5
大陸で六の月三十日の午後七時前、メイフェス・コートは七の月一日の午前七時前だった。
栩麗琇那の手が肩から離れ、琉志央は明るい周囲に目を走らせる。剥き出しの煉瓦の壁。室内には暖炉と机、椅子が二脚。硝子の嵌まった窓。背後に素朴な閂付きの扉。奥に厨房や浴室、厠がありそうだ。隅に階段があるので、上が寝室か。
足元から瞬間移動の対の輪を拾った栩麗琇那は、琉志央の前で二つの指輪を消滅させた。銅色の鍵を向けてくる。
琉志央が受け取ると、栩麗琇那は静かに告げた。
「先ず教官舎へ行って、学舎長や他の学科の教官達と顔合わせを。学舎での詳細は、学舎長から話がある筈だ」
「面倒臭ぇな」
「そう言うな。これも仕事の内だ」
相変わらずの無表情だが、声に笑みが含まれていた。琉志央は大袈裟に肩をすくめて見せる。
昼食や大人への魔術指導の時間帯などを今一度確認し合うと、栩麗琇那はその場からかき消える。皇帝とやらは忙しいだろうに、自ら迎えに来たり説明をしたり、骨惜しみはしない奴だ。
もっと室内を見て回りたかったが、時間に余裕が無い。ここへの瞬間移動の指輪だけ作り、適当に部屋の中央に置くと、琉志央は家を出た。
小さな庭を抜けて通りに出ると、教えられたとおりに左へ曲がる。広く真っ直ぐな通りの先、やや小高い位置に瀟洒な建物が見えた。あれが恐らく、琴巳の住んでいるラル宮殿だろう。
空は青く晴れ渡り、この都は全体的に何やら眩い。道も建物も白が多い。通りを挟む並木の緑がやけに瑞々しく映る。
すれ違う連中が、奇異の目を向けてくる。どうも髪の黒色が目立つようだ。リィリ共和国のように、ここの奴らは茶色い髪が多いらしい。
最初の角をもう一度左に折れると、やや細い通りになった。それでもしっかり等間隔に木が植えてある。夏に向けて緑陰が心地好い。
前を行く小さな子供に、琉志央は目を留めた。肩から小洒落た布鞄を掛けている。短い髪色の濃さは木陰の所為かと思ったが、声をかけてみた。
「エン」
振り返った顔は幼かったが、父親に似て見事に整っている。やはり燕だった。琉志央は足を速めて追い着く。
燕は皇子様だろうに、ぺこりと頭を下げた。
「おはようございます」
「あー、朝なんだなぁ」
琉志央はポンと細い肩を叩いて歩き出す。燕も続いた。「ちょっと慣れるまでかかりそうだ。俺、医療所で晩飯食べたばっかりだぜ」
「そっか」
「ところで、先ず教官舎へ行けと言われたんだが、何処だ、それ」
「大校舎の隣だよ」
丁度、再度角を左に折れた所で、右手に幾つか丸屋根の建物が見えていた。燕はそれを指差す。「あの茶色い屋根の建物が教官舎」
「ふむ」
黒い武骨な鉄門をくぐり、燕と別れると、琉志央は口を引き結んで茶色い丸屋根を目指した。
教官舎には、学舎長に副学舎長、五歳課程の各教科を担当している者達、計六人が待ち構えていた。
語学と理数学教官以外は女だった。全員、三、四十代と思われ、予想外に、ルウの民であることを誇示する者は居なかった。一人ずつ名乗って担当教科を述べると解散し、後は残った学舎長が説明してきた。
五歳担当は毎日、午前中はすることが無いので好きにしていていい。但し、子供達に何かあった時には担当として対応してもらうので、担当室に居ること。対応の判断がつかない場合は、学舎長か副学舎長が教官舎に常に居るので、連絡してくるように。
一科から四科は各四十分。間に十分ずつの休憩。敷地内全てに鈴を巡らせてあり、それを鳴らして時を知らせている。
魔術は五科で午後二時から三時迄。教本に載っている術を半年で教えてくれれば、授業のやり方及び進め方は自由。学舎敷地内に訓練場があるので、必要ならそこを使う。
