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予定通り、八の月は印術を教えている。
術力や一定以上の動力が自分に向かって来た時、風、火、水といった、自然物の盾を生み出せる魔術だ。六時間ほどしかもたないが、強度は結界より上で、闇魔術を当てられても一度ではそう壊れない。
初日に見本を実演したら、子供達は予想外の興奮を見せた。燕曰く、とってもかっこいい、そうだ。理由はどうあれ、先月以上に、幼子達は熱心である。
基本的に呪文は要らないが、宙に術力で描く紋を覚える必要がある。紋には種類があるから、全部習得するには少々時間がかかるだろう。ひと月では多分、無理だ。
とはいえ、これを覚えれば結界は楽勝だし、術力調整の精度も増す。後は発光、光弾、眼力、教本に載っている全ての魔術が、芋蔓式に会得可能だ。
印は各自に練習させては効率が悪いと、蒼杜が言った。納得して、琉志央は連日、子供達と日陰に横並びし、紋を一緒に繰り返し宙に描いている。
最初はついつい、実演時同様、普通に描いてしまった。ほぼ全員から、速いです、と抗議された。
慣れてしまった身には、ゆっくり描くのは、存外、難しい。蒼杜にぼやいたら、可笑しそうにしていた。慣れるしかないのぅ、と守護精霊が他人事丸出しの口ぶりでぬかしていた。遅さに慣れてたまるか、と琉志央は言い返しておいた。
印は速く描ければ描けるだけ、損は無いのだ。速さを得た印は、結界より格段に危機回避率が高い。
三時の鐘の音が聞こえ、途中まで描いていた風の紋を終いまで描くと、琉志央は手を下ろした。子供達の小さな手も、ほっとしたような吐息と共に次々下ろされる。一度描いては休憩を入れるが、術力を指先に集中させるし、そこそこ腕がこる。
それでも一週間経って、皆、だいぶん慣れてきている。
「印は他人に施すことも可能だ。この紋が完璧になったら、それも覚えてもらう」
告げながら琉志央が立ち上がると、少年の一人が活き活きとした目で見上げてきた。
「誰かを守ってあげられるんだ、大陸の守護者っぽいね」
「そういやそうだな。できるようになれば、立派なルウの民に一歩近づけるぞ」
わぁ、と幼子達は顔を見合わせる。
(無邪気なもんだ)
この五歳教室の十六人が、やがて、真の大陸の守護者を名乗るのだろうが。
琉志央は短く喉を鳴らした。
「今日もちゃんと飯食って身体休めろよー。他人を守るのもいいが、先ずは自分を大事にしろ」
はぁい、と珍しく子供達は声を揃えてきた。
◎ ◎ ◎
幣木は眉をひそめた。
今日の野茨は足を引きずっている気がする。
先月の中頃から、あの後輩はしばしば身体を庇うような動きをしている。
これまでは腕のことが多かった。特に左。両手で持った方がいいような書籍も、右で支え持って運んでいた。
ちょっとだるそうに見える程度で、違和感は無い。けれど、彼女が同じ部署に配属されてから指導を担当してきた身としては、これまでと違う動作が気になる。
図書館内の司書域で、返却された本を分類しながら、幣木は野茨を窺う。細身の美人後輩は、四、五冊の書籍を両手に抱え、館内奥の書架へと向かっている。うつむきがちに、ゆっくりと。右足の運びが、やや遅れ気味だ。
幣木は目を逸らすと頭を掻く。野茨には恋人が居るようだし、こう頻繁に視線を送っては無粋だ。毎月一日に窓から微笑ましい光景を眺めるのとは、種が違う。
否、今月は、そう微笑ましくもなかったか。
今まで、後ろ姿からも黄色い声が洩れているような、そわそわと華やぐ若い娘の姿だったのに。先日の佳弥は、いつものように通りに出て来たものの、何処かぼんやりとしていた。それでいて、薬草園に戻る折には、そそくさとしていた。
『あらら。図書館から丸見えって知った所為かしら』
野茨は少し垂れている眦を更に下げて、苦笑気味にそう言っていた。
そう、野茨、表向きはいたって普段通りだ。
だから却って気になるのかもしれない。何処か痛めているのなら、言えばいい。彼女はこんな頼り甲斐の無い先輩でも懐いてくれていたし、以前は紙で手指を切ったことまで言ってきたように思う。言われれば、後輩の仕事の一部くらい、流石にこんな先輩でも不満無く引き受ける。実際、引き受けてきた。
かたりと近くで物音がして、我に返った。目を向ければ、野茨が脇に立てかけていた踏み台を手にしている。目が合うと、照れ臭そうにへらりと破顔した。小声で言う。
「持っていくの忘れました。届かない場所があったのに」
「あぁ、なら、僕が行こう」
幣木は未分類の本を示した。「君はこっちをやってて。座っていていいよ」
