6章
花札もそこそこに途中休憩や昼食、座談会などを挟みつつの初日高校と鳳凰堂学院による合同練習の初日も夕方を迎えて終盤に入った時の事だった。
一団の中で唯一の初心者である佐治亜衣が何となしにこんな事を言った。
「キキコが入ると関東で一番強いのって誰になるのかな?」
その話題が投じられた瞬間、全員が動きを止め、亜衣に注目した。
各々思いはある。ある者は触れまいとしていたのにどうして触れたのかと。ある者は聞かなくても分かるだろうと。思惑は様々であるが。
会話が途切れ、気まずい沈黙が降りると思われたその時、
「そんなのキーちゃんに決まっているではないか」
「ミッチーでしょ。関東の顔と言っても過言じゃないわけだし」
この合同練習内における成績一位の五光満と亜衣と並んで成績十位タイのキキコ・S・フランクールが相手の名前を全く同時に挙げた。
キキコがげんなりしながら満に言う。
「ミッチー、関東の最上としてそれは色々まずくない?」
「こうでも言わないとお前様は本気を出さないだろう?」
心中を見透かされ、キキコは内心のみでドキッとした。
どうにか平常心を保って答える。
「……本気って何の事? 私は何時でも本気だよ?」
「――やはり器用に手を抜いていましたのね」
紫がカップを更に置きながら会話に加わった。
キキコはぎょっとして紫の方を振り向く。
「ちょ、ゆかりんまで何を――」
「満と紫が言うのなら間違いないみたいね」
キキコの言葉を遮り、鶴賀が真剣な声で先を促した。
「いや、赤松部長、私は――」
「安心しなさい。非難も軽蔑もしないわ。というか、自分だけが特別だと思ったら大間違いよ? 貴女は単に自覚しているかどうか、というだけだもの」
「それってつまり、キキコは特殊能力所持者って事ですか?」
亜衣が興味津々とばかりに尋ねた。
「そんな感じね。ま、どれだけ花札を好きかどうかというだけだけど」
「どういう事ですか?」
「亜衣は人に負けたくないものがあるかしら?」
「ありますね。ゲームとかのテクニックでもいいのであれば、ですけど」
「形は違うけど、ズバリそれよ。これだけは他人に負けたくない――そういう気持ちが形になるのが今話している事よ。あたしが【逆転の鶴】なんて大層な異名で呼ばれているのもここぞという時ほど気持ちの上では負けないようにしているから逆転勝利って結果が多いところから来ているのよ」
「それって偶々偶然でそうなっているだけなのでは?」
「ええ。ただの偶然で思い込みでしかないわ」
「しかし、鶴賀を初め、プロアマ問わず優秀な成績を収めている者は大体『自分は負けない』『自分は勝てる』というイメージを持って戦いに望んでいる」
静観していた満が諭すように言った。
「あらゆる競技において気持ちで負けない事は何にも増して重要な事だ。だが、そういう事がまかり通るならば、その逆――良く言えば接待、悪く言えば手加減をする事も可能であり、キーちゃんはそれを実践しているというわけだ」
「……そうなの?」
亜衣が皆を代表してキキコに話を振った。その場にいる全員がキキコに視線を向ける。キキコは全員を一通り見た後、ため息をつき、
「……上手く行かないなー、もう……」
罰が悪そうに頭を掻きながら本気を出していない事を認めた。
それにキキコが気づいたのは、紫と満にこいこいの遊び方を教えてもらい、慣れてきて一人でも戦えるようになった時だ。
理由は分からないが、どういう事なのか、ある程度勝敗を操作出来た。する事は競技が始まる前にどう思うか。勝ちたいと思った時は基本的には勝てたし、負けようと思うと基本的には負けられた。気持ちが露骨に表れるというのは両親に聞いていて知っていたが、ここまでとは思わなかった。単に優位に立てる札が来易いというレベルの話ではないのだ。百パーセントでは無いにしろ、望むと七、八割方優位になれる札が来て、望まなければ来ない。そういう次元の話である。
