散りゆく花
1
美しい歌声で目を覚ましたカイストール・エン・グリアは、すぐにその声の主に気がついた。
窓の外から聞こえる声。
覗けばそこには一人の女性が花の手入れをしているのが見えた。彼女が大好きな歌だと言い、何度も聴かされた覚えがある。
だが、この日の目覚ましがただうるさいだけの時計ではなくて良かったと思っているのだろう。彼女を見つめる瞳に、迷惑の色は宿っていない。
「あら。お目覚めですか、カイ? それとも起こしてしまったのかしら?」
窓の前に立っていたカイに気が付いた彼女が、頬に手を当てて不安な面持ちで聞いてくる。
「いいや。僕の耳がつい傾いてしまってね。お陰でいい朝を迎えることが出来た。ありがとう、フリージア」
フリージアと呼ばれた彼女は、不安な表情を解き笑顔で再び歌い出した。
庭一面には黄色や白色の花が、燦々と輝いている太陽の下で元気いっぱいに咲き誇っている。その花の名前は、『フリージア』。主に南アフリカに咲いているこの花を、同じ環境になるようにと細心の注意を払い輸入して育てている。
彼女は自分と同じ名前のせいか、この花に妙に愛情を注ぎ込んでいる。
庭師がいるのにもかかわらず、この花には手を出させていない。本来庭師が持っているはずのハサミを手にしたまま、彼女は振り返った。
「着替えが済みましたら降りて来て下さい。今日は天気がいいので朝食は此処でとりましょう」
「ああ。すぐに行くよ」
それだけ言うとカイは部屋の窓を閉じて着替えを済ませ、庭へと移動した。
庭の中、それも丁度フリージアの花が咲き乱れている花壇の前に丸いテーブルが設置してある。午後のティタイムの時によく使う物で、朝食などに用いるのはこの日が初めてだった。
朝食はすでに用意されていた。小さなテーブルの上には隙間もない程びっしりと料理が並べられている。
「お味はどうでしょうか?」
フリージアは手をもじもじさせながら、やや上目遣いでカイを見た。
彼女はいつもそんなことは言わない。そして、カイは考えた。
「美味しいよ。フリージアが作ったんだろう?」
と言うと、図星だったのか少し身を捩って赤面する。
しばらくすると、まだ顔を赤くしたまま恥ずかしさを隠すように目の前にある紅茶に手を伸ばした。
からかうような笑みで見つめていたカイは、ふと、フリージアの指で輝いている物を見た。
「それ……」
「あ……」
フリージアも気が付いたのか、自分の指に目を向ける。
不思議とあの(、、)時(、)のセリフがそのまま出てきてしまった。
「思い出しますね、あの時の記憶が……。もう随分と時が経っているのに、今でも鮮明に……」
「……ああ」
そう言われ、カイも思い出す。
昔も午後のティタイムの時に、このテーブルに腰を掛け二人でお茶を楽しんでいた。
フリージアが初めてお菓子を作り、それをカイの前に出した時の事だった。
*
「お味はどうでしょうか?」
フリージアは手をもじもじさせながら、やや上目遣いでカイを見た。
彼女はいつもそんなことは言わない。そして、カイは考えた。
「美味しいよ。フリージアが作ったんだろう?」
と言うと、図星だったのか少し身を捩って赤面する。
それをからかうような笑みで見つめていたカイは、ふと、彼女の胸元で揺れている装飾品に目を向けた。
「それ……」
「あ……」
フリージアも気づいたのか、自分の胸元を見て急に表情を変えた。
「まだ、できない?」
「……まだ、わたくしがあなたの妻に相応しくないと……」
「そんなことは……」
その先をカイは言うことができなかった。
カイとフリージアは親同士が勝手に決めた結婚だった。俗に言う許嫁だ。しかし、二人は結婚する一ヶ月前に初めてあったばかりだった。
だが、お互いに顔は知っていた。フリージアの父親は政治家で、何度もカイの家に尋ねて来たことがあった。一方、カイの父親は、フリージアの父の部下で、信用できるアドバイザーだった。
その二人がカイ達に秘密で結婚の相談をしていた。その話をカイやフリージアに持ち出したのが、結婚の一ヶ月前のことだった。
どう対応していいか分からなかったカイの前に彼女が現れ、あっという間に結婚の準備に取りかかることになった。一ヶ月の間で、かなり話ができるようになったのだが、お互いにどこかはにかんだ様子があった事を覚えている。
しかし、今は普通に暮らしていけるようにはなった。
なんと言っても、結婚してから五十年以上が過ぎているからだ。
この世界の時間の回り方は、ここから何次元も離れている『地上界』とは単位が違う。
地球人の平均寿命が今は八十年と言われているが、カイ達の世界では七百年が平均寿命だ。
そして、結婚する平均年齢が百五十以上である。しかし、許嫁だった二人は百五十になる前に結婚するはめになった。しかも、個人の意思など無視されてだ。
その為か、フリージアはまだ自分に自信を持っていなかった。しかし、それはカイも同じだった。
カイは無理に納得したが、本当に結婚しても良かったのかと思うことがある。そう思うのは彼女が自分を信じてくれていないことを理解しているからだと思っていたが、カイ自信も潜在意識では彼女を拒絶しているのだろう。
「この指輪を貰った時、わたくしは心の底から嬉しく思いましたわ」
フリージアが呟いた。
「わたくしは、カイ様のことが大好きです。この結婚、反対しようものならできたはず。それをしなかったということは、わたくしはあなたを認めたと同じことですのに……」
フリージアは両手で顔を覆い泣き崩れた。
「何も気に病むことはない」
カイが静かに返す。
「それは僕とて同じことだ。キミが僕のことを本当に認めてくれた時に、その指輪を指に填めてくれればいい。僕はその指輪をキミが身につけているというだけで、嬉しいから」
