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七の月も残り一週間となった日、佳弥は引っ越した。
瞬間移動術を使えば、荷物運びは簡単である。両親も手伝ってくれたから、家具の配置を予定と変えたりもしたのに、一時間もしないで済んでしまった。
『いつ帰って来てもいいし、まぁ、頑張んなさい』
母がからからと笑って帰って行き、佳弥はしばし、遂に自分だけの家を得られた喜びに浸った。
意味も無く部屋をうろうろした後、寝台に寝転がる。
荷運びの時間はかからなかったけれど、移動術を繰り返したので、全身にだるさはあった。すぐにうとうとしてしまう。
気づいた時には日が傾いていた。
「嘘っ」
時計の示す時刻に、佳弥は飛び起きた。
週に一度の休日、転居が短時間で済んだのだから、いつものように薬学の勉強ができた筈。だのに、寝て過ごしてしまうとは。
急いで寝台を降りたものの、ゆらりと視界が回る。眠りこけて昼食を抜いてしまった上に、水分も摂っていない。加えて室内には夏の熱が籠もっている。
(わわわ――拙い――)
薬師は曲がりなりにも医療の一端に携わっているのだ。それを目指す者として、こんなことで倒れでもしたら恥ずかし過ぎる。
呼吸を整え、四つん這いで佳弥は台所に行った。杯に水を注いで塩を入れたかったが、持って来ていなかった。
(わたしってば、駄目駄目じゃん……)
とにかくも水を飲んでから、佳弥は小銭を入れた巾着を手に、よろよろと家を出た。
午後六時が近づいていた。もう商店は閉まるから、食材は買えない。屋台か寄合所で夕食にありつかねば。
申し訳程度の庭を抜けて門から出た所で、横合いから来た人影にぶつかりそうになった。互いに身をのけ反らす。
「あれっ、佳弥チャン」
「あ――こんばんは」
体勢を立て直した佳弥は、丈高い黒い影を見上げる。箔瑪だった。
「ここ空き家だったから、誰か出て来るなんて思わなかった。驚かされたな」
「あは。今日、引っ越して来たんですよ」
「へぇ、そうだったんだ」
箔瑪は爽やかな笑顔を見せる。警備役の制服をきりりと着こなし、相変わらず美男だ。「じゃあ、今度お祝いしなきゃな」
「え、やー、祝う程のことでもないですよ」
佳弥がぱたぱた手を振ると、箔瑪はニヤリと悪戯っぽい笑みになる。
「理由なんて何でもいいんだよ、佳弥チャン。たまに集まって、夜更かしして騒ぐのも一人暮らしの醍醐味だぜ」
それは佳弥がちょっと期待していたコトだ。実家暮らしでは、そうできないこと。
そっか、と佳弥が頷くと、そそ、と箔瑪は言って、腰の脇に両手を当てた。背筋を伸ばす。
「ま、今度な。俺はこれから夜勤だから」
「あー、そうでしたか。いってらっしゃい」
箔瑪は暑そうにも見える黒衣の裾を、軽やかに翻して路地に消える。
佳弥も路地に出ながら、ふと思い至った。
(箔瑪さんて、確か寮住まい――あそこで出くわしたってことは、今まで野茨の家に居たんじゃ? わぁ、同棲みたいだなぁ)
何だかんだ言って、結婚しそうではないか。
決まったら、それこそ佳弥の家にでも集まってもらって、独身最後のひと騒ぎなんてしてみたいものだ。
(もてなすには、料理の腕も上げないとね)
佳弥は気を引き締める。
とはいえ、今宵は、外食で英気を養うしかなかった。
一週間後、七の月最終日の昼休憩時、佳弥はコートリ・プノスの市場に居た。
一人暮らしを始めて五日目、既に二度も寝坊している。間に合って起きても朝食を抜き気味で、昼の弁当も、作る時間と気力が無くて屋台通い。初日の意気込みは何処へやら、夜も似たり寄ったりの状況で、寄合所で安い定食を、他の独り者達と背中合わせに食べる有様。
今日の定時後にはひと月分の給金が貰えるけれど、この調子で来月も散財していては、佳弥の収入ではもたない。何かちゃんとした食材を調達して、今夜こそ、自宅で作って食べねば……!
屋台で鶏肉の串焼きを一本だけ買って昼食を済ませると、佳弥は所持金の残りを確認し、簡単に調理できて安い物が無いか見て回った。
(パン生地、馬鈴薯、玉葱、胡瓜……後、卵かな)
卵と言えば思い出すのは、リィリ共和国で御馳走になったあの一品。思い出しただけで涎が出て来て、佳弥は情けない気分になる。
今の自分の腕では、とてもあんな物は作れない。
(いや、もう、炒り玉子でいい。炊き立て御飯の上に乗っけて、濃いタレかければ最高だから!)
