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佳弥はそわそわと、洗った手を拭いた。
春の薬草園はそれなりに花咲いて美しかったが、他の人影は無い。
薬処は佳弥以降の新人が来ず、薬草園に出ずっぱりな、初期段階の仕事をする同僚は居ないのだ。就職して四年経つが、後輩が来るまで佳弥の担当は変更無しだろう。
そんな環境だから、毎月一日に十分間ばかり、ふらふらと持ち場を離れることができる。
隣接する公園の小道を抜け、図書館前の通りに出る。薄桃色の花びらが、ひらひらと舞っていた。通りを挟む並木に桜が含まれている所為だ。
蔦の絡まる図書館を尻目に、佳弥は並木の一本に添う。真っ直ぐのびる道の先の左、浮彫が施された白壁の大きな建物は陣舎。大陸の皇領各地に繋がる瞬間移動の陣と、人避けの領結界を張る為の陣が保護されている。
いつもの時刻、午前十一時。
(来た)
佳弥はときめく。
通りの右手から、ハシバミ色の髪の男性が現れた。家老の一人を従え、陣舎へ向かう。ラル家の色である臙脂の長衣。その裾が翻る様まで麗しい。
ルウの民は術力を効率良く使える身体特徴があって、大陸人と寿命に大差は無いが、成人の頃から老化速度が落ちる。身体を長く、若く保っていられる。
佳弥が見つめる人も、初めて目にした時から衰えが窺えない。
五年前の夜、メイフェス島の首都、ここコートリ・プノスで、ルウの民を統べる皇帝の婚儀があった。
ラル宮殿から儀の行われる集会場まで、二十三歳になる帝は二十歳の婚約者と貝の撒かれた大通りを歩いた。十五歳になったばかりだった佳弥は、同窓生の野茨と、沿道から二人を見たのだ。
邪悪な異世界人を神聖なメイフェスに入れてしまった、困った帝だと専らの噂だった。
汚らわしい娘と、それを連れ込んだ異界帰りの変な皇帝を、野茨と取り敢えず見物し、後で心おきなくケチをつけようと思っていた。
ところが直に見た二人は、予想と雲泥の差だった。
宵の篝火に照らされ、既に皇子を産んだという黒髪の婚約者は、それを微塵も感じさせぬ細い身体に淡い紅色の衣装を纏い、あたかも浮かび咲く一輪の花のようだった。
そして、その繊手を取る正装した帝の凛々しさと美しさは、結界を張っていなかったにもかかわらず、神々しく輝かんばかり。正に絶世だった。
佳弥も野茨も、小さく口を開けて、通り過ぎる二人を見送った。
ケチなどつけられず、かと言って、その時は、褒めるのは悔しかった。佳弥と野茨は、見ることができたね、とだけ言い合って、そのまま互いの家に帰ったものだ。
翌年就職した佳弥の職場は、意図したわけではなかったが、帝の住まう宮殿に近かった。お蔭で働き始めて二年目に、帝が陣舎へ出向いて皇領に領結界を張る日が、毎月一日だと知れた。
ほどなく時刻もほぼ変動無しと判り、以来、月に一度、遠くから帝を眺めるのは、佳弥の秘かな楽しみだったりする。
桜散る中、均整のとれた長身が陣舎へ消え、佳弥は満足の吐息をつくと薬草園へと踵を返した。
※ ※ ※
執務室の入口で、和泉老と初級学舎長が参っております、と取次役が告げた。
通していい、と栩麗琇那は書紙に印章を捺しながら応じる。
処理済の籐箱へ書紙を入れたところへ、一見五十代の女性二人が入室してきた。上品に頭を下げ、組んだ両手を額の上で掲げる。面を、と栩麗琇那が声をかけ、二人は手を下ろすと顔を上げる。
「珍しい組み合わせですね」
「同窓にございます」
和泉が答え、学舎長が今一度礼をする。
そうでしたか、と合点する栩麗琇那に、和泉は恐縮の面持ちで言い出す。
「領結界でお疲れのところ、大変申し訳ございません。ですが、どうにも窮しておりまして……」
「構いません」
還暦半ばの女性達に礼を失することはできないが、栩麗琇那は短く言う。
領結界は膨大な術力を要するから、一人で張ることができるのはルウの民でも皇族に限られる。大層疲労するとされているが、実を言って栩麗琇那は疲れない。しかしながら、疲れているのに表に出さないと思われているようだ。
妻は栩麗琇那に関して色々と見抜くが、この件は〝とにかく大変なお仕事〟という先入観があるらしく、周りと同じく考えているようだ。なので、この際、誰にも訂正しない。
栩麗琇那が目で先を促すと、和泉が学舎長を見た。皇帝が幼い時分は温和な史学教官だった学舎長は、おずおずと切り出した。
「過日、五歳担当が辞任致しまして……募集しているのですが、応募が無いのです」
学舎教官はメイフェスでも公務員に相当する。給金は高く、教室担当には特別手当まで付く。五歳担当など、上半期は午前中で職務が終わる旨味ある仕事だ。
(エンを敬遠されたか……?)
