絆という名の糸
1
雨にうたれて、身体がギシギシと痛んだ。
俯せに倒れている身体を、そっと力を入れながら立ち上がろうとうれば、そのまま転んで仰向けの状態になる。
服や髪は濡れているのに雨も雪も降っていない。
目の前に広がる空の色を見て、人間の形をしているが人間ではない男の精霊のクロナは、眠気のあまり静かに目を閉じた。
それほど時間が経たないうちに、クロナは夢の世界にいた。
自分でも夢の中にいるという感覚があった。それは、意識的に眠りに入ったからだろうか。
ぼやける視界にシルエットが浮かび上がる。
誰だろうと考えるほど頭が働かない。
クロナは手当たり次第しっている人の顔を思い浮かべた。
精霊の使命を果たすために、異世界へとやってくる時、共にいたフリードの顔。
あまりよく覚えていないが、起きていた時は自分一人だった気がする。彼は今どこにいるのだろう。無事に目的地へと辿り着いているのだろうか。
そんなことを思っていると、シルエットが遠ざかっていく。
それを追いかけようと思ったが、現実と同様に身体が痛む。動くことができないままクロナは、黒い固まりをただ茫然と見ていることしか出来なかった。
結局誰なのか分からずじまいで目が覚めると、先ほどいた場所とは違う所に来ていた。
精霊の中でも寝相が悪いわけではないクロナは、寝ているときに宙に浮くことはなかった。自分で移動したわけではない。
ふと、クロナの頭に、一人の仲間の顔が浮かぶ。
精霊の強化合宿のために一週間仲間と養成所の先生と共に小さな宿舎に泊まったことがあった。その時の、仲間のバウロの寝相が悪かったのを思い出す。
あまりの息苦しさに思わず起きたら彼が上に乗っていた。
懐かしい養成所時代のことが未だに忘れられず、クロナは一人小さく微笑んだ。
キキキィという鋭い音と同じに、誰かが部屋に入ってくる。
クロナは表情を変えた。もうその顔には『笑顔』という言葉は似つかない。
「何がそんなにおかしいのかしらねぇ」
激痛のあまり首が動かない。
どうやら一人で思い出し笑いをしていたのを見られていた様だ。
声だけで女性と判断したクロナは、やや警戒心を解いた。
あまり女性との関わりがなく、危険ではないと安易に考えてしまう。
だが、頭が朦朧としていたせいか気付かなかったが、彼の両手足は鎖でベッドに縛られていた。
警戒を強めるクロナは、目の前に現れた女性を睨みつける。
「どういうつもりだ」
クロナのその言葉に女性はニヤリと笑む。
ますます警戒を強める。
「あなた、自分の姿をどうも思わないの?」
クロナは、女の言葉の意味が分からなかった。
「分からないの? あなたは、人間ではないわね」
その言葉でようやく理解したのか、クロナははっと身を起こそうとする。しかし、激痛と鎖の邪魔が入り、ベッドに身を倒す。
そんな中、彼は思い出していた。
養成所時代の先生が、主を見つけるときに注意した言葉を。
『クロナ。君は強くて冷静で何も心配することはありません。しかし、一つだけ注意をしておきますね。それは、あなたのその自信ですよ。コウレイのように自信がなさ過ぎてもいけませんが、あまり自惚れてもいけません。あなたは常に自分が他人と違うと思っていた方がいいでしょう』
すっかり忘れていた。
今さら思い出したところでどうすることもできない。
「俺をどうしろと?」
それでもクロナは冷静だった。
女の行動を理解しようとする。
「あなたはいい金蔓になるわ。私の研究をもとに、世界中に広めるのよ」
ちっ、とクロナは舌打ちをする。
身体の痛みが序々に薄れ、なんとか首は動かすことができた。
それから辺りを見渡してどこか逃げられる所を探す。
部屋は見たところ小さな物置のようだ。暗いのは窓がなく光が射す隙間がないからだろう、
逃げられる所は何処にもない。だが、壁を抜けることはできるだろう。
しかし、壁を抜けるには精力がいる。今の疲れ切った身体では力をためることは無理だった。
ならば壊すしかない。
無関係な人間が外にいたら危険なため、逃げるとなれば女の隙をみて慎重に行動しなければならない。
「今までにも何回か異形な姿のものを集めていたわ。でもね、あなたほど綺麗で珍しいものはいなかったわね」
女がクロナの顎を持ち上げる。
それを何も言わずに睨んでいると、腹が立ったのか女はクロナの羽を力の限りにぎりしめた。
「この羽も何か使えることはないかしらね」