「じゃあ、手を抜いてたっていうの?」
「そうなるね。楽しんでやる事しか考えていなかったわけだから」
キキコは肩を竦めながら言った。
それが、キキコが見つけた処世術。勝とうとすれば大体は勝て、負けようとすれば大体は負けられる――ならば、どちらも考えずに楽しんで遊ぶ事だけを考えて望めばいい。そう思って実践してみれば、やはりそうなった。勝つ時も有れば負ける時もある。その方法を見つけて以降、キキコはそういう考えでしかこいこいを遊んだ事がない。
兎角、確かな事はきちんと向き合っている人達を侮辱しているのも同然である事だ。どう取り繕ったところでその事実だけは絶対に覆らない。
「楽しんで、か……。……好き過ぎるっていうのも問題なんだね?」
「うん。亜衣は私みたいになっちゃ駄目だよ?」
「その境地に至るにはまだ先の話だよ」
「だからこそだよ。でないと私みたいに取り返しのつかない事になるからね」
「……だね。肝に銘じておくよ」
亜衣の肯定を最後に会話が途切れた。
いや、終わったというべきか。好奇心は身を滅ぼす、という事か。ちょっとした好奇心で空気が重くなる事など誰にも想像出来ない。
「しかし、そうなるとやっぱり満が一番か?」
それから少しして萩が気だるそうに口を開いた。
「そうなると思う」
「フランクールさんが本気出せないんじゃそうなるんじゃないかな?」
それに牡丹と椛が便乗した。
これによって話は本題に戻り、空気が軽さを取り戻していく。
「その結論はまだ早い。キキコだってやろうと思えば出来るはず」
「ま、そういう理屈よね。やってやれない事は無いんでしょう?」
朱美が反論し、桐子が賛同を示してキキコに話を振った。
「え? いや、どうでしょう……? 考えた事もありませんでした」
キキコは逡巡して曖昧に答えた。
それを聞いて、鶴賀がため息をつく
「これは重症ね。大会までに直せるかしら……」
「どうにかして直さないと一勝をみすみす捨てるようなものですからね」
亜衣が他人任せ全開な発言をさも当然のように口にする。
「鶴賀さん、そういう話は後でやってくれ。今は満とフランクールのどっちが強いかって話だ。さっきみたいな空気になるのはごめんだぜ?」
萩が気だるそうに嗜めながら軌道修正を試みる。
「と、悪かったわね。それじゃ、話を戻すけど鳳凰堂には悪いけどそういう事情ならキキコの方が強いに決まっているじゃない。ね、亜衣?」
「ですよね。イマイチ信じられませんが、さっきの話が本当ならキキコは勝とうと思えさえすれば勝てるわけですから。そうだよね、キキコ?」
「そこで私に話を振る!?」
キキコはぎょっとして思わず叫んだ。
「振るよ。で、どうなの?」
冷静に答えを催促する亜衣。他の者も興味津々の視線を送ってくる。
「いや、その……そんな目で見られてもどうしようもないし……」
「精神的な事なのが厳しいな。私や紫はキーちゃんのおかげで克服出来たが、キーちゃんの場合、二つの問題点から私達の方法は使えないからなー……」
「全くです。こんな事なら十年前にキーちゃんを九条家で引き取るべきでした」
満と紫が各々自分達だけが知る情報のみで物を言った。
その発言に他の者の興味はそちらに移る。
真っ先に口を開いたのは椛だった。
「ねえ、満、その問題点って何? というか、その話初耳なんだけど?」
「恥ずかしい話を態々する阿呆はいないだろうが」
「あ、なるほど。それで?」
悪びれもせずに先を促してくる椛に、満はため息をついてから話し出す。
「簡単な話だ。キーちゃんは私達にまだまだ上がある事を教えてくれ、勝ちたいという気持ちを思い出させてくれた。それからというもの私も紫も自分が慢心していた事に気づき、今では関東の顔と言える地位に登りつめられている」
