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青木ケ原にようこそ

作者: yu-ki


 四十八平方キロメートルという広大な面積に広がる原生林、青木ヶ原樹海。

 富士の裾野に広がるこの樹海は、多様な広葉樹や針葉樹が生え、他の場所では見られないコケ植物も生い茂る。

 そこに生きる生物は多種多様の生態系を持ち、水鳥の生息地としても名高く、夏には多くの観光客が訪れる癒しの空間となっている。

 しかしこの癒しの空間は、1960年に松本清張の小説『波の塔』に紹介されて以後、別の意味で世間から注目されることとなる。

 登場人物の一人が死ぬために樹海の内部へと入っていく描写が『波の塔』にはある。

 この小説が出版されて以後、青木ヶ原樹海の中に死に場所を求めて入っていく人が激増した。

 今現在、年間百体以上の遺体が樹海の中から見つかっており、中に入って戻ってこない者の数は、更にその三倍はいるといわれている。

 日本屈指の自殺の名所―――これが、青木ヶ原樹海が持つ、もう一つの顔である。


 第一章 二人


 自動販売機にありったけのお金を入れ、かたっぱしからボタンをおす。

 ゴロゴロと雪崩のように次々に取り出し口に落ちるジュースの缶。

 一つを拾い上げると手のひらに冷えた感触が伝わり、背筋が寒くなった。

 日差しは眩しく気温は高い。

 けれども、全身には寒気が走っていて、頭が重かった。

「お姉ちゃん、見かけない制服を着てるけど」

 暑い日差しの中、焼けたアスファルトの上で突然かけられた声に振り向くと、心配そうな顔つきをした女性が立っていた。

 年の頃は、50くらいだろうか。

「どこへいくんだい?」

 元々、表面上よい子を装うのには慣れている。私は内心の動揺を押し殺し、硝子の微笑を浮かべた。

「友達の家へ」

「学校はどうしたの」

「今日はうちの学校の創立記念日なんですよ」

 とっさに思いついた嘘を、落ち着き払った口調で言った。

「それはそうと今日はあっついですね」

 当たり障りのない世間話をすると、おばさんの表情が幾分和らいだ。

 あまりに正直なその反応を見て、私は見抜いた。この人が私に話しかけてきた意図を。

「お姉ちゃん。ここら辺は初めてかい?」

「えぇ、まぁ。私ここからは遠いとこにある学校に通ってるんですよ。今日は、こっちの学校にいる昔の友人に呼ばれまして」

「そうなの」

 私は緑生い茂る森林を見上げる。

「ここが有名な青木ヶ原樹海なんですね。私、実際に見るのは初めてです。よくテレビとかで自殺の特集とか組まれたときこの樹海の映像が出たりしますよね。やっぱり樹海で自殺する人とかも、このあたりによく来るんですか?」

 私が今までの流れから離れた無遠慮な質問をすると、おばさんは明らかにうろたえたようだった。

「え、ええ。確かによく来るわ。ここでジュースを買っていく人の中にも自殺を考えてる人がいたりしてね」

「なんでわざわざ死ぬのに、ジュースを買うんですか」

「森の中で、毒を飲むときに使うらしいの」

「そうなんだ、怖いなぁ。あっ、でも、私は自殺なんてしませんよ。そこは安心してください」

 動揺して余分な事までしゃべるおばさんにズバリと言い切った。彼女は一瞬動きを止めて、ばつが悪そうな顔をしながら、

「疑ってたこと分かった?」

 私は笑顔を作った。

「あはは。私って、昔から不健康そうな表情してるもんだから、そういう心配よくされるんですよ。いつも何かあるたびに『大丈夫か?』って声かけられるんですね。それでピーンときました。ここは樹海の入り口前なんだし、もしかして、ってね」

「普段は怪しい人がいてもこうやって声をかけることも無いんだけどね、お嬢ちゃんはあまりに若いし、何か思いつめた顔をしてたから。ごめんなさいね。気分悪くした?」

「いえいえ、そんなことないですよ」

 私はニコニコ笑いながら、

「だっておばさんの予想、当たってますから」

 ほんの一瞬だけ、時が止まった。

「えっ?」

 私がなにを言ったのか理解できないわけではないだろう。

 目を丸めるおばさんを尻目に私はにっこり笑い、

「あははっ、冗談ですよ。それじゃ私、行きますので」

 取り出し口に落ちたままになっていたジュースの缶をかばんに詰め込み、私は道沿いに歩き始めた。

                 

 樹海の中で痛む足を引きずりながら、黒川礼二は空を見上げていた。

 視界の先は暗く、木の葉が生い茂る緑の隙間に、かろうじて空が見て取れた。

 もう視界いっぱいの大空をみることもできないのかもしれない。

 不吉極まりない予感が胸中をよぎり、彼は苦笑した。

 何かの冗談であってほしい。

 樹海の中で足を骨折し、ろくに身動きが取れなくなってから、もう何度そう思ったことだろう。

 彼がサバイバル生活を始めてから、もう今日で三日目になる。

 満足に動かすことのできない左足に応急手当を施し、雨水を確保し、地面に生えているキノコや野草を食べ、彼はなんとか命を繋いでいた。

 十分に身動きのとれないこの身では、自力でこの広大な樹海を脱出するのは困難だった。

 今はただひたすら体力を温存し、助けが来るのを待つほうがいいだろう。

 しかし、果たして人が通りかかることなんてあるのだろうか? 

 押しあがる不安を、彼は強烈な自制心で押さえ込む。

 食料と道具が減り疲労で死ぬのが早いか、あるいは、彼がいなくなったことに気づいた知人が救助隊に調査を要請するのが早いか。

 これは彼にとって、人生最大とも言える賭けだった。


 黒川礼二は冒険家だ。いや、冒険家という言葉には語弊があるかもしれない。

 社会的にはフリーのカメラマンとして名が通っているのだが、しかし彼自身は内心、自分には冒険家という言葉が似合っていると自負している。

 彼は高校卒業後すぐに、バイトで稼いだ金を使って世界中を飛び回り、様々な場所を巡って自分の見た景色の一部を画像という形でカメラの中に抜き取り売りさばいた。

 ナイアガラの滝のような世界有数の観光名所から、川に死体の浮かぶヴェラナシ、果てはパレスチナの紛争地帯まで、数え切れないくらいの国と地域を彼は巡った。

 気づいたときには、ありとあらゆる場所を巡り歩くその行動力とカメラマンとしての腕が認められ、写真のみで生計を立てれるほどになっていた。

 しかし、カメラマンとして稼げる収入は、彼にとっては副産物の一つに過ぎない。

 彼が本当に求めているものは金ではなく、未知とスリルだった。

 今回は日本に戻ったその足で家に帰る間もなく直にここを訪れたのだがそれが大きなミスとなった。油断したとしかいいようがない。

 樹海のある山梨に住んでいたため、彼は幼い頃に樹海内部の探検をしたことが何度かあったのだが、その経験が逆に彼から危機感と警戒心を奪っていた。

 なんと愚かなのだろう。たいした装備も用意せず、たったひとりで樹海内部にいたのだ。

 ―――どうしてそんな無謀なことを?

 もしも誰かにそう問われたら、彼は笑ってこう答えただろう。 

 ―――気がついたら、ここにいた。

 彼は良くも悪くも、自称通りの生粋の冒険家だった。

 大地に出来上がった天然の風穴に落ち葉を敷き詰めて足跡の寝床を作り、彼は助けを待ち続ける。

            

 なんで私はこんなところにいるんだろう。

 おばちゃんに別れを告げた後、樹海内部へと続く砂利道を歩いていると、私の思考は醒めてきた。

 今現在、道のりは良好である。雲が出てきたせいか、若干太陽の照りが少なくなってきた。生い茂るブナたちが私を歓迎してくれる。

 ハイキングをするのに最適な見事な景色が広がっているが、遊歩道の脇に何の脈絡もなく立っている看板を見て、興ざめした。

『命は両親からいたただいた大切なもの! もう一度静かに両親や兄弟、子供のことを考えてみましょう』

 ここが自殺スポットであることを思い起こさせる立て札があちこちに乱立している。

 ふと目をやると、白い箱が木の幹に針金でくくりつけられていた。なんとなく、家の玄関前に設置されている郵便受けに似ている。

「何これ?」

 好奇心にとりつかれ、箱に近づいてみる。

『自殺防止呼びかけ箱』

 箱の表面には赤い文字でそう書かれていた。

 私は言葉をなくして立ち尽くす。

 こんなものが設置されている時点で、既にこの空間自体が病気である。

 中を覗いてみると、箱の中には折れたノートの切れ端や聖書の一部、それに食べ終わった後のガムが入っている。

 ………なんでガム?

 私はごく自然な動作でガムに触れないようにノートの切れ端を取り出した。一枚目を開いてみると、大きな文字で一言書かれていた。

『生きろ!』

 私の額に汗が浮かぶ。

 私は無言で二枚目を開いた。

『ぼっくらはみんな~生きている~生き~ているから―――』

「・・・・・・・・・」

 ビリッ。バキッ。

 私は紙を破り捨て、自殺防止呼びかけ箱を蹴飛ばした。

 私は、死を望んでいるから、ここにいる。

 私が死を望む理由は単純なものであるが、あんなノートの切れ端で生への執着を取り戻すほど、馬鹿げたものでもない。

 もう、嫌だ。もう、疲れてしまった。

 この世で生きるのが嫌になってしまった。

 全てが、ムカついた。

 学校で集団で嫌がらせをしてくる馬鹿なクラスメイトも。

 それを知っていて見てみぬふりをする他人や、教師どもも。

 私のような人間を知ろうとせず、何の救済の手も差し伸べようとしない、ただのうのうと生きている大人たちも。

 その大人たちがつくりあげたこの鉄のような社会そのものも。

 そして何より、そんな社会に生き、それでも自分だけは綺麗でいたいと思い続けた私自身の愚かさも。

 私はおかしいのかもしれない。ときどき、そう思う。

 世間と折り合いのつかない人間は皆、私と同じような感情を抱きながら生きているのだろうか?

 私が幼い頃に『オウム真理教』という宗教組織が犯罪を犯した。

 狂った教祖にそそのかされ、凶行に走った信者達が日常の何に追われ、何に苦しみ、なぜあんな馬鹿げたことを実行したのか、私にはわかる気がした。

 世間と折り合いがつかないまま、にっちもさっちもいかなくなった人間は、人知を超えた何らかの真理(それは神だとか、超科学だとか呼ばれるけれども)にすがりついてでも、自分の安らげる場所を作りたいという心境に駆られるのだろう。

 さもなくばアイデンティティを見失い、機会やきっかけさえさえあれば、私のように生きる意味や死に場所を追い求めるようになるだけだ。

 自分は何のために生きるべきなのか。

 何が正しくて、何が誤ったことなのか。

 自分の居場所はどこなのか。

 どこに行けば自分は安らげるのか。

 この世には、分かりそうで分からないことが、多すぎる。


「ふう」

 と私はため息を吐いた。

 いずれにしろ全ては手遅れだ。私に対するどんな説得も呼びかけも、今この時となっては手遅れだ。

 もとより私は生きているのかどうかさえ怪しいほどの、無駄な人生を過ごしてきた。

 私ほど無力な存在価値のない、寧ろ害悪にすらなる人間は、この世にそうはいないだろう。

 帰る場所はもうない。ならばせめて、静かに逝こう。

 誰にも見つかることがなく誰にも迷惑のかからないこの樹海は、自分の最期の場所にふさわしい。

 かねてよりぼんやりそんなことを考えていたのだ。

 しかし、眼前に広がるこの雄大な大森林を見ていると、どうしようもなく自分がちっぽけに思えてくる。

 その姿は、あまりに美しく爽やかで。

 森の空気は、あまりに清く澄んでいて。

 ―――自殺しようとする考えが消えてなくなりそう。

 思わず浮かんだ思考。

 わたしはその言葉を打ち消すように静かに首を振った。

 後戻りして、そこになにがある?

 周囲に人の気配は全くない。

 私は「よし」と一言つぶやき、ソロソロと遊歩道から脇にそれて樹海の中へ足を踏み入れた。

 人がほとんど踏み込まない地は、当然のごとく無茶苦茶歩きにくい。

 富士の溶岩が冷えて固まった岩角や割れ目があちこちに散らばっていて、それにコケが生えている。

 自然に倒れて朽ちかけた巨木も転がっていて、木々の根が無数に行く手をさえぎっている。

 歩けば歩くほどに、緑はその色を増し、疲労から私の呼吸は荒くなる。

 そして、どれくらい歩いたことだろう。額にいくつもの汗の雫が浮かび、足が鉛のように重くなってきた頃、私はそれに出会った。

 見たくはないのに、見つけてしまった。

 台地に出来た巨大な天然の風穴の中、日の光の届かない薄暗い場所にそれはあった。

 古びた―――白骨死体。


 いつまで続くのかさえ分からないサバイバル生活の中であっても礼二が決してその身から離さないものがある。

 懐にしまいこんだ一枚の写真を、彼はずっと肌身離さずもっている。

 写真には、礼二と礼二の妹が写っている。

 彼の最大の理解者である彼女は、今も父の家で彼の帰りを待っていることだろう。

 礼二にとって妹は、自分以上に大切な存在であり、守らなければいけない存在であり、彼女のためならばどんな逆境も乗り越えていく覚悟があった。

 だからこそ、礼二はその声を聞いた時も、冷静な行動をとることができた。

 ワォオオオオオオオオン

 遠くで獣が吼える声がした。

 山犬の声だ。

 この樹海に多数生息する山犬は、負傷した人間を見つけるとハイエナのように様子を伺い、じっと死を待つ。

 運が悪ければ生きている人間に襲い掛かってくることもある。

 礼二のとった行動は迅速だった。

 足元に置いてあった大きなリュックサックを開き、中にあるものを確認する。

 海外で買い込んできた妹への土産を横へ押しやると、消毒薬、傷薬、脱脂綿、包帯、絆創膏といった医療用具から軍用懐中電灯など、サバイバルに必要な装備は一通り詰め込まれていた。

 この道具に加え、彼には豊富な知識があった。

 足さえ骨折していなければ余裕で樹海横断くらいできるのだが、しかし―――礼二は持ってきた道具の中にあるものがないことに気づき、顔をしかめた。

 どこかで落としたのだろうか。

 いつも必ずリュックに入れているはずのホイッスル―――獣よけの笛が無くなっていた。

 代用品となるラジオは、あいにく先の旅行で酷使しすぎたために故障中。つまり今手元には、獣を威嚇するための道具がほとんどない。

 ワオォオオオオオオオン。

 山犬の遠吠えが、森の木々に反響した。距離はそんなに遠くない。

「どうする?」

 押しあがる不安を押さえ込んで自問する。

 とにもかくにも痛む足を引きずって立ち上がる。

 足元に転がしておいた手製の松葉杖をつきながら、礼二は木を集めた。

 獣は火を嫌う―――それこそ、子供でも知っていることだ。

 この樹海内部で集めるなら燃やす木はとりわけヒノキや松がいい。ヒノキは火力が大きく火持ちもいい。松は着火すると火花を散らすため、動物の威嚇にはうってつけだ。

 後は、時間との勝負。


 礼二が一通りの準備を整える間もなく、日は徐々に暮れ始めた。

 ガサガサガサ。

 不意に近くの茂みが動いた。

 ギョッとして礼二は動きを止めた。恐る恐るそちらを見るが、なにが潜んでいるのか判然としない。静かな沈黙が周りの空間を支配した。

 ゴクリ、といつの間にかノドが鳴った。

 最悪の事態を想定しながら、礼二はリュックサックが置いてある風穴まで戻り、どっかりと腰を落として周囲の地理を確認した。

 彼が活動拠点に決めたこの場所は、木々が密集する樹海の中でありながら、そこそこ見通しのよい、開けた空間になっている。

 風穴の入り口の上にある木の枝には彼が持参してきたビニールのシートが何枚か張りめぐらされ、雨よけや、水溜めの役割を果たしている。

 しかしそれをのぞけば、大自然のど真ん中という言葉がぴったりと似合う場所である。

 獣に襲われた場合、逃げ切れる可能性はほぼ0だ。

 礼二はサバイバルナイフを抜き放ち、そっと脇に置く。

 程なく、礼二の予想は最悪の形で彼の前に現れた。

 茂みを書き分けるようにして歩み出てくる山犬。その数、七匹。

 揃いも揃ってこっちに何か恨みでもあるかのような、威嚇のまなざしを送ってくる。

 礼二は苦笑いを浮かべ、薪に火をつけた。

 もしこれで雨でも降って火が消えようものなら、ロクに動かない足を引きずって、本格的な殺し合いをしなければいけない。

 空を見上げてみるが、日の光は見えなかった。

「最悪だな」

 冷や汗を流しながらも、スリルをたのしんでいる礼二の表情は、どこか楽しそうだった。


 日が落ち始め、次第に周囲が暗くなり始めた頃、樹海の中で私は白骨死体を見つけた。

 別にそれ自体は驚くことではない。

 元々ここは自殺者が後を絶たないことで有名なところだ。

 自殺者の大半は巨大な樹木の根元や遊歩道からそれほど離れていない樹海の中、そしてこのように穴ぼこのなかで静かに死を迎える場合が多いということも、あらかじめ知識として知っていた。

 実際に樹海に入った後に死体や他の自殺者に遭遇する可能性も考慮していなかったわけじゃない。

 もしかしたら見つけるかもしれない、と理屈ではそう思っていた。でも―――。

 全身が総毛立ち、私はニ歩三歩と後退してしまう。

 誰もいない闇の中。私と死体の二人きり。

 理屈云々はさておき、やっぱり怖いもんは怖いっ!