今まで冷静だったクロナも、怒りに身を任せて抵抗する。
両手足を動かし鎖がガシャガシャと音を鳴らす。
女は一瞬焦りを覚えたが、すぐにまた笑顔に戻る。
「あなたの弱点は、羽みたいね」
「くっ……」
みすみす弱みを教えてしまったことに対して、クロナは自分を悔やんだ。
冷静さに長けていた彼にとって、怒りや感情をここまで露わにしたことなどなかった。それは今まで周りにいた者が彼にとって害にはならなかったからだろうか。
しかし、現実の世界にはこういう問題もある。そのことにクロナは気が付いた。
彼の弱点を知って満足したのか、女は部屋から出ていった。
近くに人の気配がないことを確認すると、クロナは目を閉じて、気を高めることに集中した。
両手足に気をため、力一杯にぎると、鎖は切れて自由に身体を動かすことができる。
狭く埃っぽい床に足を着ければ、それだけで埃が舞う。だが、強化合宿を行ったクロナにとって、それは大したことではなかった。
「師匠は泥水の中に俺を突っ込んだしな……」
多少喉に影響があるが、気にするほどでもない。
壁の薄い部分を手で探りながら、クロナは師匠のことを思い出してた。
手の感触で薄さを感じる。簡単に言えば、壁の小さな隙間から外の空気を感じることができるということだ。無論、人間には認識することができない程の感覚である。
その部分に気を溜めていく。
手の平が熱くなったと同じに、全身の体重を乗せるように力を入れると、壁が壊れた。
外へ出たクロナの目の前には、大勢の人がいた。
それは予想外のことだった。
狭く暗い倉庫の中ならば、外に出られると考えていた。しかし、ここが地下倉庫だという考えは浮かんではこなかった。
女の仲間ではないのだろう、クロナの姿を見ても、その異形の姿に驚くだけで、誰も逃げてきたなどと思ってはいない顔だ。捕まえようという気もないようだ。
女に気付かれる前に、ここを抜け出すことを考える。驚く人々の頭上を飛び、外へ向かって逃げる。
途中、外はどこにあるか尋ねると、聞かれた人は、茫然としたまま手で示してくれる。
クロナは悪かった、とだけ付けると、真っ直ぐにそこへ向かった。
「待ちなさい!」
あまりの騒ぎに女が気付いて追ってきた。
空高くに舞い上がれば、為す術がなくたっている。そう見えたが、女の手には何かが握られていた。黒くて小さい物だ。
それは緑の光をクロナ目がけて放射された。
避けきれない、とクロナは咄嗟に羽で身を守る。それでも飛ぶことはやめない彼は、フラフラになりながらも、方翼でなんとか女の前からは逃げ切れた。
人の少ないところまでやってくると、その場に転げ落ちた。
「……くそっ。ここまで、辛い……世界とはな……」
塀に手をつき起きあがると、頭を押さえたままそう呟いた。
「きゃっ……」
前方から少女の声が聞こえ、クロナは視線を向ける。
まずいと思い、また飛ぼうとするが、
「待って……」
ふいにそんな声が聞こえて、クロナは動きを止める。
恐る恐るだが、近づいてくる少女をじっと見つめていた。
まだ小学生くらいだろう、ここでクロナを捕まえて売ろうという考えはもってはないだろう。だが、警戒は解かない。この世界では少しも安心はできないのだ。
少女が手を出してくる。
クロナは緊張のあまり身体を強ばらせる。
その手が羽に触れると、クロナはその手を払う。
少女は少し怯えて手を引っ込めたが、震える声で、
「……けが、してる……」
まるで自分のことのように、痛そうに顔を歪める少女の姿に、クロナは見入っていた。
しかし、またいつ危険な目に遭うか分からない。この少女を巻き込むわけにはいかない、とクロナは大きく羽を広げた。
飛ぼうとして足が浮かぶが、飛ぶ前に地面に足が着いてしまう。
目眩に似た感覚が全身に回る。視界がぼやける。意識が遠のく。
倒れると思った時にはもう遅く、しかし、温かいものに包まれた感じがした。
そう認識すると、クロナの意識はそこで止まった。
2
「クロナ、しっかり立て! こんなことでへこたれているようじゃ、一人前の精霊にはなれないぞ!」
膝達で地面に両手を着き、馬状態になっているクロナの背中には、40キロの鉛のようなものが乗せられていた。立派な精霊になるための訓練の真っ最中だ。
精霊である彼は、人間よりも重い物を持てたり、早く動いたりできるが、まだ幼い彼にとって、40キロは、限界を超えていた。
人間の年齢でいえば、ちょうど10歳にあたる彼には、とてもじゃないけれど、持ち上がるはずがない。