「つまり、二人にとってフランクールさんは恩人って事か」
「でも、それとフランクールさんは引き取るという話はどう繋がる?」
話題に一段落つくのを待って牡丹が紫に尋ねた。
「経験者からしてこの症状を改善するには心を滾らせてくれる相手と早期に相対する事ですわ。で、キーちゃんの実力が凄まじいのは分かっていましたし、私達が側にいれば前者は多少なりとも症状を軽減出来る自信があるからですわ」
「なるほど。そういう理屈」
「で、そういうわけだからお前ら二人の方法は使えないってわけか」
萩がまとめにかかり、全員黙り込んだ。
「――なあ、ちょっといいか?」
その時、松町が口を開く。
「ああだこうだ言い合うのも結構な事だと思うんだが、そういう事する前にフランクールにそういう条件付けて戦わせてみればいいんじゃねぇの?」
「……やっぱりそうなる?」
鶴賀が不承不承ながらに賛同を示す。
「百聞は一見にしかず、みたいなものだ。不満か?」
「不満ってほどじゃないけど、それで駄目だった場合、完全に手詰まりになっちゃうでしょ? だからどうしたものかなー、と思って」
「だが、鉄は熱い内に打てって言うぜ?」
「この機に乗じて駄目元でやってみろと?」
「おう。というわけで――フランクール、ちょっとやってみろよ」
松町は鶴賀からキキコに視線を向けて言った。いつもと特に違いがあるわけではないが、その声には不思議と有無を言わせない響きがあった。
「他人事だと思って好き放題言いますね?」
「実際問題、他人事だからな。それにこれまでの話から鑑みるにお前は初めの一歩を間違えてはいるものの、それでもきちんと軌道修正してきちんと花札に向き合っている。それなのに何で気負ってんのかそこが俺には分からん」
「向き合っているって……先生、話聞いていました?」
「ふむ……。教師として嬉しいが優秀過ぎるというのも中々に問題だな」
松町は立ち上がり、
「では、敢えて言ってやろう。フランクール、しっかり聞いとけ」
お立ち台にあがるように皆の視線を集めながら、
「難しく考えんなよ。皆々偶然の出来事なんだからよ」
堂々とそれでいて優しく諭すようにキキコを真っ直ぐ見て語り始める。
「勝敗も確かに重要だ。勝負事なんだから当然だし、部活なんだから勝てば学校側としても嬉しいからな。だが、大本を履き違えるな。間違えるんじゃねぇ。しっかりと見定めろ。勝つための努力大いに結構、上位者としての責任は持って当然。が、最も重要なのは楽しいかどうかだろうが。鳳凰堂の方は知らないが少なくとも初日において部活は自由参加だ」
「鳳凰堂も自由参加型にございます」
瀬葉がさり気無く補足した。
それを受け、松町は瀬葉に微笑みかける。
「そうかい。情報ありがとう。で――話を戻すがそういう形式なら好きだから入るわけだ。或いは上に進むために有利だからって奴もいるかもしれないが、そういう奴にしたって自分の好きな事をやるはずだ。でなきゃきついからな。で、誰もがそんな状態の中、勝ちまくるから勝たない? はっ。とんだお笑い種だ。へそで茶を沸かせられるな。目を背けんなよ。その理屈で行くなら本当は勝ちたいって思っているって事じゃねぇか。例えネガティブな考え方だとしてもそんな事を思っている奴が負けるはずねぇのは道理だろうが。で、楽しんでやりたい事しか考えてないだったか。――フランクール、お前、そういう気持ちで今までやってきて本当に心の底から楽しかったって誰かに聞かれて「楽しかった」と満面の笑みを浮かべて作った笑顔ではない本当の笑顔で答える事が出来るか?」
「…………」
キキコは答えられない。そんな事出来た事が無かったから。
「出来ないだろう? 当たり前だ。妥協してんだからな。どれほど器用に誤魔化したところで自分だけは絶対に騙せないぜ? 仮に騙せていると思っているならそれはその事実から目を逸らしているだけだ」
