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八の月も残り十日となった。
徐々に朝晩は涼しくなってきているが、五科の時間帯は相変わらず暑い。
三時を告げる鐘が遠く響き、琉志央は水の紋を描き終えると手を下ろした。一緒に描いていた子供達も、ぱたぱたと腕を落とす。
胡坐を解いて立ち上がり、琉志央は一方に目を流した。二十分ほど前から、微動だにせず、遠巻きにこちらを見ている男が居る。
三十代前半に見えたが、子供の親でも無さそうだ。ルウの民は、どうも概ね若作りの傾向がある。実際は四十路辺りかもしれない。茶鼠のごく短い髪で、佇まいからも精悍さが窺える。
亜麻色に強く輝く命帯を纏い、琉志央より術力がありそうだ。栩麗琇那や燕ほどではないが、珍しく、ルウの民らしいと言えた。
一つ心当たりがあったので、軽く手招く。男がほんの少し意外そうな顔を見せるのを目の端に映しつつ、琉志央は子供達にここ数日させていることを告げた。
「今日は、こっちに向かって来るアレに施してみろ」
幼子達は座ったまま、一斉に男を見て、そろりと指を上げた。するすると風の紋を描き始める。男は一瞬だけ表情を固めたが、何の術かすぐに判ったらしく薄い唇をちょっと曲げた。
タイディ、と子供の高い声が次々に古語を唱えた。ぱぱぱっと、成功を示す眩い光が指先から迸る。
「動いてる相手に施せるなら、なかなかだぞ。じゃ、今日は終いだ」
やったぁ、と歓声をあげる子供が居る。仲間と笑い合ったり、満足そうに帰り支度を始める者。今日も反応は様々だ。
家の手伝いがあるようで一足早く頼里が帰り、又ね、と星花も去った。残った燕は琉志央の隣に駆け寄ると、歩み来た男を見上げる。
男は恭しく、両手を重ねると額に掲げた。
「お見事でした、皇子」
「ありがとう、ございます」
恐る恐るという態で燕は応じる。男は細い砂色の目を更に細めて笑んだ。両手を下ろすと、こちらを見る。
「教官もお見事ですな」
強者からの世辞は気味が悪い。琉志央は尋ねた。
「栩麗琇那から言伝でも?」
皇帝の名に眉が動いたが、いえ、と男は頭を振る。
「申し遅れました、わたしは皇領アル地区にて主管補佐を拝命しております」
半ば以上、燕に向けて男は言った。やはりか、と琉志央が思う間に、お役目御苦労さまです、と型通りの台詞を皇子が口にする。五歳で言えるのだから、褒めるべきか。主管補佐は嬉しそうに微笑した。
「皇子を見学に来たわけ?」
腰の引けている燕の頭をくしゃりと撫でて、琉志央は問を重ねる。主管補佐は再度、いえ、と言った。
「教官の見学です」
「俺かよ」
ぼやくように呟けば、下方で燕がくすくす笑った。
「教官の魔術技能は未熟だと申す者が居るので、この目で確かめに参った次第」
主管補佐がそう言い直すと、燕がきょとんとした顔になった。
「担当は全然、未熟じゃないです」
「そのようで。見抜けぬ側が未熟を露呈しただけですな」
厚い肩をすくめ、主管補佐は口の端を上げた。「これより帝に御報告に上がります。宮まで御一緒しても? 皇子」
「はい。どうぞ――みんなで帰ろう」
燕があどけなく笑みをこぼした。ほっとしたようにこちらを見上げ、ててっと歩き出す。
三人で宮殿へと向かいながら、琉志央は首を傾げた。
「拙いと評価されるよりはいいんだが……ちょっと見ただけで判るものか?」
ルウの民は命帯を見られないから、相手の力量も判断がつかないだろうに。
「教官は随分早く、わたしにお気づきでした。そもそもあれだけ距離があって気づく者は、あまり居ませんな」
「けど、隠れてなかったし」
「……一応、潜んでいましたが」
「あれ、そうなのか。なんか、気づいてしまったな」
「まぁ、そういうところが先ず非凡ですな、教官は。それと、二ヵ月しないうちに生徒が漏れなく、印を施せるようになっているとは驚きました。術力制御の叶わぬ者にはできぬこと。今年の五歳児達は見事な安定ぶりだ。魔術低迷に喘いで久しい我々には、ありがたいことです」
今度は素直に喜べた。そか、と琉志央は口角を上げる。
主管補佐は、苦笑気味に言った。
「正直、警備役にも一から教授してほしいですな。学舎に立ち寄る前に連中の実技も見ましたが、今一つ粗削りで、即に警備を任せられそうにない」
「そういや、警備役を大陸に引き取りに来ているんだったか」
「さよう。人員をいただけるという話で喜び勇んで帰島したというのに、ぬか喜びとは、このことですな」
「ふむ」
「連中は、皇領統治こそルウの民の誉れであるのに、解っていないようでして」