歯をぐっと食いしばり、目をぎゅっと閉じている。その目からは今にも涙が溢れ出しそうだった。
冷たい風が肌に触れ、クロナの体力をどんどんと奪っていく。
顔から流れ出る汗に風が当たり寒さを伝える。
手がガクガクと震え、まるで感覚がない。
「持ち上げられないようなら、今日の飯は抜きだぞ!」
なんとも、子供だましな……である。
けれど、それだけは避けたかった。
精霊は自分の身体のメンテナンスがしっかりと出来ていなければならない。
年齢という概念はないが、今の体格にあったトレーニングや栄養補給などは、必要なだけ取らなければ成長したときに悪い影響になる。
そうでなくても、あとあと怖い目に遭う。訓練がしっかりとできなければ、それ以上のことを要求してくる。まるで育てるというよりも殺そうとしているのではないかと、思わず疑いたくなる程の高度な訓練だ。
今の訓練さえできないのに、どうやってそれ以上のことをやるのだと言いたい。だが、今は鉛を持ち上げることに専念しよう。
一陣の風が吹きガクガクしていた手が倒れ、クロナはそれから立ち上がることができなかった。
どんなに踏ん張っても立てない。クロナを見下し、師匠はきびすを返し歩き出した。
「今日はここまでだ。一人で家に帰って来い」
「……は、はい……」
返事など、したくはなかった。
家に帰ったところで自分の居場所などないから……。
そう思いながら震える足を地面に着いて、一歩一歩進む。背中の鉛は下ろし、引きずるようにして持って帰らなければならない。
家のドアを開けた時には、息が切れ、足の感覚がなかった。
「やっと帰って来たか」
師匠が苛立った声を上げる。
「約束どおり、お前の飯は抜きだ。風呂に入って明日に備えて寝ろ」
冷たい口調だが、これが精霊を強く育てられる秘訣だとクロナは知っている。
彼も強い精霊に憧れていた。いつか主を見つけて守れるように、強くならなければいけない。
風呂に入り、寝る準備ができたクロナの前に、師匠の息子が現れた。
「お前、邪魔なんだよな」
「…………」
「お前が来てから、父様の機嫌が悪いんだ。早く消えればいいのによ!」
「そうね。父様もあなたが弱いから怒っているのかもね」
そう言いながら現れたのは、師匠の娘で、息子の姉にあたる女性だった。
姉は成人して働いてはいるが、家からは出ていない。
弟の方はまだ学生だ。
この世界には、精霊の師匠になるための教育を行っている。男は師匠の免許を取るため、女は医療の免許を取るため。その他には、精霊の栄養になる食料を管理する資格など、色々な免許をとるのだ。
姉は医療の免許を取り、今は医療施設で働いている。精霊に近い人間のはずだが、クロナのことは嫌っているようだ。
弟は父……師匠……の命令で、精霊の師匠になるための資格を取るために学校に行ってはいるが、精霊が嫌いである。
普通の仕事をして働きたいと思っている。
クロナは俯き、返事をしない。
「なんか言い返せよ!」
それでも口は開かない。
「いいんじゃないの。私たちがどうこう言ったってこの家からは出ていけないんだし。どうせ、父様の命令がないと働けないもの。早く大人になって出ていってくれればいいんだし」
クロナは唇を噛みしめた。
泣くものか、と我慢した。
何も言わないクロナに飽きたのか、二人は自分の部屋に戻っていった。
部屋に戻ったクロナは、背をドアに預けて、倒れるようにして座り込んだ。
我慢していたつもりが、目からは自然に涙が溢れる。
悔しくて、やるせなくて、泣くことしかできない。強くなりたいのに、強くなれなくて、クロナの前には暗い闇が広がっていた。
絶望に身を委ね、このままこの家にいてもいいのか、逃げだそうか、と考えていた時、こんこんとノックされた。
クロナは泣いていたことが分からないようにごしごしと顔を拭き、ドアを開けた。
そこには師匠の妻がトレイを持って立っていた。
妻はクロナの部屋に入ると、トレイを彼に渡した。
はっと、クロナは顔を上げると、
「これ、今日の夕飯だよ」
ニコリと笑ってその場に座った。
「あの人には作るなって言われたけど、作ったから食べな」
そう言われても師匠の命令には逆らえないためか、クロナは手を動かさない。
「大丈夫。私がこうしてあんたに食事をあげてるの知ってて、何も言ってこないんだから。さ、ちょっと冷めてるけど、食べなさい」
クロナはこくりと頷いて少し冷めたご飯に手を付けた。