一人息子を思い、栩麗琇那は僅かに顔を傾ける。ラル家の皇子は今秋、五歳になる。来年、初級学舎に入学だ。
未来の帝に教えるだけでもプレッシャーだろうし、生徒の方が術力に勝るとなれば、無駄にプライドが高い者には務まるまい。
「今年は又何処かに代理を頼んで凌いだとしましても、来年を考えますと、早いうちに良い後任をと思いまして……」
首都はラル領に在る。分家の子供は各々の領地の学舎へ通うから、首都の初級学舎が皇族の子供を迎えるのは栩麗琇那以来。
学舎長としては、初めてのことで対応に苦慮しているわけだ。
和泉が口添えした。
「皇子が受け継がれた術力を、無為にするわけには参りませぬ。ここは帝の御名で報奨上乗せの公募を致したく、ご許可をお願いにあがりました」
栩麗琇那は首肯した。書類は、と問えば、安堵を顕わに学舎長が差し出してきた。内容を確認して、押印する。印を熱波で乾かしながら、一点、先程の言葉で気になった部分を訊いてみた。
「五歳担当のなり手が居ないのは、今に始まったことではないのかな」
学舎長は記憶をまさぐるようにして答えた。
「確か、十五、六年ほど前からです」
すると、栩麗琇那が碧界へ迷い込んですぐの頃からか。息子だけが起因しているのではないらしい。
「思いのほか難題のようだ。わたしの方でも、適任が居ないか探してみましょう」
低頭の後に二人が退出すると、栩麗琇那は事務役を呼び出した。
昼休憩時刻を少し過ぎた頃、信頼する事務役が足早に来る。彼が無駄に遅れる筈はないので、謝りかけるのを制して、手短に用件を告げた。
「火急ではないが、教職志望者が五歳担当を忌避する詳細を」
「畏まりました」
それだけで通じて、事務役の青年は退室する。急がないと言ったところで、彼はそう日数をかけず調べ上げてくるだろう。
さて、やっと休憩だ。
領結界は疲れないが、終了後、空腹感が普段より増す。一日は、いつも以上に妻の作ってくれる昼食が楽しみだ。
しかし先ずは、疲れたふりであの愛しい唇を御馳走になりたい。未だにそれだけでも朱に染まる、可愛い顔も拝みたい。
印章を懐に入れると、栩麗琇那は足取り軽く執務室を後にした。
◆ ◆ ◆
午前中の夏の森を、琉志央は幼子を連れてぶらぶらと歩いていた。
何処に行きたい、と訊けば、何処でもいいよ、とおっとり答えたので、近場の泉を目指している。
見下ろせば、腰の下辺りにようやく焦げ茶色の小さな頭がある。林立する木々や茂る低木やらを、銀の混じった黒い瞳で、物珍しげに眺めているようだ。
琉志央は、このもうすぐ五歳になる子供が赤子だった頃から知っている。実子とすれば、十八という若さで父親になったことになるが、それはそれで大変良かったろう。何せこいつの母親は初恋の女だ。
今日は、朝からその女が遊びに来ている。夫と息子というおまけも連れてだったが。というより、彼女は瞬間移動術ができないので、夫や友達の女といった術者が一緒でないと、大陸には来られない。
あいつは、この世界の何処に在るかもはっきりしない島で、ルウの民なんていけ好かない連中に囲まれて暮らしている。なのに、大陸に来ると大概、初めて見た時より幸せそうにしている。不幸せそうより、いいけれど。
(つーか、なんで俺、子守なんかしてるんだ……)
長袴の隠しに手を突っ込んで、琉志央は軽く眉を寄せる。
思い返せば十数分ほど前、医療所で円卓を囲んでいたのは琉志央、師の蒼杜、その守護精霊、客の琴巳、その夫の栩麗琇那と息子の燕。
それなりに楽しく茶を飲んでいた筈だ。
これまで、こんな時間に家族で来ることなんてなかった。だから栩麗琇那に、大陸の守護とやらはどうした、琴巳とエンは俺に任せて仕事に戻っていいぞと、軽口を叩いた。
すると、奴は無表情のまま、のんびりと切り返してきた。じゃあ、エンを任せよう、と。
『この面子の中では、琉志央が一番エンと歳が近い。九時前まで遊んでやってくれ』
え、と同時に声をあげたのは、琉志央と当の燕だった。お互い、相手を知ってはいたが、別段馴れ合っていたわけではない。
判っているくせに、琴巳がくすくすと笑いながら息子に言った。
『見習いさんが遊んでくれるなんて初めてね。雨降らないといいケド』
その台詞に、燕は真顔で窓の外を見た。
『お外、いい天気だよ?』
『モノの例えだ。降ってたまるか』
思わず琉志央がつっこんでしまうと、最後には蒼杜が可笑しそうにとどめを刺した。
『子供の命帯は大人のモノより判断が難しいです。この機会に、エンのを見せてもらったらどうですか』
