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佳弥はしゃくり上げながら、ルシオウ宅で寝台脇の椅子に腰かけていた。
涙を止めたいのに、止まらない。
家の主は五歳教室の担当室に行っている。まだ、怪我がそのままだ。
集合墓地の水場で端切れを湿らせ、墓石掃除用の桶に水を汲んで戻ったら、ルシオウが草地にぐったりと座り込んでいた。
心ノ臓が止まりそうなほど驚いて、思わず飛び付いてしまった。
『ヤだ――死んじゃヤだぁっ』
泣き喚いたら、ルシオウは鬱陶しそうに肩を押しやってきた。
『勝手に殺すな。こんなもんで死んでたら何度死んでるか判らん』
『だって、だって血がいっぱい出てる――』
押し殺すような溜め息をついてルシオウは立ち上がり、端切れを取るとぐいぐい額を拭いてきた。佳弥は慌てて目を擦り、わたしがやる、と役目を引き継いだ。
気持ち悪かったが警備役の額から血を拭い去って、一人済む都度、いいと言うまで寝てろ、とルシオウが暗示をかけていった。術戦中にかけた一人については、あれは三日後くらいまで寝たままだ、と言っていた。
暗示をかけ終えると縄を持って来て、ルシオウは六人を一括りに縛り上げた。そうして一旦、全員纏めて彼の家に移動した。
『一晩、担当室に転がしておく。お前は適当に座ってろ』
そう言って、ルシオウは六人を連れて消えた。
(腕、あんなにぱっくり切れてるのに。脇腹も血が出てるのに)
野茨の時同様に、佳弥は何もできていない。
薬師見習いなのに。調合も始めているのに。
むざむざ捕まって、利用されて。
気づいた時には激しい術戦が始まっていて、いつの間にか掌が綺麗に治っていて、左手に指輪が嵌まっていた。
焦がれた姿が、月光のような青銀色の結界を纏い、告白紛いをする前と変わらぬ口振りで話しかけてくれた。
『お前、一つ貸しだぞ』
きっと、一つどころじゃない。
簾のかかった窓辺で虫除けの香が焚かれている。警備役と術戦なんて考えもせずに、多分、彼はもう寝ようとしていた。一日を終えて、疲れていただろうに。
己の不甲斐なさと申し訳なさが、涙に変わって溢れて、止まらない。
けれどルシオウが戻ってきた時、佳弥が泣いていたら又、呆れた顔をするに違いない。
佳弥は鼻を啜って必死に涙を止めていたが、間に合わなかった。ふっと人影が湧く。
ルシオウが、誰かを支えるようにして立っていた。こちらを見ると目を眇める。
「リィリに行くぞ、鼻水もちゃんと拭けー」
恥ずかしさに又も目が熱くなったが、佳弥は小駕籠にかけていた布巾で鼻をかむ。
すんすん云わせて駆け寄ると、ルシオウは肩に手をかけ、行くぞ、と告げてくる。視界が暗転した。
ひと月ぶりの共和国の森は、蝉が合唱していた。昼へ向かう時刻で暑い。
大陸で大っぴらに念動術を使うわけにいかないからか、顔と頭に酷く傷を負った警備役をずるずると引きずって、ルシオウは歩き始める。
「わたし、抱えるから」
男の両脇に手を挟み入れると、悪いな、とルシオウは足の方を左の小脇に抱え込んだ。右腕に力が入らなくなっているようだ。佳弥は下唇を噛んで涙腺の決壊を押しとどめる。
すぐに見えてきた医療所の扉が、丁度良く開いた。佳弥は顔がほころんだが、それも一瞬のことだった。
出て来た同い年ほどの女性が、こっちを見るなり、お弟子様っ、と悲鳴をあげた。
「どうしたんですか、酷い怪我っ――まぁ、こちらの方もっ」
警備役にも気遣わしげな顔を向けてから、蒼杜様ーっ、と女性は医療所に駆け戻る。
開いた扉へルシオウはそのまま踏み込み、迎え出たハイ・エストに、こいつ治して、と男を示した。
ハイ・エストは、そちらへ、と右手の部屋を指す。ルシオウと佳弥が運ぶ間に、稀代の医術師の穏やかな声が古語を唱えた。ぱっと輝いた両手を弟子の右腕に翳せば、大きな傷がみるみる消える。
声も無くほっとした佳弥の脇で、ついて来ていた女性が、良かった、としみじみ代弁する。
「残りは後ほど」
ハイ・エストは短く言うと、部屋の寝台に寝かせた警備役の顔へ光る手を翳し始めた。あぁ、とルシオウは傷の消えた右腕をさすり、軽く動かした。
「湯を持ってくる」
「お手伝いします」
女性がすぐ申し出ると、ルシオウは肩越しに振り返って、平気だ、と片手を上げた。つとこちらに菫色の瞳が向く。佳弥は胸がきゅっとした。
「お前、あっちで座ってろ」
女性が、今度はこちらを気の毒そうに見た。佳弥はようやく、自分の顔に痣が出来ている可能性に気づいた。綺麗な女性の白い顔と、そんな自分の顔が並んでいた事実に顔が熱くなる。
うつむいて、佳弥はそそくさと円卓の隅で壁の方を向いて座った。顔のあちこちを掌で懸命に拭う。左頬と額に触れかかると鈍く痛んだ。今どんな状態になっているのかと、居たたまれない心地になる。
ぽーん、と暖炉上の時計が時を告げた。十一時半。
右手の部屋を窺っていた女性が、いけない、と口走った。厨房の方から桶を片手に出て来たルシオウを見上げ、彼女は早口に言った。
「わたし、もう行かないと。お弟子様、お会いできて良かったです。又、村に来てくださいね。皆も会いたがってますから」
ちょっとだけ面食らったような顔をしたが、ルシオウはゆるりと笑んだ。
「まぁ、落ち着いたら。宜しく言っといてくれ」
はい、と女性は嬉しそうに頬を染めると、それでは又、とハイ・エストにも声をかけ、佳弥にも、お大事に、とそっと告げて医療所を出て行った。
(落ち着いたら、って、来年……?)