「――知らないで……」
「ああん? 言いたい事があるならはっきり言えよ?」
「――っ! 人の気も知らないでと言ったのです!」
キキコは立ち上がり、胸の内を打ち明ける。
「先生には分かりますか!? あなたとは遊んでも楽しくないと言われる私の気持ちが! 何もしていないのに勝ってばかりだからイカサマしているのだろうと疑われた私の気持ちが! そんな事を言われてきた私の気持ちが!?」
「それが何だよ? 単なる妬みじゃねぇか」
松町はそれを素気無く一蹴する。
「お前、自分の心の弱さを人に押し付けるなよ。一応聞くが、お前はイカサマして勝ってんのか? 違うからそんなに怒ってるんだろう?」
「あ、当たり前じゃないですか!? 私、何も悪くないです!」
「だったら堂々としろ。しゃんと胸を張れ。というか、まだ気づかないか?」
「気づくって何にですか?」
「――原因はキキコにあったって事だよ」
亜衣がため息混じりに言う。
キキコは愕然として亜衣に尋ねた。
「私に、って……そんな、嘘だよ!?」
「嘘じゃないよ。キキコにはきつい話だけどね」
亜衣は紅茶を一口飲んでから続ける。
「始めたばかりの僕が偉そうな事を言うけど、慣れてきてふと思ったんだ。キキコとこいこいをしてもそんなに楽しくないな、って」
「っ! だから、それは……」
「勝つ気がないからだって言いたい? ――違う。違うよ、キキコ。で、ようやく分かった。当然だよ。だって――」
「――お前は楽しんでやっていないからな」
松町がその後を引き継ぐ。
キキコは冷水をぶっかけられた錯覚に捉われた。
そんなキキコを他所に、松町は静かに続ける。
「お前にも色々あったんだろうさ。そうなっちまうだけの、そういう精神状態でそれでも続けたくないから見つけた処世術だろうさ。それを非難しない。むしろすげぇって褒めてやるよ。そんな状態になってもお前は花札を嫌いにならないでいるんだからな。――でもよ、フランクール。お前、そんな精神状態の奴と戦って「楽しかった」と相手に素直に言えるか?」
「……そんなの――」
「分かるはずない、という言い逃れは無しだぞ? キーちゃん」
キキコの言葉を、満が剣呑な声色で遮った。
「ええ。自覚しているキーちゃんにその逃げ道は初めからありませんわ」
その後、紫が同じく剣呑な声色で駄目押しをした。
そんな二人にキキコは自嘲的な笑みを返す。
「……違うよ。私はそんなの言えるはずないって言おうとしたんだよ」
キキコはそう言った後、糸が切れた操り人形のように椅子に座った。
「言えないよ……言えるはずないじゃん、そんな社交辞令……」
天井を仰ぎながら呟く。
分かっていた。気づかない振りをしていただけだ。こんな方法で続けていたとしても周りを傷つけるだけで、自分を追い詰めるだけだと。でも、一番に見つけ、縋りついた方法がそれであり、それ以外の方法を見つける努力を怠った。そのツケがようやく回ってきた。これはただそれだけの事。
「でも……どうしたらいいのか分からないよ……」
嗚咽混じりの呟きが室内に響く。
分からない。不器用だと自覚しているからこそ、今更どうしたらいいのか分からない。騙し、傷つけ、それすらも慣れてしまった自分の心を今更どう処理すればいいのか、慣れてしまったキキコには何も分からなかった。
そんな中、松町がキキコに近づき、頭に手を乗せ、
「――だから難しく考えんな。で、堂々としてろ」
目線を同じ高さにして励ますようにそう言った。
「俺が思うに周りがお前に対してそういう態度を取ったのは、お前が堂々としていなかったからだ。確かに相手を気遣うのは悪い事じゃない。しかし、気遣えばいいってものでもない。勝者に情けをかけられるほど敗者にとって屈辱的な事はない。お前、そんな感じの事無意識にやっていたんじゃないのか?」
