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佳弥は自宅に駆け込むと、台所で梃子を夢中で押した。
迸る冷たい水を掌に受け、叩きつけるように顔に当てる。
泣きたくないのに、嗚咽が洩れた。
解っていた。はっきり、解っていた。彼は誰でも良かった。本人が明言していたのだから。
そんな男性に、なんて浅はかに、身を委ねてしまったのか。
物慣れていて、ルシオウは最後の最後で避妊した。佳弥は頭の隅にも無かったことだったから、助かったと言える。だが、彼は別に佳弥の身体を慮ったのではないだろう。己の子を身籠られるのが嫌だったからに違いない。
自分は本当にただ、捌け口だったのだ。
『警備役の処遇がはっきりするまで、短距離でも油断するな。瞬間移動で帰宅しとけ』
六老館を辞去し、別れ際、あの落ち着いた低声に言われれば、諾々と。
会いたい気持ちを夜毎、宥めすかして。
今日、上司達が公示板に貼り出された帝の裁きについて話していて、ようやく徒歩で帰宅できると思って。
淡い期待を胸に、帰路に大通りを選んで。
幸運にも見留めた目立つ夜色の髪。数日ぶりに目にすれば、薄曇りの空の下、しっとりと艶めいていて、見惚れてしまった。
あの明け方に幾度も熱く見つめてくれた菫色の瞳に、吸い寄せられかけて――
逸らされるとは思いもしなかった。
流しに手をかけたまま、佳弥は咽びながら崩れ落ちた。
あの日、ルシオウは左の脇腹辺りに酷く痣が出来ていて、痣のある者同士だと思うだけでも、狂おしいほど幸福だった。甘い囁きの一つも無かったのに、肌をなぞられた記憶を辿れば、破瓜の強烈な痛みさえ忘れてしまえた。
何を勘違いしていたのか。
他の女性にする代わりに、佳弥にそうしただけだったのに。
好かれていると判っていながら花街へ行くなどと言い出したのは、そう聞かされれば佳弥なら応じると踏んだのか。
声を殺して涙をこぼし、自問に首を振る。違うと思いたかった。
ルシオウは、互いに想っていなければ嫌だという訴えに納得して、半ば佳弥の為に、花街行きを決めたように見えた。だから余計に、独占欲を煽られてしまった。
結果的に、ルシオウにとっての佳弥は、花街で身をひさぐ女性達と同等になってしまった。その場凌ぎに抱けば、もはや、関心が無いのだろう。
こんな立場となっても募る想いを、どうすればいい――
父は疲れ切れば大いびきをかくのに、あの夜、ルシオウはすぅすぅと大人しく寝息をたてた。何処となく隙の無いしなやかさで寝返りを打つから、本当に眠っているのかと思うほど。けれど、こちらを向いた寝顔が気を許している事実を知らせてきて、たまらなく愛しかった。
半裸で薄い上掛けをおざなりに引っ掛けただけで横たわられて、気にするなと言われても無理で。彼の長衣にくるまれている状況で眠れる筈も無く。恋人の真似事に憧れて指先だけ手を繋いだ。
どうも異性として見られていないらしいと、落ち込んだのに。夜が明けたら蕩けるような眼差しを向けてきて、抱きたいと言われた時は、夢かと思った。
望外の幸せを感じただけで、満足しておけば良かった。
最初を好きな人に捧げられたとはいえ、愛し合って結ばれたわけではない。顔に痣があった所為なのか、唇への口づけは遂に無かった。
それでも、自分だけが、益々虜にされて。
眼薬作りだけ、早くも一人前になりそうだった。
九の月二週の最終日、定時が過ぎ、薬草園から公園の小道を通りへ向かっている所で、野茨が姿を見せた。
とうとう今月に入ってからヌサギと正式に付き合うようになり、野茨はこの頃、髪型が凝っている。今日は綺麗に編み込んで、飾り紐を絡めていた。箔瑪と付き合っていた頃より、友人は日毎、可愛くなっていく。
たまたま横切ったのではないようで、野茨はこちらを窺い見て手を上げた。
「ね、明日のお昼に藍つつじ、買いに行かない?」
(あぁ、もうすぐイー・ウー祭)
数年前から恋する乙女が張り切る日だ。佳弥はちょっと笑む。
「うん。探すの手伝う」
「佳弥も買って、一緒にお団子作りましょ。今年は、月区から入荷してる店もあるらしいのよ」
野茨は覗き込むようにこちらを見て、軽く拳を握って言った。やけに気合が入っている。「大量に練り込んで、他の子より青くして勝負よ」