 おびえつつも観察すると、死体は女性らしかった。

 薄汚れ、雨水を含んだブランド物のハンドバッグや、かかとの取れたヒールなどの遺留品が、遺骨の周りにそれこそ無造作に転がっている。

 死亡した後かなりの年月がたっているのか彼女の骨は人の形をとどめていない。

 微生物に分解されたのか森の獣に食い散らかされたは定かでないが、一言で言うなら、とても無残な死体だった。

 全身にスゥと冷気が走った。まるで背骨が丸々氷の柱になってしまったかのような、そんな錯覚に陥る。 

 私は初めてこの瞬間、知識としてではなく実体験として―――死というものを知った。

 死体は物言わず、動くこともない。当然だ。だってこれはもう『人』ではなく、人だった『物』なのだから。

 こんな暗い場所で、誰にも気づかれることなくたった一人で、孤独に、この死体はどれだけ多くの時を過ごしたのだろう?

 寂しくはなかったのだろうか? 悲しくはなかったのだろうか? 

 命の尽きる最後の瞬間、彼女はなにを思って逝ったのだろうか?

 この女性の姿は、私の未来そのものだ。

 あぁ、なんという間抜け。死体を見た瞬間、初めてここに来てしまった自分の行動が正しいものだったのか疑問がわきあがった。

 と同時に、この死体に対する哀れみが胸の奥から湧き上がり、今は白くなった彼女の骸に手を合わせずにいられなかった。

 なぜだろう。

 全身がガクガクと震えた。

 この森を出たい。

 そんなことを考えてしまうほどに、信念と覚悟がぐらついている。

 私と同じように死への旅路を思い立ったこの女性はどんな思いを抱きここにきたのだろう。

 私は恐る恐る彼女に近づき、指先でそっとそのバックのジッパーを開き、中を覗いてみた。

 露を含んで重くなったバックの中には色々な物が入っていた。

 まず目に飛び込んできたのは、片手でもてるほどの大きさをした、表紙が青色をしたアルバムだった。

 開いてみるとかわいい子供の写真が入っていた。

 これはこの人の子供だろうか。無邪気な笑顔を浮かべ、こっちに向かって手を振っている。

 パラパラとページをめくってみると他にも色々な人が写っていた。落ち着いた物腰の男の人は、多分この女の人の旦那さんだろう。

 この女性が生きていた時の姿らしきものも確認できた。

 このアルバムに写っている人たちはみな幸せそうな顔をしている。少なくともこの笑顔は本心から笑っている顔だ。

 どんなときでも周囲の目を気にして繕い笑いしか出来なかった半端者の私なんかより、よほど幸せそうに見える。

 これだけ恵まれた環境にありながらこの女性はなぜ死を選んだのだろう? 残された家族は今はどうしているのだろうか?

 自殺する人間の傾向としては、まず自分の子供を道づれにしてから―――というのが多いという話を聞いたことがある。

 写真に写っていた小さな子供のことが気になった。

 パラパラとページをめくっていくと、後半のページはなぜか開かなかった。

 水気を含んだ後に乾いてしまったからページがくっ付いてしまったのだろう。

 私は仕方なく、アルバムの中を見るのを後回しにし、バッグから他のものを探した。すぐに財布を見つけた。

 中を見ると、運転免許証に銀行のカード、それにテレホンカードに何枚かのキャッシュカードが入っていた。

 運転免許証には、さっきアルバムに写っていた女性の顔写真がある。

 財布の中に札はない。小銭だけがチャラついている。財布をとじながら、一冊の手帳がバッグの中にはいっていることに気がついた。手を入れて引っ張ってみる。

 バッグの底に張り付いているようで中々取り出せなかったが、少々力を込めて引っ張るとペリペリと音を立てて剥がれた。まるで、乾燥したノリが剥がれ落ちるに。

 手帳が私の手のひらに入った。

 中をあけてみると、前半は家計簿、後半は日記帳のようになっていた。

 家計簿には、目を覆いたくなるような借金の額が記されていた。


6月20日

 この森にやってくることになろうとは思わなかった。

 いわばこれは私にとっての試練。もしもこの森から自力で脱出することが出来たのなら、私は生まれ変わった気持でもう一度あの場所に戻ろう。

 もし脱出することが出来なかったのなら、そのときは―――。


6月21日

 景色が変わらない。樹海というものはどこまで行っても、同じ風景だ。もう、疲れた。何か飲み物を持って来てればよかった。


6月22日

 家に帰りたい。あの子の笑顔がもう一度みたい。


6月23日

ノドがからから。野犬がぐるぐるとはいかいしている。まるで私を襲おうとしているみたい。


―――ここから手帳の様子は一変する。日付がなくなり、書体が乱れ、思いつくままに書かれたと思う文章が、行に沿うことなく書きなぐられている――


『雅子へ。

 もしもの時のために、この手帳に私の思いを残します。ごめんね。こんなに情けない母親でゴメンね。もう二度と会えなくなるかもしれないけど、私はいつでもあなたのそばにいる。

 馬鹿な母親だって罵られてもかまわない。母親だって思われなくたっていい。

 私はいつでもあなたの味方です。もう、絶対にあなたを放さない。もしもう一度あなたに会えるのなら、どんなことをしてもあなたを守り通す』

『神様、もし生きてあの子のところへ帰れるのなら、私は何だってします。どんな苦しみにでも耐えて見せます。だからもういちど、あの子に会いたい』

「・・・・・・・」

 読んでいて、胸が苦しくなった。私は次のページを開こうとして、先程のアルバムと同じようにページ同士が貼り付いていて開かないことに気がついた。

 雨のせいで貼り付いただけにしては、中々開かない。一体何が糊付けの役目をしてるのか。

「・・・・・・・・」

 張り付いたページをはがしていく。

 開いたページは、どす黒く変色した『何か』がべっとりと付着していて―――。

『死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない』

 ただ狂ったように、その一文で埋め尽くされていた。


 私は全速力で走った。

 怖い。怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖いこわいこわいこわいコワイコワイコワイコワイコワイ。

 もう、なにが怖いのかもよく分からない。

 一度胸から溢れ出た恐慌は、堰を切ったように全身へと行き渡る。

 走った。

 下手をすればこけて骨折でもしかねないような樹海の中を、全速力で走って走って走った。

 周囲に夜の帳が下りて全く視界が利かなくなったところで、わたしはようやく足を止めた。

 そこは、樹齢百年を優に越すような、巨大なブナの木の根元だった。

 あの女の人のように、もう二度と私はここから抜け出すことが出来なくなったら、どうしよう。

 木にもたれかかるようにしてその場に座り込む、三角座りをして顔を足にうずめた。

 程なく首筋にポツリ、となにか冷たいものが当たった。

 空を見上げると、水滴が落ちてきた。

 一滴、二滴。

 私の顔に当たってはじけ散る。と同時に、いきなり激しい雨となって降り始める。

 いつの間にか暗雲が空を覆っていた。皮肉にもその様子はまるで私の心理そのもの。

 帰る場所など無いのに、私はただひたすらに、外の世界を望んだ。

 

「う………うぅん」

 私は目を覚ました。

 ブナの木の窪みに身を潜めたまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 体の節々が痛く足が筋肉痛になっていたが、頭はひどく、すっきりとしていた。

 雨は止んでいたが日の光はまだ見えない。未だに深夜らしく視界はすこぶる悪かった。

 ふと、なにかの音が聞こえた気がした。

 ポクポクポク。

 単調に聞こえる。

 場違いな、木魚を叩くような音だった。

 こんな森の中に誰かいるのだろうか?

 私は立ち上がって、音がするほうを見た。

 もしかしたら修行中のお坊さんかなにかが、この森にいるのかもしれない。あるいはこの森で亡くなった人の供養をしているとか。

 ずいぶん突拍子もない発想だったが、ほかに理由なんて思いつかなかった。

 ポクポクポク。

 木魚の音は一定の速さで聞こえてくる。私は意を決して、手探りでそちらに向かって歩み始める。

 暫く歩みを進めた後、私は立ち止まった。

 おかしい。

 どこまで行っても木魚の音源に近づいている気がしない。

 まるで私が移動するのと同じ方向に音源も移動しているかのようだ。

 私は気味が悪くなり、元来た道を戻り始める。

 すると―――。

 ポクポクポク。

 木魚の音が、私の後をつけるように移動を始めた。

 これにはさすがの私も怖くなった。

 幽霊など微塵も信じていないが、この樹海では、心霊現象の類がはいて捨てるほどに目撃されてる。

 しかしどれだけ急いでも、どれだけ必死になっても、木魚の音はピタリと私の背後にくっついて、どこまでいっても離れない。

 なんなんだこれは? 

 わけが、わからない。

 私は二度目の恐慌状態に陥りかけ、そして―――目を覚ました。


 そこは、開けた空間だった。

 木々の合間を縫ってサンサンと陽光が降っている。

 いつの間にそこにいたのだろう。夜だったから私が気づかなかっただけだろうか。

 私の正面にある大木にもたれかかるようにして、彼は座り込んでいた。

 片足を包帯でぐるぐる巻きにし、全身ドロだらけで、血にまみれた男。

 彼は、眩しい日だまりの中にいた。

 一見死んでいるかのように見えたが、その口元からは、安らかな寝息が漏れていた。



 ~挿話~


 勢いよく階段を転げ落ち、ドサッと床に倒れ付す。

 赤い鮮血が彼女の頭部からにじみ出て、それきりピクリとも動かない。あまりにあっけないその死に様。

「え?」

 呆然として、彼女を突き落とした自分自身の両の手と、階下にいる動かなくなった彼女とを交互にみつめる。

 クラリ、と眩暈がした。全身に力が入らない。焦点が定まらずよろついて倒れそうになり、あわてて階段の手すりに身をもたれさせる。

 これは―――現実? それとも夢?

 現実なわけがない。こんなにも簡単に、人が死ぬわけないのだから。

 現実なわけがない。なぜ私のときに限って相手が死ななくてはいけないのだ。死んでもおかしくなかったのは、むしろ私だったはずだ。

 彼女の側に人が駆け寄る。一人の男子生徒がかがみこんで彼女の脈をとり、悲痛な表情で首を横に振った。

 周囲の人間たちが騒ぎはじめる。でも、彼らが何を言ってるのかさえよくわからない。

 殺しの現場を見た彼らは、あるいは階下の彼女に必死の形相で声をかけたり、あるいはこちらを非難で満ちた目で睨んでくる。

 耐え切れないほどの視線に射抜かれ、絶叫があがった。

 他のだれでもない、私自身の口から出た叫び。

 私―――美崎凛は混乱した頭を抱えたままその場から逃げ去り、そして、二度とそこに戻ることはなかった。



   第二章協力


 光が見えた。

 いつも暗い夜道をさまよっていた自分には、それが生きていくための唯一の道しるべだった。

 その光があることで、自分はどこまでも強くなることができた。ずっと前から、そして、きっとこれからもそうだろう。

 ゆっくり、光の中から女性の姿が浮かび上がる。礼二はごく自然に、その姿に見とれていた。

「やぁ」

 彼は久しぶりに出会った彼女に話しかける。

 どれだけ会いたいと願ったことだろう。

 俺はただ一言おまえに伝えたいんだ。「ありがとう」と。

 彼は両手を広げて彼女を思い切り抱きしめた。

「会いたかったよ、礼奈」


「きゃああああ!」

 私は目覚まし時計くらいの大きさをした石を持ち上げ、飛びついてきた男の頭を反射的にぶっ叩いた。

 蛙がひしゃげるような声をあげて、仰向けに倒れる男を睨みつつ、私は肩で息をした。唇が震えている。

 びっくりした。

 眠っていた男に声をかけたら、叫びながら襲いかかってきた。

 男の顔には無精ひげが生え、お世辞にも美形とはいえない顔つきだった。

 体は筋肉の塊みたいに大きく、見た目はワイルドというよりもはや野獣。

 か弱い乙女を自称する私としては、身の危険を感じるどころの話ではない。

 なんなのよ、一体?

 戦慄しながら、動かなくなった男を観察する。

 白いツバのついた帽子をかぶり、丈夫そうなジーンズのズボンをはいている。靴は登山靴っぽい。

 ここにいるって事は、自殺志願者かあるいはそれを発見するために捜索に入った人間かのどちらか可能性が高いのだが、見た感じどうやら彼はそのどちらでもないようだ。

 足を負傷しているらしく、包帯でぐるぐる巻きにしてあった。

「うう………」

 唸り声をあげて、さっき私が殴った辺りを押さえながら、男はよろよろと上半身を起こした。

 焦点の合ってない目で二三度瞬きをした後、ギョロリとした蛇のような目で、私をとらえる。

 警戒する私には目もくれず、男はふぬけた表情になり、現状がよくわからないとばかりに辺りを見回し、そして再び私を見た。

「礼奈? ………じゃないのか」

「え」

「いや、別人か。しかしよく似ている。あんた、名前はなんというんだ?」

 私のほうからしたらあんたのほうが正体不明なんですが、とか思いつつも、男の声が落ち着き払っていたので、私は律儀に名前を名乗ってやる。

「………凛。美崎凛」

「そうか、俺は………」

 男はそこまでいってどもる。大きな眼球が左上を向いた。

「俺の名前は………」

 男はそこまで語って、再び沈黙する。

 樹海に沈黙がもたらされ、さわさわと葉ずれの音だけが耳に入ってきた。

 訝しる私を目の前にして、男はしごく大真面目な顔をして意味不明な言葉を呟いた。

「俺は、誰?」

「はい?」

「なんか霧がかかったかのように、頭の中が真っ白だ。なにもかも、思い出せそうで思い出せない。なんか、そんな感じ」

 子供のようにそう呟く。

 一瞬ぽかんとする私だが、すぐに正気に戻る。

 男の言葉をそのまま信じるようなことは、当然のごとく出来ない。

 一体あんたは何者なのか、なぜここにいるのか、一体ここでなにをしているのか。

 私は可能な限りの疑問をぶつけ、男の正体を探ろうとした。

 しかし、自称記憶喪失の男の口から出る言葉はどれも曖昧なもので、満足な回答は得られるものではなかった。

「ずっと暗い道を歩いてたんだ」

 男はそんなことを言った。

「でも、淡い光が見えた。俺は導かれるようにその光の方向に歩いていった。そしたら、光の中にあいつがいるのが見えた。俺はあいつを抱きしめようとして、それから―――うーむ、よく覚えてない」