「……ごめんな……さい……」
フリージアに近づくと、彼女はカイの胸に顔を埋めた。
2
「あの時のわたくしは、本当にバカでしたわ……」
フリージアは自嘲した。
「あなたの気持ちを知っていたはずなのに、それを裏切るようなことを口にしてしまいましまた。本当は、思い出したくなかった記憶なんですけれど……」
その言葉を聞いてカイはいたたまれない気持ちになった。
「けれど、それも思い出です。ちゃんと此処にしまっておきます」
そう言ってフリージアは自分の胸を押さえた。
「あの時とは違い、今は大切に指の中で輝き続けています。もうこれをはずすことはありません。もちろん、首に掛けることもしないと誓えます」
満面な笑みを浮かべ、フリージアはカイを見つめる。
カイも少し安心したかの様に、小さく溜息を吐き、食事に戻る。
すると、
「お食事中に申し訳ありません。カイ、クライアントがお着きになりました」
「分かった。もう少ししてから行く。フリードは先に行ってて」
「はい」
フリードと呼ばれた男は頷く。
男と言っても人間ではない。確かに人間の形はしているが、耳はエルフのように長く、背中には白くて大きな羽が生えている。本人は精霊と名乗っている。
精霊は大人になってから主を見つけ、その主を護り生きていくと、フリードから聞いていた。そして、彼の主はカイになった。精霊は何をされても死なないが、主が死んだと同時にその命も尽きるという。もちろん、主が傷を負っただけでも、その影響は精霊にも出てしまう。
精霊が宿る人間は、カイの世界でもごくわずかだ。その為か、カイが開いている『相談屋』に依頼する人々の中にはフリードの姿を見て、恐怖する人もいる。
中には、護り神でもある精霊を殺して欲しいと依頼されることもある。しかし、同じ精霊を宿しているカイにとって、その行為はフリードを裏切ることになると思っているために、なかなか手を出せずにいた。ましてや依頼人を傷つけないことをモットーとしている彼には到底出来るはずもなかった。
立ち去ろうとするフリードにフリージアは笑顔で手を振った。
彼女には精霊はいない。結婚間近まではフリードを恐れていた。
しかし、今は三人で会話をすることもある。今の彼女にとってフリードは同じ生きている存在なのだ。
「すまないな、フリージア。昼食はゆっくりと……」
「はい、お待ちしておりますわ。お仕事頑張って下さいね」
カイは軽く手を振ると、物悲しそうに朝食を済ませるフリージアを横目で見た。
彼女も大切だが、仕事のプライドが高いカイには同じくらい仕事も大切だった。
「お待たせして申し訳ありません。では、早速依頼の内容を……お聞きしましょう……」
言いながら、感づかれないようにチラリとクライアントの後方を見た。
そこには、フリードとの歳の差を感じない若い男の精霊が、暗い瞳を持ち立っていた。精霊には歳の差は関係ないが……。
「どうしましたか? お話になられないのですか?」
カイは目の前にいる少女に優しく声を掛けた。
だが、一向に少女は口を開かない。唇を噛みしめながら、ただ俯いているだけである。
クライアントのこの様な態度は何度も見てきた。そして、一番の対処法を知っている。
カイはフリードの方に振り向くと、コクリと頷いた。
その合図だけで自分の仕事を理解したフリードは、少女の後方にいる精霊の近くに寄り共に部屋から姿を消した。
それを確認したカイは自分よりも若い少女にもう一度同じ質問を投げかける。
精霊が部屋から出ていった後、少女は少しずつ顔を上げていく。
その表情を見て、いままでと同じように精霊を消して欲しいとの依頼だろうと思った。
「あたし、あの子が……あの子が……」
最後まで言い終わらないうちに少女は泣き出してしまった。
(やはり、あの精霊を……)
しかし、精霊を消して欲しいと願うのなら、本人の前でも言えるはずだ。それをなぜ言わなかったのか、カイには解せなかった。
「落ち着いて……最後まで話してくれないと分かりませんよ」
少女に刺激を与えないようにと、カイは優しい言葉を掛け続ける。
「……あの子……うっ……あの子が……えっ……好きなの……」
「え?」
泣き声混じりで聞きづらかったことは確かだが、最後の言葉ははっきりと聞こえた。
(……好き?……)
今までに聞いた事がない言葉だった。
「……あの子、が……大好きなの……」
「えっと、大好きなら何故依頼をしに来たのですか?」
好きなら好きで、何も依頼に来ることではないだろう。一生共に生きていくのだから、人間と精霊だからといって好きになってはいけないという決まりはない。
「……あの子が……傷つくの、イヤ……」
少女が何を言おうとしているのか未だに分からずじまいだ。
「傷つく?」
質問した瞬間にその意味が分かった。
落ち着かせる為に背中を摩っていると、腕や首筋に痛々しい程の傷が残っていた。
そして、ようやく合点が行った。
「……ママが、ね……あたしのこと……じゃまって……ぶつの……」
思った通りだった。
この少女は母親から虐待を受けている。『地上界』だけの話しだと思っていたが、目の前に苦しんでいる人がいれば、助けないわけにはいかない。
そして、精霊は彼女を護っていた。
(だから、あの精霊は暗い表情をしていたのか)
護り神でもある精霊は、殴られようが刺されようが傷つく事も死ぬこともない。しかし、主の身体が傷つけば、その痛みは自然に伝わり精霊自身を傷つける。それは精神的痛みも同様である。
けれど、前例はなかった。
傷を負うことがない精霊は主を護る為に身体を張る。そして、庇われる主は精霊により傷を負うことはない。よって、傷つくはずがないとされてきた。
だが、目の前の少女は現に傷ついている。
