1
八の月四週の初め、佳弥は夕日を受けてとぼとぼと家路を辿っていた。
夕食の支度が、だるい。
身に付きかけていた自炊習慣も、先週のごたごたで少々おざなりになっている。
いつもより早く来た月の物のお蔭で、料理を教わっていた母には、ボロボロの理由を誤魔化せた。先週後半は何だかんだ、大半を作ってもらってしまった。
週が明け、気力は湧かないけれど、もう頼りたくない。出血も止まりつつある。
心の出血も、一週間程度で止まれば楽なのに。
詮無いことを考えた時、後ろから肩を叩かれた。
振り返ると、すっかり見た目は元通りになった野茨が笑んでいた。
「新しい家、馴染んできたの。晩御飯、食べに来ない?」
「良かったぁ、今日これ以上、一人で作るの、だるかったんだぁ」
手提げの小駕籠をちょっと持ち上げ、佳弥は肩をすくめる。「軽く蒸した茄子と刻み大葉をね、酢ダレに漬けてあるの」
「あら、美味しそう。じゃあ、冷麦、茹でようか」
いいねぇ、と相槌を打ち、宮殿前で道を折れずに直進する。
先週末は親にこっぴどく叱られた、と野茨は胸の辺りで両手を開いた。彼女の両親は昔から放任気味だったが、特別に仲の悪い親子ではない。あんなことを黙っていたとあっては、叱るのも当然だろう。
若年層寄合所近くの新居は、小ぢんまりとはしていたが二階屋で、間取りが少々、記憶に新しい家に似ていた。
入ってすぐは複雑な気分となったが、友と二人、ささやかな夕餉の支度を始めれば、気にする間も無くなった。
冷麦、おろしとろ芋、山菜の煮つけ、そして佳弥の持ち込んだひと品が並んだ。脇の小卓には、ほうじ茶の一式。弱い明かりでも充分な時間の内に、食卓を挟んで座る。
食事を始めると、野茨が静かに告げた。
「今週中には帝からの裁きが下るそうよ」
「どうなるんだろう、あの人」
「老は、メイフェスには居させないと仰ってたけど……」
「大陸にやるということ?」
佳弥は箸が止まる。箔瑪のような人はこの島に居てほしくないが、やがてルシオウが帰る地へやってほしくもない。
「残念ながら極刑にはできないだろうから、最も激務で最も厳しい上官の居る、皇領勤務になるんじゃないかって、先輩が言ってた」
極刑は幽閉の塔への収監だ。術力が消滅していく秘術の施された塔で、ルウの民にあらざる行いをした者を、術力の点だけでも、ルウの民でなくしてしまう。
野茨は散々眼力などでも暴力を受けたようだし、佳弥にしてみれば箔瑪は極刑でもいいような気がする。しかし、極刑の決定権は皇帝にあり、今帝がそうそう濫用するわけがないとも思う。
冷麦の上にとろ芋を少し乗せながら、野茨は諦めたように笑む。
「うちの親は、他の警備役も皇領に行きゃいいのにって言ってたけど、流石に無理よね」
「どうだろ……あれから警備役の制服、見かけないんだよね」
友人にこんなことがあったから、あの黒衣には近寄るまいと考えていたのだが。先週は、そんなことをするまでもなかった。「一人とんでもないことしたんだから、連帯責任があり得るかもよ」
「見かけないって、ソレたまたまよ」
眉をひそめ、野茨は声を落とした。「ここ、寄合所の若長の家も近所でしょ。一昨日、警備役が二人、入ってったの」
「え、夜とかに?」
夜陰に紛れるという表現が、ぴたりと当て嵌まりそうな制服だ。
「定時後、まだ今日くらいの時間よ。引っ越しで先輩も休んだから、一昨日は埋め合わせの残業を二人でしたの。それで送ってくれたんだけど、若長の家に近づいたら、先輩が急に前に立ち塞がって……丁度、二人、門を通って行くところで……」