部屋に行く後ろ姿を目で追いながら、切なくなる。ルシオウは、このリィリへ戻る。佳弥がメイフェスで遠くから見ていられるのは、後四ヵ月しかない。
(落ち着いたら、いずれ、今みたいな女性と……)
しゅんとする先で、師弟の話声がした。
「中身、無事かな」
「命帯は無事ですが、精神状態までは判りません。意識が戻ってからでないと、どうとも」
「……まともに当てちまったんだ」
「貴男にしては珍しい。ですが、やむない事態だったのでしょう。先日の加害者と繋がっていそうですね」
「まぁ、計六人」
〈一人で相手取ったのか〉
呆れと感嘆を含んだ精霊の声が割り込む。
「俺一人で片づけられるものか。佳弥にも手伝わせた」
〈挙句、そのかんばせに傷を負わせる辺りが、まだまだ青二才ということか〉
「相も変わらずうるさい氷だな」
ぶすっとしたような声音に続いて、師の声が納得したように言った。
「それだけの数を相手にしては、癒しができなくなるわけです」
「――その所為なのか」
勢い込んだ口調でルシオウが声量を上げた。「命帯もちょっとしか見えなくなっちまってる」
「一度に強い闇範囲の術を多用した所為でしょう」
「もう見れないのか……?」
「大丈夫ですよ、貴男の素質は一級です。修練すれば又見れますし、癒しもできるようになります」
「……一から……?」
「それほどではないかと。既にコツを会得していますし、今も見えているのでしょう? これまでのように修練しながら過ごしていれば、元の水準に戻ります」
はぁあ、と気の抜けた声が洩れ聞こえた。
「あー、風呂入って寝てぇ」
〈又、風呂か〉
「文句あるか」
「入ったまま寝ないでくださいね」
「それいいな。気持ち良さそうじゃないか」
〈溺死するつもりか……愚かな〉
「うるさいな」
精霊と弟子が言い合う声を背に、ハイ・エストが桶を持って部屋から出て来た。
こちらを見て僅かに顔を傾げ、医術師は柔らかく微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ、彼も貴女も」
泣きそうになりつつも佳弥は顎を引く。
弟子も姿を見せた。術戦でぼろぼろになった白藍の短衣の、胸元がはだけている。喋りながら脇腹付近の治療もしていたのだろう。
(ハイ・エストが大丈夫って言ったし、もう何処も怪我してないといいな……)
近くで円卓に寄りかかると、ルシオウは留め具を掛けず、適当に前を合わせて帯を締め直し始める。ドキドキしてきて、佳弥はハイ・エストに目を移した。
癒し術は外傷しか完全に治せない。命帯で判断したのか、ハイ・エストは右手の更に奥の部屋へ入って行き、小さな壺を持って戻って来た。
「先日と同じ軟膏です。貴女の痣は野茨ほど酷くないので明日には消えると思いますが、額のモノは術力で出来たようなので塗っておいてください。頬もできれば塗るといいです」
はい、と佳弥は受け取る。野茨の治療をした時にも佳弥が大半を塗ったので、やりようを覚えている。帰ってから鏡を見て行えばいい。
診断書を作りますね、とハイ・エストは階段傍の書棚の方へ行く。
不意に、ひょいと壺を取り上げられた。ルシオウが壺の蓋を開けている。
「じっとしてろ」
狼狽するうちに、ひんやりとする薬の乗った指先が額に触れかかった。佳弥はきゅっと目をつぶると下を向く。
薬はひやりとしても、一瞬の後には薬以外のモノの所為で熱くなる。
念入りに、ひたひたと指の腹が額を撫でる。佳弥は、鼓動の音が室内中に響き渡っている気がしてきた。
この調子で頬もなぞられたら心ノ臓がもたない。
指が一旦離れ、佳弥は目をつぶったまま両手を前に突き出した。
「も、も、いい。ありがと」
「けど、頬も結構凄いぞ」
「じっ、自分でできるもん」
「あぁ……そういや、そうだな」
かぽんと壺に蓋をする音がして、佳弥は怖々瞼を上げる。ルシオウは壺を卓に置いたところだった。首の後ろをさすって、診断書を作成している師に顔を向ける。
