第一部:3
時刻は午後五時四十七分。手持ち無沙汰になった俺は『戦国強者レキシング』のテラレアカードであるところの〈トヨトミヒデヨシ〉とその専用メソッドカード〈草履温め〉の効果を照らし合わせながら外に電話をかけに出た御来屋を待っていた。
「ふむ……相手の場に〈オダノブナガ〉が召喚されているときにしか発動できないのか……」
リリースされたばかりだというのにかなり深くルールが練りこめられている。早く再戦がしたい。あのとき俺と御来屋は熱く燃えたぎっていた。その興を電話などという絶巧棄利できない現代人を呪縛する文明の利器で削いだ妹を恨めしく思いながら順にカードを見ていく。
それからしばらくして――。
「先輩ー。どうやら買い忘れた調味料を買ってきてほしいとの要請です」
枯茶色の扉をゆっくりと開き細身の身体を滑らした御来屋は開口一番に切り出した。それを聞いてまず「要請」という大仰な物言いが少々気になったが別段ツッコむことはせず、ただ――。
「ああ……そうか」
と、これから再戦するのはもう無理だろうという憂いを巡らせた。
「どうします? 一緒に買いに行きますか?」
構うことなく御来屋は言葉を続ける。
「イブに男二人だけで買い物ねえ……もちろん却下だ」
学科の友達に見られていらん勘違いはされたくない。
「でもまあ、ちなみに訊くがその調味料は何だ?」
調味料というのは基本的に料理の途中段階で使う場合が多い。俺の部屋の掃除を終えたであろう五花は次にパーティ用の料理に取りかかっているはずである。本当はこんなごたごたと話すのはやめて早急に買いに走らせるべきなのだろうが気になってしまったものは仕方ない。
「焼肉のたれです」
尋ねられた御来屋は朗々とした口調で答える。
「えっ? もしかして今日って焼肉だったりする?」
随分と奮発するなあ……俺の金で。
まあ、元々は五花と御来屋が二人きりでイブを過ごすのを阻止するために後から俺が加わった形なのだ。しかし、五花はそれを良しとせず、心ならずも最終的な条件として提示してきたのがパーティにかかる費用の全負担というわけであった。そんなに高くはつかないだろうと高を括っていたが危ないかもしれない。自覚ある俺のシスコン度と同じくらいには。だからまあ、そこまで危機的ではない。
「どうでしょう? それは聞いてません。まだ先輩の部屋の掃除に追われているようでしたけど。これから汚いフローリングを水拭きすると言ってました」
「ええ……別にそこまでする必要ないのに……」
一度掃除をし始めたら徹底的にしたくなるという気持ちは分からないでもないが。
「じゃあまあ、やっぱり野菜を切るだけで済む焼肉なのかなあ?」
「可能性は高いですね。でも、焼肉のたれでチャーハンを作ったりする人もいますから一概には決めつけられませんよ」
「ん……そうか」
その御来屋の返答を聞いた俺は若干の優越感にほくそ笑んでしまう。
五花は料理だけに関して言えばステレオタイプな型にはまった調理方法しかしない。カレーの具材には肉、にんじん、たまねぎ、じゃがいもといった定番のものしか採用しない感じ。普通においしいため誰も文句をつけないのだが、もう少し工夫を取り入れてもいいのではないかと思うときもあったりする。だから、焼肉のたれをつけだれ以外の用途で使うことはないと推察できるのである。
こいつはまだ俺より五花のことを分かっていない。付き合って二年ちょっとではやむを得ないだろう。対して俺は去年度を除く十八年間を五花とともに一つ屋根の下で暮らしてきた。知識に雲泥の差が出て当然。つまり、そこから生じた優越感なのであった。
「とにかく、僕はスーパーに行って直接いっちゃんのところへ向かおうと思います。で、先輩はどうしますか?」
無邪気なもので俺のしている思惑に御来屋は気づいていない。先ほど宣言した「五花の初めては俺のものだ!」というのは冗談なわけだが、本当にそうしてしまったときに、こいつはどういった反応を示してくれるのだろうかといたずら心が浮かび上がってくる。
「ん? さっき言ったろ? 俺は買い物には行かないよ」
ノンケだからな。毛がノンなハゲのことじゃないぞ。
「そういうことではありません。ここの図書館は今日は六時には閉まってしまいますよ」
「あっ、そうだったな」
うっかりしてた。大学も冬季休暇期間に突入したためいつもより二時間早く閉館してしまうのだ。そして、司書さんの不始末なのかもしれないが通常閉館時間のときしかトロイメライの調べは流さないらしい。
「んーじゃあ、俺は適当にどこか別の場所で暇を潰してから向かうことにするよ」
そのままもう向かえばいいじゃんと思われるかもしれないが、それをすると五花に「アメリカのホームパーティーでは早めに来るのはマナー違反!」とか何とかで文句を言われてしまうのは想像に難くない。ここは日本だっつーの。しかも、そのくせ遅刻してもうるさい。ヒステリックな妹と勘違いされそうだが、ただ人の細かい揚げ足を取るのが好きなだけなのである。
「分かりました。それなら、出ましょうか」
そうして、俺たちは館内から師走の寒空の下へと身を繰り出した。
灰色の流れる雲は不格好に欠けた月を隠して露わにさせる意地悪を繰り返していた。雲はあんなに動いているにも関わらず街路樹の枝が風で揺れ動くことはない。それほどあたりはしんとしていたのだ。
「ふぅ……」
その静けさに一石を投じるように俺は一息つく。すると、視界が一瞬だけ白に染まった。
「では、先輩。七時にまたあなたの部屋で会いましょう。それでは」
そう言って御来屋は夜の闇へと消えて行った。
このとき俺はまだ知らなかった。
黄金の焼肉のたれを求め近所のスーパーへと旅立った御来屋蔵之助という勇敢な青年の身に一体何が起こってしまうのかを――。