卵を前に金色の夕食を妄想していた時、背後から覚えのある低声がした。
「これに、鶏卵を三十個」
大量の注文に、はいはい、と店の小母さんが喜々として駕籠を受け取る。佳弥はそれを差し出した腕の持ち主を振り返った。ハイ・エストの弟子が立っている。
すっとした夜色の眉が、おや、と言いたげに上がった。よぅ、と相も変わらず軽薄な挨拶を口にする。佳弥は、やむなく頭を下げた。
「先日はお団子、御馳走さまでした」
「あぁ、美味かっただろ、あれ」
「爽やかなお味で、皆さん、喜んでいました」
程良く冷えた白団子は、白餡に薄荷が練り込んであって、上司に大受けだった。佳弥もたくさんいただきたかったけれど、食べないと弟子に言い切った手前、一つで我慢したのだ。苦い記憶である。
「今日の下っ端は、お使いか?」
「悪党の一味みたいに言わないでくれませんか」
団子の恨みも蘇っていた佳弥は、むっとして主張した。「確かに一人だけ見習いですけど、れっきとした薬処の職員です」
「ほぅ? お前も見習いだったのか」
ゆるりと笑みながら、弟子は縹色の帯に絡めた飾り紐の一本を手繰ると、隙から小袋を出す。財布だろう。
〝お前も〟に佳弥は詰まった。えぇ、と堂々と応じられない。
片や、やっとこ材料の栽培や採取処理を覚えたばかりで、調合をしたこともない薬師。片や、帝に乞われて魔術教官までやれてしまう医事者。呼称は同じ見習いとしても、悔しいことに差が大きい。
「で、佳弥はお使いなのか?」
不意に名を口にされて、どきりとした。
「う、ううん。わたしは、夕飯のおかずを、どうしようかと……」
支払いを済ませて駕籠いっぱいの卵を受け取ったルシオウは、なら、と横目に見下ろしてきた。
「お前にもやろうか?」
「ふぇ?」
は? と訊き返すつもりだったのに、喉から出たのは間抜けな音だった。食費が浮くんだろうかという期待が、滲んでしまったのだ。
「やれるのは、三時以降だけどな」
彼はするりと立ち位置をずらす。期待させるだけで去るつもりかと思えば、買い物が済んだから店の前からどいただけだった。佳弥も慌てて、少し移動する。
(この人、気が利かないわけではないのね)
思えばリィリ共和国で栽培解説をする合間、医療所に来た患者の中に、弟子のことをハイ・エストに問う人が居た。最近見かけないが独立したのかと。
問いかけの様子から、淋しがっているのが知れた。ちょっと意外だったのだが……
「これから試験に使うんだが、多分二十個は無傷だと踏んでる」
手提げ付きの駕籠を小脇に抱え、佳弥より余程お使い中らしき恰好でルシオウは言った。「大半、琴巳に引き取らせる約束を取り付けておいたんだが、この季節に卵はそうもたないし。お前が要るなら分けるぞ」
佳弥が学生の頃、魔術の月末試験は無かった。どういう試験なのか判らないが、皇妃に献上できるということは普通に調理可能なのだろう。
「そういうことなら、少しください。あ、いえ、安く売ってくれるんでも助かります」
「金はいい。決まりだ。四時頃に薬処に持ってくな」
「ありがとう」
佳弥は胸を撫で下ろす。卵は確かに傷み易い。いただき物がある間は、自分を甘やかして料理を怠けずに済みそうだ。
「あまり期待するなよ? もしかすると全部駄目になる可能性も、あるにはある」
「え」
見上げると、ルシオウは笑いをこらえるように口を片手で覆った。
「俺の試験は、合格するまでやらせるからな」
「あ――そうか……」
他の科目では基準に達しなくとも許されるかもしれないが、ルウの民の魔術水準は悠長なことを言っていられない状況になっている。基礎だけは確実に教え込まないといけないのだ。
そしてルシオウは、手を抜くつもりが無いのだ。
佳弥は一段と差を感じた。この医事者見習いは、メイフェス・コートでは魔術教官だ。及び腰で名乗りもあげられなかったルウの民より、ずっと毅然としている。
「ま、連中、筋がいいから全滅はしないさ。お前も合格を祈ってやるといい」
うん、と佳弥が顎を引くと、じゃあな、と若い魔術教官は人ごみに紛れて見えなくなった。
他の買い物をすべく歩き出しながら、つらつらと佳弥は考える。
(あの人、幾つなんだろう。ハイ・エストより若そうだわ。それでいて教官育成までできるほど魔術に通じているなんて……)
ふと、何かが胸の内で引っかかった。さほどせずに気づく。思わず立ち止まってしまった。
(どういうこと――あの人、大陸に指輪で移動してた)
瞬間移動は便利だが、闇範囲の魔術。指輪を作れるようになるには、闇との生涯契約が必要だ。
医事者は光範囲の魔術を極めたような職種で、闇範囲の魔術の使用は極力避ける。契約などもっての外で、彼等は、指輪を用いた瞬間移動はできない。