一通り聞いて、琉志央は首肯した。蒼杜がルウの民の教育に関心を見せていたから、後で教えてやろうと思う。
五歳教室の場所を地図で示され、琉志央は一人、教官舎を後にした。芝の植えられた庭内には、まだ幾らか子供の姿がある。一様に、それぞれの教室へ急いでいるようだ。
(しっかし、五歳から理数学なんてやってるのか)
琉志央は子供の頃、学舎に通った経験が無い。
だから本当のところを知らないが、大陸の学舎では五歳児に理数学だの史学だのなんて教えていないと思う。
どうやら燕だけではなく、ルウの民は概ね早熟だったらしい。
教室の入口が見えた。横引きの戸は、夏だからか開け放ってある。近くに居た子供が気づいて、慌てたように奥へ駆けていく。
「よぅ」
入って一声かけてみた時には、全て席に着いていた。皆、黙っているが、落ち着かなげにこちらを見ている。
壁に大きな黒板が嵌め込んであり、一番近い席に目立つ焦げ茶色の頭を見つけた。琉志央は天井に指を向ける。
「担当室って上か?」
燕はコクコク頷く。どれどれ、と琉志央は教室を横切ると、黒板横の螺旋階段を上がった。
二階は堅苦しい空間だった。四方に丸窓があるものの、小さいからさほど室内は明るくない。板張りの床には中央に丸い敷物があり、その上に書棚と机と椅子が配置されていた。何らかの執務を促す風情だ。
迷ったが、仕事の内、という無表情の台詞を思い出し、瞬間移動の指輪を隅に配置する。先程作った輪には刻印を入れておいた。疲れて帰宅しようという時に、こんな部屋に間違えて戻りたくない。
義務を済ませて螺旋階段を降りる。室内は子供の高い声でささめきが起きていたが、琉志央が階段の手摺に背をあずける頃には静まり返っていた。
(どうにも居心地が悪いな)
しかしながら、どういう態度をとればいいのか判らない。いつも通りでいくしかあるまい。
見つめる五、六歳児をざっと見返し、琉志央は己を親指で示した。
「俺、半年担当することになったから。宜しくな」
子供達は、様々に驚いたような顔をしている。「担当室で好きにしていいって言うから、そうしとく。まぁ、何かあったら来いよ」
中程に居た少年が、くすくすと笑った。琉志央は軽く口を曲げる。
何だよ、と言えば、ぴたっと笑いを止める。目を据えると、少年は気まずげに、そろそろと立ち上がった。
「あの……好きにして、いいって……担当って、楽しそうだな、と、思い、ました」
(そんなことで笑えるのか。ガキの感覚は解らん)
琉志央は鼻で息をついた。
「暇そうだけどな」
長袴の隠しに両手を突っ込むと、上着の裾を翻し、琉志央は二階へ戻った。
リリン、リリン、と鈴の音が聞こえた。始業の合図だろう。
勉学に勤しむ十六人の名簿を、書棚から見つけた。とはいえ燕以外は顔も判らないから、眺めたところで何の感想も無い。
念動で書棚と机を部屋の隅に追いやり、中央に残した椅子に腰を下ろしたものの、大人しくしていられたのは五分ほどか。
暇だ。
琉志央は立ち上がると階段へ向かった。段を降りる毎に、子供の声が何か語っているのが聞こえてくる。
見えてきた教室内では、幼子達が大人しく席に着いて本を開いている。語学教官のアサマサと、少女が一人だけ立っていた。少女は本を手に朗読をしているようだ。
子供達は、現れた新担当と本に目を行ったり来たりさせ始めた。琉志央は、後ろに空いていた席へ座る。子供用の椅子で、やたら座面が低い。
朗読をしていた少女は、気が散ったのか何度かとちった。それでも読み終えたのか席に着く。
アサマサが、当惑気味にこちらを見た。
「何か……?」