「え、だって……勝った方が楽しいでしょう?」
「おっと。意識的だったか。だったら尚更まずいが、今は置いとくとして――フランクール、鳳凰堂の奴らを見てどう思う?」
「どうって……」
キキコは鳳凰堂の面々を一瞥してから答える。
「……そうですね。堂々としている、でしょうか?」
「だろう? あれが上位者としての振る舞いだ。強い奴はどんな世界でも堂々としているのが普通なんだよ。勝ちまくるとしてもそれは勝とうとする技術と気持ちが備わっている証だ。まああそこまで堂々としろとは言わないけどな」
それを聞いて鳳凰堂の面々は『今さり気無く俺達の事をバカにしたよな』『したした。間違いなくしたよね』『紛れも無くされた』『事実だから仕方あるまい』『少し自重する事を心がけましょう』などと意見を述べた。
しかし、松町は敢えて聞こえない振りをして続ける。
「まあそういうわけで、とにかく何もやましい事がないなら堂々として「負け犬の遠吠えほど見苦しいものはない」くらいの事を言ってやるくらいの心構えでいろ。ま、実はそうやって相手の心を折っているって話なら話は別だけどな」
「な!? そ、そんなドSな事しませんよ!?」
「そうか? 割と似合ってると思うぜ?」
「似合っているってそういう問題ではないですよね!?」
「まあな。んじゃ、話を戻すぞ」
松町の提案に皆は各々の調子で肯定を返した。
それを受け、松町が言葉を続ける。
「ともあれ、とにかく一度やってみようぜ? で、それで駄目だったら改めて対策を講じればいいし、直ったら御の字だ。ま、直には無理かもしれないけどな」
「では、早速準備をしませんとね」
紫がそれを受け、席を立ちながら瀬葉を見る。
「瀬葉。というわけでお願いしますわ」
「かしこまりました」
瀬葉が一礼して競技の準備を始める。
紫はそれを確認し、満とキキコを交互に見る。
「満にキーちゃんは対戦台の方へ」
「おうさ」
「はーい」
かくて、花札においては多大な功績を残した両親を持つ少女と関東圏最強と噂される少女との対戦が今ここに実現した。
「まずは親決めです。どちらからお引きなさいますか?」
瀬葉がキキコと満を交互に見て言った。
「キーちゃん、引いてくれ」
「ん。分かった」
キキコが了承すると瀬葉が裏返しになっている山札を差し出してきた。キキコは一番上の札を取り、表を改める。その間、瀬葉は満に山札を差し出し、満もキキコと同じ行動をした。
「私は九月だよ」
キキコは自分の札を表に返す。札は菊に盃だった。
「ならば、私が親だな」
満が自分の札を表に返した。札はススキに月。満は札を皆に見せると、瀬葉に返却した。キキコも習って皆に見せた上で瀬葉に返す。二人から札が返却されると瀬葉は改めて山札をシャッフルし始めた。札と札がリズミカルに重なり、擦れる音が室内に響き渡る。
(原因は私にあった、か……)
競技の準備が終わるまでの間、キキコはぼんやりと先ほど松町に言われた事や亜衣の告白を思い出していた。
思い返してみれば、随分と酷い事をしてきたものだ。罵詈雑言をぶつけられても仕方ない。向こうは楽しんで初めてくれたし、遊んでもくれたというのにそんな人達に対して侮辱しているのも同然の事をしてきたのだから。
「――皆さん、無礼な振る舞いをしてすみませんでした」
自然と口は謝罪の言葉を紡いだ。何を今更と思われるかもしれないし、自己満足にしか過ぎなかったがそれでも形だけはちゃんとしておきたかった。
「そう思うならカッコイイところ見せてよね?」
「しっかりやってくれればそれでいい」
「そう思うならしっかりとやる事ね」
「しゃんとしなさい。未来のエース」
「存分に楽しめ。お前はそれが出来る奴だろう?」
「私や満を驚愕させたあの頃を取り戻しなさい」
「しっかりしてくれよ。でないと張り合いが無いぜ?」