うんざりしたように主管補佐は語った。「〝大陸人に魔術教官が務まるような都を、我等が警護するには値しない〟とか〝今後、都程度の警備は大陸人にさせれば良い〟といったことを吹聴していたそうですが、いざ隊長に質してみれば、皇領勤務を願っての発言ではないと堂々と言ってきました」
「しかし、この都では実力が発揮できないと言っているようには受け取れるな」
「まったくです。だのに、今になって、そういうつもりはなかったと言い出す始末で。挙句、教官の未熟を憂えて警鐘を鳴らしていただけだとか、どうにも苦しい言い訳を始めた。お蔭で、失礼ながら、確認する羽目になったのですよ」
斜め前を行く燕が振り仰いできて、大変なお役目ですね、と、しみじみと述べた。
理解しているのかと琉志央は幼子の聡さに眉を上げ、これはお恥ずかしい、と主管補佐は頭を掻いた。
「まぁ、大君も略式の御許可をくださっていますので、もはや連中に言い逃れはできません。わたしの役目は、後は彼等を皇領へ連れて行くだけで、以降は主管にお任せすることになりますが……補佐としては今から兢々たる気分ですよ」
(生粋のルウの民とやらか。如何にも固そうだ。できれば関わりたくない)
宮殿に入り、琉志央と燕はいつものように後宮のある右へ足を向け、主管補佐は皇帝執務室のある左へ向いた。
別れしな、補佐はつと指先に術力を集めた。琉志央は反射的に構えそうになったが、自制する。
風印の紋と判る頃には描き終える程の速さだった。ニヤリとこちらを見て古語を唱える。
「お蔭さまで六時間ばかり、枕を十六も積んで寝れそうですからな。教官も午睡用に、お一つどうぞ」
快活に笑い、主管補佐は立ち去った。
◇ ◇ ◇
夕焼けを背に、勤めを終えた佳弥は自宅に帰り着いた。
両手には、分厚い薬草図鑑と例によっておかずの入った小駕籠。何とか身体で門を開け、玄関前で服の隠しから鍵を探す。
今日の昼休憩時に図書館へ行ったら野茨が居たので、隣家の馬術教官から聞いた話をした。
来月から警備役が居なくなるらしいことに、友人は僅かながら安心していた。
『今月いっぱいは、お互い、夜はさっさと家に帰った方がいいのかな』
佳弥が警備役に変な言いがかりをつけられそうになったことを心配してくれたようで、野茨は貸し出しの紙に司書印を捺しながら言った。
瞬間移動の指輪を小指に嵌めるようになっていたけれど、うん、と佳弥は頷いた。
喜ばしい理由からではなかったが、実際に数種の調合を体験したことで、薬作りのやり甲斐を実感し始めている。
自宅で、復習も兼ねて、自分用の薬の調合を試みたくなっていた。
(ちゃちゃっと御飯食べて、お水で髪をすすいで身体拭いて、効果を上げる薬草の組み合わせを確かめて……)
これからの予定を考えつつ隠しの中をまさぐるが、鍵がなかなか指先に触れない。図書館から借りてきた図鑑が、思いのほか嵩張るし重かった。
小駕籠と図鑑を片腕に持ち変えた時、空けた腕を背後から取られた。振り返った刹那、視界が閉ざされたように暗くなり、次の瞬間には周囲の景色が変わっている。
(え――)
佳弥は立ち尽くした。
目の前には、一昨日の夜に後をつけてきた警備役の一人。
足元が柔らかな草地になっていた。風が強めに吹いている。
目を走らせれば、一昨日のもう一人も居た。他にも警備役の制服を纏った男性ばかり、ぞろぞろと総勢六人。最後に見留めた顔に、佳弥は身の毛がよだった。
寮で謹慎している筈の箔瑪が、冷めた目で見下ろしてくる。
遠く、ラル宮殿の後背に、夕日で染め上げられた神山の連なりが在る。ここはコートリ・プノス東の郊外だ。どうやらラル集合墓地の近く。
「な、なン、ですか」
持ち物を両手で持ち直しながら問うた声が、裏返った。
箔瑪の隣に立つ男性が、澄ました顔つきで言った。
「さぁ。我等も呼び出されただけだ、大陸人に」
恐怖に速まる鼓動が、こめかみに痛みを伝えてきた。佳弥は顔をしかめて身を固める。
大陸人というと、ルシオウとしか思えない。こんな所に呼び出すなど、彼はどういうつもりか。
「なんで、わたしを……」
「おぬしも連れて来るようにという話だった」
わけが解らない。
寄って来るなとまで言っていたのに。
あの雨の日から一週間、見かけることもなかった。とても会いたいけれど、こんな中で叶うことには戸惑いしか感じない。
「か、帰ります、ごめんなさい」
佳弥は声を振り絞った。「わたしは、帰ったって、言ってください」
指輪を嵌めていて良かった。佳弥は合言葉を念じかけたが、乱暴に腕を掴まれた。