 実際には抱きつかれそうになったのは私だが、それを言うと私が石で頭をぶん殴ったことまで芋蔓式に暴露しなくてはいけなくなりそうだったので黙っておくことにした。

 きっとこの人、私が石で頭を叩いたショックで思考回路がおかしくになっているに違いない。

「どうにかして自分のことを思い出せないですか。さっきそういえば礼奈って言っていましたよね。誰のことです?」

 尋ねてみると、意外にもそれまでとは違い、すんなり理解できる答えが返ってきた。

「礼奈………礼奈は、俺の妹だ。名前は黒川礼奈」

「なんで妹の名前覚えてるのに、自分の名前覚えてないんですか?」

 彼は腕を組んで考え込んだ。彼自身が理解できないとでも言うかのように。

 私の頬を汗の滴が伝った。

「ところであなた、自分の妹を抱きしめるんですか?」

「あぁ、そうだが」

 ………シスコン。

「何か考えたか?」

「いいえ、何も。でも、妹が黒川って苗字なんだったら、あなたも黒川って名前なんじゃないですか?」

「おっ」

 彼は右の拳で左の手のひらをポンとたたいた。

「なるほど、一般的に考えればそうだろうな。しかし、何だって記憶喪失なんて厄介なことに―――。えっと、凛………だったよな、何か分からないか? 俺の記憶と頭がなんかボンヤリしてる訳」

「さぁ、知らないですよ」

 良心がチクチク痛むが、表面上はしれっとした表情でそう言うと、黒川さん(という名前なんだろう、きっと)はそのまま私の言葉を信じた。

「そっか、まぁ、思い出せないものはしかたない。しかし、妙だな。ここが樹海であることや日常的な生活の仕方なんかは全部覚えてるんだが」

「ここが樹海だって分かるんですか。だったら、樹海からぬけ出す方法とかも、もしかしてわかります?」

 黒川さんはあっさりと首を縦に振った。

「意外」

「俺もだ。しかし、こうまで色々なこと覚えてるのに、自分の過去だけがすっぽり思い出せないってのはどうにも違和感があるな。何もかもを思い出せそうで思い出せない、すごいもどかしい状態なんだがなぁ」

 私は以前テレビで見た、記憶喪失の特集番組を思い出した。

 そのテレビ番組によると、黒川さんのように自分の過去のみが頭から抜け落ちている記憶喪失者というのは、案外珍しくないらしい。

 そういった人たちは、日常生活の面ではなんら支障のない行動をとることが出来るのだそうだ。

 彼らの記憶は、様々なことで復活する。

 頭に再び衝撃を加えられたのがきっかけだったり、自分が昔に住んでいた家を目の前にした時だったり………とにかく色々だ。

 何もしなくてもすぐに記憶が戻る人がいる一方、一生かかろうとも無くしてしまった記憶を取り戻せない人もいる。

 脳というものは人体のブラックボックスで、未だ十分な解明がされてない部分なだけに、記憶喪失者に対する特効薬なども、まだ開発されていないそうだ。

「そのうち記憶も戻ってくるんじゃないですか?」

 私としてはそう答えるのが精一杯だ。

「ふむ、まぁここであれこれ悩んでも仕方がないか。一つだけ今分かることは、俺はこの樹海を出て病院にいかなくてはならないことだな。よしっ、樹海を出るためにまずは現状を把握しないといけない」

 黒川さんはものすごくポジティブかつアクティブに頭の中身を切り替えて、自分の左足に目をおとし、

「あぁ! なぜか足を怪我してるぞ!」

「い………今気づいたんですか? 痛くなかったんですか?」

 黒川さんは腕や体を曲げたり伸ばしたりして体の状況を確認した。

「案外、しっかり動きそうだ。凛さんは体のほうは大丈夫か。どこか怪我とかしてないか」

 私は一瞬キョトンとした後、お世辞にも森の中を歩くのに向いているとは思えない制服姿の自分をまじまじと見て、

「私は大丈夫です。それより黒川さんはどうなんですか?」

「怪我のほうは平気だと思う。開放骨折というわけでもないしな。ただ、やはり普通に歩くことは出来そうにないから行動にはかなり制限がかかりそうだな。何か足の代わりになる道具があればいいが」

 周囲を見回してみると、巨大なリュックサックと二股に分かれた手製の杖が二本転がっていた。

「助かったな、これがあれば百人力だ」

 黒川さんは、子犬に触るような手つきでリュックを撫でた。

「あの、黒川さん。足が折れた状態で樹海から出れます?」

「あぁ、大丈夫だ。きみが協力してくれれば必ず抜け出せる」

 私は暫し黙考した後に、答えた。

「わかりました。よろしくお願いします」

 彼を全面的に信用するわけではないが、黒川さんの目は子供のように純粋で、真剣で、そこに嘘の影はみてとれない。

 私は人の性格見る目においては人一倍の観察眼を持っているつもりである。

「まぁ、こんな得体の知れない男の言葉を信用するのは不安だろうが、しばらくでいい、信じてみてくれ。信用に値しないと思ったら、その瞬間俺を見捨てて一人で行ってくれていい。もっとも、一人で行かれたら俺が困るんだが」

 私の心を見通しているかように礼二さんはそう言った。

 その表情と言葉があまりに馬鹿正直で、彼に疑いの目を向けていた自分のほうが馬鹿みたいに思えた。

 気まずそうに笑おうとする彼の顔を見て、私も微妙に心が緩む。

「行きましょうか。早くこの樹海を出ないと」

「ん。そうだな」

 黒川さんは頬を掻いた。

「だが、その前に、腹減らない?」

「え?」

 確かに腹ペコだった。昨日の昼から何も食べてないんだからしかたない。黒川さんは自分の持っている鞄の中をあさりだした。

「どこかにチョコレートが入ってたはずなんだが………あれ、ないな。食べてしまったか?」

 鞄の中のものが次々とコケの生えた岩の上にでてくる。懐中電灯、鉈、ロープ、ナイフ、双眼鏡ほか色々。

 何に使うのかは知らないが、Y字型のパチンコや糸のような細いのこぎりとか、私が今まで見たこともないような工具もあった。

「悪い。無いみたいだな」

 申し訳なさそうに彼は言った。私は無言で首をかるく横に振る。黒川さんは周囲を見回した。

「しかたない。空腹のまま動くのも無謀だし、何か採って食べるか」

「何かって?」

「何でも。鳥でも、野草でも、キノコでも、虫でも」

 ………あんたは原始人か?

「虫はちょっと………食べたくない」

 私は頬を引きつらせながら内心必死に拒絶する。

 虫なんて食べるくらいなら潔く餓死する。だって私は現代人。

「だったら無難に鳥くらいか。よし、早速捕まえよう。凛さん、そこらの地面からパチンコ玉くらいの大きさをした石っころ探してくれないか? そうだな、二十個もあればいい。俺はその間、ちょっと作業をしておくよ」

 原始人の意図がわからないまま、それでも私は言われたとおりに石を拾い集めて彼の元に持っていく。

 彼は地面に落ちていた木に鉈をいれ、細かく皮を削ってたくさんのささくれを作る作業を始めた。

「こうすれば多少濡れていても火がつきやすくなるんだよ。単に木に鉈を入れるだけ。やっといてくれるか?」

「黒川さんは何をするの?」

 彼は近くにあった木にもたれかかりながらゆっくりと立ち上がった。

「ちょいと鳥を捕まえてくる。あ、そうそう。くれぐれもここを動かないでくれよ。迷ったら大変だからな」

「うん」

「それと鉈と扱いには注意してくれ」

「はい」

 私は鉈と木の枝を手に持って、その場に腰を下ろす。

 トン。

 慎重に重たい鉈を木の上に落とす。

 小さな傷ができた。

 トン。

 もう一度落とす。

 さっきよりは深いが、黒川さんのささくれにはおよばない。

 もっと力をいれないといけないのだろうか。

 木を正面に置き、鉈を真上から振り落とした。

「えいっ」

 トン。

 一個、黒川さんのささくれより大きな溝が出来た。

 うん。この調子だ。


「黒川さんできたよー」

 なにやら遠くの方をうろうろしている彼に声をかけたのは、それから十分くらい経った頃だろうか。

「こっちはもう少しかかりそうだ。ほかに燃えそうな木とか探して、集めておいてくれ」

 ややたって、黒川さんは三匹の鳥を捕まえてきた。

 二匹は雀で、もう一匹は鶏を一回り大きくしたような鳥だ。

 三匹とも死んでるのか、ピクリとも動かない。どうやら黒川さんがパチンコで撃ち落したらしい。

 私はその腕前に感心しながらも、三匹の鳥を指差した。

「これ食べれるの?」

 っていうか、食べないといけないの?

「動くものはなんでも食えが我が家の家訓だ」

 冗談なんだか本気なんだかよくわからないことを呟き、彼は座り込んで大きな鳥の首筋にナイフをあてる。

 私は思わず目をそらした。あふれ出る血、首の取れる瞬間が鮮明に脳裏に想像できた。そんなもの、見たくない。

「自分がこれから殺そうとするものの最期くらい、みてやってもいいんじゃないか? 何も珍しいことでもないだろ? 生き物が死ぬっていうのは」

「うっ」

 私はうめき声をだして目を開く。

 仕方なく鳥を見た。

 鳥の首すじ、そのナイフが当てられている箇所をみた。

 ほんの一瞬、森が静寂に包まれた。

「すまんな」

 黒川さんの手が一線しその首が飛ぶ瞬間、鳥の目が開いた。

 まっすぐに私を見ている。何かを訴えかけるかのように、限界まで見開いたその目が私の眼球に焼きつく。

 鳥は最期の力を振り絞り、大きく一度羽ばたこうとした。


「なんつーか、なかなか味わえない経験だったわ」

 私は疲れた顔で、焼けた鳥肉を口元に運んだ。

 久しぶりの食事だし味はそんなに悪くないのだが、心は浮かない。それもこれも、鳥の解体なんて生々しいものを見たせいだ。

 私と炎を挟んで対面にいる黒川さんは心ここに無し、といった表情で鳥肉を口に運んでいる。

「とりあえず、聞きたいことがあるんだが」

 黒川さんがそう言って私を見てきた。

「携帯電話を持っているか?」

「携帯電話なんかどうするの?」と尋ね返すと、「救助を呼ぶんだよ」とあっさり言われた。

 こんな辺鄙なところで携帯が通じることに私は驚いたが、これが案外簡単に繋がるらしい。

 だが肝心の携帯電話は、昨日死体を見つけて逃げ出した時に鞄と一緒に置き去りにしたみたいだ。

 あぁ、私の役立たず。

 その後、あれこれと二人で相談をして黒川さんがたどり着いた結論は、やはり助けは呼ぶことが出来ず、自分たちの足でここから出ないといけないという悲惨なものだった。

「いや助かった。おかげで大体の現在位置の把握ができたよ」

 そういってくれたのが、せめてもの救いではあったのだが。

「凛さん。動けるか?」

 会話が終わってすぐに、黒川さんはそう切り出した。

「食後すぐで悪いんだが、移動を始めたい。そこで一つ頼みがある。太陽と富士山がどっちの方向にあるか教えてほしい」

「そんな事調べてどうするの?」

「かつて富士山が爆発した時、鉄やチタンを含む溶岩が大地を覆った。この樹海はその溶岩が冷え固まった上に出来ていてな、ここでは方位磁石が狂ってしまう。

 だから太陽の位置とアナログ時計を使用し方位を調べ、それと富士山の位置を照合し、現在位置を把握する必要があるんだ。わかるか?」

「うん」

 私に向かい「それでは」と黒川さんが手近にあった木を指差した。意図がわからず私は首をかしげる。

「登ってくれ」

「………はい? えーっと。私、木登りなんてしたことないけど」

「この樹海は樹木が高いから、木に登らないと太陽も富士山も見えんだろう。俺の足はこんなだし、頼みの綱は凛さんだけだ」

「私、高いところ苦手」

 黒川さんの顔が引きつる。

「マジか」

「うん。マジマジ」

「つらいだろうが何とか登ってくれ」

「やだ」

 即答。

 ………………。

 その後、登る登らないで十分以上押し問答し、私は嫌々ながら登らされることになった。

「落っこちたら受け止めてくださいね」

「この足で受け止めるのは無理だから落ちないようにしてくれ」

 頼りない言葉を背に受けながら、なるべく下を見ないように慎重にゆっくりゆっくり登ってくる私の背中に、黒川さんが激励の言葉を投げかけてくれた。

「落ちて動かなくなったら、骨は拾ってやるから安心して登ってくれ」

 ………縁起でもないよ、バカヤロウ。

 結局、私はなれない手つきでタップリ時間をかけて登り、太陽の方位と富士山の位置を教えてやった。

「感謝しなさいよ」

「謝謝」

 笑顔で答える彼の言葉に微塵も心がこもっていないように感じたのは、私の気のせいだろうか?

 何か言ってやろうかとも思ったが、黒川はすぐに真剣な顔になった。

 片手を口元に当ててブツブツ一人で何かを呟き始める。きっと与えられた情報を整理して大体の現在位置を割り出しているのだろう。

 仕方なく私が膨れっ面をしてると、彼は顔を上げて現状の説明をしてきた。

「やっぱり位置的に場所は山梨だな。山梨の河口湖周辺であるのなら楽に樹海から出ることができたのだろうが、そこからはかなり南にずれている。抜け出すのに少々時間はかかりそうだ。まぁ、第六サティアン付近でないからまだ良かったが」

「サティアンってオウム真理教の?」

「そう。かつて第六サティアンがあったような山梨と静岡の県境付近は地元の人間でも恐れて入らない危険地帯だ。危険というか、怖いというか。まぁ、観光マップなんかにゃ当然載ってないが隠れた自殺の名所だな。まぁそれはともかく、この後の方針は決まったぞ」

 黒川さんはまっすぐ森の一角を指差した。

「動く方向は北に固定しよう。ただし、言うまでもないがこの辺りは地面がガタガタで樹木が生い茂っている。まっすぐに歩いているつもりでも元の場所に戻ってきてしまうことがよくあるから、定期的に現在地の確認を怠らないようにしないといけない。運が良ければ、数時間で抜け出せるかもしれない」