「全くだよね。紫や満が絶賛していたから楽しみにしてたのにさ」
「真剣に勝負する事」
返って来たのは優しくも厳しい激励。
「――ここまで言われては何が何でもやるしかないな?」
皆の言葉を締めるように満が不敵に微笑みながら言った。
「参ったね、どうにも……」
キキコは寄せられる期待の重さに困惑し、頭を掻いた。
言われるまでもなくやる気にはなっているが、だとしても所詮は偶然の一致に過ぎず、究極的にして本質的に運に凄まじく左右される事には何一つ変わらない。如何に気持ちが反映されるという現象が起きていたとしてもそれは相手とて同じ条件。付け加えて相手は関東圏最強と噂される鳳凰堂学院花札部の大将を務めた五光満だ。実力も気持ちも十二分で難敵である彼女に対し、付け焼刃とも言えるリハビリを始めたばかりの自分が何処まで迫れるか。
「双方、手札を確認して手四及びくっつきの有無を報告してください」
瀬葉に指示を受け、キキコと満は自分の前に置かれている手札を表に返す。
「ないぞ」
満が素気無く報告した。
「私もありません」
キキコは報告した上で手札と場札を見比べ、
(幸先は良いみたいだね……)
内心のみで俄然やる気になる。
キキコの手札は藤に短冊、紅葉に青短、菊のカス、ススキに月、アヤメのカス、萩のカス、松のカス、ススキのカス。
場札は梅に赤短、桜のカス、ススキのカス、梅のカス、柳に小野道風、松に鶴、松のカス、松に赤短。この内、松は三枚揃ったので一つにまとめられている。
幸先は確かに良い。残る最後の一月の札はキキコの手中にあるため、何時でも好きなタイミングで取りに行く事が出来、さらにはススキのカスがあるため、満が最初の自分の番で取りさえしなければ、ススキに月を手札から出して取得する事が可能であり、その時点でかなり優位に立つ事が出来る。とは言っても、相手が相手なのでそう簡単に行くとは思えないが。
「始めてもいいか?」
満が静かに聞いてきた。キキコは首肯すると、満はさっさと自分の番を始めた。手札から出されたのは梅にウグイス。それで梅のカスを取り、共に取得。山札から引いたのは桜に幕だった。満はそれで桜のカスを取り、共に取得する。
(これで花見は狙えなくなったね……。でも――)
キキコは内心でそんな事を思いつつ、手札からススキに月を場に出してススキのカスと共に取得する。それから山札。引いたのはアヤメに短冊だった。場に同月である五月の札は無かったのでそのまま場に残す。
「微笑んだ割には軽いな」
満が煽りつつも自分の二回目の番を始めた。手札から出されたのはアヤメに八つ橋。それで先ほどキキコが山札から引いたアヤメに短冊を取って共に取得する。流れるような動きで山札から引いたのは桜に赤短。場に三月の札は無かったので桜に赤短はそのまま場に残った。
「酷い振る舞いばっかりしていたから神様に呆れられたのかもね」
煽りに自嘲を返しつつ、キキコは手札からアヤメのカスを出した。場に五月の札は無いのでそのまま場に残る。ついで山札。引いたのは牡丹のカス。これも場に六月の札が無いので同じく場に残った。
「そんな事を言っていると本当に呆れられてしまうぞ?」
満は呆れた口調で言って三回目の自分の番を始める。アヤメのカスを出し、場にあるアヤメのカスを共に取得。ついで山札から引いたのは牡丹のカス。こちらも場にある牡丹のカスと共に取得し、結果キキコが出した札はそっくりそのまま取得された形となる。
「別にいいよ。片思いは慣れっこだから」
「片思い? 向こうで彼氏でも作りましたの?」
キキコはそう返した瞬間、紫が不思議と剣呑な声で聞いてきた。
「違うけど、恥ずかしいから言わないよ」
キキコはそれで会話を強引に終わらせて自分の番を始める。手札から場に藤に短冊を出してそのまま場に残した。ついで山札から引いたのは柳のカス。それを場の柳に小野道風を共に取得する。
