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六の月二十八日が更けていく。
医療所の屋根裏部屋で、琉志央は寝台にうつ伏せ、掛け布を頭から被っていた。
こんこんと階下への扉が叩かれ、医事者見習いは開いていた術書を素早く閉じた。左手の光を消す。
扉は開かず、蒼杜の声がした。
「根を詰めない方がいいですよ?」
琉志央は寝たふりを決め込んだが、精霊の声が降ってきた。
〈戸の隙より光が漏れておった。吾が君にはお見通しじゃ、青二才〉
「ちくしょ――」
掛け布から頭を出し、琉志央は本を枕元に放る。「誰が根なんか詰めるか、もう寝るっ」
「良い夢を」
笑みを含んだ台詞の後、精霊の気配も遠ざかる。琉志央は下唇を噛んで寝返りを打った。
早まった気がしている。
『半年かけて実演してくれればいい』
(栩麗琇那の奴、簡単そうに言いやがって――)
あの時は楽勝だと思った。単に、見せるだけなら。
去年、琴巳達が帰ってから、懐かしいです、と蒼杜が微笑んだ。
『ヴィンラ半島の原っぱで、わたしも練習したものです』
それを聞いて、自分が覚えた過程を思い出した時、琉志央は安請け合いした己の浅はかさに気がついた。
『こんなモノぐらい身体で覚えられよう』
七歳の琉志央を拾った魔術師は、ニヤニヤしながら言い放ったものだ。あの爺に何度、攻撃魔術の標的にされたか。無意識に結界を張ってしまうと破壊され、当時は覚えこなせない術でいたぶられた。
琉志央は自己の身を守る為に、死に物狂いで魔術を吸収した。
同じやり方を、燕にするわけにはいかない。やりたくない。
(エンはお坊ちゃんだしな)
言い訳のような思いが胸中に浮かぶ。
あどけない顔で寄ってくる燕が、琉志央は満更でもなかった。
だからこそ余計に、しまった、と思う。
あんな幼子に魔術を覚えさせるなんて、できるのか、皆目自信が無い。しかも相手は燕だけじゃない。他に十五人も居るらしい。
蒼杜は、琉志央の不安をすぐ察した。
『失敗しても繰り返さないようにすればいいんです。取り敢えずは、自分ならこう教わりたいという方法で、やってみるといいです』
それは、医事者として患者に接する際にも役立つ姿勢だと蒼杜は言った。
今朝早く、確定だと栩麗琇那が伝えに来た。期待した琴巳は居なくて、皇太后かと思うような、イズミと言う女が一緒だった。
老の一人だと自称した女の自己紹介は、ルウの民であることを鼻に掛けているようで、とっつきにくかった。が、思いのほか丁寧に頼んできた。日当を別に出すので、数名、成人した者にも、基礎からひと通りの魔術を伝授してくれないかと。
琉志央は確かめていないが、多分、殆ど全ての魔術を会得している。子供に初級魔術だけしか披露できないと思われるのも心外だし、こうなっては一人増えようが二人増えようが同じだった。
だから承諾したが、琉志央は訝しんだ。
『お前ら、おかしくないか。俺に頼むほど、すかすかなのか』
イズミは顔を紅潮させて微かに震えた。どうも怒ってしまったようだ。栩麗琇那は変わらず無表情で、小憎らしいほど平然としていた。
『この異常事態には、ズーク・エストから医事者見習いに転職するような、破天荒な人材が必要だっただけだ』
ズ――と言ったきりイズミは絶句した。琉志央が元魔術師だと知らなかったらしい。しれっと、後で御説明します、などと栩麗琇那がのたまっていた。
メイフェス島に行ったら、経歴は口にしない方が良さそうだ。もとより、大陸でも言わなくなっていたが。
イズミは琉志央にすっかり反感を抱いたようだが、きっちり礼は示して帰って行った。老とやらを務めているだけのことは、あるのだろう。この際、彼女には我慢してもらって、好きに振る舞わせてもらおう。
七の月から半年間、メイフェス・コート暮らしだ。
首都の宮殿近くに、一軒家を用意しておくと栩麗琇那は言っていた。