カイはふと思い出した。
負の心が強い者に襲われた場合、精霊の護る力を越えて、主を傷つけてしまうことがある、と。
「怖いことを思い出させてしまうかも知れませんが、いつからお母様の様子がお変わりになられたのですか?」
「……あの子が、来て……から……ばけものみたい、だから……捨ててきなさいって……言われて、でもあの子のことが好きだから……捨てることなんてできない……お兄ちゃん、あたし……どうしたらいいの……あの子を……捨てなきゃだめなの? あの子、弱ってるの。あたしのせいで、あたしをまもってケガしてるの……あの子を助けて……」
カイの服の袖を握る手に力がこもる。
「お嬢様、少しの間だお待ち頂けますか?」
泣きながらも少女はカイの腕から手を離した。
カイは無言で部屋を出ていった。
すると、ドアの前にはフリージアの姿があった。
「あの子、大丈夫なのですか?」
「聞いて、いたのか……」
「すみません。ですが……あの子は任せて下さい。カイが戻って来るまでの間だけで構いません。不安なまま一人にしていては大変です」
フリージアは意を決した様に、カイの返事を聞かず部屋に入って行った。
3
フリージアならば安心だと、カイはフリードの所へ向かった。
「カイ。クライアントは?」
「今、フリージアが見ている。それよりも……」
カイはチラリと少女の精霊の方を向いた。
「また、あの依頼なのですか?」
「いや、今回は正反対の依頼だ」
フリードは首を傾けた。
「君の名前を教えてくれ」
カイは精霊の所へ歩み寄ると、そう聞いた。
「クロナ……」
少女が言っていた通り、相当弱っている。
目と表情は暗く、はっきりと言葉を発することが出来ていない。それは、クロナが負っている傷だけのせいではなかった。少女の、心の痛みのせいでもある。その痛みが直接彼に影響しているのだ。
「あの子は君のことが好きだそうだ。だから、母親に傷つけられる自分が嫌になっているのだと思う。母親の負の心はかなりの力があるみたいだね。いつもならケガをしない君が、自分がケガをした途端に弱ってしまって、それで悲しんでいる。そして、その悲しみが君に影響しているのだと思う」
クロナのケガは、少女のケガと重なった。腕や首筋に痕が残っている。
「あの子がどうして君の前で言えなかったのか、もう分かっているんだろう?」
「ああ。彼女は、私に気を使ってくれているのだろう……。彼女の母は私の存在を認めてはいない。私がいるせいで、彼女が傷ついてしまう。それでも私は彼女の傍にいたい。精霊の運命だからとか、そういうのではなく、私個人の意志で彼女と共にいることを望む……」
「分かっているなら、その言葉のままにすればいい。君もあの子のことが好きなら、そんな暗い顔をしてないで一生懸命護ってやれ!」
「さすがはフリードの主だな。肝が据わっている。まあ、自分勝手に物を言わないことには好感を持ったが、私はお前の様にはなれないよ。彼女の方が素直で良い子だ」
「確かに……」フリードは苦笑する。
「フリード、お前まで!」
「まあまあ。それよりもカイ、いいのですか? クライアントを待たせていても。それに、フリージア様も……」
「いっけね! ほら、クロナも来いよ!」
呼ばれて、クロナは重い身体を動かした。
三人が相談室に入ろうとする直前、部屋から少女の悲鳴が聞こえてきた。
カイが勢いよくドアを開けると、彼を押しのけてクロナが一番に部屋に入った。
カイも続いて部屋に入ろうとするが、急に立ち止まったクロナにぶつかる。
「つっ……って、何があった!」
クロナの横から顔を出すカイは、一瞬自分の目を疑った。
「フリージア……」
カイの目に映ったのは、小さな少女の身体に跨りその喉にナイフを向けているフリージアの姿だった。
噂にはなっていた。やたらと人を襲い、ナイフを喉に突きつけて殺人を犯している者がいることを。しかし、その姿を誰も見たことがないという。その殺人鬼は人の身体を乗っ取り、本当の姿を現すことがない。
まさか、自分の愛した人がその殺人鬼の標的になるなど思いもしなかった。
カイが驚愕で身体を動かすことができない中、フリージアの手は振り下ろされた。
「きゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
少女は両手で顔を覆い、悲鳴を上げた。
数秒後、痛みを感じないことを不思議に思った少女は、恐る恐る目を開く。すると、少女の上にはクロナがいた。
「クロナっ!」
「大丈夫、今はケガしてないだろう。私が護るから、そのすきに逃げなさい」
「嫌だ、嫌だ……クロナも一緒に……」
少女はまた泣き出した。
「ううっ……」
クロナの力が弱まった。喉に突き刺さった本当は刺さってはいない ナイフの先が序序に顔を出す。
「依頼人、その悲しみの心を捨てろ!」
数分前と今の依頼人に対する態度が全く違う。
「できないよ! クロナが、クロナがぁぁ!」
「くそっ!」
カイが走りクライアントに近づこうとした瞬間、
「カイは下がっていて下さい」
フリードがカイを制した。
そして、フリージアの手からナイフを奪い取って遠くに投げた。
身体が自由になったクロナは、精神的な痛みを感じながらも、少女を庇う形をとる。
その前でフリードは殺人鬼が二人に近づかないようにと構える。
「お嬢様、私たち精霊は主が死ぬまでどんなことをされても死ぬことはありません。しかし、主が傷を負ったり、負の心に負けてしまったりした場合、その痛みが私たちにも影響するのです。なので、悲しまないでください。それが、私から言えることです。後は、クロナに……」
前方を見ながら、フリードはクライアントに語る。
「フリード、そいつの正体調べられるか?」