「本当?」

「うまくいけば、だ。丸々一日かかる可能性だってあるし、時間がかかれば数日かかるかもしれない。なんせ、俺のこの足の状況だからな、長期戦は覚悟しておいてくれよ」

 そして私たちはえっちらおっちら歩き始める。

 行けども行けども景色は変わらず、なんの面白みもありはしない。

 苔の生えたゴツゴツの岩、うねる樹木、凹凸の激しい岩の大地が続く。この景色にも、もうあきた。

 あっという間に時刻は夕刻になる。

 夜が近づき、本日中の脱出は諦めて、森で一夜を過ごすこととなった。

 夕食は歩きながら集めた野草とキノコの塩スープ。これらはリュックサックに入っていた小さな鍋をつかって黒川さんが煮込んだものだ。

 水は草葉についていた雨水を集め水筒に入れたもの。

 テキパキと手馴れた手つきで料理を作る黒川さんを見て、よくもまぁ、ここまで色々知っているものだと感心した。

 きっとこの人なら、無人島で独りきりになっても生きていけるだろう。

 記憶喪失にもかかわらず、記憶喪失でない男どもよりよほど頼りになる。

「ほい」

「ん、ありがとう」

 差し出された食事を受け取って口に運んだ。

 味付けもあって無いようなものだしお世辞にも衛生的とはいえないが、この暖かい食事は今まで食べたことがないくらい美味しいものだった。

「すまんな、全然前に進まない。俺が足を折ってるせいで」

 彼の巨大な重量あるリュックサックを背負って歩き回ったのは私だし、彼が木の根につまづきそうになって私が手を差し伸べてきたことも一度や二度ではない。

 でも、そんなことはどうでもいい。本当に些細なことだった。

「気にすることはないよ。あなたがいなければ私は今頃どうなってたかわからないんだし。それに歩いている最中に黒川さんの雑談を聞くのは楽しいしね」

 小さく微笑んで見せる。

 黒川さんは一瞬幽霊でも見たような顔をした。

「凛さんって笑えるんだな」

「へ?」

「いや、笑うところ、はじめて見た」

 改めて言われて、私は一瞬戸惑う。

「お望みならいくらでも笑うよホレホレ」

 言いながら両方のほっぺたを引っ張ってみる。なんか不思議と柔らかく、どこまでも伸びる気がした。

「ブッ」

 私の顔を見て黒川さんが噴出した。

「なんで笑うのよ」

「いや、別に、フグみたいだなと思った」

 ちょいとまていっ。

「顔がフグみたいだとか、原始人に言われたくないわ」

「だれが原始人だよ?」

 即座にビシッと真正面から指差してやる。

「あなた以外に誰がいるのかしらオホホホホ」というような上から見下す視線もプラスしてやる。

 しかし、黒川さんは一瞬哀れみのこもった視線を私に向け、やれやれと肩をすくめてみせた。

「男を見る目が無いな。俺ほどキュートな男は他にいないだろ?」

 全身全霊をもって「NO」といえる。

「キュートだと言うのなら、ためしに笑ってみなさい」

「なぜいきなり命令口調なんだ?」

 言いながらも黒川さんはニカリと笑った。白い歯が綺麗だ。その容姿をたとえるなら、ナマズ。

 そう、あのナマズだ。黒くてぬめぬめしてピチピチした、二本の長い髭を生やしたあの鯰。

 想像してたら生々しくナマズのキュートな目が黒川さんのそれと重なった。

「ぶっ。あははははははっ。ごめん。黒川さん。確かにキュートだっ」

「そこまで笑うことはないと思うが」

 黒川さんは釈然としない口調でそういった。

 全くだ。なんでこんなことでこんなに笑えるのか、わけがわからない。

 他人と一緒にいてこれほど楽しい時間を過ごせたのは何年ぶりだろう。

「まぁ、笑うことはいいことじゃない。健康にもいいし」

「そんな言葉で騙そうとしてもダメだぞ」

「さて、雑談はこのくらいにして今日は早く寝て、明日は早くから行動しましょうか」

「強引な話の締め方だな」

 黒川さんが浮かべた苦笑いが了承の合図となり、夜会の会話はお開きとなった。


 後は寝るだけ。でも―――眠っちゃいけない。

 地面に寝転がった状態で、私は目をパッチリと開ける。

 深夜に人気のない樹海に男女二人きり。

 いかに相手が足を怪我しているとはいえ、私はか弱き乙女だから、警戒をする。

 疲れて眠気に押しつぶされそうなのを我慢しながら、黒川さんがちゃんと寝るまで見張っている。

 ガサゴソと寝心地の悪い地べたで身じろぎしてると、

「どうした? 寒いのか」

 黒川さんが声をかけてきた。当然寒い。樹海の夜は、とことん冷え込む。

「俺の上着を貸そうか?」

 私は少し呼吸を止めた。

「ううん。いらない」

「そっか。寒くなったら言えよ。凜さんに風邪でもひかれたら厄介だからな」

「はいはい。おやすみなさい」

「ああ」

 その呟き声が聞こえるのと同時に、あたり静寂に包まれる。真っ暗な闇、焚き火の炎だけが辺りを照らした。

 じっと動きを止めていると、この森にいるのが自分一人だけであるような錯覚に陥った。

 顔を動かすと、黒川さんは私に背を向けて眠っていた。

 ちゃんと彼がいるのを確認し、安心する。

 私はそっと黒川さんのほうに顔を向け、暫しその大きな背中を眺めていた。すると、

「ぐぉおおおおおおお~」

 いきなり熊が吼えるような大イビキをたてはじめる。

「うぁっ」

 私は顔を引きつらせた。

 これで狸寝入りなんてことはありえないだろう。この人、すごい眠るの早いっ。まるでドラえもんの、のび太くんだ。

 私が少々引いてる間にもイビキは続く。最初は蚊取り線香の煙に巻きこまれた蚊のごとく全身を痙攣させていた私だが、その呆れ顔はやがて苦笑へと変わっていた。

「まったく、ちょっと頼りがいあると思えばこれですか」

 溜息をはきながら、目を閉じた。両手を耳に当て、洪水のように押し寄せてくるいびきの音に背を向ける。

 さっきまでは眠らないことに苦心してたというのに今度は眠ることが大変だなんて。

 私は眠りに落ちる前にあることをふと思いついた。苛立ち紛れにひっくり返って、イビキ男の大きな背中に向けて小さくいってやる。

「ありがとうね、色々と」

 返ってくるのはあいかわらずイビキのみ。でも、私はそれで満足だ。



 第三章 信頼


 朝が来た。先に目を覚ましたのは私だった。

 黒川さんを起こして少し歩いた後、休憩がてらに食事をとり、その後は延々と歩き続けた。

 どこまでいっても風景は変わらないが、たまに木の枝に、先端を丸く結わえた縄がくくりつけられていた。

 木にくくりつけた縄を最初に見たときには顔が引きつって立ち止まったが、黒川さんが涼しい顔で、

「あぁ、よくあるんだ。縄しかないってことは自殺した人はいないから全然怖くないよ。もっとも、周囲で薬物なんかで死んでる場合があるからあまり近寄らないほうがいいかもしれないけど」

 などと、私の恐怖心を煽り立ててきたので、思わず二十歩ほどそこから離れてしまったりもした。

 天気は曇りで、空気は肌を刺すように冷たい。

 もう時刻は午後三時といったところだ。私も黒川さんもお互い疲労がたまってきて、口数も少なくなっている。

 黒川さんのほうが体力を使う動作をしているというのに、先に弱音をあげたのは私だった。

「ねえ、ちょっと休憩しない?」

 私の提案に黒川さんは同意し、私たちは開けた場所を探して座り込んで、水筒からわずかばかりの水を飲んだ。

「今夜あたりまた雨が降るかもしれないな」

 黒川さんはそう呟いて空を見上げた。同じように見上げると、空は綺麗な青色をしていた。

「どうしてそんなことわかるの?」

「あぁ、そこに蜘蛛がいるだろ?」

「蜘蛛ぉ!!!?」

 素っ頓狂な声をあげて身構える私。

「どうした凛さん、蜘蛛苦手なのか?」

 蜘蛛は人類の敵だ。

「まぁいいや。で、その蜘蛛が巣作りしてるんだよ。ここだけじゃなくて、今までも数カ所いた。雨が近い証拠だ」

「な、なるほど。雨が降るんだとしたら、水の心配はしなくてすみそうだね」

「あぁ、そうだな」

 彼は虚空を見つめ、それきり会話が途切れた。平気そうに見えて、彼も相当、疲れているらしい。

「ねぇ、誰か助けに来てくれないかな」

「無理だろうな。俺たちが今ここで迷ってることすら、外の人間は知らないわけだし」

「でももしかしたらってこともあるでしょ。行方不明者の捜索に来た警察や自衛隊の人にばったり遭遇する可能性だって0じゃないわよ」

「いや、警官や自衛隊員に出会う可能性はほとんど0だよ。なんでかというと、ほとんどの場合、樹海を捜索するのは警察でも自衛隊でもなく地元の消防だからな。

 正確に言うと、税金もらってる消防署員ではなくて、現地に住んでいる消防団員たち」

「そうなんだ。消防団の人たちはボランティアで捜索をしてるの?」

「ボランティアじゃなくて給料は出るな。日給一万円。でも、捜索願が届く頃には樹海に入った人間は死んでることが多いから実際は捜索ではなく死体探しをすることになる。だから、消防団員たちは死体探しをしつつキノコ狩りしてる」

「どうして?」    

「たかだか一万円で蛆のいっぱいついた死体を探すんだぜ。捜索するほうとしてはたまったもんじゃないだろ。

 だから、一番に死体に会わないこと祈りつつキノコを探すってわけ。でも、そんな時に限って仏さんを見つけてしまうんだよな。

 実際、自殺者に樹海に入られて一番困るのは地元の人間ってわけだ。でもさ、悪いことばかりじゃない。松茸とか舞茸とかも運がよければ見つかるし」

「なんですと?」

 私の目が光った。

「その辺りに生えてないかしら」

 キョロキョロと辺りを見回すと、黒川さんは苦笑した。

「今の時期なら難しいだろうな。まぁ、秋になったらもう一度来なよ。そのときは一緒に死体を探しつつキノコを探そう」

「遠慮しとくわ」

 彼の言葉は不謹慎であったが、私は笑ってしまった。

「まぁ、冗談はさておいて。黒川さん。あなたは多分、記憶をなくす前に樹海の周辺に住んでたのね」

 黒川さんはにこやかに頷いた。

「あぁ、俺もその可能性があると思った。だから、あえて思い出した限りの知識を口にしてみた。まぁ、確証はもてないが、可能性としては高そうだ」

「やっぱり記憶が戻ってきているの?」

 彼は首を縦にふった。

「断片的には戻ってきているが、しかし、完全ではないな。例えば、頭の中に誰かの顔がボンヤリと浮かぶ。例えば、男で、背が高く、俺を見下ろしている。でも、俺はその男の名前が分からない。今はそんな状態」

「なるほど」

 私は呻いた。結局、ここまできても、この人の正体は分からずじまいだ。

 私とは対照的に、黒川さんは楽観的に両手を広げる。

「まぁ心配しても仕方ないな。徐々に記憶は戻りつつあるみたいだしそのうち完全に元通りになると思う」

「ねぇ、黒川さん。これは今まで考えながらも言わなかったことなんだけど、あなた随分余裕っぽい表情だけど樹海から出たらどうするつもり? 外に出ても、行く場所ないんでしょ?」

「そうだなぁ」

 黒川さんは頬を掻いて木々の間に見える空を見上げた。

「とりあえずは、病院へ直行かな」

 うわっ、生々しい。 

 哀れみのこもった目で見ると、彼は子供のように拗ねた。

「だってそれしかないだろ。記憶ないのにどこへ行けと? お前と違って帰る家なんてないんだからよ」

 ………うっ。

 今の言葉はグサリときた。ナイフというよりは長刀が心臓に突き刺さった感じ。

 彼と同様、私にも安心して帰れる場所なんてない。私が自らの手で潰してしまったんだから。

 でも、ここで事情をいって同情を引くほど私は落ちぶれてはいないし、弱くもないつもりだ。

 表面上はあくまで無邪気なふりをする。

「ねぇ。樹海を出ても独りきりなんだったら私とアドレス交換しない? 携帯もってないなら文通でもいいよ」

「はぁ?」

 間の抜けた声を上げる黒川さん。

「こんなおっさんと文通して楽しいのか」

「うん、楽しい」 

 私はきっぱりと頷く。

 今話をしてて楽しいのだから、間違いない。

「まぁ、文通のことは考えておくが、ぶっちゃけ同世代の友達とかとしたほうが楽しいとは思うぞ」

 それだけ言い終え、礼二さんは立ち上がった。

「さて、雑談はここまで。十分休んだし、日が傾く前にもう少し歩こう」

 私は黒川さんの言葉に肯き、リュックサックを背負って立ち上がり、そして、黒川さんの背後にそれを見た。

 トクン。

 心臓が一度大きく震える。

 トクン、トクン。

 私は一歩、二歩と後ろに下がる。

「どうした、凛」

 黒川さんは私の異常に気づき、後ろを振り向いた。

「ん、なんだこの手帳?」

 彼は木の根のくぼみに引っかかっていた黒い物を拾い上げた。それは、一冊の手帳だった。

 かなり古いもののようで、表面にコケがついている。

 風雨に晒されたのも一度や二度ではないだろう。

 私の脳裏には二日前のあの血塗られた手帳の思い出が生々しく浮かび上がっていた。

「黒川さん。捨てたほうがいいよそんなもの」

「ん? なんで」

「だって中が、血まみれかもしれないし」

「何馬鹿なこといってるんだよ。ほら、なんともない」

 彼が開いたページをちらりと見てみるが、そのページには確かに血痕などは一切ついておらず、全くの白紙だった。

「呪われても知らないよ。私はもう先に行くからね」

 言いながら彼に背を向ける。十歩ほど歩き、彼が立ち上がる足音が全く聞こえないので私はしぶしぶ立ち止まる。

 私はため息を吐きながら、肩に背負った重たいバッグを地面に置いて、大きな木の根の上に座った。

 黒川さんはあいかわらず先ほどと同じ体勢で手帳と睨めっこをしていたが、やがて目線を上げ周囲を見回した。

 そして、無言で私の目を穴があくほど凝視した後、パタンと手帳を閉じて上着のポケットにいれた。

「少し戻ろう。荷物を頼む」

 立ち上がりながら言って、くるりと百八十度反転する。

「ええっ………戻るの? どうして」

 私の質問にも答えず、黒川さんは杖をつき、かなりのハイペースで元来たほうに向かって歩き始める。

 始終無言だった。元々杖をついてる間は口数が少ないのだが、それと今までの沈黙は何かが違う気がした。

「黒川さん。さっきの手帳は?」

「すまない。その話はまた、後にしてくれないか」

「なんで?」

「これを見てみろ」

 険しい顔をする彼の視線を追ってみると動物の足跡が地面に無数についていて、その側には糞が落ちていた。

「なにこれ、なんの糞?」

「山犬だ。元々人間が飼っていた犬が野生化してものがこの辺には住み着いている。観光地なんかじゃ駆除されてるんだが、この辺りではうろついていたとしても不思議じゃないな」

 黒川さんは空を見上げた。

「嫌な空模様だ」

 いつの間にか空はネズミ色に濁っていた。

「少し時間が早いが、もう少し歩いた後にキャンプをしやすい場所を探そう」

 どこか焦っているようだった。ピリピリとした緊張感を発している。 

「燃える木を集めて水に濡れない場所においてくれ 。ありったけの量を頼む」

 とりあえず、彼に言われるままに私は行動を開始する。

 昨日教えられた燃える木々を集めながら、

「この空模様、まるであの日の再現―――」

 彼が漏らした呟き声を、私は確かに聞いていた。


「友人の手帳だったんだ」

 キャンプの準備が終盤に差し掛かった頃、唐突に黒川さんはそう口を開いた。彼が先ほど拾った黒い手帳のことを言っていることはすぐに分かった。

「俺には古くからの友人が一人いてな。名前は春日太郎というんだが、そいつが一年ほど前に実家の側で行方不明になった。丁度こんな雨模様の天気の日だった」

 黒川さんは、空を見上げていた。

「さっき拾った手帳が、そいつの手帳みたいなんだ。まぁ、しかし常識的に考えてこんな樹海の中で知り合いの手帳なんて拾うはずはない。拾ったときは俺自身すごく驚いたが、今ひとつこの手帳があいつの手帳なのか確信がもてない。

 この手帳が春日のものなのかどうなのかを調べるのは樹海を出た後だな」

「もしかして、その春日さんは………」

 黒川さんは沈痛な表情で一瞬俯いたが、すぐに顔を上げた。

「この樹海の中で、死んでるかもしれないな。

「黒川さん。あなた、昔の友人のことを覚えてるってことは記憶がまた戻ってきたの?」

 黒川は、はっきりと頷いた。

「あぁ、思い出したよ。何もかも、恐らくはほとんど全てのことを」

 驚くほどあっけない記憶の回復だった。記憶が戻ったきっかけは、春日という人が書いたというあの黒い手帳以外には考えられない。

 あの手帳は黒川さんにそれほど強烈な印象を与えたのだろう。

「とりあえず、キャンプの準備を終えてしまおう。詳しい話は後でする。俺のことも、なぜ俺がここにいるのかということも」

「キャンプの準備は見ての通り、もう終わってるようなものだよ」

「もう少し多くの燃える木と、あと、丈夫な木の枝を三本拾ってきてほしい。そうだな、木刀のような木があればいいな。そこまで仕事が終わったら、いよいよ俺の秘密暴露タイームッ。いそげっ」

 茶化すような言葉の裏に焦りがにじんでいた。


 ようやくすべての準備が終わり落ち着いたところで、夕食(黒川さんがいつの間にか捕まえてた鳥を解体した、名の知れない鳥肉)を食べ必要最低限の空腹を満たしながら、黒川さんは自己紹介を始めた。

「今更ながら自己紹介をすると、俺の名前は黒川礼二。フリーのカメラマンをやっている。年齢は二十五歳だ。それで、うーんと」

 そこまでいって彼は眉根を寄せた。 

「どこからどう説明していいのか分からんな。凛さん、聞きたいことあったら適当に質問してくれ。俺は質問に答えを返すようにするよ」

 まず真っ先に聞いておかないといけないことがあった。

「なんで記憶を無くしたの?」

 彼は小さく唸った後こう言った。

「覚えてない」

 とりあえず私はホッとする。石でどつき倒したことはばれていない。

「でも、推測はつくよ。多分、野犬かな?」

「野犬?」

 彼が言うには、彼はこの樹海で一度野生化したのら犬に襲われ、その直後から私に出会う時までの記憶がないらしい。

 私はこの時、記憶喪失の罪を野犬に全部なすり付けてしまうことに決定した。………あぁ、極悪人。

「野犬は怖いぞ、油断してたら本気で殺されるかと思った。もう二度とあんなことは経験したくないが」

 青くなる彼の顔を見るだけで、そのときの悲惨さが容易に想像できた。

「まぁ、この話はこの程度だ。他に何か聞きたいことは?」

 それでは、と私は次の質問を行うことにする。

「なんでこんな樹海の中に独りでいたの。やっぱり自殺しようとして入ったとか?」

 彼は笑って首を横に振った。

「まさか、今回はただの探検だ。元々写真家という職業柄、珍しいものや貴重なもの、怖い物好きでね。海外でも危険地帯とかよく歩き回ってる。まぁ最も俺も最初にこの樹海に入ったときは自殺目的だったがね。そのときは自力で脱出して、今ではこの通り樹海探検なんてものをするように―――」