元々、身の周りは、十三歳から一人暮らしをしていたので何とかなる。
食事は、朝食と夕食は、リィリ共和国の医療所で普段通りに。昼食は宮殿で、琴巳達と。
家族に混じって、理想の食卓を毎日囲める。
琉志央は仰向けになると、鼻で一つ息をついた。気分が、開き直ってきた。
なるようになれ。
魔術だけは、自信があるのだから。
胸中に言い聞かせ、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
六の月三十日の午後七時、佳弥は野茨と集会場に入った。
入口で、受付の者に耶光の招待状を見せる。野茨も、真砂からの物を見せた。
婚の儀は七時半から。
都で婚儀が行われるのは久しぶりだそうだ。このところ、年末年始に大陸で行う者達が圧倒的らしいので。
佳弥の同窓生の中には既に結婚した者が居るが、いずこで挙式したのか知らない。所謂、良家の人で、学舎で六年も机を並べていたものの、付き合いが無かった。結婚したことも人づてに知っただけだ。
耶光は誉れ高き老長の三男だけれど、身分を前面に出そうとしないので、良家の子息だと佳弥は忘れがちだった。
それでも集会場に入ると、集まった人の多さと顔触れで、佳弥は上司の家柄を思い出させられた。
奥に六老が勢揃いしている。一昨日からやっと見なくて済むようになっていた、寄合所の若長も居た。薬処の上役も当然のように全員集まっているし、図書館の面々も大勢。他にも各所の管理職として、佳弥でさえ名と顔を知っている人々がぞろぞろ居る。
野茨と後方の隅の席に座ってから、佳弥は帝を捜した。どうやら、まだのようだ。
「き、緊張する」
両手を握り締めて、佳弥は身をすぼめる。野茨が笑った。
「安心しなさい、貴女の方は見ないから」
「わっ、解ってるもん」
それでも必死に身なりを整えてしまう。
奥には控えの間が二つあり、耶光と真砂がそれぞれに居るのだろう。後方にも厨房や部屋があり、そこから出て来た二人の女性が、青い敷物を携えて奥へと向かった。新郎新婦が誓いの言霊を交わす場所の、設置が始まる。
高い天井から、微かに、ぱたぱたと音がした。
「あー、降ってきちゃったか」
野茨が窓から暗い外を見る。例年、雨季はひと月ほどだ。今年は少し早めに始まり、もうすぐ終わると思われるが、今日は朝から雲行きが悪かった。
「嫌ね、帝が濡れてしまわれるわ」
佳弥は薄く紅を引いてきた口をつぼめる。
「水滴れば、益々いい男になるじゃない」
同じく今日は唇の朱が鮮やかな野茨は、目をとろんとさせた。
七時二十五分になり、立ち話をしていた客達も席に着き始める。佳弥はそわそわと、奥の控え室と集会場の入口とに目を往復させていた。
親族が集まって座っているらしい場所から、老長がすっと立った。年齢を感じさせない足取りで、つかつかと入口へ向かう。
場の空気が変わったのが判った。前方から次々に列席者が席を立つ。佳弥と野茨も慌てて倣った。
「間に合ったかな」
低く美しい音がした。入って来た長身の美青年を、佳弥は瞬きを忘れて見つめた。老長が両手を掲げ、恭しく一礼する。
「このような天候の中、恐悦至極に存じます」
「ウル・ラ・カーが新郎新婦に恵みをくださっていますね」
帝の返答に、佳弥は呟いた。
「鼻血出そう」
「早めに鼻を押さえといた方がいいわよ」
野茨が助言する間に、帝は手にしていた二つの包みを長に向けた。
「お祝いを。わたしと妃からです」
妃と言われたのは自分ではないのに、佳弥はくらくらした。頭に血が上ってきている。
「気絶しそう」
「……可憐に倒れる練習してきた?」
「しておくんだった……っ」
佳弥が本気で応えた時、帝の背後から駆け込んで来た者が居た。丁度、りーん、と半を告げる鈴の音が、集会場に響き渡る。
帝はさり気なく後から来た者へ道を開ける。受付が慌てたように、その青年から招待状を確認していた。先輩、と野茨が小さく洩らす。佳弥は青年を見返して、やっと気づいた。駆け込んで来たのはヌサギだ。
