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(眠れない……)
もう何度目か、佳弥は寝返りを打った。
明日も仕事だ。寝苦しいわけではないのだから、さっさと眠りたいのに。
(あー……やー、もう。違うよ、違うに決まってるよ。可愛いなんて思ってるわけないよ……わたしのことは食いしん坊で決まりだよ……)
凹んで、再度、寝返る。
「あーっ、もうっ」
佳弥は半身を起こした。手を発光させ、角灯に火を入れる。午前一時に近づいていた。
わけの解らないことで悶々としているくらいなら、薬学の勉強をするべきだ。
食卓に着くと書物を開く。狭くはないが広いわけでもない家だから、机はこれ一つきりだった。
滋養効果のある草、樹皮、花、それぞれ、併せると効果が増す物はいいが、毒になったり効果が下がる物がある。それらを頭に叩き込む為、帳面に書き留めていく。
粉末薬だけでなく、水出し、煮出しでも効果は変わる。覚えることは膨大だった。
師が示してくれた注意事項に沿いながら、佳弥はしばらく黙々と書をめくり、羽根筆を帳面に走らせた。
四十分ほど経った頃、どすりと、玄関口でくぐもった音がした。
驚いて、羽根筆が滑った。佳弥は顔をしかめる。
自分以外がたてる音といえば、角灯の灯心が時折ちりりと鳴るか、外で鳴き始めている虫の声くらいだった。だから、今の物音は、かなりはっきり聞こえた。
佳弥宅の両隣に住む人は、公園管理役と馬術教官。両者共三十代の穏やかそうな人で、誰かを招いて宴会などをする気配は今のところ無い。夜は静かなものである。
小型の家畜でもぶつかったような音だったな。
大陸には犬や猫を飼う人が居るが、メイフェス島では馬以外の愛玩動物を飼うのは禁じられている。
ややの間、外を窺うか迷った。酔っ払いが家を間違えているなんてことも、あるかもしれない。季節柄、薄手の寝間着姿だ。その手の人の前に、こんな恰好で出ていくのはナンだ。
結局、箪笥から夏物の上着を引っ張り出し、それを羽織って玄関に向かった。細心の注意を払って閂をそうっと外し、扉に手をかける。
少し押し開けただけで、何かに当たった。佳弥は唾を飲み下して、外を窺う。
玄関の扉に、女性らしき人影が寄りかかって座り込んでいた。佳弥は素早く手に光を集めた。明るめの茶の髪色が照らし出され、更にぐったりとうつむいた顔――
「野茨っ!?」
時間帯も忘れて佳弥は悲鳴をあげた。長い髪はもつれて絡まり、美人の筈の顔のあちこちが、腫れて赤黒く鬱血している。
腫れ上がってしまって半ば閉じているような目が、虚ろにこちらを見た。
「佳弥……ごめ……」
「しっ、しっかりして――」
無理矢理に佳弥は玄関をすり出た。野茨は寝間着ではないようだったが、身に纏ったそれは皺くちゃだった。所々血の染みのような物も散見される。もしかすると身体中を痛めている。
触れても大丈夫な場所が判らない。
けれど佳弥の魔術技能は、念動術も少々不安なほどだった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう――)
血が付いてかさかさになった唇から、野茨の掠れた声が洩れた。
「ごめん……で、も、助け、て……」
「助けるよ、当たり前だよっ」
(でもどうすればいいか判らない――)
泣きそうになるのを必死でこらえた。今は泣いている場合じゃない。とにかくこんな所に野茨を置いておけない。
「痛んだら、ごめん」
短く囁いて、佳弥は野茨の脇の下に潜り込んだ。肩を支えて立ち上がる。弱く苦痛の呻きが聞こえたが、そのまま玄関を開けて家に運び込む。
広くない家なのに、寝台までが遠く感じた。
痛みを紛らせたいのか、野茨が独り言のように言う。
「明かりが……見えちゃ、た、ものだ、から……ホント……ごめん……」
「謝んなくていいから――一体、何があったの」
「……箔瑪、よ……」
夕方に会ったばかりの人物の名に、佳弥は息を呑む。
「は、箔瑪さんが……?」
「やっと、今、寝て……今晩、物凄く、不機嫌、だ、た……」
「ふ、不機嫌て――」
まさか、そんなことで恋人をこんな酷い目に遭わせたのか!?