「勝負って――ヌサギさんから、婚の儀を前提にって申し込まれたんでしょう?」
相手の気持ちは定まっているのに、今更、誰と争奪戦をする気か。
わけが解らない佳弥を、わたしじゃなくて、と野茨は肘でつついてきた。
「担当、この機会に落としちゃいなさいよ」
「……あー、やー……」
胸が詰まって、佳弥は地面に目を落とす。
野茨には、警備役による拉致と襲撃があった件を大まかにしか話せていなかった。ルシオウに助けてもらえて、捕まえた六人を一緒に六老館へ連れて行ったことだけ。
友は、自分が発端で巻き込んだと罪悪感をいだいてしまったようだった。だからか、せめて、佳弥の恋を実らせたいらしい。助けてくれたってことは、まだ脈あるんじゃない? と言っていたのだ。
抱かれた後、見向きもされなくなったとは、到底、口に出来ない。口ごもる佳弥の隣で、野茨は我が事のように鼻息荒く言った。
「九の月に入ってから、落ち着かないのよ。ウチの後輩達がしょっちゅう担当の話題を出すし。先輩の中でも狙ってる人が居るみたいだし」
「そうなんだ……」
心が騒ぐ。けれど、もう何度、浅慮に行動した挙句、後悔していることか。
「今まで〝いい男〟って言われてたのに、このところ、〝いい夫〟に変化してるし」
「な、何それ」
「魔術教官にしては子供好きらしいって評価は、前から出てたでしょ」
「ん、〝学舎近景〟に」
そもそも魔術というのは殺伐としており、歴代の魔術教官と言えば、陰気だったり、子供を寄せ付けない冷たい雰囲気を持っている人物が多かった。
故に代々、幼子の相手ながら、五歳担当にもその手の対応を期待されることはなかった。しかし、できれば子供好きの方が望ましいに決まっている。生徒と良好な関係を築いているルシオウは、理想的な教官だろう。
「ちょっと前に、噴水広場で小さい子の相手を楽しそうにしてたらしくて。担当と子供とその母親と、やたら睦まじい家族に見えたんですって」
「――そう、なんだ」
胸が痛んできた。
子供が好きなのに避妊したのは、佳弥との子は嫌だということもあったのだろうか。
「混血で子供は緑の瞳になるだろうけど、それも悪くないって言い出してるコも居るから、油断ならないわ。佳弥、こうなったら担当の胃袋を掴むのよ」
「……わたし、自炊始めてたった一ヵ月よ」
「そこは愛情という隠し味にモノを言わせるの」
野茨は両手を拳にして息巻いた。「大丈夫、もう佳弥ったら担当にすっ転んでから、みょーな色気も出てきてるし」
(みょー、って……微妙……? 色気未満? それで夜じゃなくて朝で、一度で捨てられたのかな……)
明日の約束をしたものの、佳弥は人知れず溜め息をついた。
◆ ◆ ◆
昼休み、琉志央が燕と後宮に入ると、食堂への暖簾を分けかけていた栩麗琇那が、こちらを見て微かに眉を上げた。
「会得したのか」
「やり方が載っていたヤツは」
手にした術書にちらりと目をやって、琉志央は首肯する。早いな、と短く感想を述べて栩麗琇那は暖簾をくぐっていった。
ルウの民が編み出した魔術は四種あった。通称〝領結界〟なる人避けの結界、魂消し、鐘結界、空間封じの刻印。全て光範囲の術で、後者二つは術式が載っていたから試してみたら、できるようになった。
洗面所で手洗いうがいをし、燕と食堂へ入る。今日も香ばしい匂いがした。
本日の昼食はニクジャガ、白飯、昆布の煮しめ、大根の漬物、卵とじの吸い物、緑茶。蒼杜と料理を被らないようにする為か、異界の品が結構よく出て来る。
ニクジャガは、かなり気に入っていた。教官の仕事が終わったら作り方を教わって、蒼杜に作ってもらうか自分で作るかしようと思っている。
燕と一緒に白飯とニクジャガのおかわりを少しずつ頼むと、琴巳が嬉しそうに空の器を持って厨房へ行く。
白い命帯を淡く視認して目を細めていると、栩麗琇那が茶を飲んでから言った。
「刻印はともかく、鐘は割と難しい筈なんだけど」
「あぁ。そっちは一週間もかかったぞ」
「それは、かかった内に入らない」
そか、と小首を傾げてから、戻って来た琴巳から茶碗と器を受け取る。
琴巳は自分の茶碗を手にしながら、えくぼを浮かべて言った。
「琉志央、魔術は本当に得意ね。その調子よ、きっと命帯も元通りに見れるわ」