精霊でも主を見つけるまでは食事が必要だ。主を見つけてからも食べられないわけではないが、食べなくても生きてはいける。
人間の食べているものでも食べられる。
温め直してくれたのか、スープは火傷するほど熱かった。
一品ずつ味わいながら食べていると、再び涙が溢れ出した。
「やっぱり冷めててまずかった? 違うものを作ろうとしたんだけど、材料がなくて……」
「違うんです。僕も何で泣いてるのか……分からなくて……ごめんなさい」
ごしごしと顔を拭くのは、何度目になるだろうか。
「あの人はさ、あんたが嫌いできつい修行をやらせているんじゃないと思うから、我慢してやってくれないかい?」
「分かってます……。師匠は僕が強くなるためにしてくれていることだって。師匠には感謝しています」
「あなたなら、立派な精霊になるわ。これからも頑張ってね」
「はい」
3
『これからも頑張ってね』
『はい』
ぼやける視界の中、クロナの意識は戻った。
今日で何度目になるのだろう、意識を失うのは。もううんざりだった。自分では実感がないが、そうとう疲れているようだ。それともこの世界とクロナの体質が合わないのだろうか。
どちらにしても、次は気をつけなければならない。
意識がはっきりと戻ると、上半身を起こして周りをみた。見慣れない部屋にいることだけは分かったが、何故ここにいるのかまでは分からない。
さっきまで、夢の中で昔の記憶を見ていた気がした。自分の背中を押してくれた師匠の妻の暖かな言葉を、鮮明に覚えている。
「あ、目が覚めた!」
「…………」
クロナは思い出そうとした。
確か研究されそうだったところを逃げてきて、この少女と会ったことを。
「羽のけがは痛い?」
「羽?……」
ふと羽を見てみれば、痛むところには包帯が巻かれていた。
目の前の少女が手当してくれたのかと考える。
「やっと、声がきけたね」
そう言って近づいてくる少女をクロナは見つめていた。
まるで夢の中に出てきた昔の自分を見ているように感じた。
この少女も十歳くらいなのだろう。
「これ以上近づくな!」
クロナが大声を上げてベッドの上に立ち上がると、少女はびくっと身体を硬直させた。
ふっと笑い、彼は部屋の窓から出ていこうとした。
「待ってよ。あなたけがしてるんだから、まだ動いちゃだめだよ」
「お前は俺が怖くないのか?」
クロナは顔だけ振り向くと、少女を睨みつけるようにして聞いた。
「怖くないよ。だって……天使様みたいだもん!」
少女がニコリと笑う。
「天使様か……」
子供らしい、とクロナは苦笑した。
「俺はお前に興味はない。もう関わるな」
「…………」
少女は俯いた。
そう、こうすれば別れるときに楽だった。自分が師匠の子供達にそうされたように、冷たくするのが一番なのだ。
「ただ、手当てしてくれたことは礼を言っておく。すまなかったな……」
それだけ言うと、クロナは窓から飛び立った。
どこに行くとも決まってなかった。不思議と主を見つける気にもなれない。
ただ空を飛んでいたかった。何も考えることなく、鳥と一緒になって、風に身を任せたかった。
「天使様、か……。あるいみ精霊も似たようなものなのかもな」
少女のことが頭から離れないのは何故だろう。彼女のことを考えて離れたはずなのに。
どうすることもできないまま、クロナは空を飛んでいた。
(一度、精霊界に帰ってみるか)
精霊界とは、クロナの様な精霊が生まれて、使命である主を守るために修行をするところである。彼らにとってはそこが故郷なのだ。
精霊界に帰るというのは、いわば実家に帰るようなものである。
あちらの世界からこちらの世界に来るには、時空を越える壁が出ているときでなければならないが、こちらから精霊界に帰るのは、精霊の力で時空の壁を生み出すことができるために、自由に帰れる。
しかし、帰ってからまたこちらに戻ってくるのに時間がかかるために、なるべく使わないことになっている。
やることのないクロナは一度戻って養成所時代の先生にでも相談しようと考えていた。
人気が少ない山に降りて、時空の壁を生み出す。
始めてのせいか、かなりの時間と精力がかかった。
肩で息をしながら、クロナは光の中へと消えていった。
光の中を流れていくと、出口らしき穴を見つける。流れに任せて出てみれば、そこはもう精霊界だった。
空は晴れていた。昼過ぎだろうか、太陽が空の真上に位置している。