え、と言いたげに小さく唇が開いたが音は洩れない。幣木は顔をしかめて言ってみた。
「足を痛めているだろう?」
髪と同じ丁子色の双眸が見開かれた。動転したのか右足から後ずさり、眉を歪めてよろめく。幣木は軽く腕を支えて呟いた。「やっぱりか」
「け、今朝、ちょっと、転ん、で」
ひそめた声が震えている。怯えたような震え方だった。幣木は嘆息すると、野茨を椅子に座らせた。
「ルウは治りが早いけど、君、この頃しょっちゅう、あちこち痛めてるみたいだ。休憩時間に薬処へ行っておいで。佳弥君が居るから敷居は高くないだろう?」
ぽんと執り成しに頭へ手をおいてから、幣木は野茨が行っていた書架へ足を向けようとした。
上着の裾が引っ張られ、少々驚いて振り返る。野茨の手が、縋るように裾を握っていた。強く握っている所為で、骨の辺りが真っ白になっている。
館内だから声量を落としているが、その時の野茨の声は殆ど囁きだった。
「佳弥には、言わないで」
「……何故」
「…………」
「佳弥君には先月の末に、君が夏バテじゃないかと相談してしまったよ」
裾を掴ませたまま、仕方なく幣木は告げた。びくりと野茨は肩をすくめた。
「佳弥、何て……?」
「次に会った時にそう見えたら、君を食事に誘うと請け負ってくれた」
「ど、何処で食事――」
「そこまでは、聞いてない」
どうもおかしい、と脳裏に先程から警鐘が鳴っている。野茨、と改めて幣木が名を呼んだ時、上司の声が飛んできた。
「こら、こそこそするにしても、短く切り上げろ」
すみません、と慌てて二人は頭を下げる。
野茨が唇を噛み締めて分類作業を始め、釈然としないまま、幣木は司書域を出て書架へ向かった。
◇ ◇ ◇
八の月二週も過ぎ行く昼休み、佳弥は実家から薬処へとぶらぶら戻っていた。
手には、夕食のおかずが少し入った駕籠を提げている。
先月最終日に卵を分けてもらってから、佳弥は半ば意地で、自炊の習慣をつけることに成功した。ただ、これまでの経験があまりにも少なく、如何せん作れる料理の種類が乏しい。
中一日で同じ料理を作って食べることもあり、すぐに限界を感じた。野茨に頼りたかったけれど、会う機会が無く、こちらから出向くのは箔瑪が居るかもしれないから憚られた。
それでもう、今更恥ずかしがってもいられず、母に教授してもらうようになったのだ。
昼休憩になると、市場で食材を買い、実家で教えてもらいながら調理。それを食べてから、今度は冷めても美味しくいただける数品を伝授してもらい、作って持ち帰っている。
実家を出る前にもっと教わっておけば良かったが、出なければ今でも佳弥は母に頼り切っていた気がする。だから良しとした。
宅地の路地を抜け、大通りに出る。
広場に入って噴水を通り過ぎ、斜めに横切ろうとした佳弥は、目の端に知った人が映って足を止めた。
六老館の隣の家の門前に、簡素な単衣姿のヌサギが佇んでいた。今日も暑いというのに、降り注ぐ日差しをモノともせず、宮殿の方を向いて、じっと立っている。誰かを待っているのだろうか。
佳弥は、何となしにそちらへ歩き出した。野茨のことが気になっていたからだ。
近所になったから会う回数も増えそうなものなのに、友とは引っ越し前より顔を合わさなくなっている。ヌサギから夏バテ云々と聞いて以降も、当の野茨を一度も見かけていない。薬処には来ないが、ひょっとすると具合を損ねている可能性がある。
(もしそうだったら、箔瑪さんのことなんて気にしてられない。先輩に相談して、薬を持って押しかける)
心の内で一つ頷いて、佳弥は真っ直ぐヌサギに歩み寄った。
「こんにちは」
声をかけるまで、宮殿と反対の方から来た佳弥に、ヌサギは全然気づく様子がなかった。泡を食ったように顔を向けてくる。
「あっ、こ、こんにちは」
「あのぅ、野茨、元気ですか? わたし、あれからも会ってなくて……」
早速用件をぶつけると、ヌサギは何とか聞き取れる声量でぼそぼそと答えた。
「変わりなく、働いているよ」
「そうですか。なら良かった」
ささやかにほっとして、佳弥は口元がほころぶ。
ヌサギは、目をちょっと横手に向けながら言った。
「今月、帝が陣舎に入った途端に君が薬草園へ戻ったのは、図書館から見えているのを知ったからかなって言ってたよ」
「――っ」
思いがけない話題に、佳弥は噎せた。両手で口を覆い、げほげほと咳き込む。
「大丈夫?」
当惑気味なヌサギの問いかけに、佳弥は咳を続けつつも何度か頷く。
(逐一周りに報告しないでよ、野茨ーっ! ていうか、そうだった、図書館からよく見えてたって忘れてた!)