「やってみます」
そう言うと、フリードは瞳を閉じた。
数秒後、フリードは目を開くと、
「……老婆……カイ、老婆の姿が……」
フリードの目には、フリージアの身体と半透明な老婆の姿が重なって見えていた。
「老婆だと……」
カイは舌打ちした。
(噂の的になっていた一連の事件の犯人は老婆だって……)
老婆を知っている人間は多い。何せ、よく見る人物だからだ。やたらと声を掛けてくる迷惑な老婆だと思った。
その老婆が殺人鬼の正体だったのだ。殺人鬼は正体を隠してはいなかった。堂々と姿を現し、犯行の時のみ姿を消している。
カイは拳を力一杯握りしめた。
「二人とも、手は出さないでくれ……」
俯きながら、しかし、何かを決意した様に呟いた。
フリードはカイが何をしようとしているのかに気づき、駆け寄る。
「けれど、私としてはその言葉、認めることはできません。私は意地でもあなたを御守りします」
「……フリージアは僕の大切な人なんだ。僕の手で彼女を救いたい。フリードには迷惑を掛けてしまう、傷つけてしまうかも知れないけど、分かってくれ……」
フリードの止める手を払い、カイは前へ前へと足を踏み出す。
カイの気配に気づいた老婆は、少女から目を離し、彼に向かって突進する。
異様に爪が伸びた指、軽く三センチを超している。刺さったら一溜まりもない。
それでもカイは足を止めることはなかった。
「……フリージアを返せ……フリージアを……」
抵抗する気がないのだろうか、構える素振りも見せないカイを見て、フリードは居ても立っても居られなくなった。
「カイっ!」
無防備なカイと突進してくる老婆の間に割り込み、そのの腕を掴む。
「フリード、これは命令だ。手をださないでくれ!」
「その命令だけは聞けません。少し落ち着いて下さい。確かにフリージア様のことを想われているのは分かります。しかし……」
「フリード。命令無視をするお前は邪魔だ」
カイは足元に落ちていたナイフを拾う。そして、刃を自分の右足へと突き刺す。
『ううっ!』
二人は同時に嗚咽する。
不意に痛みが伝わってきたフリードは足を折り、老婆の腕を押さえていた手の力がなくなっていく。
「そんな、馬鹿な……。自分の足を自分で……」
二人の様子を見ていたクロナは、驚愕の色を隠せずにいた。
すると、今度は足に負傷を負ったにも関わらず、フリードはカイの腕を掴んでいた。
「私の使命は、主を護る事です。カイ、あなたこそ私の使命を奪うつもりですか……」
「お前がそんなに諦めが悪いなんて思わなかった。けれど、主の命令は絶対だ。二度も無視をするのなら、容赦しない」
ビシャっ
次にカイが刺したのは、自分の左腕だった。
彼の左腕を掴んでいるフリードの左腕にまたしても痛みが伝わり、掴む手に力が入らずにいると、その手を払われた。
精霊であるフリードの動きを止めさせるには、精霊に痛みを感じさせなければならない。カイは、自分の足と腕を犠牲にした。
『ケケケ、仲間割レカイ?』
フリージアの声で、殺人鬼が喋る。
「仲間割れなんかじゃない。僕にとってフリードは大切な人だ。だからこそ、傷つけたくない」
『現ニアンタハ、彼ヲ傷ツケタ。ソウデショウ? ワタシノ攻撃ハ、精霊ニハ効カナイ。ソレナノニ傷ツケタクナイダト? 矛盾シテイルナ。ケケケ』
「フリードとは出逢ってからこれまで何度も助けられたんだ。傷は付かないと言ってもそんな酷い目に遭わせる奴の方が変なんだよ!」
「カイ……」
フリードには、カイの気持ちが痛い程伝わった。
『ソンナコトバカリ言ッテルト、痛イ目ヲ見ルヨ。イツモ護ッテモラッテバカリダッタオ前ガ、ワタシニ勝テルト思ッテイルノカ!』
老婆は腕を伸ばしてカイの首を掴み、持ち上げた。
左手を負傷しているカイは、思うように身体が動かず、首を掴まれたまま為す術がない。
フリードはカイを助けようと動くが、足の傷が相当のダメージのためか動くことができなかった。
「うあっ……ああ……」
カイは抵抗するにも右手しか使うことが出来ない。
首を締め付けられ息が出来ない。長い爪が刺さり、血が流れる。
「……くっ……」
フリードはカイから伝わってくる息苦しさに耐える。
「フリー……ド……」
『今頃彼ノ心配デスカ? サッキハアンナニ傷ツケタノニ』
ニヤリと笑い、老婆は片手を離しカイの鳩尾に向かって爪を立てた。
「がはぁっ……」
4本の爪が彼の腹部へと進入する。
ぐりぐりと違う方向に抉られ、息をするどころではなかった。
「ぐ、うっ……」
「フリード!」
苦しそうに腹部を押さえるフリードに、クロナは駆け寄った。
それを片手で制したフリードは、カイの方に視線を向けた。
「カイ……」
カイを見れば、手をまるで飾り物かのようにダランとぶら下げている。
痛みに耐える事もしなくなった虚ろな瞳。
フリードは何とか足を動かし、クロナに支えられながらようやく立つことができた。
4
「……フリー……ジア……せ……フリージア……返……せ」
朦朧とした意識の中、カイは何度もフリージアの名前を呼び続けた。
すると、急に老婆がうろたえ始めた。
『ヤメ……何ヲスル……』
ズズズッと老婆の手の力が抜ける。
老婆の手から解放されたカイは、そのまま床にだらりと倒れた。
その身体を、身を引きずり歩いてきたフリードが抱き起こす。
フリードの肩越しに見える老婆の姿を、朦朧とした意識の中でじっと見つめる。
様子が一変した。
『……ヤメ……わたくしは……負けませんわ……クソッ! ワタシノ意識ヲ……』
フリージアも共に戦っている。
『カイの……所へ……ヤメロ!……帰るのです!』
彼女のカイに対する想いが、老婆の意識を奥に引っ込めた。
床に手を突いて肩で息をするフリージアに、カイは声を掛けた。