「上に居てもつまらない。ここで一緒に授業とやらを聞く。邪魔しないから、気にするな」
教官は、はぁ、と応じた。ちょっと迷ったようだが、それ以上は何も問うてこなかった。
「では、朗読を続けましょう。次の人」
どぎまぎと一人が立つ。読み始めたので、琉志央は隣の席に居た少年の教本を覗き込んだ。
目元にそばかすの散るそいつは、何ですか、とおどおどした小声を発した。見せてくれよ、と琉志央は目で伝える。
と、斜め上から開いた本が視界に入ってきた。見上げれば、アサマサが黙って向けてきていた。
「お、悪ぃ」
受け取ると、教官は朗読を中断していた少年に、続けてください、と促す。
琉志央は開かれた頁と前後をめくって斜め読む。何かの物語らしい。子供向けの本にしては、たくさん真名が使われている。
海に住む半魚人が居て、或る日、陸で蝋燭を買いたかったようだ。下半身の魚部分を人間の身体にすることは叶ったが、手指の間にひれが残った。やむなく、真夏だったが手袋をして買いに行くらしい。
(何じゃそりゃ……)
そこまでして、琉志央は蝋燭ごときを買いたいとは思わない。
朗読は魚部分を人間にする辺りまで続いた。
一区切りなのか、アサマサが教壇の紙束を手にする。
「本を閉じて。小試験です」
(うっへぇ。大変だな、学生ってヤツは)
問題が配られた。始め、という合図と共に子供達は羽根筆を手に取る。
(間違えたらどうやって書き直すんだ)
ささやかに驚いて、琉志央はそばかす少年の手元を覗き込んだ。間違えたら上に線を引いて、空いた場所に書くようだ。
「試験ですから覗かないでください、担当」
アサマサが焦ったように頼んできて、琉志央は顔を引っ込めた。手持無沙汰で、物語の続きを少し読む。
試験時間は十分ばかりだった。
教官が答を黒板に書く。その場で答合わせらしい。
「全問正解できた人」
問いかけに誰も手を挙げない。八問まで問うたが無反応で、アサマサは困ったような顔をした。「今日は全員、復習をしっかりやるように。明日の為に、予習も」
終業を知らせる鈴が鳴る。
では終わります、と教官は告げ、黒板を布で拭き始める。琉志央は頬杖をついて本をめくった。
ややして、アサマサはこちらに来た。
「終いまで読みますか?」
んー、と琉志央は本を閉じた。
「何か、あんまり面白くなさそうだ。やめとく」
「そ、そう、ですか」
感想が正直過ぎたか、アサマサは口元を引きつらせた。だが、こんなことを偽る必要を感じない。ありがとな、と本を返すと、彼は少し意外そうな目をした。では、と一礼し、荷物を抱え直して教室を出ていく。
琉志央は大きく伸びをした。頭の後ろで両手を組んで、教室を見渡す。
休憩時間は、幼い子供の集まった空間だと思える雰囲気だ。賑々しい。厠へ行くのか、走って教室を出て行く者も居る。
教室の入口脇に、〝月末試験順位〟と書かれた紙が貼り出されていた。首席は二人で、内一人の名に目を見張る。
(なんだ、小試験はイマイチらしいのに、やるじゃないか)
教室の前方を見やれば、焦げ茶色の頭が子供らしい様子で笑っていた。右隣になかなかの美少女。その後ろに座るのは少年らしき背中。三人で雑談しているようだ。
お坊ちゃん然とした燕しか見たことがなかったから、腹を抱えて笑っている姿は新鮮だった。琉志央は立ち上がると、三人に歩み寄る。
燕は気づかず笑い続けていたが、髪をくしゃっと撫でると、ようやくこちらを振り仰いだ。琉志央は訊いてみる。
「試験の成績、どうだったんだ」
「見習いさんが、邪魔してるから、可笑しくて、全然できなかったよ」