今月初日に遠く帝を見た時、皇妃は卵で何を作ってさしあげたのだろう、と思ったのだ。その時点、同じ卵で佳弥は炒り玉子と目玉焼きを作っていた。
きっと皇妃はもっと違う立派な物を作られたのだろうな、と想像したら、己の腕前が恥ずかしくて居たたまれなくなった。
しかしお蔭で、自炊に執着が生まれたのだ。
「すみません、急に……」
やっと喉に違和感が無くなった時には、涙目で額に汗が滲んでいた。佳弥は指先で汗を拭う。
「いや、僕が、変なことを言ったかもしれない」
ごめん、と頭に手をやるヌサギに目をやると、その煉瓦色の髪の上にちょこんと夜色が見えた。
どうしてか、心ノ臓が跳ねた。
「お前ら、人んチの前でいちゃつくなよ、暑苦しい」
台詞は剣呑だが、声音は笑みを含んでいた。ルシオウが、ヌサギの背後から手をのばして門を開ける。にやりと口角を上げてそのまま門を抜けるから、佳弥は慌てた。
「いっ、いちゃついてなんていませんっ」
「双方顔赤らめて、もじもじしているのにか?」
肩越しに振り返った菫色の双眸が、可笑しそうに細まっている。
又、笑われた。しかも又、変な誤解をしている。
「噎せちゃっただけですっ」
「ほぅ? 気をつけろよ?」
ルシオウは淡い若葉色の短衣から鍵を取り出すと玄関を開ける。ここに住んでいるのか。
それより、こんなに早く再会したなら、食いしん坊も訂正できるのでは。
(でもわたしってば、お昼が終わったばかりで夕飯のおかずを持ってる。説得力が無さ過ぎる)
脱力する佳弥の前から、ヌサギがぱっと消えた。目を走らせれば、焦ったように門を通って行く。
「あの、僕、教官にお話があって来たんです」
半分扉を開けていたルシオウは、軽く眉を上げてヌサギを見る。佳弥は少し驚いて二人を見やった。誰か待っている様子ではあったが、彼を待っていたとは思いもしなかった。
「俺は恋のまじないなんて知らないぞ」
違うってば! と佳弥が口を挟むより早く、ヌサギが真剣な口振りで応じた。
「そういうお話ではないです。その、突然で恐縮ですが、中で宜しいですか」
「何だ、改まって……まぁ、二時前までなら構わないが」
小首を傾げつつも、ルシオウは扉を大きく引き開けて屋内へ促した。ありがとうございます、とヌサギは声を昂らせて頭を下げる。
佳弥はわけの解らぬ羨望に苛まれ、ヌサギの背中を見送った。
ルシオウは、扉を開けたままこちらを見て、不思議そうに言った。
「早く入れよ」
「いえ、わたしは……」
思わず喜んだ自分に混乱しながら、佳弥は首を振った。「通りかかっただけだから……」
「すみません。佳弥君は、そうです、関係無いんです」
ヌサギが傍らでそう言い、ルシオウは先程と反対側に首を傾け、そか、と頷いた。
「じゃあな、佳弥」
「――はい」
疎外感にいささか視線を落とすと、駕籠の中身を覆う薄黄色い布が目に入る。佳弥は急いで、これだけは言っておかねばと、告げた。「あの、この前、卵、どうもありがとう」
おぅ、と気のいい低声を返し、片手を上げると、ルシオウは扉の内に入って行った。