野茨は話しながら身体をすぼめる。「先輩、後でイズミ老にお話ししておくって言ってくれて……昨日、今日はあの黒服、見てないけど」
「ヌサギさん、頼もしい」
「……今、夜に五歳担当から魔術教わってるそうよ」
気を取り直したように、野茨は顔をほころばせる。
対照的に、佳弥は頬が強張った。そうなんだ、と応じた声が掠れた。
眦を下げかけていた野茨は、こちらを見て瞬いた。
「佳弥……担当と何かあった?」
「……ふられちゃった」
「え――!?」
「もう、寄って来るな、て……」
鼻の頭がツンとして、佳弥は唇を噛んで卓の一点を見る。佳弥……と野茨は他に言葉が無い様子で名を繰り返した。
「元気出して。帝みたいな人はそう居ないだろうけど、あの担当程度なら他にも居るわ」
佳弥は、ふるふると首を振った。
自分でも何処がいいのか判らないのだけれど、それでも、ルシオウがいい。他の人じゃ代わりにならない。
(だって、メイフェスには他に居なかったから、彼は来たのよ。あんな人、そうそう居ない)
高名な師を持つ医事者見習いなのに、余裕ぶりが甚だしい。魔術には自信を持って凛としている。がさつで優しくないが、不思議と気が利いて、夜中に叩き起こされても文句は言わない。細身の割に筋肉質。背は高め。声は落ち着いて低め。薄荷の香。晴れた夜空の髪。水をはじく菫の瞳。
居ない――他に居ない。
「も、いいの。遠くから見るのって、慣れてるし……」
佳弥が小さく笑うと、野茨は卓に両手をついて立ち上がった。
「食後はお茶やめよう。飲もう、佳弥!」
「へ」
「親が見舞いと引っ越し祝いだとか言って、置いてったのがあるから」
野茨はそそくさと台所へ向かうと、白磁の瓶を持って戻って来る。封を剥がして蓋を開ければ、強い酒精が漂った。
二つのぐい呑みに、清酒がなみなみと注がれる。
「飲んで、今夜ぐらいあんな男、忘れなさい」
「……分かった」
肩を上げて佳弥は陶器を手にする。
食べるのと飲むのとを交互にしながら、野茨は酔ってくると、まったくあの男は見る目が無いと、ぶつぶつ評した。話題にしたら忘れられないと佳弥はほろ酔いで抗議し、二人で馬鹿笑いする。
結局、一瓶空け、九時半過ぎ、佳弥は野茨宅を辞去した。
外は、夏特有の水気の多い夜の匂いと、来たる秋の気配を感じさせる虫の声が混在していた。
酒精にほてった身には少々温い空気がまとわりつく。
本当は、薬師は酒もあまり飲まない方がいい。もう今夜は勉強しないで、行水して寝てしまおう。
手明かりでふわふわと少し歩けば、若年層の寄合所が見えてくる。通り過ぎた先には、若長の邸宅があった。
酔っていたが意識ははっきりあったから、佳弥はちょっと緊張して門前を通った。
広い庭の奥に建つ屋敷は、夜の闇の中で、通りからでは殆ど見えない。この時は人けの無さにほっとして、足を速めた。
が、通過してさほどせず、背後で鉄門が軋む音が耳に届いた。思わず佳弥は振り返る。
弱い角灯の明かりを手にした、黒い長衣が浮かび上がっていた。警備役が二人、出て来る。
(やだ、なんで若長の家なんかに出入りしてるんだろう)
酔いがかなり醒めてしまった。佳弥は顔を背け、家路を急いだ。
この時間帯ともなると、コートリ・プノスは出歩く人が格段に減る。
後ろを警備役がついて来るのが、はっきり判った。通りを歩いているのは、佳弥と背後の二人だけだったからだ。
(ちょっと今、道が同じってだけだよね……?)