「再会まで十年だ。私達にも猪鹿蝶や鶴賀、桐子、そして如月学園の霜月のようにキーちゃんが及び知らない友が出来たのだ。彼氏の一人いても不思議ではあるまい。いたとすれば、どんな相手なのか気になるところではあるが、な」
満がそんな事を言いつつ、自分の番を進めていく。桐のカスを出してそのまま場に残し、山札から引いた紅葉のカスも同様に場に残す。
「だから違うってば。言わないけどさ」
キキコは否定しつつ、手札から紅葉に青短を出して先ほど満が山札から引き、そのまま場に残した紅葉のカスと共に回収。ついで山札から引いたのは牡丹に青短。こちらは場に六月の札が無かったのでそのまま場に残る。
「なら、誰を思っているのだ? 教えてくれてもいいではないか」
「そればっかりは秘密だよ。でも、彼氏じゃないのは確か」
「教える気無し、か……。まあそれも良かろう」
満は自己完結して自分の番を始めた。手札から桐のカスを出し、前の自分の番で出した桐のカスを共に取得。山札から引いたススキに雁はそのまま場。
「納得してくれてありがとう」
返答してからキキコは自分と相手の手札、場札、自分と相手の取得札、そして山札を順々に見る。傍目にはただ見ているだけに見えるその行為は、その実意味ある行為であり、その意図は見定めである。
単なる偶然の一致でしかないのだが、何となくではあるものの、優位に立てる状況になるか、劣位になるかを感じ取る事が出来る。経験と直感の二つを併せたこれは誰もがやる事ではあるものの、キキコのそれの的中率は七、八割方という驚異的な的中率を誇っている。回数こそ忘れたが、判断材料に入れても何ら問題無いほどの的中率なのでその感覚をキキコは割と頼りにしている。
(雨四光は成立出来そうかな……。何となくだけど)
その感覚はそう告げていた。五光、四光に次ぐ高得点役。松に鶴は確実に取得出来るので残りは桐に鳳凰ではあるが、何となく取れそうな予感がしている。
(――昔取った杵柄とはよく言うね。開き直った瞬間にこうとは……)
キキコは自分自身に呆れていた。自然をそう考えられ、そう考えられた自分を客観的に観察して一先ずそう結論付けた。その感覚は昔、無心でこいこいをして勝利に貪欲だった頃に限りなく近い感覚なのである。
感覚が戻りつつある感触がそこにはあった。
しかし、いや、だからこそというべきか。
(――あ、良い事考えた。怒られるかもしれないけど)
楽しむ余裕が出来たからか、キキコはちょっと邪な事を思いついた。
それは、ドッキリである。内容はこうだ。ここでこれまで通りに器用に負け、「やっぱり直には無理か」と思わせる。その後も感覚が戻りつつある事を隠しながら部活に望む。周囲の失望を買ってしまう事になるかもしれないが、以前とは違って本当に心から楽しんで望むのでそれに関してはあまり心配していない。問題は大会が始まるまで皆にドッキリを目論んでいる事が気取られないでいられるかという事と神様に飽きられないかという事。どちらも難しい条件だが、成功して好意的に受け取られた場合の事を考えたら試したくなった。
ともすれば、思い立ったが吉日である。
キキコは手札から松のカスを出して一つにまとめられていた一月の札を全て取得し、山札から引いた柳に燕を場に残して満に番を譲る。
「――なるほど。最初の微笑みはそういう理由か」
満が得心したように言った。キキコは微笑を返す。
「そ。で、そろそろ桐に鳳凰が取れそうだから取っておこうと思って」
「ふふ。相変わらずとんでもない事を平然と言ってくれる。なあ、紫?」
「昔を思い出しますわね。実際そうなるのがまた怖いところですが」
二人の反応に、キキコは肩を竦める。
「いつも偶々当たっているだけだって」
「偶然も重なれば必然ですわよ?」
「二度ある事は三度あるってだけだよ」
「何であれ、要警戒だな」