野茨だけでなく、佳弥も身体が震えた。
なんとか寝台に友を横たわらせる。野茨は細く息を漏らし、目を閉じた。
お水飲める? と声をかけたが反応が無かった。うろたえて名を連呼したが、腫れた瞼は動く気配がない。力無く投げ出されている腕が、ひくひくと痙攣していた。
(誰か――)
佳弥は机に取って返すと角灯の火を吹き消した。鍵を引っ掴んで家を飛び出す。
(わたし、薬処の職員なのに――こういう時の為に、薬師を目指したのに――)
何もできない我が身が、悔しくて情けなかった。半ば泣きながら都の路地を走り抜けた。
どうしてか解らない。何故か佳弥は、六老館の隣に駆け込んでいた。
薬処の上司の家は、粗方判っていた。そして助けを求めるなら、自宅両隣でも六老館でも良かった筈だった。
だのに、佳弥の頭は、誰か、誰か、と思いながら、一人しか浮かべていなかった。
玄関を何度も叩いて、ずっと脳裏に浮かんでいた夜色の髪と菫色の瞳が出て来て、佳弥は心の中で繰り返していた言葉を夢中で叫んだ。
「助けて、お願い、助けて――野茨を助けてっ!」
ルシオウは、裸の半身に袖を通さず上着を引っ掛けた姿で、寝起きの不貞腐れた様子も顕わに佳弥を見下ろした。億劫そうに袖へ手を通しながら問うてくる。
「何処に居る」
「わ、わたしの家にっ、早く、お願い、早く――」
急に、佳弥は両の頬をぱんと挟まれた。軽い痛みにびっくりして瞠目する。ルシオウは片肌の状態で、佳弥の頬を包んだまま命じた。
「深呼吸しろ」
佳弥は従う。頬から伝わる温度にホッとして、涙がこぼれてきた。薄闇の中で濃くなった菫色の目が、呆れたように眇められた。「泣くな、騒ぐな。黙ってとっとと案内しろ」
頬を解放され、手の甲で涙を拭いながら佳弥は頷く。頷いて踵を返すと、ルシオウはもう片方の袖にも手を通しつつ、すぐついて来てくれた。
ちょっと走ってから、心配になって振り返る。ぴたりとついて来ていた彼は、追い払うように手を振った。又目頭が熱くなったが、後はもう振り返らずに一目散に家へ戻った。
静まり返っている周囲を窺ってから、佳弥はもどかしい思いで鍵を開ける。
家に入って寝台へ駆け寄ると、野茨は佳弥が出て行った時と同じ様で昏睡していた。室内は夜の闇の中だったが、歩み寄ったルシオウは、見るなり、こりゃあ……と呟く。
「蒼杜を連れて来る。輪を置かせてくれ」
「はい」
「多分、湯が要る。お前はそれを桶に何杯か用意してろ」
「分かった」
ルシオウは瞬間移動の指輪精製の古語を、不思議と落ち着いて響く低声で滑らかに唱える。対の輪を玄関脇に置くなり、彼は忽然と消えた。寝起きの状況で、リィリへの指輪を持って来ていたのだ。
すらりとそこにあった姿が無くなると、佳弥はたちまち不安になった。治まっていた震えが湧き起こって、ぱし、と両頬を自分で叩いた。深呼吸する。
(うー……違う)
涙が滲みそうになり、奥歯を噛み締めて佳弥は台所へ向かった。
◆ ◆ ◆
後宮での昼食後、琉志央は、二日続けて栩麗琇那と一室で向き合う羽目になった。
昨日は、話があると持ち出したのはこちらだった。今日は、向こうからだった。
二日続けてなので、琴巳と燕がちょっと拗ねたような顔をしていた。
部屋に入ると、何か飲む? と栩麗琇那が問う。緑茶、と短く告げて、琉志央は手前の椅子を引いた。
この皇帝は料理の腕だけは微妙らしいのだが、茶を淹れるのはかなり上手い。いい香と味を出してくる。
ゆるく湯気が立つ陶器の湯呑が出されれば、口元に寄せるまでもなく薫る。琉志央は匂いだけでひとまず満足して、懐から畳んだ書紙を出した。
「蒼杜から預かっていた。恐らく要るだろうと」
師の署名入りの、ノイバラの診断書と治療概要。
栩麗琇那は黙って受け取ると目を走らせ、ほんの僅か口の端を上げた。
「流石に話が早い」
「アレの頭の中は、メイフェスより半日先行していそうだからな」
「それぐらいで済んでくれると、何とかこちらもついて行けるが」
(ついてくなよ……)
適温の湯呑を傾け、琉志央は茶を含む。口中に爽やかな風味が広がった。
書紙を畳み直して懐にしまうと、栩麗琇那は脇の小箪笥から紙と筆記具の一式を出してきて、卓に並べた。向かいに腰かける。
促すようにこちらを見るので、琉志央は口を曲げた。こちとら普通の脳みそしか持ち合わせていない。何も言わずに促されても困る。
しかしながら、要求が判らないでもないから、琉志央は自分でも不思議な気分になる。この場合は、どちらの才能なのか。
「昨日の夕方辺りから話せばいいのか」
「多分、そうなんだろう」
応じながら、栩麗琇那はさらさらと何か書き始める。公用語を崩したような文字だった。視線に気づいたのか、静かに説明した。「速記だ。聞いたままをすぐ書き留められる。後で普通の文字に書き変えればいい」
ほぅ、と琉志央は茶を飲む。