痛っ、と声をあげる間に、一昨日の警備役に手を掴み上げられた。落としそうになった図鑑を支える頭上で、今日は輪を持ってやがる、と荒い声が響いた。
箔瑪の隣の男性が、冷淡に目を細めた。
「どういうつもりだろうな、あの大陸人は。我等に術戦を挑んできておいて、危うくなれば女と逃げるつもりだったのか?」
術戦を挑んだ? ルシオウが? まさか――
(だって、もうすぐお夕飯をハイ・エストと食べる筈。その後はヌサギさん達に魔術を教えなきゃならない。術戦なんてしてる暇ない)
変だ、と佳弥が男達を見やるうちに、指から輪を引き抜かれた。消滅させられる。
「何するの――っ」
「もしやルウの民ともあろう者が、あの大陸人と共謀して我等をはめるつもりだったんじゃないだろうな」
淡々と男が言い、隣で箔瑪が冷笑した。
「あり得るぞ、そいつはあの大陸人に入れ込んでるようだしな」
佳弥は全身がかっとなる。気持ちが全くの第三者に知られていることへの羞恥と、ルシオウを侮辱されていることへの怒りがない交ぜになった。
「わたし、そんなこと知らないっ。大体、あの人、そんなことしないものっ」
「おぬしが知らないだけだ!」
男が一喝した。轟いた低音に思わず身がすくむ。後ずさりかけると、後ろから肩を小突かれた。いつの間にか、包囲されていた。
膝が砕けそうになるのを必死にこらえる佳弥に、男が苦々しげに言った。
「正気に返るんだな。今神聖なるメイフェスに居るのは、身の程知らずの大陸人だ。愚かにも我等に術戦を挑んできている」
知らないだけ――確かに佳弥は、ルシオウのことを殆ど知らない。
身の程知らず――確かにルシオウは、会う度、偉そう。
混乱してきたが、佳弥は首を振った。
「暗示にかかるような貴男達に、あの人が改めて挑むなんておかしいわ」
震えながら箔瑪を見据えると、うすら笑いを浮かべていた顔が、赤い日を浴びていながらも青ざめたのが判った。
「まさか、老に通報したのは、あいつ――?」
ハッとして佳弥は唇を噛んだ。暗示にかけられた者は直前の記憶が消え、誰にかけられたか知る由が無い。元より眠っていた箔瑪も知らなかった筈だ。
とんでもない失言をしたと悟った佳弥の前で、あの野郎っ、と箔瑪が地を蹴る。許さねぇっ、と喚き出し、落ち着けっ、と隣の男が肩を押さえた。
それに被るように佳弥は叫んだ。
「わたしが頼んだのよ! 野茨をあんな目に遭わせておいて――通報するのは当たり前でしょっ」
途端、頬に激しい衝撃が来た。囲まれていなければ地に倒れ込んでいただろう。目眩と熱い痛みで、地に落ちた図鑑と駕籠を映す視界がぼやける。
野茨は長い間、一人でこんな痛みに耐えていたのか。
胸の内を、いっ時、恐怖より憤怒が支配した。佳弥は半ば羽交い締めにされながらも、拳を震わせる箔瑪を睨みつける。血走った黄土色の視線が跳ね返ってきた。眼力の鈍い痛みが額を襲う。
「下手に出てりゃ付け上がりやがって」
(こっちの台詞よ!)
言い返してやりたかったが、これ以上は危険だと頭の片隅が制止してくる。あの無惨な野茨を目の当たりにしていたから、尚更。
歯噛みする佳弥に、他の警備役も剣呑な気を放ち始めていた。一人が、吐き捨てるように言った。
「こんな、役立たずの薬屋なんぞの所為で、これまで都に貢献してきた我等が大陸へやられかけているのかっ」
「どうせなら、薬処の連中を皇領にやればいいものを――」
我慢ならずに佳弥は言った。
「薬処だって充分貢献していますっ。メイフェスに入って来るお金の一部は、薬処が皇領に納品している薬の代金じゃないの!」
「黙れ!」
箔瑪の隣の男にまで眼力を当てられ、佳弥は短く苦痛の声を洩らす。髪を鷲掴まれ、頭を引き上げられた。放してっ、と抗議する鼻先に箔瑪が顔を寄せてくる。
「見てるがいい、あの野郎をボロ雑巾に変え、身の程を教えてやる」
佳弥はぞっとした。
(ヤだ、やめて――彼を傷つけないで――)
「奴は暗示が少しは使えるわけか」
隣の男が目を眇め、知るかっ、と箔瑪が地に唾を吐く。
「術戦で暗示を使うなど卑怯者ぐらいだからな」
「大陸人など卑怯者の集まりではないか」
やにわに佳弥は右の手首を掴まれた。悲鳴をあげて抗ったが、掌に鋭い痛みが走る。術力で切られた傷口から血が溢れた。
箔瑪の隣の男が、傷ついた佳弥の掌を強引に己が額に押し付けた。
何を意味するか察し、佳弥は暴れた。
「ヤだ――ヤだっ、嫌ぁっ」
押さえつけられ、掌を幾度も擦られる。
痛い――痛い――痛い――
だが、この血の所為であの魔術教官が傷つく方が、佳弥には何倍も痛かった。
ルシオウ――
泣き叫ぶ声が、ややの間、墓場に響いた。