満はそう言って手札に手を添えた。それを受け、沈黙が訪れる。静まった中、満は萩のカスを手札から場に出し、山札から札を引く。その瞬間、ほんの僅かだが満の動きが止まった。満の手札や引く札が見えている鳳凰堂の面々は唖然としている。中には『あっ』と声を漏らす者も。
何事かと思った矢先、満が動き、山札から引いた札を場に出した。それを見て、鳳凰堂の面々が各々驚きを小声で露わにした。キキコただ一人を除いて。
「――戻ったか」
「そう信じたいところですわね」
満と紫が至極嬉しそうに言った。キキコは苦笑を零す。
「さあね。世の中そんなに甘くないと思うけど」
そして自分の番を始める。手札から萩に短冊を出して場の萩のカスを取り、山札から札を引く。引いたのは菊のカス。九月の札は無いのでそのまま場に残る。
「確かにそうみたいだな」
満は素気無く言って手札から場に札を出した。出されたのは菊に盃。それで菊のカスを取り、それによって花見酒が完成する。それから山札。引いたのは萩のカスだった。七月の札は場になかったのでそのまま残る。
「勝負するぞ。花見酒で三文だ」
その宣言によって一ラウンド目が終わりを迎える。
「弱腰だね」
「堅実と言ってくれ。瀬葉、残りの山札の一番上をめくってくれ」
「かしこまりました」
瀬葉は言われた通りに残った山札の一番上をめくった。
途端、どよめきが生まれる。瀬葉がめくった残った山札の一番上は桐のカスだった。先のターン、満がこいこいを宣言していたならば、キキコは山札から桐のカスを引き、それによって桐に鳳凰を取得して雨四光が成立していたのだから。
そんな中、キキコは余った手札を机の上に置き、深い吐息を落とす。
(許してもらうにはまだまだ時間がかかりそうだね……)
こうなるかな、というのをキキコはその実感じ取っていた。
幼い時、勝ち過ぎる事を母に相談した時、キキコはこう言われた。
――『キーちゃんが花札をとても好きなように、花札もキーちゃんの事が大好きなのかもしれないわね。そう考えると結構素敵じゃない?』
その回答はキキコの胸にすとんと収まった。しかし、最初の内は良かったのだが段々と勝つ事に苦痛を感じるようになり、行く先々、何処に行っても最終的には相手にしてもらえず、それでもやめたくなかったキキコは愛される事を良い事に器用に手を抜くための手段として悪用するようになった。そんな事をされれば、誰だって嫌なのは明白。物言わぬ花札でもそれは同じだろう、とキキコは今更ながらに自分の愚劣さに気づき、この結果を甘んじて受け入れる。
(ごめんね。でも、もう少しだけ私の我が侭に付き合って……)
キキコは内心のみで花札に対して謝罪し、その上で要望を伝えた。
「き、キーちゃん!?」
「い、いきなり泣き出してどうしたのだ!?」
紫と満の叫びで、キキコは我に返り、頬を触った。するとそこには涙が流れた後があり、目尻には涙が溜まっている事にようやく気づいた。
「……何でもないよ。ただ、上手く行かないものだなー、と思ったらつい、ね」
キキコは曖昧な言葉で茶を濁し、瀬葉に準備を促す。
「瀬葉さん、次の競技の準備をお願いします」
「平気なのでございますか?」
「大丈夫です。自分のバカさ加減に泣けてきただけなので」
「休んでもいいぞ?」
「大丈夫だよ、ミッチー。それに続けないとこの感覚が鈍りそうだから」
「それは困るが、本当に大丈夫なのか?」
「うん。心配してくれてありがとう」
「何、礼には及ばん。瀬葉、そういうわけだから準備の方を頼む」
「かしこまりました」
瀬葉は目礼して次の対戦の準備を始める。
その後、何度も勝負をしたが、先の一戦のような展開が続き、結局「やはり直には無理だったか」という結論が下され、一日目の合同練習は幕を閉じる。
皆の判断にキキコがホッとし、罪悪感が募ったのは言うまでもないだろう。