(医事者試験を受けられないじゃない。何で契約しちゃってるの、あの人)
試験を受けられなければ、合格する筈もないから認可もされない。つまり、医事者にはなれない。
蒼杜・ハイ・エストがその事実を黙っているとは思えない。ルシオウは、知っていて見習いをしているのか。
(永久的に見習いと解ってて、何で又……)
悲壮感も醸さず、笑んで見習いと自称していた。
(不思議な人……)
邪魔そうに脇をすり抜ける人が居て、佳弥は歩みを再開した。それでもなかなか、頭の隅からは同じ見習いのことが消えなかった。
◆ ◆ ◆
午後三時過ぎ、琉志央と燕が宮殿の正門前に着くと、門番が寄って来た。
おかえりなさいませ、と挨拶してから、久しぶりにそれで済ませない。皇子と五歳担当が持っている物に目を向けてくる。
琉志央は、手にしていた銀の角皿を覆う薄い麻布をめくった。
「今日、試験をしたんだ。卵を割らずに扱えるかどうかって」
「ははぁ、なるほど」
深めの皿の中には、割れた卵とその中身が八個分あった。
「母上が、これでお夕飯を作ってくれます」
燕が手にしていた駕籠を掲げ、無事な卵も見せる。門番は、いいですねぇ、と目を細めると、それで通過を認めた。
内門でも同じやり取りをしてから、後宮に辿り着く。
「思ったより少なく済んだのね」
手際良く銀皿から殻の残骸と中身を分別し始め、琴巳がえくぼを浮かべた。「ウチとサっちゃんチの分で、丁度いい量よ。今夜はチャワンムシね」
試験を一発合格してのけた燕が喜声をあげる。好物のようだ。
柴希がおやつの配膳をしながら、駕籠にまだ小山を作っている卵を見て苦笑した。
「でもやっぱり残りは多いわねぇ」
「四個ばかり薬処に引き受けてもらう」
前に置かれた黒塗りの器を見ながら、琉志央は告げた。じゃ残り九個ずつ、と柴希がやや安堵した様子になった。
琴巳も柴希も三人家族だから、一日一人一個消費するとしても三日で捌ける。三日ぐらいなら、地下氷室に入れておけばもつだろう。
アンニンドウフというこの日のおやつは、甘過ぎず好みだった。硝子杯の冷えた黒茶にも合っている。
燕が試験の様子を事細かに語るのを、琴巳と柴希が楽しそうに聞く。琉志央も、無事に全員合格したから、脳裏で光景を再生させつつ、のんびりと聞いていられた。
一度目に失敗したのは三人。二度目も駄目だったのは二人。三度目でめでたく全員合格できた。
仕上げに今一度、一発で合格した者にも再試験したが、しくじる者はもう出なかった。流石にルウの民というのは、脈々と術者の血を受け継いできている一族。落ち目になってはいても、生まれながら、根底に勘のようなモノが備わっているのかもしれない。
燕の話がひと段落すると、柴希が興味深げに、来月からは何をするか訊いていいかしら、と問うてきた。
幼子と一緒におかわりしたアンニンドウフを匙ですくいながら、印を覚えてもらう、と琉志央は予定を明かす。
「教本に無いが、念動ができれば印は簡単で効果的な守備魔術だ」
「なるほど、いいわね。ルウは術力頼みで結界に依存しがちなのよね」
(判っていたか)
柴希はいずれ栩麗琇那の片腕にと望まれている才媛らしいので、一族の弱点なども見えてしまうのだろう。琉志央は口の片端を上げる。
「栩麗琇那ほど術力があると、結界で事足りるだろうがな。都の連中もそう錯覚するのはいただけない」
「あー、命帯で術力加減も判るんだっけ」
「俺も最近、随分見える。お前辺りも結界で事足りるかもしれんが、都には印も併せて使った方が良さそうな奴だらけだぞ」
深刻そうに、柴希は溜め息をついた。
「その技術があれば、見習いに教官を頼んでないのよ」
(大陸の守護者としては、本格的にやばいなルウの民)
琉志央は肩をすくめ、硝子杯を傾けた。
「お前らもう、皇族以外はメイフェスから出ない方がいいな。大陸で魔術師とでも出くわしたら、どうなるか知れたもんじゃない」
半端に術者な分、瞬殺で済めばいいが、下手をすると興に乗られて、嬲り殺される憂き目に遭いそうだ。魔術師の多くは、そういう手合いである。
「それじゃ困るから、見習いに頼んでるんでしょうが」
柴希は口を突き出す。「帝から伺った時は半信半疑だったけど、見習い、腕は確かだわ。頼りにしてるんだからね」
「そうよ?」
いきなり話に加わった琴巳のその一言に、不覚にも琉志央はぐっときてしまう。鼓動が速まったのを自覚して内心で狼狽していると、解っていないだろうに燕が楽しそうに母親を真似る。
「そうだよぅ?」
「うるさいな、お前らは。引き受けたんだから、しっかりやるとも!」
黒茶をあおると、琉志央は卵包みを抱えて宮殿を逃げ出した。
註:翠界の1ヵ月は30日。1週間は6日間です。