(あ、あんなに帝の近くに……わたしも遅刻寸前で駆け込むんだった……っ)
老長が、どうぞこちらへ、と帝を促す。濡れた髪を撫で上げていたヌサギは、ようやく、間近に居る人物が誰か判ったようだった。
「あっ――うあ、ごっ、御無礼を――」
おたおたと跪きかかるヌサギを手で制して、帝は美声を紡いだ。
「お互い、間に合って良かった」
佳弥は内心で黄色い悲鳴をあげる。姿だけ見て憧れていたが、声といい、台詞といい、益々惚れ込んでしまう。
佳弥がぽうっと帝を眺めているうちに、婚の儀が始まった。和泉老と共に、耶光と真砂が藍色の敷物の上に立つ。
雨音の祝福の中、誓いの言葉が交わされた。
儀は短く、宴は長い。慣習では、天からウル・ラ・カーの色が消えるまで。
宴の準備が始まり、早速、耶光と真砂が恐縮した様子で帝に対している。毎月一日より近い位置から見る青年皇帝の横顔は、六年前と変わらず整っていた。
祝詞を告げられたのか、耶光が深々と頭を下げ、真砂が片膝を折りつつ身を低くする。傍に控える老長は、先程賜った贈り物を大事そうに両手で持っている。
帝は次いで、長夫妻と真砂の両親にも何か言葉をかけた。真砂の父母は拝跪せずに立ったままでいることが恐れ多いのか、縮められるだけ身を縮めているようだった。
主役とその両親に挨拶が済むと、帝は老長に今一度声をかけて入口へ向かった。気づいた者達が礼を施すと、片手を上げて応じ、そのまま静かに集会場を出て行く。
ひたすら目で追っていた佳弥は、感動の溜め息を洩らした。
(素敵過ぎる……!)
両手を胸元に当てて舞い上がる佳弥に、野茨が言った。
「宴、いつまで居させてもらう?」
佳弥は我に返って友を見た。いつから居たのか、野茨の隣にはヌサギが居る。遅刻寸前で飛び込んで来たから、末席のこの場所に滑り込むしかなかったか。
「九時半辺りまでかなぁ」
朝まで飲んで食べて祝うのは、新郎新婦の親戚や、余程親しい友人達だろう。職場の後輩ごときが、居座って無銭飲食に耽るわけにはいくまい。
「このお歴々の中だと、その刻限まででも落ち着かないわねぇ」
野茨は肩をすくめる。だねぇ、とヌサギが生乾きに見える頭に手をやった。あまり年上らしからぬ風情の人だ。
椅子と長い卓が幾つも出され、皆それぞれ席に着いた。一人一人の前に、湯気の上る料理の皿が並べられていく。硝子杯に酒も注がれていく。
茶器用の小皿に、花の形の焼き菓子が一つ乗せられた。色砂糖で絵付けまでされている。
(可愛い――婚の儀となると、色々と手が込んでるなぁ)
口をほころばせる佳弥の目の端に、老長が杯を手に立ち上がるのが映った。一同も杯を掲げる。
「この日に祝杯を」
全員、近くの者と杯の縁を合わせる。
硝子の触れ合う音が満ち、談笑と共に食事が始まる寸前、老長が告げた。
「こちらの小皿の一品は、先程、琴巳様より賜った品。とく、御賞味あれ」
佳弥は息を呑んだ。
野茨が喜々として言う。
「もしかして、お手製?」
ヌサギが、多分ね、と応じる。
「皇妃は料理がお好きらしい。だから、帝は後宮に、調理人も入れておられないそうだよ」
「わぁお。誰かに見せびらかしたい。持って帰ろうかな」
はしゃぐ野茨の横で、佳弥はしおしおと息をつく。
料理は苦手だ。母が得意な分、任せきりだった。
目の前の焼き菓子が、ひしひしと差を突き付けてくる。その愛らしく丁寧な出来栄えから、皇妃の人柄も垣間見える。
ルウ三大家当主の伴侶は、主を支え、後継ぎを生し、育むのが役割だ。皇領及びメイフェス統治における、皇族としての公務は無い。
皇妃はただ後宮で遊んで暮らす人という、見下すような意識が佳弥にはあった。
実際には、皇妃は毎日、帝と皇子にまめまめしく食事を作っていたのか。
失恋があまりにも早過ぎて、佳弥は実感していなかったのかもしれない。
初めて、青い己と、叶わない恋に心が痛んだ。