「……フリージ……ア……」
そのカイの姿を見て、彼女は驚愕の色を浮かべた。
腹部と腕、そして足から血が流れているカイの身体を見てから、フリージアは自分の手を見た。
その手には、べったりと血がこびりついていた。
全く覚えがなかった。
しかし、動揺していても自分がカイを、愛する人を傷つけてしまったことくらいは分かった。
「……カイ……カイ……うそ……うそ……嘘よ! そんな……いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
フリージアは泣き叫んだ。
血で濡れた両手で顔を覆っている。
「フリージア様」
身悶えして泣いているフリージアにフリードは近づくと、
「来ないで!」
普段の、彼女の力の何倍もの力で、跳ね飛ばされた。
「カイが……カイを傷つけたのは、わたくしですのよ!」
「……それは、違う……フリージアは何もしていない……うっ!」
声を出せば腹部の傷が開き、カイは喀血する。
「そんなこと信じられません! わたくしは……わたくしは……」
涙を流しながらも、フリージアは近くに落ちていたナイフを拾いその刃を自分の首に突き付ける。
我を忘れているのだろう。その表情は正気ではなかった。
「フリージア……よせ!」
「いいのです、わたくしは死んで罪を償わなければならないのです。……邪魔はしないで下さい!」
何て、馬鹿な……。
カイはそう思った。そして、痛みに負けて身体が動かせずにいることを悔やんだ。
ケガをしていない方の足を少し動かすだけで、腹部の傷から血が流れ出し、激痛が走る。
それでも動かさずにはいられなかった。
目の前で人が死のうとしている。
目の前で愛する人が死のうと……。
目の前でナイフが振り下ろされる。
キーン
金属のぶつかる音が部屋中を支配した。
フリージアが持っていたナイフが、突如何かに弾かれる。彼女は不思議とナイフが跳んでいった方に目を向けると、そこには短剣が落ちていた。
カイがいつも持ち歩いている物だとすぐに分かった。
切れない物が切れる短剣。その用途は、『水』『空気』『鉄』などだ。 その代わりに切れる物は逆に切れない。『紙』『人間』などは、この短剣で切れることはない。
カイは短剣を投げたと同時に、激痛に耐えながらもフリージアの傍まで来ていた。
そしてナイフと短剣を拾う。
「……フリージア……僕は、大丈……だから。もうこんなマネはして欲しくない……君のせいではない。君が僕を傷つけるなんてことはないんだ」
フリージアは嗚咽する。
『……ア……ワタシハマダ……やめて……いや……』
老婆がまた目覚めてしまった。
フリージアの精神が弱まっているからだろうか。それとも彼女が老婆を呼び寄せたのだろうか。
「カイ……あの指輪を壊さなくては……。全ての元凶はあの指輪です。あれに悪しき物が取り憑き、フリージア様を……」
「分かっている……。けど、指輪を長く付けすぎたフリージアには、もう何をしても無駄……なんだ……」
「そんな……」
フリージアは今、身体ばかりか心さえも取り憑かれていると言ってもいい。それをカイは落ち着いて理解している。
いや、落ち着いているように見えるだけなのかもしれない。その表情には哀しみと悔しさが入り交じっていた。
「これは僕とフリージアの問題だ。……もう一度言う。邪魔はしないでくれ……」
「……はい」
フリードも納得せざるを得ない。
自分が手を出したところで、フリージアが助かるわけでもない。ここは、主を信じるべきだと判断したフリードは、一歩下がった。
(フリージア。今楽にしてあげるよ)
カイは手( 、)に( 、)持って(、、、)いる(、、)物( 、)を胸元に構えた。
覚悟を決めるかのように、深呼吸をする。
『ワタシハマダアアアアッッッッ!』
老婆がフリージアの声で絶叫する。
素手で受け止めるつもりなのか、老婆は構える。
「たああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
グシャっ
カイと老婆が重なった瞬間、鈍い音が部屋を支配した。
誰もが目を逸らしてしまう光景。しかし、この場で目を逸らす者は誰一人としていなかった。
幼いクライアントですら、手で口を覆っているだけだ。しかし、その瞳には涙が流れていた。
カイは、フリージアの胸に、持っていた物を刺した。
老婆は痛みの為か、気を失っているのだろう。叫び声すら聞こえなかった。
「がはぁっ……」
フリージアは口から血を吹き出し、カイの胸の中へ倒れ込んだ。
カイはその拍子に彼女の胸から引き抜いたナイフ(、、、)を床に落とした。
フリードを初めとして、この場にいた者は皆、カイは短剣を持っているものだとばかり思っていた。それが、フリージアを傷つけることなく老婆を倒せる方法だからである。
しかし、現にナイフはフリージアを刺した。
カイの意識はほとんど無かった。
目は虚ろで、立っているのが不思議なくらいだ。ましてや傷を負ったフリージアを支えている。
「……カイ……ごめ…なさい……そして……」
カイの胸の中で、フリージアは口を開いた。
しかし、カイの耳には届いていなかった。
「カイ!」
立ったままのカイに、フリードは後ろから声を掛ける。
ようやく意識を戻したカイは、自分の胸の中で、赤い服を着た女性を見て驚いた。
フリージアの服は、自らの血で赤く染まっていた。
「ありがとう……」
耳元で囁かれる一言。
弱弱しい声。
崩れ落ちていく身体。
閉じたままの瞳。
全てがフリージアのモノだった。
5
気が付けば、足元には赤い水たまりが出来ていた。
それがイチゴとトマトを潰した物だと思いたかった。それが壁を塗るペンキだとおもいたかった。しかし、赤い水たまりは美味しくはないと分かっている。すぐに現状の色を忘れ、変色していくとわかっている。