横顔をちらっと見てから、佳弥は目を落とした。
(散々迷惑かけておいて、わたしってば、もう少し言い方無かったのかな……余計なお世話みたいな言い方だったかも……)
その後、ハイ・エストが診断書を書き終わるまで皆一言も発しなかった。
師が羽根筆を置くと、ルシオウが、七時頃に飯の時間を遅らせてくれ、と頼んでいた。
診断書はひとまず佳弥が預かり、ルシオウが警備役を右肩に担いで、三人は夜更けのメイフェス島へ戻った。
瞬間移動で現れたのは見慣れない部屋だったが、ルシオウの手明かりで、並んで眠る五人の警備役が浮かび上がった。五歳教室の担当室だろう。
頭部を治療した一人も列に加えてから、ルシオウと佳弥だけ、もはや何度目になるのかという瞬間移動をする。
降り立った部屋には、まだゆらりと虫除け香の白煙が揺れていた。
複数で移動する際は、指輪の持ち主が周りの分まで五割ほどの体力を肩代わりする。その点をとっても、魔術教官はかなり疲れている筈だった。
「お疲れさま、でした」
おずおず言って、佳弥は診断書を差し出す。
「あぁ、お前も、お疲れ」
闇の中でその落ち着いた低声を聞いた途端、安堵がどっと押し寄せた。診断書が手から離れるや膝が笑い出し、立っていられなかった。
崩れかかると肘から脇を支えられた。思わずしがみ付いた頭上で、小さく溜め息が洩らされる。
「お前、もう泊まってけ。どうせ朝一で、その痣見せに六老館へ行かなきゃいけないし」
「う……はい」
(最後の最後まで、迷惑かけっ放し……)
肩を借りて椅子に座り込むと、佳弥は項垂れた。
◆ ◆ ◆
違和感で、琉志央は何となく目が覚めた。
外は薄明るくなりつつあるようだ。簾のかかった室内も、物が判別できるくらいにはなっている。
違和感の正体は、手に触れる温もりだった。乳白色の細い指先が引っ掛かっている。師に似て、爪が短い。仄かなその桃色を寝惚け眼でしばし見て、あぁ、と思い出した。
(泊めたんだった)
風呂の順を佳弥に譲ったから、その間に担当室から寝台を運んで来れば良かったのだが、椅子の背にもたれて茫として、失念していた。
その時は、一刻も早く、身体から血の臭いを消したかったのだ。
やっと湯を浴び、さっぱりしたら猛烈に眠気が襲って来た。手早く髪を乾かし真っ直ぐ二階に戻れば、佳弥が所在なさげに椅子の端に腰かけていて、そこでようやく寝台が一つだったことに思い至った。
もはや移動も手配するのも億劫だった。そう小さい寝台でもなかったから、気にせず使え、と隅で横になり、佳弥に背を向けてしまえば、すとんと眠りに落ちた。
目覚めれば、知らぬ間に近く向き合っている。
眠りから覚めた時に誰かが添うて寝ているなんて、初めてだった。不可思議な感覚に包まれ、琉志央はぼんやりと隣を眺める。
女に慕われるというのも、初めてだったのだが。
(こいつもう、冷めちまってんのかな……)
師の守護精霊に、女に傷を負わせたと指摘されたのが、妙に痛かった。その女が、自分に惚れていたらしいから、尚。
リィリの昼の光の中だと、痣は酷く見えた。
癒しができなくなっているし、命帯もおぼろにしか見えなくなっているし、医事者見習いとしては、薬を塗るぐらいしかできなかったのだけれど。
もういいと言われては、どうしようもない。
長衣を寝間着代わりに纏った佳弥は、琉志央の手元で、えらく丸まって横になっていた。手で隠れて、顔が殆ど見えない。茶色の癖っ毛からのぞく耳が朱で、つと目を眇めた。
触れていた指先をするりとなぞると、びくりと丸い身が震える。
いささか内がざわめいた。
「よぅ、早起きだな」
声をかけると、そうっと耳と同じ色の顔がこちらを向いた。痣は痛々しく残っており、鳶色の瞳は赤っぽく潤んでいた。「お前、寝たのか……?」
小さく首を振られて、琉志央は驚くと同時に疼きが走った。
「何の為に泊めたか、判らないじゃないか」