春の季節なのだろう、春の花の上に蝶がとまっている。
懐かしい景色に心も穏やかになる。向こうの世界では緊張ばかりしていたせいか、クロナは安堵の一息を吐いた。
「あーっ! クロナ!」
後方からいきなり自分の名前を呼ばれたクロナは、声だけで誰だか判断できずに、振り返った。
見れば薬草を両手に持ち、背中には木の実の入ったかごを背負っている、ライアの姿があった。
「久しぶりに会ったのに、あいさつもなしぃ。相変わらずだね」
「……悪かったな……」
ライアはニコッと笑って、
「そういうむっつりなところも変わってない」
クロナは返事をするのが面倒になった。
黙っていても、ライアは一人で話し続けるから、それくらいはかまうことなどない。
彼女とは養成所時代からの付き合いだ。共に生まれたらしいが、養成所に入るまでは顔を見たこともなかった。
男勝りな性格で、誰にでも明るく接してくる。うるさいと思ったことは何度もあるが、人のことを理解できるのか、自分が悩んでいるときも相談していいと言ってきたことがあった。
だが、クロナは彼女に相談したことなどない。
「まさかクロナまで来るとは思わなかったなぁ。優秀だからてっきりあっちでうまくいってるのかと思ったよ」
「俺まで?」
「みなんも帰ってきてるんだ。ほら、ボケッとしてないでクロナも行こう!」
薬草を片手に持ち、クロナの腕を引っ張りながら、ライアは駆け足で養成所へと向かった。
養成所の中庭では、三人の精霊が話をしている。
「みんな、お待たせ」
「ライアさん、お帰りなさい」
ライアを迎えたのはコウレイだった。
同期の精霊でライアの他に女性はコウレイしかいない。
大人しくて、泣き虫で、ライアとは正反対の性格だ。あまり話したことはない。
「お! クロナもいるじゃんか!」
ライアの後ろで立っているクロナに気付いたのはバウロだった。
気が強く、しかし、他人のことを思いやる心を持っている仲間だ。
「ライア、クロナ。お帰りなさい」
笑顔で迎えたのは、クロナと同じ世界に行った仲間のフリードだった。別れたときよりも大人っぽく見える。
いつも敬語で、ボケているのが印象に残っている。
「コウレイ、先生の容態は?」
「今さっき眠ったわ」
「そう……じゃ、薬を作っておかないとね」
空気が重く感じられた。
四人とも俯いて言葉を交わさない。
「アルマートに何かあったのか?」
そうクロナがいうと、
「大怪我を負って寝込んでいるの、今は熱もだしていて……」
「アルマートが怪我!?」
自分でも信じられないほど、感情を表にだして、怒鳴った。
急いで養成所時代の先生だった彼の家に入ろうとするが、ライアが制した。
「やっと眠ったみたいだから、そっとしておいて」
彼女がこんなに落ち込むところなど、見たことがない。
羽を切り裂かれたときですら、こんな顔はしなかったはずだ。
クロナは一息吐くと、四人が座っているところに自分も腰を掛けた。
「一体何があったんだ」
四人が顔を見合わせて、ライアが頷く。
「一週間ほど前の話しなんだけど、先輩の精霊達がみんなと同じようにここに帰って来たのね」
クロナの隣に座った彼女は、事の真相を話した。
話はありえない事態へと変化していった。
クロナやフリードの様に、精霊として出ていった先輩達が、主とうまくやっていることをアルマートに報告しに来たあと、養成所の精霊を襲ったという。
コウレイの話では、異世界に向かった先輩の精霊達が悪い主をみつけてしまい、その影響で精霊も意思をなくして襲ったのではないかということらしい。
襲ってきた精霊は全部で五人。今は精霊の能力を出せない牢に入れてあるらしいが、未だに出せと騒いでいるようだ。
「先生は先輩たちと戦って負傷したの。わたしのこの傷も先輩たちに襲われたときにできたの」
ライアは顔の左半分を見せた。
額から左目、左耳にかけてざっくりと傷跡が残っている。
会ったときから気になってはいたが、こういうことだったのだ。
「ライアさんは私と後輩達を庇ってくれたの。それで……」
「だから、それはコウレイのせいじゃないって。私がぼけてたから、だから自分を責めないの!」
コウレイは泣きながら頷いた。
「コウレイもいたのか?」
「はい。たまたまこっちに帰って来てて……」
「コウレイのお陰で後輩たちは誰も怪我しなかったんだから。先生に言わないとね、コウレイも強くなったってさ」
「……はい」
コウレイはまだ泣きやまない。
話はさらに続いた。