カイはいたたまれない気持ちと、罪悪感と後悔が混じり合った気持ちを胸に焼き付けていた。
「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
覚悟を決めたつもりだった。
こうなることは分かっていたのだろうが、愛する人を自分の手で殺してしまったショックは大きかった。
カイは大粒の涙を流した。
足を折り、もう動かなくなったフリージアの胸の上で、泣き続けている。
顔に血が付こうが、鉄臭い匂いがしようが、カイは構わず泣き続けた。
「……カイ……」
フリードは何を言っていいのか分からなかった。
カイに近づこうとすれば、足が重く動かせなかった。それは傷のせいではない。自分自身の心の問題だ。
フリードはどうしていいか分からず辺りを見渡すが、そこにはもうクロナとクライアントの姿はなかった。
勇気を出し、泣き続けて震えているカイの肩に軽く手を乗せた。
フリードの手の温もりに気付いたカイは、彼の方に血と涙で汚れた顔を向ける。
今までに見たことのない主の表情に、フリードは一瞬言葉を失った。
「カイ……」
「……助ける……こと……でき……かった……ぼくは……フリー……ジア……を殺し……愛して……た……愛……たのに……僕……は……助かる……見込みは無かった……んだ……だから……楽にさせよう……って……殺す……しか……フリード……」
カイはまるで子供のように、フリードの胸の中に顔を埋めて泣きわめく。
「カイ、それは違います。カイはフリージア様を助けたのでございます」
フリードは何とかカイを落ち着かせようと、背中を軽く叩く。
「良く見て下さい、フリージア様の顔を……。すごく幸せそうです。きっと、カイの夢を見ているのでしょう」
「フリージア……」
カイは、笑顔で横たわるフリージアを見た。
その後ろから、フリージアの身体の上に手を伸ばすフリード。その手から、何色もの光の玉を出し、その玉はフリージアを取り囲む。
するとフリージアの身体の傷と、その血は消え、一見するだけではただ寝ているようにしか見えなくなった。
「……本当に、夢を見ているみたいだ……」
そしてカイは、フリードの左腕に触れた。
「フリード……すまなかった……」
「いいえ、これくらい平気です。カイの辛さに比べたら……痛くはありません……」
「もしかして、影響してるのか?」
「…………」
フリードは応えなかった。
「ごめん……」
「今は、今だけは、泣いてもいいのですよ。カイは頑張りました。それは私が一番分かっています」
「……すま……ない……」
そして、カイは再び、フリードの胸の中で泣き続けた。
*
「落ち着きましたか、カイ?」
「ああ、ありがとう。もう大丈夫だ……」
大丈夫だと言ってはいるが、その声は窶れていた。
過保護気味のフリードのことだ、心配しないわけがなく、カイが動かなくなったフリージアの身体を運ぶのを手伝う。
庭に出たカイが足を運んだ場所は、白と黄色の花が咲き乱れるフリージアの花壇の前だった。
彼女は生前、フリージアの花の世話を、まるで子供と話しているかの様に楽しそうにやっていた。
彼女に無断で花に触ることを躊躇ったが、カイはフリージアを抱いているその手を花壇の中に静かに寝かせた。そして、端に咲いている花を一輪取り、彼女の胸元に乗せた。
「綺麗、ですね」
「ああ。とても幸せそうな顔をしている」
言い、カイは拳を握りしめた。
「今日、一日くらいは此処に居させてあげよう……」
「はい」
二度と開かなくなったフリージアの瞳、眠っているかのような潤いのある唇。
カイはその唇に、そっと自分の唇を重ねる。
白雪姫の伝説のように、目を覚ましてくれることを願った。
しかし、彼女の唇は体温を失っていた。目を覚ますこともない。
「食事、一緒にできなくて、すまなかった……」
フリージアの最後の晩餐……朝なのだが……を思い出す。
確か、ロールパンにクリームシチュウだった。
カイは、名残惜しそうにフリージアを見ながらも、家の中へと戻って行った。
6
チチチチ
チチチチ
窓の縁に止まっていた鳥が、カイの枕もとへと降りてくる。
小首を傾げ、そして、飛んでいく。
羽の羽ばたく音で、目をさましたカイは、そのまま上半身だけを起こして窓の外を見た。
日射しの強い朝が、カイを迎えた。
カイは、目を細めて数センチ空いたカーテンを開く。
日射しは強いが、涼しい朝だった。
しかし、カイの服は汗でぐっしょりと濡れていた。
「……懐かしい夢を見たな……」
そう言って彼は窓の縁に手を掛け、下にある花壇を見る。
未だに綺麗に咲いているフリージアの花壇。
カイが心を込めて育てているためか、花も生き生きとしていた。
「もう見ることはないと思ったのに……」
今でも鮮明に思い出す。
彼女の歌声で目を覚まし、この窓から見つめていた自分のことを。もう何年経っているだろう。
「夢見が悪かったのは、フリードがいないせいでもあるかな……」
フリージアに起こされなくなっていたカイは、自然に寝坊癖がついていた。そして、彼女の変わりにお越しにくるはめになったフリードは、今はいない。
昨晩、自分の故郷に帰ると言って、家を出ていった。
そのうち帰ってくるだろうと思うが、フリードと出会ってからまともに離れたことのないカイは、心細さを感じていた。
このまま、フリードも帰って来ないのではないだろうかと、そんな不安が彼を襲う。
リビングに降りて、使用人が用意してくれた朝食を一人寂しく食べる。
そのカイの胸には、フリージアを殺してしまった原因となった指輪があった。
