲示されていた貼り紙に書かれた菓子パンとジュースに釣られまんまと興味のない演劇を観に来てしまった。そう言っても過言ではない。そして、それは過失だった。俺にとってのワグナーはこの演劇。だから、こんなにも呪いのように胸が熱く苦しい恋をしてしまったのだ。
呪いを解くためにはもう一度同じことをしなければならない。
そのために小説の主人公は真夜中には開いていないパン屋の代わりとしてマクドナルドを襲撃したのだった。
パンは菓子パンとジュース。
ワグナーは演劇。
呪いは恋。
ならば、俺にとってのマクドナルドは一体何になるのだろうか?
それを見つけない限り俺の恋は終わらない。