あまり余計なことを話している暇は無かった。蒼杜からは、一応、とノイバラへの薬も預かっている。
栩麗琇那も大して時間は無いだろうから、それ以上は何も言わない。琉志央は湯呑を茶托に置くと、一連の出来事に関して知っていることを話し始めた。
「ハクメって奴な、夕方に噴水のある広場で掲示板を見た時、針が振り切れた気はした」
カヤが走り去る寸前に示していた紙に、先月の五歳課程の話題が掲載されていた。
あんな風に公表されているとは知らなかった。
琉志央は面食らっただけだったが、奴はしばし信じられない物を見るように文面を凝視し、次いで、酷く腹立たしげな気を放ち始めた。
「ムカついた挙句か、頓珍漢なことを言いやがった」
『ふん。ガキ共はまじないなんていかがわしいモノで誤魔化せても、女は無理だったようだな』
琉志央は散歩の途中、たまたまカヤが警備役と一緒のところを見かけたので、近寄ってみただけだった。
その時点ではそれがハクメとは知らなかったが、どうもカヤを口説きにかかっているように見えた。いずれにせよ、今は警備役自体に関わらせない方がいいと思い、しょうがなく、口を挟んだのだが……
「奴は、俺もカヤを口説いてるところだと思い込んだらしい」
栩麗琇那は、ちょっとだけ面白そうにこちらを見る。
あの時ハクメに告げた台詞を、琉志央はむすっとして繰り返した。
「俺は、他に相手が居る女を欲しがるほど、渇いてない」
「賢明だな」
(さらりと言うな)
浮かんだ文句を、琉志央は茶と一緒に飲み干す。
羽根筆をするすると動かしながら、栩麗琇那は整い切った無表情で訊いた。
「ハクメは、その賢明な発言に何て?」
「何も。何か言いたかったようだが、口をもごもごさせるだけで、巧いこと出て来なかったみたいだった。で、俺は奴をその場に残して家に帰った」
「……ノイバラとカヤの証言と併せても、どうやら、君の言う通り。踏み越えてしまったきっかけは、大陸の魔術教官への歪んだ嫉妬だろう」
「もう書面にしてきたのか。老も思ったより仕事が速いな」
「老からはまだ。俺の所に来ているのは、ウチの優れ者が取ってきた証言だ。ハクメを寮の自室で謹慎させ、建前、同僚も関わっていないか調査。これを口実に他の件も引っ張り出すには、今少し時間がかかると思う」
「四十人も居る警備役、抑えておけるのか?」
「別件の名目で、皇領アル地区の主管補佐に、一時帰島してもらっている」
「一人だけかよ」
「主管と主管補佐には、皇領の実質統治を任せている。ルウの民でも皇族に近い術者だ」
「ほぅ」
「この機に、警備処を皇領統治に附属する機関へと変えるつもりなんだ」
「……大陸へ送るのか、警備役を」
守護者のくせに破壊しそうな連中を送り込むなよ、と大陸人としては思う。
うっかり表情に出てしまったか、栩麗琇那は声に笑みを含ませて言った。
「主管達は俺ほど甘くない。生粋のルウの民だ。誇りを穢すような者は許さないだろう」
「お前、そんな連中の上で、よく好き勝手やってるな」
「俺は、ルウの誇りを履き違えていない」
「……なるほど」
漠然とだったが理解できて、琉志央は顎を引く。
羽根筆を傾けて続きを促され、午前二時過ぎ辺りからの顛末を語った。
カヤの家に着いてノイバラの命帯を見たら、これまでに見たことの無い酷い揺れが、全身に出ていた。とても琉志央の手には負えなかったから、すぐに蒼杜を連れて来て、治療を任せた。
しばらくするとノイバラの意識が戻り、ヌサギから聞いていた内容が、当人の口から明らかになった。
ハクメが彼女の自宅に居る筈だと言うので、琉志央は朝まで確実に拘束しておくことにした。鍵を預かって荒れた家に忍び込み、眠りこけていた奴に暗示術をかけた。誰かがいいと言うまで寝てろ、と。
そうして、明けた朝一番に六老館へ通報した。
ノイバラの受けた暴力の痕は、蒼杜の治療後で傷の治りが早いルウの民をしても、その時点でまだまだ酷かった。数人で訪れた老は慄きながら事実を確認し、寝ているハクメを叩き起こすと、罪状を告げて連行した。
蒼杜はカヤに薬草を使った粥の作り方を伝授した後、五時近く、琉志央と大陸に帰宅した。それからリィリの医療所で、先程の診断書をしたためた。
「じゃあ、諸々に付き合っている君は寝ていないのか。すまないな」
殊勝な発言を栩麗琇那が洩らしたが、琉志央は鼻を鳴らす。
「俺がくそ真面目に四科まで過ごすわけない」
「あぁ――なら、良かった」
応じたが、皇帝にしては珍しく、今の返答で良かったのかと自問している風だった。
話が済んで琉志央が席を立つと、栩麗琇那がやや気遣わしげな口調で言った。
「ルウの民として情けないの一言に尽きるが、今回の件、根底には君への暗い感情がある。言われずとも油断する君ではないだろうが、完全に片づくまで、重々気を付けてくれ」
琉志央は、肩をすくめて見せた。
「俺を拾った魔術師の屋敷に居ると、思っておくさ」