不安に駆られて振り向きそうだったが、目が合いでもしたら、どうすればいいか判らない。もはや警備役には、お役目お疲れさまです、などと言う気にはなれなかった。佳弥は我慢して足を動かし続けた。
曲がり角を折れても足音が複数響く。
今夜ぐらいは忘れるつもりだったのに、佳弥の脳裏にはすらりとした姿が浮かんだ。
(ルシオウ――)
助けて、と乞うたら、又、呆れたように目を眇めるだろう。けれど、こんな時は見捨てることをしない人だと佳弥はもう解っていた。
闇契約なんて、大陸では、まともな人はしない。彼は医事者見習いになる前、魔術師だった筈だ。
残忍で冷酷、短気で気まぐれ。魔術師というのはそういう気性と聞くが、ルシオウは何処か違う。
一目惚れした女性の命帯を見たがるような、珍かなズーク・エストだ。
六老館が見えて、佳弥はその隣家に駆け込みたかった。
だが、来るな、と拒絶の台詞が蘇る。
佳弥は足元を見つめ、泣きそうになりながら大通りを横切った。
自宅への瞬間移動の指輪を持っていないことが悔やまれた。魔術教官は夜中でも、リィリへの輪を持っていたのに。こんな平素の習慣も、自分達は全く異なっている。
宅地への路地に入っても、足音がまだ追って来る。佳弥は背筋が粟立ってきた。
すぐ駆け込める六老館の所で立ち止まり先に行かせれば良かったのだと思いついたが、後の祭りだった。佳弥の頭には、今宵も先に夜色の髪と菫色の双眸が浮かんでしまったのだから。
(ルシオウ――ルシオウ――貴男の所為で、怖い思いをする羽目になってるじゃないっ)
八つ当たりで目尻に涙が滲んできたが、拭う間も惜しんで佳弥は歩き通した。単身者区画に着き、ほっとする。
ところが、明らかに足音が近づいて来た。たまらず、佳弥は肩越しに目を投げる。やはり警備役の制服を着た二人の男性が、見下したような表情で歩み寄って来ようとしていた。
自宅までは後僅かだったが、佳弥は足がすくんだ。
用があるなら、さっさと声をかければ良かった筈なのに。一体、何なのか。
と、今一人、区画に入って来た。佳弥と同じく手明かりで、のんびりと。こちらに気づいて、こんばんは、と穏やかに挨拶してきた。
隣家に住む馬術教官の男性だった。佳弥は膝の力が抜けそうなほど安堵して、こんばんは、と返す。警備役の二人が気まずげな顔になり、目を見交わした。
教官は黒衣の二人に、物問いたげな目を向けた。
「君達は、何をしているんですか」
口調が存外厳しくて、佳弥は家へ逃げ込むことも忘れて教官を見る。いえ、その……と二人は口ごもった。一人が不貞腐れたように言う。
「そこの者が、老がお住まいの地区からふらふらと出て来て、我々を見るなり、一言も無く足を速めましたので……」
もう一人も勢いに乗ったのか言う。
「このような時間に、瞬間移動せずに歩き回るのも怪しいです」
佳弥が言い返せずにいると、二人に向いた教官が冷淡に目を細めた。
「わたしも歩いて帰宅して来ましたが? 今宵は月も綺麗ですしね」
平屋が並ぶこの区画の広い天空には、円に近づく月が昇っていた。佳弥が空を仰ぐ間に、教官が言を継ぐ。「君達警備役は、コートリ・プノスでこのところどう評されているか把握してないんですか? 女性が一人で帰宅する際に君達を見かけたら、足を速めても仕方ないですよ」
二人の顔が赤黒く染まる。いちいち尤もな意見だったが、佳弥ははらはらしてきた。
温厚に見えていたのに、教官はずけずけと言い募った。
「主管補佐のお話では、来月からいよいよ君達は皇領勤務だそうじゃないですか。わたしの教授した技術も活かして、名誉挽回に励んでくださいね」
えっ、と二人が声を揃えた。
「けっ、決定事項ですか、それはっ」
「こちらには主管補佐より連絡をいただいています。警備隊長から近いうちに話があるのでは?」
「なんで我々まで――」
「何を言っているんですか。何の為にわたしが馬術を教えることになったと思っているんです? 警備処を皇領警備員養成所へ変更するという話は、予てよりあったでしょう。今回、大君の御許可が出たので、主管補佐が一時帰島されている。君達が知らなかったとは言わせません」