肘の分だけ身を起こして卓上の時計を見ると、四時過ぎだった。「起こしてやるから、六時くらいまで寝ろよ」
琉志央が起き出そうとすると、焦ったように佳弥は腕に触れかかってから、おたおたと手を浮かせた。
「気にしないで。ルシオ、こそ、もっと、寝てて」
動きは例の如く子供染みているし変な片言なのに、琉志央は何やら身体が熱くなってくる。
それほど飢える性質でもなかったし、琴巳に惚れて以来、他で満たすこともなく過ごしてきたのだが。
佳弥に貸した琉志央の長衣はぶかぶかで、袖の付け根が二の腕辺りにきている。随分と小柄に見えた。確か、普通の女の体型だった筈だのに。
(なんか……脱がせて、確かめたい)
「なぁ……」
ふわふわした髪に指を入れ、耳朶を撫でれば滑らかに柔らかい。「寝る気が無いなら、抱きたいんだけど」
「――へ」
ぽかんとした佳弥の肩をポンと押して、琉志央は敷布に倒した。
「この際、お前も俺を抱けよ」
言いながら、女の纏う長衣の留め具に手をかけたが、果たしてこの場合は金を払うのかとよぎる。
と、佳弥が平手を振り上げた。反射的に受け止め、敷布に押し付ける。むっとした。
「下手に攻撃してくんな。しばらく余計な闇魔術、使いたくない」
佳弥は真っ赤な顔を泣きそうにした。
「こっ、こんなのヤだぁ」
「こんなって、どんな」
「きゅ、急だもん――っ」
「急に抱きたくなったんだ、しょうがないだろ」
「自分だけさっさと寝ちゃって――今頃、酷いっ」
「……夜中は良かったのかよ。つーか、お前、昨夜の状況で? どんだけ元気なんだ」
「違っ――緊張し過ぎて眠れなかっただけだしっ」
(面倒臭い奴だな)
琉志央は佳弥の手を放すと、身をずらした。燻ぶる熱を持て余して、頭を掻く。
「お前、まだ俺に惚れてそうじゃんか」
慌てたように半身を起こした佳弥は、赤い顔のままで敷布の一点を見つめる。
間の後、掠れた小声が応えた。
「琉志央がいい」
胸が高鳴った。こちらも声が掠れそうになる。
「じゃ、何なんだ、この生殺し」
「だ、だって、ルシオ、は、わたしを、好きなの……?」
濡れた鳶色の瞳に見据えられ、ちょっと答に詰まった。
「嫌いではない」
正直に告げてから、合点する。「あぁ……そういうことか」
例えば琴巳は別世界から追って来たほどあの無表情に惚れ込んでいるわけだが、栩麗琇那の奴が気も無いくせにただ彼女を抱いたと知ったら琉志央は憤慨する。
後継ぎを産ませる為だけだったとしても腹立たしい。あの二人は一緒になりたいが為に子を生したから、こちらも諦めがついている。
目の前の女でも同じことだ。
娼婦以外の女という点でも佳弥には興味があったのだが、こうなると金では割り切れまい。
「ん、解った」
琉志央は寝台を降りる。「六時頃に起こしてやるから、お前、寝とけ」
「――琉志央、もう、寝ないの……?」
「花街行ってくる」
「え」
「時間までには戻るから安心して寝てろ」
ひと風呂浴びて出かけたいところだが、帰ってからにするか。
箪笥を開けつつ考えていたら、ヤだ――! と佳弥が叫ぶように言った。
「ほっ、他の女の人のとこなんて、行っちゃ嫌っ。酷い、ルシオー、酷いっ」
だぶつく袖口と裾をもたつかせながら、半泣きの状態で佳弥は寝台の端までにじり寄って来る。一瞥して、琉志央は己が髪を手櫛で梳いた。
「しょうがないだろ、お前のこと、滅茶苦茶惚れてるんでもないんだから。でもなんか今、俺は女を抱きたいんだよ」
「わ、わたしを抱きたいって言ったじゃないっ」
「言ったけども――」
「も、わ、わたしにして――他の人となんて、ヤ」
口を曲げて見やれば、首元まで染まった佳弥は縋るような目で見上げてくる。
(どうなってんだ、こいつ。ころころ言うこと変わるな)
しかしながら、そもそも抱きたかったのは、この色づいた女で。
やっぱりやめると言い出される前に、琉志央は暁光に艶めく花を押し倒した。