「礼二さん、自殺しようとしたことあるの?」

「あ………」

 礼二さんは口をふさいだが、饒舌な彼が冗談交じりに呟いた言葉は私の興味を惹くのに十分なものだった。

「言いたくないことじゃないのなら、できれば、聞かせてほしいな、その時の事を」

 彼は恐らく、何を言うべきなのか迷ったのだろう。まさに今、自殺のために樹海に入っていた私を前に。

 視線を私から外し、宙に泳がせる。やがて、彼の動きがピタリと止まり、真正面から私を見た。

「聞きたいか? 言っておくが、楽しい話じゃないぞ」

「わかってる」

 彼は暫し私の目を凝視し続けた後、観念したようにこういった。

「分かった。ここでこうして会ったのも何かの縁だ。きっと凛さんには、話しておくべきことなんだろう。この思い出話を高校以来するのは、君が二人目だな」

 私以前にこの話を聞いたのは春日太郎ただ一人。私には無意識的にそれが分かった。


 黒川礼二は少年期を児童養護施設で育った。

 児童養護施設とは、一歳以上十八歳末満の、保護者がいなかったり、虐待を受けている児童等を入所させて保護指導する施設の事である。

 彼は児童福祉施設にいる子供の中でも少数派の『保護者がいない児童』だった。

 彼が施設に入ったきっかけはある日、地震のように突然彼の身にふり掛かった。

 買い物に出かけた母親の車が交通事故に巻き込まれ彼女は事故死し、元々母子家庭で育った彼は頼るべき身よりもない状況で一人取り残された。

 この時黒川礼二わずか八歳。生まれてわずか八年で、彼は子供時代を施設で暮らすことを余儀なくされた。

 施設での生活はお世辞にも楽しいものだとはいえなかった。

 元々体格が小柄で口下手だった彼は、子供が作る上下関係のコミュニティー内でうまく渡り歩くことができず、いじめの対象となった。

 子供の活動には容赦がない。

 靴や服などの私物を隠されたりゴミ箱に捨てられてたりすることはざらにあったし、体への暴力も程度の違いこそあれ、連日続いた。

 福祉施設職員がまじめに子供たちの行動を観察していれば話はまた違っていただろう。

 しかしその施設で彼らは怠惰で、子供たちの行動に無関心で、泣いている子供には力を顕示して脅すことで静かにさせた。

 あるいはそこの子供たちは圧迫された施設生活の中で、自分たちが逆らえない職員たちに代わる感情のはけ口となりうる弱者を探し、そして、彼を見つけたのかもしれない。


「とにかく、毎日が苦痛の連続だったよ。今は笑い話にできるけどね」

 礼二は普段の彼からは考えられないほどどす黒い笑みを浮かべた後、話を続けた。


 ふりそそぐ暴力の雨に彼は耐え続けた。

 流れに流されるままに彼は生きていたが、それでも死にたいなどという感情など抱いたことはなかった。

 やがて彼は育ち、中学校へ通い始めた。新生活が始まり、彼は相変わらずのいじめを受けながらもいくらかの友人を得た。

 彼らは彼の生きる支えとなり、彼の日々の生活はいくらか楽しくなった。

 その平穏を壊す決定的な出来事が起こることなど、このときの彼は想像だにしなかったに違いない。 

 中学二年生の時、礼二は猫を飼っていた。いや、飼っていたというのには語弊がある。礼二になついている猫がいた。

 時々学校の校舎の後に遊びに来て「ニャーニャー」と礼二の足元に擦り寄ってくるそのノラ猫に、礼二はノラという名前を付けた。

 朝は早起きをし、教室でのミーティングが始まる前に毎日のようにその猫のところに通い詰めた。

 礼二はとてもその猫をかわいがり、時には施設の冷蔵庫からこっそりくすねたミルクを与えたりもした。

 ある日の朝、校舎の裏に猫がいなかった。礼二は若干の寂しさを感じつつも下駄箱に向かい、下駄箱を開けた。

 ドサリ、と下駄箱の中から何かが転げ落ちた。

 今まで画鋲やら鉄くぎやら、あるいは『死ね』などと書かれた紙くずが大量に入れられてたことはあったので今回もその類だと思い、開けた瞬間落ちてくるものを反射的に避けた。

 それは予想より大きなものだった。下を見ると。

 目が、合った。

 生気を無くした二つの目。

 早朝、誰もいない校舎の下駄箱で、冷たくなり動かなくなったそいつは下駄箱から転がり落ち仰向けに倒れた格好のまま、礼二をまっすぐに見ていた。

 頭の中が、真っ白になった。


「あの黒ぶちの顔あの毛並み。見間違うはずもない、俺が毎朝可愛がっていたノラだった」

 礼二は重いため息を吐いた。

 友達の少なかった礼二にとって、ノラという一匹のネコがどれほど大きな存在だったのか、ノラを失った時の礼二の喪失感がどれほどのものだったのか、凛には容易にそれがわかった。

「ノラには左手首から先がなかった。切り取られた手首の跡から血が溢れて俺の下駄箱の中に小さな池ができていた。その後のことは―――正直、よく覚えていない。気づいたら泣きながらそいつの墓を校舎の裏山に作っていた。

 普段は馬鹿がつくほどに真面目な俺だったが、その日ばかりは授業をサボった。勉強なんて関係なかった。一日中ノラの墓の前でぼんやりしてた。

 きっと、色んなことを考えてたんだとおもう。ノラと出会った時のことや一緒に遊んでたときのこと。なんでこんなことになったのか、その原因を考えたり。そう、色々だ。そうこうするうちに俺はノラの左手がないことに思い当たった。

 子供ながらに、どうせなら一緒に墓に埋めてやろうとそう思ったんだ。もう時刻は夕方になり空も赤く染まっていた。下駄箱のところに戻って中をあけると、一番奥にノラの手が落ちていた。俺は大切にそれを拾い上げ、取り出し、墓に埋めてやった。でも、またここで一波乱あってさ」


 礼二が猫の手を取り出すところを彼の学校の女教師が目撃していた。その教師は血だらけになっている礼二の手と、その手に乗っかっているものをみて悲鳴をあげたが、そんなことにかまっている暇もない。

 礼二は彼女を無視してノラの墓に急いだ。そして丁寧に墓の中にノラの手を埋めて学校に戻ってきたところで、待ち構えていた教師たちに捕まることとなった。

 無言でうつむいていると、無断で授業を欠席したこととネコの手の目撃証言で怒鳴られ彼は散々非難されたが、一通り叱られた後に事情を説明すると怒鳴ることしか能がないように思われた教師たちも一定の理解をしたようだった。

 しかし今度は帰った先の施設で職員に無断欠席を叱られ、ぶん殴られた。

 殴られるのは別に初めてのことではなかったし、礼二の頭は猫の事でいっぱいだったので、職員の話を右耳から左耳へと聞き流し、虚ろな目をしたまま一人で部屋の隅に座りこんで、その夜は猫のことを想い続けた。

 窓の外を見ると、木枯らしが吹いていた。

 あいつは土の中だけど、寒くはないかな?

 いつもは礼二に嫌がらせをしてくる子供たちも、この時ばかりは彼にちょっかいを出してはこなかった。彼らも礼二のことを気遣っているのだろうと礼二は思っていたが、しかしその翌日の夜、人気のない場所にふらふらと向かっていた彼は聞いてしまった。

 いつも礼二をいじめる子供たちが施設の普段誰も来ない物置で囁きあっているのを。

「まずかったんじゃないかな、あれを下駄箱にいれたのは」

「あいつの顔を見たか? ちょいとやりすぎだぜ、あれは」

「大丈夫だって。たかが猫の一匹や二匹。あいつも少したてばすぐに元気になるって」

「―――!」

 礼二の全身の血が津波の前の潮のように引き、すぐに噴出すマグマのようにカッと全身に行き渡った。礼二は真っ赤に染まった思考のまま物置に飛び込み、中で話をしていた三人に殴りかかった。

 

「あの時、俺は生まれて初めて人を殺したいと思った。向こうには猫を殺したというひけ目があったんだろうな。逃げ回るだけで誰も俺を殴ろうとはしなかった。

 一方的な暴力だったよ。まぁ、実際には二人に全治半年の怪我を負わせたところで職員に止められたんだが、あのまま放っておけば間違いなく俺は誰かを殺していたと思う」

 物騒なことを語る礼二さんの顔は、すこぶる冷静だった。

「その後、どうなったと思う?」

 礼二さんは苦笑した。

「学校はノラの死体事件を大きくしたくなかったのか公には出さず、事実を隠蔽したよ。そしてその日以来俺は、施設でも学校でも、周囲から厄介者として見られるようになった。

 大人の態度って子供も見てるもんだな。俺にちょっかいを出した奴等は俺と視線さえ合わせなくなり、俺と親しかった仲間たちまで俺と距離をおくようになった。

 誰にも相手にされない俺はまるで―――空気だった。

 俺自身は以前となんら変わるところがないのに、誰一人俺に関わろうとする奴が存在しなくなったんだ。

 でも俺は最初はそのことにすら気づかなかった。薄々は感づいていたが危機的なものじゃない。

 俺が本格的にそのことをはっきり認めたのは、ノラが死んでその悲しみから開放されたころだった。

 悲しみが徐々に薄れ、ようやく周囲を見回せるようになったころになってはじめて俺に対する雰囲気が以前と明らかに違う、取って返せないものになっていることに気づいたんだ。

 誰も俺と話なんかしたがらなくなっていた。誰に声をかけても帰ってくるのはよそよそしい返事と、関わりたくないといわんばかりの怯えたまなざしばかり。

 なんか、全てが馬鹿馬鹿しくなったよ。以前信頼していた奴らすら、俺によそよそしく振舞うんだ。

 いくら人三人病院送りにしたからって、いきなりそんな風になるなんて信じられなかった。やりすぎたのはそれなりの事情があったからだ。

 一人ぐらい俺の気持ちを理解してくれるやつがいたっていいと思わないか?」

 私は、無言だった。


 ノラの事件の後、礼二の心に起こった変化は劇的だった。

 まず、人を信じられなくなった。

 見るもの全てが空虚になった。

 そして、よく、死について考えるようになった。

 もし天国などというものがあるのなら、ノラはそこで幸せに暮らしているんだろうか?

 馬鹿なことを考えてるなと思いながらも、少なくとも現実よりは死というものが魅力的に見えたのは事実だった。

 学校と施設の双方を行き来するだけのこの日常という限定された空間に彼はいい加減うんざりしていた。

 程なく彼は、その足を樹海へと向けた。

 きっかけはそれまでに彼の身に降りかかった不幸に比べたら取るに足りない些細なことだった。

 実際、きっかけなんてなんでもよかったのかもしれない。 

 心の弾倉に憎しみの火薬はいくらでも詰め込まれている。

 あとはその溢れんばかりの憎悪につける、些細な火種があればそれでよかった。


「まぁ、結局そのときは樹海内部をうろついた挙句、外に出てしまったところを地元の警察に運悪く見つかって施設に送り返されたがね。

 おかげで今はこうしてしぶとく図太く生きてるわけだ。これが俺の自殺未遂の顛末だな。どうだ、割とつまらないことだろ?」

 長い話を話終えた礼二さんは、口元に皮肉げな笑みを浮かべ、挑むような目つきで私を見た。

 私はふっ、と笑った。

「そうね。つまらない事ね」

 礼二は大げさにふき出した後に続けた。

「実際、本当に馬鹿だったと思う。でもあの時は、それが全てだったんだ。鬱になると人間は視野が狭くなる。

 外には広大な世界が広がっているのに、限られた可能性しかその目には映らなくなる。

 世間をよくしらない子供の頃なら尚更だ。

 まぁ、その後いろいろあって、高校を卒業した後、見聞を広めるために俺はカメラマンという仕事を選んで世界を回った。

 中でも多いのは紛争地帯や発展途上国といった他のカメラマンがあまり行きたがらない日本とはまた違った病をもった国ばかりだ。

 そこの子供は日本のように保護者や教師に束縛される恐怖の代わりに、飢餓や病、戦乱の恐怖に怯える。

 最初遊び感覚で国を出た俺をそんな国で待っていたのは、吐き気がするほどに生々しいまでに現実だったよ。

 俺は今までの自分の生き方と主義の大半をそのとき否定した。泥と血でまみれる戦火の中、そんな中でも必死で生きようとする子供がいるんだ。

 俺よりずっと危機的な状況にありながら、俺よりずっと強い心を持って生きていた。

 なんて強いんだろうとそれを見たとき思ったよ。

 確かに幼少時代、俺を集団で寄ってたかって袋叩きにしてた奴らには憎しみを通して殺意すら覚える。

 その怒りは未だに忘れることはできないし、これからも忘れられないだろう。それは俺が経験した、俺の歴史の一部だからだ。

 でも、戦渦の中で生きる彼らを見た時、俺は直感した。

 こいつらに比べれば、俺の幼少時代の苦労なんて苦労と呼んではいけない代物なんだってな。

 日本ではどんなに悲惨な生き方をしても、早々命までは取られないんだよ」


 人間上を見上げればきりがないように下を見てもまたきりがない。

 この世は人が考えるよりはるかに広く、上には上がいるように下にはまた下がいるのだから。

 自分より不幸な立場にいる人を見れば、どんなに自分が不幸だと直前まで思ってたとしても、自分はなんて幸せなんだろうと感激する事だってあるはずだ。

 礼二さんがまさにその典型。

 でも、そんなことを言われたって普通の人はピンとこない。

 自分より不幸な人間がこの世の中にいることぐらい分かる。でも、私にはそれを具体的なイメージとして想像することなどできないし、そんなこと考えても今の自分の苦しみが和らぐわけではない。

 それを理解できるのは、生で彼らに接したことがある人だけだろう。

 礼二さんは、「ただし」と前置きをして、こう続けた。

「世界を巡って見てきたのは、なにもそんな辛い面ばかりではないがね」

 と付け加えた。

「たとえば、日本内部にいるだけでは見れないような巨大で広大な美しい風景が山とある。とにかく世界は何だってスケールが違う。美しいもの、醜いもの、全てがそれまでの自分の想像を超えていたよ。

 そういうものを全く見ること無いままもしあの時あのまま死んでたら、きっと俺は死んだ後に後悔してただろうな」

「私も、今死んだら後悔するかな」

「きっと、後悔する」

 私は彼の目をまっすぐに見た。これまでにないくらい、真っ直ぐに。

「礼二さん。私がなぜこの樹海に入ったのか知りたい?」

 彼は少し考えるそぶりを見せた。

「凛が話をしたいのなら聞く。でも、話したくないのなら聞かない」

「いずれ、言わなくちゃならないことなんだ」

 私はそれきり沈黙した。

 沈黙。沈黙。沈黙。

 やがて、礼二さんが口を開く。

「やっぱり、今は言わなくていいよ」

 それが、導火線に火をつける一言だった。考えるより先に口が動いてた。

「私もね、礼二さんと同じようにいじめにあってた。大切な猫を殺されたりはしなかったけど、それ以外はおおむね同じ。

 クラス内で全員から無視をされたり、まぁ、色々。

 きっかけは些細なことだったんだよ。

 上級生に虐められてたクラスメイトをかばったら、上級生に目をつけられて、そいつらが学校の女子牛耳ってるような存在だったから誰もが私の敵に回った。

 助けてあげた女の子さえも、私と口をきいてくれなかった。私は心にそのとき誓った。私が何をされても、私は絶対に人を傷つけるような人間にはならないぞってね。

 人を傷つけることでしか優越感に浸れないようなやつらは穢れている、私は優しい人間なんだからお前たちみたいには絶対にならないぞ――そう思い続けることで、私はあいつらの悪質な行為に耐え続けてた。