襲ってきた先輩達の師匠もアルマートと共に戦い、彼らは殺されてしまったという。
弟子の精霊達は師匠の攻撃パターンを知っている。それとは逆に師匠も弟子の攻撃を知っている。しかし、悪影響を受けている精霊達は暴れているだけで、攻撃とは言えなかった。そのためか苦戦したという。
「で、ここからは落ち着いて聞いて欲しいの……」
ライアが緊張した面持ちでクロナに言った。
「先輩達の師匠たちだけでは手が足りなくて、私たちの師匠も参加したの」
その言葉に更に空気が重くなった。
「私たちの師匠はバウロの師匠だけを残してみんな……」
コウレイはもうずっと泣き続けている。
そしてライアも涙を流した。
クロナが立ち上がったのを今度はフリードが首を横に振り、まるで「行かない方がいい」という顔をした。
「事件が起きた四日後に、師匠の奥さんから伝言を預かってたの。『あの人は自分のやるべきことをやって死んでいったの。だから悲しまないであげて』って」
「……………………」
クロナは煮え切らない思いで唇を噛みしめた。
「くそっ!」
クロナは座り直して、地面を力一杯拳で叩いた。
「俺の師匠もまだ目を覚まさないんだ。怪我も酷いらしいし、このまま目を覚まさないかもって……」
「大丈夫ですよ。バウロが信じてあげれば、きっと意識が戻ります」
「……ああ」
フリードの励ましもあり、五人は重い雰囲気から少しだけ抜けることが出来た。
いつもの陽気で明るいフリードとライアがいれば、みんなもつられて元気になれる。なんだかんだ言っても五人の息はピッタリと合っている。
「そうそう、フリードの言う通りだよ。みんなで信じていよう!」
一番苦しい思いをしているのはライアのはずなのに、彼女は周りに気を配って明るくしている。
クロナは、じぶんも負けてはいけないと思った。
師匠の死は、彼の妻がいうように立派に戦って死んだ、名誉がある。悲しんではいけないのだ。そして、アルマートも、信じていれば回復するだろう。
五人に笑顔が戻った。
「そういえばさ、クロナは何で戻ってきたの?」
ライアが最もな質問を口にする。
「ああ……」
クロナはそういって一通り話すと、四人は信じられないと言った顔で彼をじっと見る。
バウロは笑いを堪えるためにぐっと腹を押さえていた。フリードでさえ苦笑している。
「私たちの中で一番早く主を見つけられるのは、クロナさんだと思っていたのに」
「一番遅い、しかもまだ見つかっていないとはな……ぐふっ」
バウロが笑い声と共に吐いた言葉が、クロナにはグサッときた。
異性界に行く前は、誰が何をいおうと気にはしなかったが、今は少しイライラしている。
羽をなくし、精霊としての使命を失ったライアを除いた三人は、もう主を見つけたということになる。
フリードとは同じ世界に降りたが、無事に見つけられたようだ。
バウロとコウレイはそれぞれ違う世界で主をみつけたのだろう。
「俺の行った世界では、ほとんどが精霊と共に暮らしていて、そんな危険な事なんてないぜ」
主がいないライアも楽しく聞いている。
「私が行った世界は、主以外の人には精霊が見えないみたいなの。だから安心できます」
「主を見つける時は、大変だったんじゃないの?」
「いいえ。私がこの人しかいないって思ったら、彼には私の姿が見えて、それから一緒に暮らしています」
コウレイの主は男性のようだ。
話しによれば医学を勉強しているらしい。将来は医者のようだ。
あの重い雰囲気が嘘だったかのように、五人は楽しく自分たちの世界について話しあっていた。
が、それも束の間のできごとだった。
チリンチリンと、ライアが腕にしている鈴が鳴った。
「時空の壁が現れるよ。みんなどうする?」
ライアは四人を見た。
「この機会に帰らないと、またいつ帰れるかわからないよ」
「では私は帰ります。もうここに十日間もいたし、主も心配してるから」
そう言ってコウレイは戻って行った。
「じゃあそろそろ俺も帰るかな。あいつが怒るからな」
バウロは「じゃーな」とひとこと残して言った。ここには五日間したようだ。あいつというのは主のことだろう。
二人ともうまくやっているようだ。
残ったのはフリードとクロナだけになってしまった。
鈴がもう一度鳴り、もうすぐ時空の壁がしまってしまう。
「アルマートが心配だけれど、私も帰ります。まだ仕事が残っているので……。クロナもライアも元気で……」
最後まで人の心配をするところが、フリードらしい。