フリードの力で、その指輪の悪しき者は封印された。しかし、それと同様形見でもある指輪を手から離すことができなくなった。
そのためか、保管しておかなければならない場所に保管することなく、自分で持っているのだ。
「ご馳走様」
食事を終え、使用人に片付けるように目で合図すると、
「ちょっとシャワーを浴びてくる。服を用意しておいてくれ」
表情が優れないまま、席を立った。
普段のカイは、何もかも自分でするか、フリードにやらせることが多く、使用人を使うことはあまりない。
食事の用意くらいしか仕事もないのに、それ以上の給料を貰っていることを気にしていた数人の使用人は、ここで仕事を頼まれたことに喜びを感じていた。
シャワー室に入ったカイは、溜息を吐いた。
朝に昔の夢を見たからだろうか、それとも長年一緒にやってきた助手がいないせいなのか。何もしていないのに疲れがたまる。
再びカイが溜息を吐いた時、
「ご主人様、お洋服をお持ち致しました」
一人の若い女性の声。
その声を聞いて、新しく入った使用人だとすぐに分かる。
「すなまいな。左の棚においてくれないか」
「はい」
そういうと、使用人はすぐに出ていった。
しかし、その瞬間に使用人の悲鳴が聞こえた。
カイはシャワー室から出て、服を着るとすぐに使用人を捜した。
すると、使用人は目の前にいた。
そこでカイの動きは止まった。
使用人は、どこから入ってきたのか、顔も見たことのない男の腕の中で、顔を恐怖に歪めていた。
彼女の頬には、小型ナイフが突き付けられている。
「動くんじゃねー」
その小型ナイフを一度カイの方に向けて、男が声を荒げる。
「この女がどうなってもいいのか」
男はもう一度小型ナイフを使用人の頬に突き付ける。
カイは男の要求通りに、その場から一歩も動かない。
「どうやって此処へ入った」
カイは睨む。
「屋敷の鍵は全て開けっ放しだったぜ。まるで、入ってくださいと言われている感じだったなぁ」
話すことはいいのか、男は返答しながら不気味に笑う。
「なんだと!」
「……ご主人様……フリード様がお出かけに……」
使用人が声を震わせながら口を開く。
「お前は喋るんじゃねー!」
突き付けていた小型ナイフが彼女の頬を裂く。
頬から一筋の血が流れる。
(そうか、フリードがいないから……)
カイの住んでいる屋敷は、フリードの結界で守られていた。そして、フリードがいない今、その結界は消えている。
その事に気が付かなかったカイは、すっかり屋敷の鍵を掛けるのを忘れていた。
「そっちの要求は呑む。その変わり、彼女を今すぐ放せ!」
カイは自分のせいで使用人が巻き込まれていることが腹立たしかった。
「他の者も手を出さないでくれ!」
騒ぎに駆けつけた他の使用人も、カイの言葉に力を抜く。
警戒を解いた使用人達を見て、男は捕らえていた使用人をカイの方へと放り出す。
カイの胸の中に飛び込んだ使用人は、身体を震わせている。その身体をカイは優しく抱く。
「怖い思いをさせて、すまなかった」
その言葉で少しは気分が落ち着いたのだろう。彼女の顔に笑顔が戻った。
「使用人は全員外へ出ていろ! 死にたくなければな」
ケケケ、と笑う男に、この場にいた誰もが背筋を凍らせた。
まるで本当に誰かを殺してしまうような感じが、この男から溢れている。
「みんな、言うとおりにしてくれ」
「しかし……」
「頼む……」
カイは使用人に向かって頭を下げた。
そんな態度を取られた使用人たちは、どうすることもできないまま、立っていた。
「これは僕の責任だ。みんなを巻き込んでしまってすまないと思っている。だから……頼む……」
使用人達はそれぞれ顔を見合わせて外へ出ていった。
この場には、カイと男だけが残った。
「で、何がお望みかな?」
「金だ! 俺は金が欲しいんだよ!」
「だったら、勝手に持っていけばいいだろう。別に金くらい好きなだけやるさ」
カイが笑う。
「もっとも、ここには金なんてないからね」
「なんだと? どういうことだ!」
「言った通りだよ。金なんてない。ある所に保管してあるからね」
「ちっ」
男は舌打ちする。
「なら、この家の金目になるものを貰っていくまでさ」
思った通りだった。
金がないと言われて、はいそうですか、と帰って行くような人ではないことくらい、話をしていれば分かる。
幸い持って行かれて困る物などこの家にはない。あると言えば、使用人の命くらいだろうか……。
そんなことを考えてしまうほど、カイには余裕があった。
カイにとって目の前にいる男は、好き勝手に歩く犬同然。別に気にすることも何もない。気にすることと言えば、後始末くらいだろうか……。
そんなことを考えてしまうほど、カイには勇気があった。
そう、逃げる際に捕まえるという勇気が……。
男がウロウロと歩き回り、手に持った袋に物を入れていくのを、カイは立ったまま黙って見ていた。
男がシャワー室のドアを開け、入って行く。そして、何かを持って出てきた。
手にした物をよく見ると、それは生前フリージアが指に填めていた指輪だった。
カイは、自分の手に指輪がないことを確認した。
水に濡れると錆びてしまうために、風呂に入る時はいつもはずしているのを忘れていた。
そして、使用人の悲鳴に驚いて指輪を填めるのを忘れていたことにも気付く。
男がその指輪を自分の指に填めようとした時、
「やめろ!」
カイは男に飛びかかった。
驚いた男はカイを投げ飛ばし、よろけた彼にナイフを振り下ろす。
間に合わないと思い目を閉じたカイは、女性の悲鳴に目を開ける。
それと同じにカイの上に倒れて来た女性に目を向ける。
新しく入って来た使用人がそこにはいた。
「こりねー女だな!」
「外に出ていろと言っただろう!」
「すみません……ですが……」