 自分さえ綺麗なままならそれでいい、お前たちみたいには絶対にならない―――その想いだけが、私を支える力だった。だけど、ある日、私は誰よりも汚れてしまった。

 意図的にしようと思ったことじゃなかったんだ。でも、罪を犯した私を周囲は許さなかいだろうし、なにより私は自分自身が許せなかった。

 所詮自分もあいつらと同じ、いや、それ以下の人間に成り下がってしまったんだと思った」

 礼二さんは静かに聞いていたが、途中、一度だけ口を開いた。

「綺麗なままでいられる人間なんているわけがない。少なくとも人は生きるだけで、多くの命を喰らい、多くの人間に迷惑をかける。

 何一つの罪もなく綺麗なままでいきたいなんて願うのは所詮、子供の夢でしかない」

「その夢を追い求めてしまうぐらいに私は子供だし、その夢を追うことで私は何とか今までやってこれたんだ。でも、その夢はもう壊れた。あっけないぐらい見事に、根本から崩れ去った。

 夢が崩れた瞬間、もうどうでもよくなっちゃった」

「今も死にたいと思ってるか?」

 一瞬の静寂が樹海に満ちた。

「わからない」

 でも、死ぬのは怖いから生きるしかない。どうしようもなく惨めだけど。

「ねぇ、礼二さん。もしよければ、礼二さんが外の世界で見てきたこと、話してほしいな。心震えるような綺麗なことも、目を覆いたくなるような汚いことも。あなたの話を聞いていると、自分が小さな人間に思えてくる。

 どうせ死ぬにしても、その前にもっともっと多くの苦しみや喜びを知らなくちゃいけないって気持ちになるの」

「わかった。だがな、その代わりといっちゃ何だが一つ頼みがある」

 礼二さんは黒い手帳と、一枚の紙切れをどこからともなく取り出した。

「まぁそんなことはないと思うが、もしこの樹海を出る前に俺になんかあったらこの手帳をこの紙に書かれた住所先に送ってくれないか。あぁ、そうそう。その際一つ約束を守ってくれ。手帳の中は絶対に見ないでくれ。

 きみだけじゃない。他の誰にも絶対に見せるな。俺と春日の極秘事項が書かれてる」

「今開いてみていい?」

「話をするのをやめるぞ?」

 いたずらっぽく言う彼の言葉はこれ以上ないくらい非人道的なものだった。私は仕方なくその条件を飲むことにした。


 その夜、私は夢を見た。

 礼二さんの話にでてきた水の都ヴェネツィアで私は船に乗っていた。

 見渡す限りの水面には、水の都の姿がくっきりと映し出されている。

 水面に映る建物の影から目をあげると、そこには眩いばかりの陽光と、どこまでも青い空。

 その美しさに、目ではなく全身で見入った。私の隣にはかわいい少女の船頭さんが座り、船を漕ぎながら二人の会話を楽しむ。

 時は瞬く間に流れ、夜となる。

 水面に反射する人工の灯り。

 一つ一つが宝石のようにキラキラ光る。

 あらゆる言葉を使用しても表現しきれない、比喩するのもおこがましい。

 ここはそんな聖域。

 静かな水面に、船頭さんの柔らかな歌が流れる。

『夜風がため息を吐き

 私たちを乗せたゴンドラが

 暗闇のラグーンを滑りゆく

 町は静かな眠りにつき

 彼女は優しい月をじっと見守る

 その光が私たちを導いてくれる』

 ―――変化は唐突に起こった。足元から空間が入れ替わる。水面は埃の舞う荒地となり、心地よい歌声は銃声の中に消えた。

 パレスチナ――イギリス植民地時代からの悲しみと憎悪が渦を巻く悲哀の地。私とつい先ほどまで親しげに話をしていた少女が、学校の校舎内で授業を受けている。

 「逃げて!」 

 私は叫んで駆け寄るが彼女はこちらに気づかない。

 刹那、彼女は体から無数の血を噴出しつつ倒れた。学校の外から飛んできた銃弾に体を撃ち抜かれたのだ。

 彼女は即座に決して衛生的とはいえない薄汚れた病院へ運び込まれる。

「………ゴポッ」

 私に助けを請い、手を伸ばしてきた彼女の口から鮮血が溢れ出た。

 私は彼女の体に巻かれた包帯に広がり続ける血の海から目をそらすことができない。圧倒的なまでのリアリティー。

 これは、今世界のどこかで起きている現実。あまりに惨たらしい予期せぬ悲運。

 ここは病室のはずなのに、振り返るとそこには彼女が通っていた学校の校舎が見えた。校舎の壁に描かれたハトの絵には、いくつもの弾痕が刻まれていた。

 私ははっきりと理解する。

 私たちの日常とは異なる―――これが彼女たちにとっての日常。

 口から血を吐き続ける涙目の少女の手をとり、私は必死に訴えかけた。

「死なないで!」

 しかし、彼女の目は虚ろになり、私の手を握る彼女の手から力が抜ける。

 動かなくなった彼女を前に、私はただ立ち尽くす。


「起きろ、凛!」

 気がつくと、礼二さんが暗闇の中で私の体を揺すっていた。

 私はそこで始めて、夢を見ていたことに気づいた。

 なんて夢だ。

 目元に涙が溜まっている。礼二さんに気づかれないようにふき取ろうとし、

「起きろっ。囲まれてる!」

 礼二さんが耳元で怒鳴った。わけがわからないながらも私は彼の大声に弾かれて上体を起こし、そして言葉を失った。

 小雨が降る闇の中に無数の光がともっていた。それが、野犬の目が焚き火の炎を反射したものであることに気づいた私は小さな悲鳴を上げかけたが、礼二さんが口を押さえてきた。

「凛さんが眠っている間に取り囲まれた。大きな声を出して刺激しないほうがいい。ほら、これを持って」

 そういって彼が手渡したのは、夕刻に私が拾ってきた木刀のように長い木の枝だ。

 戸惑いながらそれを受け取る私に礼二さんはうなずいてくる。

「用心することに越したことはない。凛さんも一本持っておけ。襲い掛かられたら、殺すつもりで振り回すんだ」

 私は戦慄する。

 一瞬にして周囲の空気が変化した。まるで超重力空間に放り込まれたような、そんな錯覚。

 大気が全身を圧迫しているように、心拍が跳ね上がる。小刻みに震えだす体を私は必死になって空いているほうの手で押さえた。

 しんとした闇の中に爛々と光る無数の目を見ていると、私の命もここまでかもしれないな、という不吉極まりない不安が胸中をよぎった。

 ゴクリと喉が鳴る。頼るように礼二さんの顔を見て、私は目を丸くした。

 意外なことに彼はこんな状況にもかかわらず、少しも慌てる事なく冷静に周りを見回していたのだ。

「なんでそんなに落ち着いていられるの?」

「場慣れしてるからさ。火を焚いてくれないか、凛」

 ゆっくりと背後にある木にもたれながら立ち上がる礼二さんはとても力強く、その表情には余裕すら見受けられた。

 その力強さに背中を押されるように、私の中にも闘志が沸いた。

 いけるかもしれない。この人と一緒なら。

 礼二さんは真っ直ぐ野犬たちを睨んだ。

「まさか本当にもう一度対峙することになるとはな。よほど餌不足なのか」

 彼の言葉に応えるかのように、野犬の群れが私たちに向かってすこしずつその距離を縮めはじめる。

 二つの目だけの存在だった野犬たちは、焚き火の明かりにその全貌を徐々に照らし出されていく。

「ひっ」

 私は小さく悲鳴をだしてしまった。戦う覚悟はしているとはいえやはり怖いものは怖い。

 ある程度距離を詰めると野犬たちは歩みを止めた。

 礼二さんが私をかばうように一歩前に立ちはだかる。

 息がつまるような沈黙の中、自分の呼吸音が大きく聞こえ、耳に届くはずもない早鐘のような心音すらも聞こえる気がした。

 いつ来る。いつ来る。

 睨みあったまま、一瞬とも、一秒とも、一分とも、一時間とも取れない時間が過ぎる。

 焚き火が揺れ動き、影だけが躍るように動いていた。

 身も凍るような静寂の中、焚き火が音と共に爆ぜた。

 それが、合図だった。

 一匹目の野犬が私めがけて飛び掛ってきた。

 私の全身に緊張が走る。木の棒を振り上げるが、それを振り下ろすより早く野犬は私に肉迫し、

「ギャワンッ」

 斜め前方から放たれた礼二さんのすくいあげるような斬撃に顎を割られ、斜め後方に半回転し、うねる地面に叩きつけられた。

 突然のことに他の犬が一瞬怯み、しかし刹那の後には、勢いを盛り返すかのごとく次々に飛び掛ってくる。

「ダアアアアアアアア!」

 礼二さんが、吼えた。彼が左手に隠していた何かを焚き火に向かって投げると、焚き火が一瞬大きく爆ぜる。

 全ての野犬は一瞬怯み、その隙を礼二さんは逃さない。

 礼二さんが放つは伝説の巨人ヘラクレスのような豪快な一撃。

 片足で立っているとは到底思えないほどの力強さで、一点の曇りも迷いもなく、次々に迫り来る野生を切り開く。

 一匹、二匹、三匹。迫り来る犬は見えない壁に阻まれるかのごとく次々に私の直前で吹っ飛び、地にはった。 

 なんて―――豪快。

 私は震えるすら忘れ、野犬と礼二さんとの衝突を見守る。

 野生の本能が弱者を狙えと促すのか。野犬たちは礼二さんには脇目もふらず、私のみを狙ってくる。

 刹那の戦いは熾烈を極める。

 礼二さんは常に、野犬の襲い来る軌道を読み、私と野犬の間に割り込むように枝を振るう。

「だああああああ!」

 再び礼二さんが吼えた。飛び来る生物を袈裟懸けに叩き落す。

「痛っ」

 突然左腕に激痛が走った。

 見ると、一匹の野犬が二の腕に喰らいついている。私の全身が総毛立つ。

「アアアアアアアア!」

 右手に持った枝を振り上げ、無我夢中で力任せにたたきつける。

 木の棒は野犬の胴体に当たるが、口は私の腕から離れない。

 もう一度木の枝を振りかぶり、頭めがけて全力でたたきつけると、犬は「キャワン」と悲鳴を上げ、白目をむいて絶命した。

「大丈夫か!」

 礼二さんは横目で私を一瞥した後、再び闇に向き直った。

 そこは既に、嵐がピタリとやんだかのような深い静寂に包まれていた。

 あれほどいた野犬が一匹もいない。あるいは絶命し、あるいは逃げ去ったのだろう。

 闇の中に蠢くものも、闇の中で光る目も、今は一つも見当たらなかった。

 安堵が広がり恐慌が引くにつれ、私の手に野犬を殺したときの生々しい感触がよみがえってきた。

 全身が震えだし、手に持っていた棒を落とす。

「凛さん、腕を見せろっ」

 礼二さんがすごい勢いで血のついた私の二の腕を覆ってる服をまくしあげた。私は自分の二の腕を凝視したまま顔を引きつらせる。

 食い込んだ牙の後がくっきりと残り、皮膚が裂けていた。真っ赤な血が噴出し、あっという間に傷口を覆いつくす。

 普段なら目をそらすところだが、野犬に襲われる直前の夢の記憶と、野犬を叩き殺した感触が生々しく私の頭の中を駆け巡った。

 あぁ、とても痛い。これが、生きているということ。

「まずいな」

 礼二さんはすぐにリュックサックから水筒と小さな石鹸を取り出した。

「少し滲みるが、我慢しろ」

 傷口を少量の水で洗い流し、石鹸をつけてもう一度洗い流す。

 腕の表面が焼けるように痛かったが、奥歯をかんで私は耐えた。

 その後涙が出るほどしみる消毒薬をつけられ、ガーゼをあてられ黄ばんだ包帯をかぶせられた。

「ここ。上腕のほぼ中央を握ってくれ。内側を骨に向かって少し強めに圧迫するんだ。暫くすれば血は止まる。痛むだろ?」

「全然」

「涙がでてるぞ」

「消毒薬が染みるのよ」

「それって痛いってことだろ」

「うるさいわねっ」

 礼二さんは暫し押し黙った後、続けた。

「狂犬病の心配はさすがにないとおもうが、一応急いで病院にいかないといけない」

「え」

 私の声がつまる。狂犬病というのは犬から人へと感染するウイルス性の感染症だ。発症すればほぼ百パーセント死に至ることぐらい私でも知っている。

「二人そろって病院行きか」

 せっかく野犬を追い払って万々歳なはずなのに、礼二さんがボソリと呟いたその言葉のせいで、一気に周囲に重い空気がたちこめた気がした。


 歩き続け、歩き続け、どれほどの時が流れたのだろう。

 私たち二人はようやく人が作ったと思える道に到達することができた。

 樹海の中に一本通ったガタガタ道。

 片方は東に伸び、もう片方は西へと伸びている。

 しかし、とにもかくにもこの道をどちらかの方向にまっすぐ進めば、きっと人が通る大きな通りに出られるはずだ。

「この道は、見たことがある道だ」

「本当? どっちに行けば森から出られるの?」

「どちらに向かっても、やがては外に出れるはずだ。だが、まさか、これほど時間がかかるとは思わなかったな」

 礼二さんは疲れきった表情で、道に面した樹木にもたれかかるように座り込んだ。

 実際には、野犬の襲撃を受けてから一日程度しかたってないはずだ。

 にもかかわらず、私は礼二さんと同じように、とてつもなく長い時間が流れたような錯覚にとらわれた。

 まるでこの一日が二日にも三日にも思えた。傷を負っている焦りのせいもあっただろう。

 野犬を追い払った後、礼二さんと私の体力が多くは残っておらず、出会った当初の三分の一以下のペースで歩き続けた影響もあるかもしれない。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 今は喜ぶべき時なのだ。

 周囲に人影は全く見えないが、まぎれもなく私たちはあの死の樹海を脱出したのだ。

 生きて出ることができたのだ。

 気分的にはケーキを買ってきてジュースで乾杯といきたいところだが、無論そんなものあるわけないし、今ここにあったとしたら礼二さんとの争奪戦になりかねないけど。

「礼二さん。ついにやったね」

 微笑かける私に、礼二さんはこれ以上ない満面の笑みを浮かべた。

「あぁ、やっとここまでこれた。おまえのおかげだよ」

「まだもう少しあるわ」

「俺はここから動けそうにない」

「え?」

「体力の限界だ。ここからは凛さんが一人で行ってくれ。あんたにこのままついていくのは疲れるし、俺は自力でこの樹海から出ることはできそうにない。

 凛さんが一人で行って救助の人を呼んでくれた方が俺と行くより絶対に時間がかからないから、あとは一人で頼む」

 私はあきれ果てた。

「なに言ってるの。ここまで一緒にきたんじゃない。最後まで一緒に・・・・・・」

 そこまで言って、私は息を飲んだ。なにがどうしたというわけではない。礼二さんが恐ろしく穏やかな顔をしていた。

 彼は眩しいものでも見るかのように目を細めた。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。凛さん、あんた強くなったな、本当に。あんたならきっとこの先どんな困難が立ちふさがってもきっとやっていける」

 いきなりへんな言葉を投げかけられ、私は戸惑った。

「頭でも打った?」と言いかかったがそれはやめておくことにした。彼の表情はすこぶる真面目だった。私は仕方なしに首を横に振った。

「そんなことないよ。私は、弱いままだよ」

「いいか、人生は一本の長い線路だ」

「はい?」

「たとえ話だよ、たとえ話。いいから黙って聞け」

 彼は咳払いをして続けた。

「人生は一本の長い線路だ。人は列車で、線路の上をただ前方にひた走るんだ。線路には無限に近い分岐点があり、毎度曲がり角があるたびにそのどれかを人は選びつつ走っている。

 時には逆風をうけ倒れそうになるときもあるし、巨大な岩が道を覆っていることもある。見えてる範囲が岩だらけで、それを壊すくらいなら列車自身が壊れてしまいたくなることもある。

 でもな、自分で自分を壊してしまう前に思い出せ。未来は無限だ。絶対にこの先永遠に苦しみしかないなどということはまずありえない。

 あるとしたらそれは、宝くじの一等に百回連続して当たるくらいの確立だ。そんな不運を呪うより、いつかくるまだ見ぬ未来に思いをはせろ。

 本当に苦しくてどうしようもなくなったら、いざとなったら脱線して何もない荒野を走ってもいいからそれまで積み重ねてきた自分のレールを全て投げ捨ててでも走り続けろ。

 壊れてしまうよりは、ずっとましだ」

 私は片手をあごに当てた。

「………礼二さんの言う例え話は分かったけど。実際思いつめてる時なんかにそんなこと考えれるかはすごく疑問なんですけど」

 残念そうな顔を向けられて、私は慌てた。

「あっ、でも私どんなことがあっても忘れないから。この樹海の中で出会ったあの恐怖も、礼二さんの話してくれた外国の話も。

 なにより未来にはまだ見ぬ可能性があるって言葉だけは絶対に」

「辛くなったら俺の言葉を思い出してくれ。未来には絶対に希望がある、予期せぬ事だっていくらでも起こる。俺が言うんだから間違いない。騙されたと思ってこれからは生きる努力をしろ」

「………可能な限りがんばってみる。でも、生きるのは礼二さんも一緒だからね。私が人を探しにいってる間に野犬に襲われて死んでたなんてオチ、なしにしてよ」

「はいはい」

 礼二さんは苦笑する。私は歩きだしたが、少し行ったところで立ち止まり、未練たらしくもう一度振り返った。

「確認するけど、本当にこれ以上動けない?」

 私と一緒に最後までこれない?