「さっき来たばかりであまり話せなかったけど、あんたも戻りなよ。主、早く探さないとだろ。先生は私が診てるから、あんたはあんたのことだけ考えなって」
「ああ……」
「一つ忠告ね。その無愛想、主を見つけたらしちゃだめだよ。私だからいいものの、そんなんじゃ嫌われちゃうからね」
「……分かった……。……もう行く」
クロナはそう言って戻っていった。
これで五人揃うことはもうないだろう。主を捜せば、クロナはもう帰る気はない。
師匠にも会えないのだ。もう精霊界には未練などない。
クロナは一体、精霊界に何をしに言ったのか分からなくなっていた。けれど、少し、ほんの少しだけみんなに勇気をもらった気がしていた。
4
目を開ければ、元の世界に戻って来ていた。
だが、帰ってきたところで、クロナにはやることなどなかった。
この危険な世界では、主探しも自由には出来ないだろう。
山から降りて、また空を飛ぶ。
進行方向には大きなクリームの建物がある。小学校と呼ばれているものだと、資料に書いてあった。
その中から小さな子供達が次々に出てくる。
クロナは見つかることのないように高く飛ぶ。すると、目の端に三人の少女を捕らえた。
帰り道なのだろうか、十字路をそれぞれ違う道に別れた。その三人の少女たちの中に、羽の怪我を治してもらった少女がいた。
少女の家はこの先か、と思いながら下を向くと、少女の前方から黒スーツの男達が見える。
男達は少女に近づき、力尽くで少女を抱きかかえて車に乗せた。抵抗しているが、少女の小さな身体では大の大人に叶うわけがない。
クロナは不信に思い不思議とその車を追っていた。
車は人気のない倉庫へと入っていった。車からでてきた男が暴れる少女を軽々と抱えて倉庫に放り投げた。
クロナはこの時初めて誘拐だと思った。
もともと、この世界のことは何も知らないが、これが危険な事くらいは様子を見ていれば分かる。
黒服がどこかに電話をかけて、そのまま車でどこかに行ってしまった。
車を追いかけるべきか、それとも少女を助けるべきかと迷ったが、クロナは倉庫へ向かって飛んでいった。
扉は思った通り鍵がかかっていた。しかし、クロナにはなんの不都合もない。
扉に手をつき、目を閉じて気を高めていればスっと身体が中へと入っていく。精霊には物を透き通る力がある。養成所時代の時に習ったことだ。
中は暗い闇の中だった。
奥からは泣き声が聞こえる。
「おらっ! 大人しくしねーか!」
「泣かせておけよ。どーせ誰も来られねーしな」
少女をさらった男の声だろう。まさか見張りがいるなどと思いもしなかったクロナは、壁の影に隠れて様子を見ることにした。
「もうすぐ愛しのママが会いに来るぜ。いっぱいお金を持ってな」
「お嬢ちゃんは金と交換だ。これだから金持ちってのはいいぜ。なぁ」
黒服達は少女とお金を交換しようと考えているようだ。
思い出してみれば、少女に助けられて窓から逃げたときに、家が普通の家よりも大きく豪華に見えた。
黒服の一人がカメラを持って少女の泣き顔を撮っている。
「ミイル、せっかくだからこいつで遊ばねぇか」
カメラ男がもうひとりの男にそう言うと、
「お、いいね。ポーロ、しっかりビデオに撮っておけよ。こういうのはマニアには高くつくんだからな」
どうやらカメラ男がポーロという名で、もう一人の男がミイルというらしい。
ミイルが倉庫に置いてあった木の棒で、少女の身体を叩いた。
少女は悲痛な声を上げて呻き、泣き出した。両手足は縄で縛られていて身動きが取れないようだ。
ミイルが少女の肩や腰、足をばしばしと叩いている。
「いやああああぁぁぁぁっっっ! やめ……やめて! ……痛っ……」
「いいねぇ、その顔。もっと泣きわめけよ!」
ポーロがニヤニヤとカメラを撮り続けている。
クロナは見ていられなかった。今出ていくべきなのか、分からない。しかし、早くしなければ少女は殺されてしまうのではないだろうか。
黒服たちの目的は金の少女の交換だが、あんな小さな子に、あれだけ傷つければ死んでもおかしくはない。
「気を失わないように、水でもでもかけてやれ」
ポーロの提案でミイルは自分の飲み物なのか、ペットボトルの中身を少女の顔にかけた。
少女は少し噎せて、痛みに耐えている。
「…………助け……お母さん……助けて……」
「ああ。もう少しでママがくるから、それまではおじさんたちと遊ぼうね」