応えた燕は、何を笑い過ぎたか目元に涙が滲んでいた。美少女が心配そうな目を皇子にちらちら向けながら、次の授業に使うのだろう教材を出し始める。
琉志央は燕の後ろの椅子を横向きにし、座面の低さに持て余す足を組んだ。
「邪魔だったか? そりゃ、悪かったな」
隣の席の少年は程良く日焼けしていたが、燕に似て利発そうな顔つきだった。十露盤を出しながら、尋ねてくる。
「担当は見習いなんですか」
「医事者のな」
小さな背もたれに寄りかかりながら琉志央は応じ、己の立場と師の言葉を思い出す。
『この機会に、ルウの方々の命帯をたくさん見せてもらうのも、いいんじゃないですか』
そうだったな、と早速に目の前の日焼け少年を見た琉志央は、お、と思う。
肌の色濃さが増すような、赤銅色に輝く命帯だ。流石にルウの民と言える、大陸の子供より遙かに力強い光。ただ、左足がおかしい。脛の部分が揺れている。傷を負っている時に多い揺れ方だ。
琉志央は身を起こした。
「おい、そっちの足、出しな」
少年は促されるまま、こちら向きに座り直すと左足を浮かす。琉志央が少年の袴の裾をめくると、脛に、出血こそしていなかったが赤く大きな切り傷があった。診断があっていて、琉志央はささやかな自信を得る。
燕が息を呑み、振り返った美少女が、ソレどうしたの、と驚きの声をあげた。日焼け少年は平然と言った。
「今朝、手伝い中に、鎌の扱いをしくじっただけ」
琉志央は掌に術力を集める。癒しの古語を唱えると、ぽっと光がこぼれた。傷へ向ける。
「ちゃんと洗ったのか? 結構深いぞ」
「母さんが綺麗にしてくれました」
少年は応えながら、不思議そうに訊いた。「医事者って、見えない怪我も判るの?」
「命帯を見れるとな」
へぇ、と少年少女が同時に言う。琉志央は傷を消し去りつつ、続けた。「俺は、命帯見ただけで正確には判断できない。揺れてたから、後は直に見てみたわけだ」
気づくと、他の子達が好奇の目で覗き込んできている。癒し術が珍しいのか。確かに、医事者でも誰もができるわけではないが。
「よし、完了」
琉志央は光を消して、子供達の人だかりにぺっぺと手を振った。「おいこら、見世物じゃないぞ。散れ散れ」
幼子達は何が楽しいのか歓声をあげて席に戻る。
日焼け少年は綺麗になった足をさすって、じんじんしなくなってる、と感嘆した様子で言った。
「ありがとうございます、担当」
おぅ、と琉志央は立ち上がって口の端を上げる。
背中を伸ばしながら、次は何だ、と問えば、燕が、理数学、と答えてきた。思わず、ち、と舌が鳴る。
「見物してても退屈そうだな。しっかし上に一人で居てもつまんねぇんだよな」
二科始業の鈴が鳴った。鳴ったと思ったら、つかつかと理数学教官のヘイリョウがやって来る。早ぇな、と琉志央が洩らすと、教室のあちこちで笑声が起こった。
ヘイリョウは、時間ですから、と、さらりと言う。
「授業を始めます。琉志央担当は二階に戻ってください」
「しょうがねぇな」
首の後ろをさすりながら螺旋階段に向かうと、誰かが言った。
「又すぐに下りて来るんじゃないの」
厳めしい顔でヘイリョウがこちらを見る。琉志央は、肩をすくめて見せた。
「暇なんだよ、上」
「では一緒に授業を受けてください。本日は雨季の雨量を算出します」
(おいおい、本気か。五歳児にそんなこと、させてるのか)
「それ何か役に立つのか?」
「立ちます」
「俺は適度に降ってくれりゃ、後は別にどうでもいいんだがな」
「量を知りたい人も居るんです。さぁ、座って座って。始めますよ」
琉志央は口を曲げ、語学の時間と同じ席に座る。そばかす少年は真ん中の席に移動していた。席替え自由だったようだ。
授業が始まった。