 礼二さんは両手を広げて見せた。

「今の俺の状態を見れば答えはわかるだろ」

 分かる。一目でわかるくらいボロボロだ。

「でもさ、もしそんな状態で野犬に襲われたらどうするの。私がいないと独りで逃げることなんて出来ないわよ?」

「今は昼間だし、夜行性のあいつらが襲い掛かってくる心配はまずほとんどないだろう」

 彼の言葉には覇気がなかった。

 どっかり深々と木の根元に座り込んでいる彼の腰は恐らくテコでも動かせないだろうし、彼にこれ以上の無理をさせるぐらいなら走ってすぐに人を呼んでくるべきだだろう。

「それじゃあ、すぐ戻ってくるから。ちゃんと待っててよ」

「ああ、またな」

 礼二さんを置いたまま、私は東に向かって歩を進めた。


「さて………と」

 凜の姿が見えなくなった後、礼二はゆっくりと、立ち上がった。

「悪いな。凜さん」

 礼二は、歩き始める。

 凜が歩いていった方向とは逆の、西へと続く道を。 



   最終章 繋がり


 その日はよく晴れた一日だった。

 礼二の妹、黒川礼奈が総合病院の個室で窓の外の景色をぼんやり見ていると、看護士が室内に入ってきた。

「礼奈さん、宅配便がきてますよ」

 誰からだろう。

 この病院で入院生活をはじめて早十年近くの時が流れていた。

 郵送物が来るなんて珍しい。裏を見ると差出人に見慣れない名前が書かれていた。

「美崎凛………誰だったかしら」

 差出人の住所と電話番号が差出人の名前の前に書かれているが、そのいずれにも心あたりは無かった。

 封筒を開けて中を覗いて言葉を失う。そこには一冊の手帳と、一枚の手紙が入っていた。

「この手帳は………」

 驚きながらも手紙のほうを先に手に取る。

『拝啓 黒川礼奈様。私は静岡市内に住む、とある学生です。つい先日、あなたのお兄様からあなた宛にこの手帳を渡してくれと頼まれ、こうして郵送させていただきました。本当は直接お会いしたかったのですが、なにぶん事情があり今はお伺いすることは出来ません。手帳の中身がなんであるのか私は存じませんが、きっと大切なものなのだろうと思います。ぜひ、ご一読ください。P.S.もし今お兄さんが側にいらっしゃるなら一言「バカヤロウ、今度会いに行くぞ」とお伝えください』

 彼女は目を丸くしながら、続いて手帳を開いた。さして大きくもない手帳の隙間から、一枚の写真がこぼれ落ちた。そこに映っているのは、彼女がまさに今いる、この病室だった。写真の中央では一組の男女が肩を組み手前に向かってポーズを決めていた。昔、兄と彼女が一緒に撮った写真だった。

 ひっくり返すと写真の裏に変な一文が書かれていた。

『ありがとう』

 その一文を読み、訝しみながら手帳を開き、その中身を最初から最後まで丁寧に読み上げると彼女の顔がみるみる強張った。

「兄さん」

 彼女は、兄と初めて出会った日のことを思い出した。


 礼奈と礼二は母親が違う。礼奈の父親が不倫をし、相手の女性との間にできた子供が礼二だった。礼奈が自分の兄の存在を知ったのは、彼女が中学二年生の事だ。

 ある日、父親と母親が大喧嘩をし、その最中に母親が父親にあてつけのように洩らした言葉に彼女は耳を疑った。

「そんなに私が嫌いなら、あの時あの人のところへいけばよかったじゃない! 私のことなんて捨てて、あの女と、あの女の子供と一緒に暮らしてればよかったのよ」

 滅多に怒らない温厚な父親が、そのとき初めて母親に手をあげた。その時の強烈な印象は今も忘れない。

 後日、精神が不安定ぎみになっていた母親に事情を聞き、礼奈は初めて過去に父親が不倫をした事実を語った。

 結婚直後に不倫が発覚し子供まで出来たことがわかった時、母親は半狂乱になって一年もの間病院の精神科に通いつめることになったらしい。

 そのとき不倫相手と父親との間に出来た子どもが、彼女の兄だというのだ。

 彼女は父親を軽蔑した。そして、すぐに父親に詰め寄った。なぜその真実を教えてくれなかったのかと問い詰め続けた。

 父親は簡単に不倫の話を持ち出した母親の愚行を呪ったが、やがてその重い口を開いた。

「いつかお前にも話さなければならないと思っていた」

 彼はそんな、どこにでもあるような言葉を吐いた。

 父親の話によれば、父親と母親の結婚は礼奈の祖父母が縁組を考えて取り仕切ったものらしい。

 礼奈の家は古くから伝統のある大地主の家で、金はあるが自由がない、一個人の判断で自由に結婚を出来ない、そんな今時は珍しいお家柄だった。

 父親は当時、将来を誓い合うくらいに好きになっていた女性がいたが、不幸なことに彼女の学歴は低く家柄も悪かった。

 当然父は両親に反対され、渋々礼奈の母親と結婚をすることになった。


 父親に言いたい文句は山のようにあったが、それは後回しにして礼奈は二つの質問を父親にした。

「その相手の女の人、今でも好き?」

 父は少し躊躇した後、答えた。

「あぁ、好きだったよ」

 胸が痛くなった。

「今、お母さんとその人どっちか一人を選ぶとしたら、どっちをとるの?」

 嘘でも「お母さん」と言ってほしかった。しかし、父親が口にしたのは予想もしてなかった返事だった。

「その人は、もういないんだよ」

 礼奈はそのとき初めて『彼女』がもう何年も前に交通事故で亡くなっていたことを知った。

 後日話を聞いてみると、『彼女』が死んだとき『彼女』の息子を引き取って育てるかどうかが問題になったことがあるらしい。

 しかし、母親が精神不安定になった過去があるから、父はやむなく兄を児童養護施設へ入れることにしたそうだ。

「兄さんに、会いたい」

「だめだ、今お前があいつに会いに行って、それでどうなる。そんなことがばれたら、母さんがまた精神不安定になってしまう」

「血を分けた、たった二人きりの兄弟なんだよ?」

 父親は口を閉じ、結局何も語らなかった。

「それなら、せめてお兄さんの名前を教えてよ」

「礼二だ。黒川礼二」

 皮肉な事に、兄は彼女と同じ姓を名乗っていた。

 それから彼女は躍起になって兄を探し回った。どこかに兄の手がかりがないかと連日父親の書庫こもったりもしたし、母親から相手の女性の名前と住所を聞きそこまで飛んでいって周囲の住民から情報を集めもした。

 何が彼女をそこまで行動的にさせたのかは彼女自身分からなかった。

 ただ「会いたい」と願う、その一心だった。

 やがて聞き込みを続けるうちに、兄のいる場所について有力な情報を掴んだ。

 礼奈はすぐに行動に出た。

 休日に「友人の家にいく」と伝言を残し、電車に飛び乗る。

 何時間もの間電車に揺られ、やっと掴んだ情報を頼りに山梨の、とある児童養護施設に辿り着いたのだ。

「黒川―――黒川礼二くんはいらっしゃいますか?」 

 施設の職員は目を白黒させて礼奈を見た。

 礼奈は自分の名前を偽り、友人だと言って彼を外に連れ出すことに成功した。誰もいない空き地を見つけ、そこで二人は対峙した。

「きみは、誰だ?」

 当時の兄はやさぐれていた。

 体格は見るからに小さかったが、見るもの全てに喧嘩を売っているような冷たい目をしていた。

 四歳の年齢差が、彼女と彼の間にはあった。高校生と中学生。礼奈は内心ドギマギしながらも表面上は強気に振舞った。

「あなたが、黒川礼二?」

「あぁ、そうだけど」

「確認するわね。あなた、七歳のとき、母親の吉田里美さんを交通事故で亡くした、その礼二さん?」

 礼二が一瞬呼吸を止めた。

「あんた、誰だ。なんでそんなことを知っている?」

 間違いなかった。想像していた姿とはかけ離れていたが、彼は間違いなく礼奈が捜し求めていた兄だった。

 それから二週間に一度、礼奈は礼二に会いに行った。

 彼はいつも冷たい目で彼女を睨んでいたが、彼女は気にすることはなかった。

 今になって彼女は思う。

 あの当時、礼二は彼女に嫉妬してたのだ。

 同じ父親の子供であるにもかかわらず、ここまで境遇の違う妹という存在を憎んでいたのだ。

 でなければあんな目で人を見るはずがない。

 あんなにも憎悪と深い悲しみに満ちた暗い目で。

 兄の態度が変わったのは突然だった。

 礼奈が風邪をこじらせ県内の総合病院に入院することになり、一ヶ月ばかり病室から出れなくなったときのことだ。

 突然病室のドアが開いたかと思うと、花束などという似合わないものを抱えた兄がそこに立っていた。

 それを見た彼女は、爆笑した。

 礼二は礼奈が突然来なくなったことを心配し、わざわざ施設を飛び出して彼女の家に向かい、友達だと偽って家政婦からこの病院の名前を聞きだしたらしい。

 呆れる礼奈に「施設に帰ったら折檻が待ってるだろうな」と礼二は絶望を絵にしたような顔でうめいた。

 なんでわざわざここまできたのと問いかける礼奈に、礼二はそれが当然だと言うかのごとくあっさりこう言った。

「兄妹だから」

 それからだ、全てが徐々に変わっていったのは。

 兄の彼女に対する接し方が柔らかくなり、礼奈の入院生活は長引いた。

 そのうち、彼女は自分の病がただの風邪などではないということに気づき始めた。

 真実を打ち明けろと迫る彼女に、彼女の両親は観念したらしい。

 風邪などお話にもならないような複雑な病に彼女がかかっている事を、そのとき彼女は告知された。

 命に関わる危険が即座にあるわけではなかったが、多くの行動は制限され、一生の多くを彼女は病院内で過ごさなくてはならないことになった。

「なにか俺に力になれることはないかな」

 病室のベッドに横たわる彼女に来院してきた兄が聞いたとき、彼女は少し考え、こう言った。

「写真がほしいな。外の世界のいろんなことが分かる写真。私が外の世界で見てないものってまだまだあると思うんだ。

 だからさ、動けない私の代わりに兄さんは色んなものを見てきてよ。私の分まで色んなものを見て、驚いて、感動してほしいな。

 そして、できればでいいからその時の写真をとって、私にも後で見せてほしい」

 思いつきのような礼奈の頼みに礼二は快く頷き、そしてひと月に一度、写真を見せにくるようになった。

 ほとんどが雄大な自然を写した心安らぐ写真だったが、中には紛争地帯でとったという人間の死体や、歌舞伎町で殺されそうになったというドスを振り回すヤクザの写真もあった。

「いいかげん危ないところに行くのは控えたほうがいいよ」

 彼女が眉間にしわを寄せながらそう非難すると、兄は笑いながらこう答えた。

「美しいことも醜いことも、全部が世界の現実さ。だからこれからも俺はこういう写真を撮り続ける。

 俺はそういうものを見てみたいし、お前にも、世界のありのままの姿を見せてやりたいんだ」


 礼奈は手帳をパタンと閉じる。

 黒い傷だらけの表紙を見つめながら、あの人の笑顔をもう随分見てないなと彼女は思った。


 私―――美崎凛は、樹海から逃げ出してから一週間が過ぎるというのに、樹海を出てから毎晩見続けている夢を今夜また見ていた。

 私は真っ暗な木の群れの中を何かから逃げるように走っている。

 闇が、私の後を追いかけてきて、私の全身を喰らい尽くそうとする。

 もうだめだ。

 そう思った瞬間、私と闇の中に彼が割って入り、手にした木の枝で闇を切り裂くのだ。雄雄しく力強いその男は、名を黒川礼二という。

 夢から覚めて私は思う。もしかしたら、樹海内で彼に出会ったあの出来事のほうこそ夢だったのではないかと。

 あの日、樹海から抜けたした後、私は山道を走り続けて街へ出ることに成功した。

 ボロボロの格好をした私に驚く周囲の人に事情を話し、警察官が程なくやってきた。

 その後、礼二さんが座り込んでいた場所に警察の人と戻ってみたのだが、彼の姿は影も形もなくなっていた。

「絶対この辺りにいるはずです! よく捜してよ、お巡りさん」

 私はそう訴えたが、彼らは顔を困ったような顔をするばかりだ。

「しかし君、さっきから付近をくまなく捜してるが、どこにもいないじゃないか。その礼二という人は足を怪我してるんだろ? 遠くにいけないのだから、これだけ探して見からないというのはむしろ不自然だろ」

 私は自然に涙目になる。

「ううっ、私が嘘をついてるって言うんですか」

「いや、そうは言ってないが」

「ううっ、役立たず。この税金泥棒………」

「………………」

 疲れきっていてイラだっていたので言葉にオブラートをかぶせる余裕がなかったのはこの際どうでもいい。

 問題なのは、礼二さんの姿が影も形もないことだ。現場は直線の一本道で道を間違えるはずはなかった。

 それなのにその一本道のどこを探しても礼二さんの姿は見当たらなかった。

 泣きじゃくる私を警察官たちは困り果てた表情でなだめながら、後日再び捜査することを約束した。

 そしてその夜、私は気づく。私の服のポケットの中にいつの間にか一冊の手帳と紙切れが入っていることに。それが何なのかはすぐに分かった。 

 あわてて周囲の人にそのことを教えようかとも思った。これこそが唯一、礼二さんが存在したという証拠になりえる代物だからだ。

 しかし、喜ぶ私の脳裏に、礼二さんの言葉がよみがえった。

『一つ約束を守ってくれ。手帳の中は絶対に開いて見ないでくれ。きみだけじゃない。他の誰にも絶対に見せるな』

 私は愚かだったのだろうか。結局彼の約束を守り、誰にも見せることなくその手帳を後日郵便ポストに投函した。

 宛先は黒川礼奈。礼二さんの妹であることは、すぐに分かった。

「礼二さんが、無事でいてくれますように」

 手紙を出し終え、彼の連絡を待つしか彼の消息を知る手段が無くなった私はただ祈るだけだった。

 宗教なんて持っていない私は、神か仏かわからないものに毎日祈り続けた。

 

 ある日、彼は突然、私の部屋にやってきた。

 自室のドアを開いた私は、いつか樹海内で見た時のように、動かない左足を支えるように重力を右足にかけながら壁際に立ってる彼を見て、心臓が飛び出すかというくらい驚いた。

「なっ、なぁあああああああ!?」 

 なんでここにいるの? どうやって入ったの? あの日どうしていなくなったの?