「このビデオをママに渡したら、血相変えて迎えが来てくれるさ」
「……やめ……助けて……お母さん……助けて……天使様……」
少女が身体を硬直させながら、必死に助けを求めている。
「天使様……助け……」
「天使に助けを求めてるぜ。馬鹿だな、こいつ」
天使様という言葉に、クロナは聞き覚えがあった。
(彼女は、俺の助けを……)
助けてもらいながら、彼女には冷たくした。自分が消えてからも自分のことを忘れずに覚えてくれていた。そして今、こうして助けを求めている。
ぐっとクロナは唇を噛みしめた。
「そこまでにしておけ」
クロナは壁から姿を現した。
「誰だお前は!」
ミイルが棒をクロナの方に向けて構えている。
クロナはふっと口元を緩めた。
「そんなものでは俺には勝てない……」
「なにを〜っ!」
ミイルが棒を振りまわす。
それをクロナは簡単に避けると、彼の腹に拳を叩きつけた。
人間相手に短剣を出すこともないだろう。
ミイルが転がり、それを見ていたポーロは怒りに身を任せて突っ込んできた。
態勢を整えていない敵など、クロナの敵ではなかった。クロナはポーロの頭を片手で掴むと、反対の手でビデオカメラを潰した。
それだけでポーロの顔は青くなり、助けてと懇願してくる。
「ならば今すぐ彼女の縄をほどいてやれ」クロナはポーロを睨む。「それから、彼女の親にも無事に解放したと連絡をいれろ」
「は、はい……」
男達は懲りたのか腰の抜けた身体を引きずるようにして、倉庫から出ていった。
クロナは少女の方に振り返ると、涙を流している目にそっと指先を触れた。
濡れた髪が肌にまとわりついているのをそっと払うと、少女は泣いてたことがうそかのように、笑顔になった。まるで嘘泣きだったのでは、と思いたくなる。
「天使様、ありがとう」
「俺は天使なんかじゃない……」
けれど、クロナは相変わらず無愛想だ。
「母親が心配している。早く帰れ」
「お母さんは……多分心配なんかしてないよ」
「…………」
クロナは少女の俯く顔が不思議に痛く感じた。
「もう、慣れてるもん……。今日で三回目だよ、こうやって知らない場所に連れてこられるのは……」
「……なぜ……」
「私が傷つくビデオを見て、一回でもお母さんが助けに来てくれることを信じたかったの……。でも、天使様が来てくれた」
少女は笑う。
けれど、クロナにとってその笑顔は泣き顔に見えていた。
無理に笑顔をつくる少女を見ていられなかった。
本当は怖いはずだ。幼い少女が大人の男たちに知らない場所へ連れてこられることが。そして、母親に助けに来て欲しいための演技と言っても、本音は違う。でなけれなクロナのことを口に出すわけがない。
彼女は心の底では、誰でもいいかから助けに来て欲しかったのだ。それを、母親ならばと望んだことにすぎない。
クロナにはそう思えてしかたがなかった。
「……助けにくるのが遅くなってすまなかった……」
「……え……」
少女はクロナに抱かれて戸惑う。だが、抵抗することはなかった。
「もう二度とこんなことがないように、俺がお前を守ろう。それが助けてもらった時の礼になるのなら」
「お礼なんていいよ。私も助けてもらったもん」
「俺の意志でそうしたいんだ」
ぎゅっと少女を抱きしめる。
まるで昔の自分を抱きしめている感じがした。
「私は今日から、あなたを守る精霊になる」
クロナは覚悟を決めて少女に言った。
少女は何がなんだか分からないまま、ポカンと口を開けていた。
「不幸になどしない。私はあなたを一生守り続けることを誓う。さあ、返事を」
急な言葉に、少女はどうしていいか分からなかった。
「私の本名はクロナ。精霊というもので、主を守もることが使命だ。主を守り、共に生きる」
「私なんかでいいの?」
「あなたを守ると心に決めた」
目を閉じ、胸に手を当てる。
自分の気持ちが確かなものかを確かめるために。
うそなどついてはいない。主が見つからないからやけになっているわけでもない。
心の底から少女を守りたいと思っている。
「私の名前はキラ。キラクロス・ソフィ・ビエル。あなたと共に生きる事を望みます」
少女、キラはクロナの存在を受け入れた。
それからクロナは精霊のことや使命のことについて話した。難しいこともキラにも分かるように簡単に話した。
キラも自分のことを話した。
こうして、クロナとキラの新しい生活は始まった。
しかし、この時の二人にはこれからが大変なことになるのだと、まだ思いもしなかった。