「そ、そんな馬鹿げたことは実現しようがないと隊長が――」
一人が言いかけて、もう一人に肘で小突かれた。他人事ながら、あーやっちゃった、と一下っ端の佳弥は思う。馬術教官から主管補佐なり帝なりにこの発言が渡れば、又じわりと警備役は首が絞まる。
「警備役の意識具合、しかと主管補佐に伝えます」
しっかり教官が頷いて、二人の顔は今度は青黒くなった。隣人は、職場では非常に手厳しい人のようだ。佳弥まで居たたまれない心地になる。
小駕籠を両手で提げて身をすくめていた佳弥に、馬術教官はようやく目を移した。いささか取り繕うように咳払いする。
「あぁ、つまらない立ち話をすみません。佳弥さん、おやすみなさい」
「い、いえ――お、おやすみなさい」
慌てて頭を下げると、佳弥は家に駆け込んだ。
「君達ももう帰って、大陸へ行く準備でもしたらどうですか」
玄関の外で、馬術教官が締めにそう言っているのが聞こえた。
▼ ▼ ▼
室内では、卓に明かりが一つだけ灯っていた。
泡を食った様相で戻って来た二人の男は、卓を囲む長椅子に、落ち着かなげに腰を下ろす。
迎えた三人の男は、二人に落胆したような目を向けていた。肘掛椅子に座す一人が、露骨にそれを示す口振りで言った。
「駄目だったのか」
「二度と出入りするなとほざきやがった」
片足を踏みならしながら一人が応じた。それぞれ椅子に座る三人は、苦々しげな顔になる。
「恩知らずめ。これまで、我等に無理を押しつけてきたくせに」
「誰のお蔭で若長としてふんぞり返れていたと思ってるんだ」
「もう他を当たる、時間の無駄だ。己のみ可愛いあ奴では、そもそも箔瑪の弁護などできなかったろうよ」
口々に言う三人の前で、そんなことより、と長椅子の一人が口を挟んだ。
「我等まで来月から皇領勤務になると、厩の野郎が――」
「何だそれは」
三人が目を剥く。長椅子で貧乏揺すりをする一人が、口早に言葉を添えた。
「主管補佐が帰って来てるのは、その為だとほざいたんだ」
肘掛椅子に向かって、他の椅子の二人が身を乗り出した。
「おい、冗談じゃないぞ――貴殿の従兄だけじゃないのかっ」
「何故我等まで大陸なんぞに行く羽目になるんだ! 術力をひた隠して大陸人と仲良し小好しなんて、馬鹿げた生活できるかっ」
肘掛を握り締め、男が地を這うような声を出した。
「ぬしら、箔瑪の所為だと言うのか」
「そ、そうは言わぬが……」
「箔瑪は魔術教官の未熟を嘆いただけだ」
男は低く断言した。「それを女が、恋人のくせに信じず詰った。此度の件、口論が、たまたま熱を帯びただけなんだぞ」
周りの四人の間で、半信半疑の色を帯びた視線が交錯する。
「箔瑪はあの日、女の知己までもが魔術教官の未熟を見抜けずにいると知って、嘆きが強まってしまっただけだと言ってた」
肘掛の上で拳を握り、男は吐き捨てる。「未熟な大陸人を讃する者を目の当たりにすれば、ルウとして憂えるのは当然だろう」
黙然と四人は頷く。
「帝の裁きが始まる前に、箔瑪の言を証明せねば……帝を含め、目の曇った一族にも真実を知らしめる必要がある」
「その女か知己の意識を改めさせ、証言させてはどうだ」
一人が提案し、周りが両腕を組む。
「女には老の目がある」
「では、その知己は」
「誰だ、そ奴」
肘掛椅子に目が集まれば、男は思い出すように顎を撫でた。
「役にも立たない薬処勤めらしいが……カヤとか言ったか……」
長椅子の二人が、カヤ、と同時に復唱した。
「その女、先程、我等が若長の家を出たところを見るなり、逃げようとした」
「歩いてな」
「女一人が夜道をふらふら帰れるのは我等警備役のお蔭だろうに、挨拶も無しに逃げる失礼さだった」
「故、家まで見届けてやって、誰のお蔭で無事帰り着けたか、少し説教してやろうと思ったのだ」
一人はやや下卑た風に、一人は不快げに口を歪めた。
「したらば、厩の奴がしゃしゃり出て来て、事もあろうに我等を不審者扱いしやがって」
肘掛に肘を乗せ、男は両手を組んだ。
「では手始めに、ルウの恥知らずと言えるその女に事実を見せ、証言させよう。そうすれば皇領勤務などという話も、白紙に戻せるかもしれない」
明かりの火が、じり、と音を立てた。