(クソ――俺が撒いた種だったか……)
憮然として、琉志央は焦げ茶色のつむじを見る。その身は、見方を変えれば眩い光に包まれている。琉志央が燕を見て現在判断できるのは、強い生命力と術力、稀な銀一色の命帯の持ち主いうこと。
この幼子は、産まれた時から可愛げがなかった。周りの評価は真逆だが。
燕は赤子の時分、琉志央が頬をつついたら、いきなり術力を投げつけてきた。咄嗟に眼力で相殺したものの、かなり強い攻撃だった。つまり、とんでもないガキなのである。
今は琴巳に危害が及ぶのを恐れ、栩麗琇那は燕の術力を九割がた封印しているらしい。術力封印は、術者が被術者と同等かそれ以上の術力が無ければ成功しない筈で、奴の術力の程もおかしいのは言わずもがなだ。
蒼杜の話では、栩麗琇那の術力はこの世界で恐らく最強らしい。確かにちらっと命帯を見てみたら、太陽のような金色の光を放っていた。
何故よりにもよって、惚れた女の夫がそんな冗談みたいな奴なのか。ルウの民をまとめ上げる地位にあって帝と呼ばれている上、無表情だがやたら造作もいいし、悔しいことに琉志央より背も少しだけ高い。
そんな腹立たしい奴に、琴巳曰く〝どんどん似てきてる〟らしい燕は、木陰の向こうの光景に気づいたのか、丸い目をきらめかせた。
「わぁ――綺麗」
泉の周りは、草木とごつごつした岩が取り囲んでいる。澄んだ水はこんこんと湧き出て、小川へと流れる。揺れる水草の合間には何匹もの魚が居た。心地好さそうに流れに身を任せているのがよく見える。
命帯を診断するには、見る方も見られる方も動かない方がいい。燕は落ち着きなく泉を覗き込んでいたが、そこに座れ、と琉志央は苔むす岩の一つを示す。
幼子は大人しく言われたとおりにした。早速、琉志央は眺めやる。少々、変わって見えた。
先日、燕は風邪をひいたと聞いている。喉の辺りに銀の光がとりわけ集まって見えた。
(この状態が、風邪の治りかけなのか……?)
命帯の診断は、とにかく数をこなさないといけない。同じ程度の症状の奴を見て、確信に結び付けていく必要がある。
琉志央が命帯を見る修練を始めたのは六年前だ。桜色がほんのりと混じった白い光。それを纏う琴巳が見たくて、ただそれだけの為に蒼杜に師事し、医事者見習いとなったのだ。
ひょっとしたら見れるようになるかもしれないと、予め可能性の低さをにおわされていたが、三年目にぼんやりと見え始めたのを皮切りに、コツを掴めた。今では多分、しっかり見えていると思われる。念願の琴巳の姿も目にして、不覚にも惚れ直し、彼女が手に入らない現実にしばらく悶々とした。
見えるだけで健康状態は判断がつかないとなると、欲が出た。こうなったら、琴巳がいつも健やかか診断できるようになりたい。師の守護精霊は、やれやれ、と洩らしたが、珍しくその響きが優しかった。蒼杜はいつも通り笑んで、琉志央の見習いの日々は今に至る。
角度を変えて見ていた琉志央に、退屈になったのか何なのか、膝を抱えた燕が唐突に尋ねてきた。
「見習いさんてね、父上のこと嫌い?」
「――なんだ、いきなり」
見えていた命帯がかき消える程度に面食らった。
「いきなりじゃないよ、前から気になってたの」
他のルウの民はどうか知らないが、どうも燕は成長が早い。立つのも歩くのも厠の使い方もあっと言う間に覚えたらしいし、五歳未満にしては語彙も多い。己が名の真名も、何処で仕入れたやら他に読み方があると知ったらしく、三歳の頃には〝エン〟と自称するようになっていた。
そんな子供に誤魔化してもしょうがないので、琉志央は正直に答えることにした。
「あいつは、嫌いじゃないが、邪魔だ」
燕は軽く唇をすぼめたが、さほどせずにほころばせた。良かった、とのたまう。
「邪魔なのは、父上が見習いさんの好きな人と仲良しだからってだけだもんね」
「まぁな」
「僕ね、父上のこと大好きだし、見習いさんも好きなの。だから好きな人が好きな人を嫌ってたら悲しかったの」
面と向かって好きと言われると、何やらこそばゆい。この素直さは母親の影響なのか。さらさらの髪をくしゃくしゃ撫でてやると、燕は目をきゅっとつぶって、はにかんだような顔をした。
どうしてか和んだが、琉志央はふと気になることが浮かんでくる。
(ちょっと待て、〝仲良し〟って微妙な表現だな、おい。どう〝仲良し〟なのか、そこはかとなく気になるじゃないか)
そうして琉志央はしばし、又も不毛な懊悩の時を過ごす。