「なんでもいい。とりあえず、無事で良かった。さ、もう一度外に行って」
「おっと、そうはいかねーぜ。俺様の手を傷つけてくれちゃったんだからな!」
男は怒りに満ちた顔で、使用人にナイフを向けてくる。
使用人はビクリと身体を硬直させて、動かなくなる。
「いい大人が、そんな小さい傷で怒るなんて、まるで、子供だな」
「なんだと!」
男はカイに向き直った。
カイの目的は、始めから男の意識を自分側にもってくることだった。その間に使用人を逃がせればいい。万が一追いかけようとすれば、隙をついて後ろから攻撃をすることも出来る。
頭の中で速やかに計算すると、カイは使用人の方を向いて、コクリと頷いた。
使用人もカイの意図に気付いたのか、男の隙をついて駆け出した。
「くそっ!」
「おっと、ここで追いかけたりしたら、あんたの隙をついて捕まえられるな」
そう言えば、追いかけていくこともないだろう。しかし、これでフリになった。
いや、これも計算の一つ。
いくら危険だからといって、隙をついて相手を捕らえてもおもしろくはない。こういうものは、正面からぶつかっていってこそ、おもしろみがあるというものだ。
「おらああああぁぁぁぁっっっ!」
男がナイフを持ちながら突っ込んでくる。
それを余裕で交わすと、拳を男の顔面に叩きつける。
「ぐはっ!」
衝撃で倒れ背中を打つと、男はこれで気絶した。
「あれ?」
カイは呆気にとられていた。
「もう、終わりなの?」
顔からして、もっと強そうな印象を受けたカイは、もう少し手こずることを予想していた。そのためか、少し拍子抜けである。
気絶している男の両手を縄で縛り、外にいる使用人たちを呼ぶ。
男が捕まったことを安心する者もいれば、カイを心配する者もいる。
ふと、使用人のなかに、彼女がいないことに気付いた。
他の使用人に聞けば、街に役人を呼びに言っているというらしい。
随分と頭がきれる使用人だと思いながら、カイは残った使用人たちと共に盗まれかけた物をもとに戻す。
そして、指輪がないことに気付いた。
男もあの使用人が来てから指輪を放した。その拍子に落ちて少しかけてしまったことを思い出す。そして、それを彼女が取り戻してくれた。
しかし、それから返してもらった記憶はない。
「しまった!」
このときやっと気が付いた。
彼女が指輪を持ち去ったことを……。
いや、彼女ではない。落とした拍子で封印が解け、老婆が目覚め彼女の身体を奪い逃げ出したのだ。
急いで家から出て追いかけようとするが、彼女の姿はもうなかった。
すると、小さな人影がこちらに近づいてくるのが見える。
「フリード!」
「カイ……どうかされましたか?」
精霊界から、丁度戻ってきたばかりのフリードが、首を傾げる。
「さっき、使用人が……」
「さっきの使用人、封印がとけた老婆が操っているんだ。……指輪を持って、にげさった老婆がな……」
「っ!」
フリードは言葉にならなかった。
急いで追いかけようとフリードに掴まるカイ。
だが、それも遅く、前方から青白い光が放たれ、轟音と共に消えていった。
「ちっ、間に合わなかったか」
「さっきのは、時空の壁……なぜ、老婆が……」
「わからない。けれど、指輪を持ち出してまた違う世界で何かを企んでいるのかもしれない」
カイの表情には焦りが表れていた。
「すみませんカイ……こんなことになったのは……」
みなまで言おうとするフリードの唇に、カイはそっと手を置いた。
「それ以上は言うな。お前のせいじゃない……」
「…………」
それでも頷くことは出来ないフリードは、責任を感じて俯いた。
「だから、お前のせいじゃないって言ってるだろう。お前の忠告を無視してちゃんと封印しなかった僕が悪い。それよりも、今はこれからのことを考えるんだ」
「……はい」
「もし違う世界で老婆が騒ぎ出したら厄介だからな。これからあいつの気配を辿って追わなくちゃだろう! お前には沢山仕事があるんだから、悔やんでる暇はないんだ!」
「わかりました」
カイとフリードは一度家に戻り、使用人に訳を放して、老婆を追うことにした。
消えてからまだそれほど時間の経っていない今ならば、老婆を探すことも大変ではない。フリードは気配を辿り、老婆のいる世界を探す。
「カイ、分かりました。老婆がむかった先は『地上界』です」
「そんなに、遠くに……」
カイは顎に手を当て、考える。
「まさか、『地上界』に行く日がくるとはな……」
「あの世界は、主としての素質がある人にしか、私たちの姿が見えないはずです」
「そうか、ならば平気だろう」
カイは家をでる準備をして、翌日家を出ることを決意した。
*
地上界。
学生が必死に勉学に励んでいる時間に、一人の女が道を歩いていた。
外見からみれば、大学生くらいだろう。休みなのか、大学へ行く様な格好ではない。
「あの子のことだから、ちゃんと看病しているかもしれないけど、心配だから早く行ってあげないとね……って痛っ」
突然頭に何かが当たって、コンクリートに落ちたそれを見てみると、小さな指輪が落ちていた。
「誰のかしら? 少し傷ついてるみたいだけど……」
指輪を拾い、色々な角度から見てみる。
「今は忙しいから、後で警察にでも届けに行こうかな」
そう言って女は拾った指輪を填めて、何もなかったかのように、歩き出した。
この作品は、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、前作『思い出は心の中に』よりも過去の話です。
書いたのも『思い出〜』よりも後になります。
何故かさかのぼって書いていくのが、橘の趣向?みたい……です。
連載となっていますが、微妙に短編っぽいです。だから、どの話から読んでも大丈夫です☆ 話は繋がりますから。