箸を手にして琉志央は口の端を上げる。
「ま、少しずつ戻っているからな」
完全に見えなくなっていたら自棄を起こしていたかもしれないが、少しでも見えていたので修練を続ける気になれた。あれから三週間以上経過して、徐々にはっきりしてきている。
「イー・ウー祭のお団子に使う藍つつじってね、碧界のぶるーべりーって言うのに似てるの。ぶるーべりーは目にいいのよ。ひょっとしたら、藍つつじもそうかもしれないわ」
「ほぅ」
つまり、薬効があるかもしれないのか。
「僕、あのお団子、好き」
おかわりした分も平らげて燕が笑む。琴巳が同じような笑顔になった。
「今年は藍つつじ、メイフェスでも買えそうなのよ。いっぱい作るわね」
栩麗琇那が本当に僅か、複雑そうな顔になって湯呑を傾ける。甘ったるい団子でも想像したのか。
今年は甘くないのも作るらしいと教えてやろうかと思ったが、琉志央は目の前のほっくりした馬鈴薯を味わうことにした。
昼食を終えて宮殿を後にした琉志央は、図書館に術書を返却してから、ぶらりと市場に足を向けた。
何となく、藍つつじを探す。
あれは大陸だと北方が主な産地だから、中央のリィリ共和国にはそれほど流通しない。
蒼杜への土産に買ってみようかと浮かんでいた。
あの師なら、薬に使わなくても、何か美味い物を拵えるかもしれない。
目にいいなら、そのまま食べるのもいいだろう。ひょっとしたら、命帯が又少し見えるようになるかもしれない。気休めでも、不味い物ではないし……
果実を扱う店が集まった辺りは、やけに若い女の客が多かった。ほぼ頭一つ高い状況で、人波をぬう。毛色が目立つものだから、ちらちらと振り返られたり見上げられたりした。
店先には、並ぶ果物の香に複数の香水が混じって、珍妙な臭いが漂っていた。
あった、と思えば葡萄という見間違いを繰り返す。買えそう、と琴巳は言ったが、品薄のようだ。
五店目くらいで、奥にひっそりとぶら下がった〝藍つつじあります〟という札を見つけた。
値段を尋ねたら、百オウスで銅貨一。高いな、と感じたけれど、こうも品物が無いとなれば妥当か。
三百オウス注文し、店員が量っている間、何気なく目を投げた。
濃淡こそあれ茶色い頭ばかりが行き交う中、数軒先に赤味がかった茶髪を見つけた。ふわふわの癖っ毛。
今日は戸惑いでなく、ささやかな懐かしさが湧いた。
隣にノイバラも居て、二人で店先を覗き込んでいる。
声をかけようか迷った。用は無いから、何を言えばいいか判らない。
琉志央は首の後ろをさする。佳弥とは六老館前で別れたきり話していない。
未だに惚れてくれているのか、皆目自信が無かった。
最終的に抱けと言ったのは佳弥だったけれど、単に花街へ行かせたくなかったから思わず口走っただけのような気もしている。
娼婦ならとうに嬌声をあげている段に、佳弥は歯を食い縛っていた。後になって、男と交わるのは初めてだったと知らされた。
避妊もぎりぎり間に合ったし、女の嫌がることはしなかったつもりだ。とはいえ、今まで処女を抱いたことはなかったから、何か、拙いことをしでかした可能性は否めない。
もはや色々〝もういい〟と思われている確率の方が高くないか。
三百オウスね、と店員が秤を向けて確認してくる。佳弥から目を外すと、琉志央は黙然と頷く。紙袋に移される黒っぽい実を眺めながら、結構凹んでいる自分に気づいた。
(惚れた女も惚れてきた女も、逃がしてたらなぁ……)
うつむきがちに財布を取り出していると、あるよ藍つつじ、と男の声が上擦って聞こえてきた。
店員の手に銅貨を三枚落として目を流せば、佳弥達が居る店に、喜声と共に女が集まっていく。
(何だ、一体。この辺の女、みんな藍つつじ目当てなのか?)
面食らう先で、笊に盛った実を掲げて、若い男が女達に紅潮した顔で言った。
「是非是非、これで俺に団子作ってよ」
いいわよ、と明るく応じる女が居て、周りに笑声が起こる。
ノイバラも眦を下げて、佳弥もちょっとだけ唇をほころばせた。
琉志央は紙袋を受け取り、無意識に胸をさする。
(あいつの笑った顔、あんまり見たことなかったな)
むくれるかムキになるか――慌てているか困っているか……泣いているか、で。
笑うとああも可愛いとは、知らなかった。