 彼を真正面から指差して口を開いたが、山のような質問が一斉に頭に溢れて、パニックになった結果、結局どの言葉も出なかった。

 戸惑う私に向かって彼は「静かにしなさい」とでも言うように、そっと人差し指を口元に当てた。そして、口をパクパクと動かした。

 私の額に川の字ができる。

「何て言ったの?」

 彼はもう一度動かす。私は口の動きを読んだ。

「はぁ、わけわかんないよ」

 彼は満足そうに笑った。一方の私の不満は積もるばかりだ。

「そんなことより礼二さん、あなた今まで一体どこへ………」

 その瞬間、私は我が目を疑った。

 一瞬だった。瞬きをしたその一瞬のうちに礼二の姿は消えてた。影も形も、そこにはない。

「あれ?」

 私は室内を見回し、天井を見上げ、ついでに二階にある窓を開いて外を見回した。

 しかし、白昼の夢のように彼の姿は掻き消えていた。

「なぁに、どうしたの?」

 騒ぎまくったせいだろう、階下から母親が上がってくる。

「今、そこに礼二さんが」

「はい?」

 母親は首を傾げた後、首を振った。

「凛、まだ精神的に疲れてるのね」

「そんなことないけど」

「無理しなくていいわ。あなたは繊細だから」

 それこそありえないと思うのだが。

 私は誰もいなくなった室内をもう一度見回すが、あの巨体が隠れる事が出来る場所なんてどこにもありはしない。

 あぁ、もうっ、幻を見るなんて。

 悔しいことだが今の私は相当あの人に会いたいらしい。これはもしかして恋? などという馬鹿げた考えすら浮かんでしまう。

 あの原始人に恋をしていることを認めてしまうのには、並々ならぬ抵抗があったのだが。

「凛、体調悪い振りしてもダメよ。山下さんのお見舞いにはちゃんと連れていくからね」

 きっちり釘を刺されたため、私は不快に満ちた顔をし、疲れたため息を吐いた。

「わかってるよ」

 山下というのは今から数えること十日前、私が階段から突き落とした女の名前だ。フルネームは山下詠美。

 十日前、私は彼女を階段から突き落とし、重傷を負わせた。

 私はてっきり山下が死んだものと思っていたが、事実はそうではなかったらしい。

「あんなヤツの見舞いなんて、本当は行きたくないんだけど。大体、悪いのはあっちだよ? 私の体操服隠すなんて子供みたいに陰気なことしなけりゃ詰め寄ったりしなかったのに」

 母親はそう言い張る私を、奇怪なものでもみるかのように見つめた。

「あなた、最近どこか変わったわね」

「え、そうかな」

「なんていうか、前は内心思ってることがあっても無言で押し通すようなところがあったのに、最近は以前に比べて言いたいことをズバズバ言うようになった。まぁとにかく、たとえ事故でも階段から突き落として大怪我を負わせることになったのは事実。あきらめて一緒に来なさい。それと、山下さんの前では冗談でもそんなこと言うんじゃないわよ」

「分かってるわよ」

「一時になったら出発するから、準備しときなさいよ」

「はーい」

 部屋から出て行く母親の背中を見送った後、私はため息を吐いた。

 全く、礼二さんの仰るとおり、未来は未知数だ。

 世の中とは予想のつかないほうに事態が転がるものである。

 私が山下を階段から突き落としたあの時に医者の真似事をして動かなくなった山下の脈をとって首を横に振った男子生徒、誰だが知らないが歯ぁくいしばっとけ。

 今度探し出して殴ってやる。

 山下が死んでなかったのは私にとって二重のショックだった。

 一つはロクに死んだか死んでないかも確認しない状態で樹海に向かった自分の愚かさに対するショック。

 もう一つは刑事裁判にかけられ逮捕され拘禁されることがなかった事へのショック。

 てっきりこれから監獄暮らしが始まるとばかり思っていた私は、事実を聞いたときに子供みたいに泣いてしまった。

 まぁ、何もかもが良い事だらけというわけではない。あれだけの事をやってしまったのだ、当然悪いこともある。

 自殺未遂ということで、私は今精神科に通う毎日だし、そのくせ怪我させた分きっちり山下の見舞いにいかなけりゃならないし、山下が学校に復帰した後より一層私へのいじめが陰湿化する気もするのだ。

 無論、だからといってこれからの日々に怯えるつもりは無い。

 虐め程度でへこたれてやるつもりはないし、もし今度何かちょっかい出されたら、無言の抵抗をする前に張り飛ばしてやる。

 優しいことが正しく、純白のように綺麗なままで生きたいと思っていた私の願望は消えていた。

 この世は誰も傷つけないというようなぬるい考えでは生きていけないのだ。自分の身を守るために、時に私は汚れなければならない。

 もちろん、それでも薄い灰色くらいをめざしている。真っ黒になるつもりはさらさらない。

 近頃、事あるごとに礼二さんが切り取った鳥の首を思い出す。人間は生きていくうえで、常に他の生き物を殺し、それと同様に他人を傷つけ生きている。

 完全に純白の綺麗さを保ったまま生きていくことなんてできはしない。

 もしそんな風に生きている人間が今この世界にいるとしたら、そいつは果てしなく自意識過剰な勘違い君か、汚れ役を他者に背負わせて自分は安全圏にいる臆病な人間かのどちらかだろう。

「優しいってどういうことなのかしらね」

 もし礼二さんがここにいたら、彼はなんて答えただろう。

「礼二さん」

 私は彼の幻を探して、誰もいなくなった室内を見回した。

 RRRRRRR

 突然家の電話がなり、私は我にかえる。

「お母さん、電話だよ」

 階下に向かって声を張り上げてみたが、返事はない。洗濯物を干しに外にでも行っているのだろう。

 今はあまり電話に出たい気分でもないのだが、誰もいないのなら仕方ない。私は受話器を取り上げた。

「もしもし、黒川凛さんのお宅ですか?」

 受話器から聞こえてきたのは随分子供っぽい女声だった。

「はい、そうですが」

「凛さんはいらっしゃいますか?」

「私がそうですが」

 聞きなれない声だったが、電話の主に心当たりはあった。そして、その心当たりはあたっていた。

「はじめまして。私は礼二の妹の黒川礼奈といいます」

 私は内心手をたたいて喜んだ。やはり妹さんからだ。送った封筒の裏に電話番号を書き込んでいたのだが、それをみて返信をくれたに違いない。

 ようやく久しぶりに彼に会える。幻なんかでない、生の彼に。

 考えるだけで顔がほころぶ。

「はじめまして礼奈さん、きっとお電話くれると思ってました」

 受話器の向こうで彼女は沈黙した。何かをためらっている様子。

「どうかしたんですか?」

 私が問いかけると、彼女は申し訳なさそうに続けた。

「凛さん、ぶしつけな質問で申し訳ないのですが、あの手帳をどこで拾ったんですか?」

「あぁ、私がお送りした春日太郎さんのものですよね」

 受話器の向こうで一瞬の沈黙。

「あなた、春日さんのお知り合いですか?」

「いえ、違いますよ。この前、礼二さんから聞いたんですよ。一年前に失踪した友人がいるって」

 電話の向こうで、息を呑む声が聞こえた。

「春日太郎さんは、失踪なんてしていません。彼はご健在です。一年前に行方不明になったのは、私の兄のほうです」

「・・・・・・え?」

「先日あなたが届けてくれた兄の手帳には、兄から私に宛てた伝言と一枚の地図が描かれていました。描かれた地図を元に、その場所を地元の方に調査していただいたところ―――兄の遺体が見つかりました。検視の結果、死後一年くらい経っているそうです」

 私の全身から、血の気が引いた。




   エピローグ


 時が流れていた。

 生命が目覚める春が過ぎ、日差しの眩しい夏が過ぎ、木々が赤く色づく秋が過ぎ、世界が純白に染まる冬が過ぎる。

 そんなことが何度も繰り返され、どれだけの月日が流れただろう。私は高校を卒業し、専門学校を出て、三年前から社会人となっていた。

「こんにちは礼二さん。今年も来たよ」

 山梨県のとある墓地で、私は物を語らぬ墓石に向かい、今年も手を合せていた。

 この墓石の下に眠るのは、かつて私が片思いした相手。

 天使のように樹海に降り立ち、鬼神のような強さで私の偏屈な心を打ち砕き、悪魔のように私の前から姿を消したサバイバルオタクだ。

 結局、彼にもう一度会いたいという私の願いはかなうことはなく、あの日の自宅以来、彼が私の前に姿を現すことはなかった。

 夏風のように私の前を駆け抜けていった、なにからなにまで不思議な男だった。

 礼二さんの妹に礼二さんの遺骨と位牌を見せられてわたしは激しく混乱し、あの樹海で出会ったのが誰だったのか考え続けたこともあったが、それも今となっては過去の話。

「やっぱりあなたは、あのとき既に死んでて、私の前に化けて出てたのかな」

 彼がこの世に存在してないことなど認めたくないし、心霊現象などあり得ないと思いたいのだが、数年間考え続けてもそれ以外に考えようがなかったので私はそれを一応の結論として納得するしかなかった。

 礼二さんが化けて出ていたと考えると、なにもかもがしっくり来るから不思議なのだ。

 例えば、樹海の中で礼二さんが拾い、彼に恐ろしいまでの衝撃を与えた黒い手帳。今冷静になって考えればすぐに分かることだが、もしあれが彼の友人の遺品であったのなら、彼は何をおいてもその周囲にあるはずの友人の遺体を探したはずだ。

 しかし実際には彼はそんなことをすることもなく、逆にあの場から必死になって離れようとした。

 その行動は、後々よく考えてみると奇妙という言葉を通し越して異常としか言い様がない。

 あの側に転がっていたのは本当に彼の友人の躯だったのだろうか? あるいは―――。 

 一つのことに疑問を抱くと違和感は他のところにも次々と波及した。

 樹海内部で聞いた木魚の心霊現象。負傷しているにもかかわらず一切の痛みを訴えなかった礼二さん。私ばかりを狙い、礼二さんを狙わなかった野犬の群れ。私の部屋に現れた礼二さんの幻影と、彼の囁いたあの言葉。

 そして何より、礼二さんが最初に出会ったときに呟いたこの言葉。

『ずっと暗い道を歩いてたんだ』

 彼は別れ際にこうも言った。

『あんたにこのままついていくのは疲れるし、おれは、この樹海から出ることはできそうにない』

 どれもこれもそのときは気にもしなかった些細なことで、礼奈さんと電話をするまでは深く考えることさえしなかった。

 しかしよくよく考えてみると、彼と私を取り巻く状況には、確かに奇妙な点がいくつも存在していたのだ。

 今になって思う。礼二さんが別れの際に私に言った『あんたにこのままついて歩き続ける』というあの言葉は、付いてという意味ではなく―――憑いてという意味だったのかもしれないと。

 彼は境遇の似た私に引かれて、自分の望みを叶えるために、この世に再び舞い戻ったのだろうか。

 或いは頼る相手は誰でもよくて、ずっと孤独にあそこで人が通りかかるのを待っていたのかもしれない。

 どれもこれも馬鹿馬鹿しくあまりに非現実な空想に過ぎなかった。しかし、当時はその可能性を否定できないほどに不思議なことが起こりすぎたのだ。

 今はもう、私はあの樹海で出会った礼二さんの正体がなんであったのか、その答を深く考えるのはやめることにしている。

 考えれば考えるほど頭の中がこんがらがるし、きっと一生かかっても答なんて出てこない――そんな気がした。

 彼はあの樹海内で確かに存在し、私に未来をくれた。今となってはそれだけが、唯一分かる真実だ。


 墓前で線香を供えて手を合せた後、私はショルダーバッグから数枚の写真を取り出し、彼の墓に供えた。 

 アメリカのNYシティーにラスベガス、グランドキャニオンなども映っている。私が今年撮影してきたもので、どれもこれも私にとっては思い出深い写真ばかり。

 私は一つ一つの写真についての思い出話を礼二さんの墓石に語り続けた。

 やがて、全てを語り終え、私は立ち上がった。

「それじゃあね、礼二さん。また来年くるから」

 私は最後にもう一度手を合わせた。

 写真を墓石の上においたままその場を去ろうとし、そしてその時初めて、私を見ている女性がいることに気がついた。

「こんにちは、お久しぶりです」

 彼女は笑顔でそう言った。彼女の言葉に合わせるように白いワンピースが風にはためく。見るからにお嬢様といったその出で立ち。

 もう一年も前から会っていない知人だったが、あいつとは似ても似つかないその容姿はあまりに綺麗で、一度見たら記憶の中から消えるはずもなかった。

 彼女は今は亡き礼二さんの妹で、名を黒川礼奈という。

「髪が長くなっていて服装がピシッときまっているから誰かと思っちゃいました。凛さん、お元気でしたか?」

 私はすぐに笑顔を相手に返す。

「私はあいかわらず元気いっぱいですよ。礼奈さんはお元気でしたか?」

「元気………とはいえないですね。今も相変わらず入院生活ですよ。今日は担当医には内緒でこっそり病院を抜け出してきました」

 予想外の言葉に戸惑う私に、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

「まぁ、いいじゃないですか。今日は年に一度の特別な日なんですし、ここにこないと去年みたいに礼奈さんに会えない可能性もありますしね」

 私は苦笑するしかなかった。今日は、礼二さんの遺体が発見された日なのだ。つまりは礼二さんの仮の命日ということになる。

 私にとっては毎年恒例ともいえる墓参りの日。お墓を拝んで、その後礼奈さんの病室を訪問するのが一つの決まりごとのようになっていた。

「今日はこれから礼奈さんのところに顔を出そうと思ってました。明日には仕事でアメリカにUターンですから、あまり時間はとれないんですけど」

 彼女は私のすぐ側まで歩いてくると、礼二さんの墓前に供えられた写真を拾い上げ、一枚一枚目を通した。

 その動作があまりに美しく優雅だったものだから、私は女であるにもかかわらず暫し彼女に見惚れてしまった。

「構図、お上手になりましたね。これは全部凛さんが撮影なさったものなんですよね?」

「ええ、そうです」

「カメラマンのお仕事、うまくいっています?」

 私は首を横に振って苦笑いを浮かべた。

「まだまだ契約社員ですし、写真の腕前のほうも礼二さんの足元にも及びません」

「兄を目標にするのはかまいませんが、だからといって兄みたいに危険地帯に喜び勇んで自ら飛び込もうとすることはやめてくださいね」

 礼奈さんは微笑んで、そして小さく身震いした。

「風が少し寒いですね。もしお時間のほうよろしければ、場所を移動しませんか。どこかそのあたりの喫茶店にでもいきましょう。近況を聞かせてくださいな」

 私はうなずいた。

 普段は病室の中から窓の外を見る事しかできない彼女に外の世界についてのことを教えてあげるのは、礼二さんに代わって私が行うべき義務だと思っている。

「それではさっそく」

 クルリと反転する礼奈さんをわたしは呼び止めた。

「礼奈さんは、お墓まいりはしていかなくていいんですか?」

「あぁ、凛さんとご一緒するんですし、後回しにしても兄も許してくれるでしょう」

 彼女は私に背を向け歩き始める。

 相変わらず兄と同じで行動力のある人だなぁと思いつつその背中から視線を外し、私は礼二さんの墓石に目を向けた。

 全く、人生は予期せぬことだらけだった。

 初めて出会った時は病弱で動けない状態だった礼奈さんが礼二さんの写真と手帳を励みにここまで回復したことも、私がそんな彼女と親しく話せるようになったことも、私が礼二さんの跡を継ぐようにカメラマンの道に入ったことも。

 どれもこれもが当時からしたら考えられないことばかりだ。

 人一人との出会いからも、こんなに多くの未来が生まれる。

 私と一緒に樹海を歩いた礼二さんが幽霊だったとしても幻だったとしても、もうそんなことはどうでもよかった。

 礼二さんは私に未来を探す目をくれた。

 彼が何者であったとしても、私の恩人には違いないのだ。

「凛さんそろそろいきません?」

 礼奈さんが呼ぶ声で私は我に帰る。

「あ、ごめんなさい。………それじゃ、そろそろいくね、礼二さん」

 私は墓に軽く手を振って、

「ありがとう」

 かつて私の家で彼が私にくれた言葉を、そのまま投げ返した。


                 ―了―



数年前の作品ですが、ここまで読んでいただき大変感謝しております。

お手数ではありますが、感想をいただけるととても嬉しいです。


今後も暇を見つけて時々作品を作れたらと思います。(^-^)

見ていただけるのが一番幸せですね。

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